ヒナタ、ふりそそげ
伊藤 嶺
第1話 出会い
「ねぇ、 ソラの向こうにはなにがあるか知ってる?」
目の前の少女が振り向きながら聞いてくる。
笑っているのか、真剣な顔をしているのか。
窓から反射してくる光でその表情はほとんどみえない。
だがしかし、彼女はそう。
輝いていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
僕、斎藤大地は聞いているだけで眠りを誘う授業を流しながらいつものように空を眺めていた。少し聞き逃すくらいなら、特に影響はない、とは言えるほどに成績は良い方だ。この空のカタチは今この一瞬にしかないのだからそれを見逃すほうが僕にとっては一大事だ。授業中でなければ、いつものように携帯電話で写真に納めたいところだが流石に教師の目を引くような真似は避けたい。
だからこそ、その分この目に焼き付けるのだ。
「斎藤、この問題解いてみろ」
どうやら授業中に携帯電話のシャッター音を鳴らさずとも、十二分に教師の目は引いていたらしい。
それならば、開き直って空の写真を撮ればよかったと思いつつも精一杯にかつ大袈裟にならないよう授業を聞いていましたよ、という素振りを見せ回答する。
「x=2です」
「今は、現国の授業中だ」
クラス中から、笑いがこぼれ出る。
笑われているのではなく、笑わせているのだと思えるくらいにはクラスには溶け込めているほうだと思う。
生まれてこの方、友達には恵まれていたしコミュニケーション能力も最低限はあると自覚している。クラス全体を見回し、軽く笑みを浮かばせる。
現国の担当である石川先生は黒板へと振り返りながら、授業はちゃんと聞いておけよと釘を刺してくる。先ほど、上の空だったこともどうやらお見通しだったらしい。
大人になるとそんな特殊能力を手に入れることができるのだろうか、そんなことを考えながら適当に返事をする。呆れたような顔で再度こちらを見てくるが教科書へと目を逸らすことで危うく難を逃れる。教科書には虎の絵が描かれている。若くして出世できたのに虎になってしまった男の話だったはずだ。
内容は知っている。先に読んでしまったからだ。最後まで。
暇を持て余したから、結末が気になったから、授業でやるより早く読んでしまった。
おそらく、これも授業が暇に感じる要因だとは思う。
ただ、教科書に載る文書というものは、得てして名文と呼ばれるだけはあるほどに面白いものばかりなため、手が止まらずに最後まで読んでしまうのも致し方ないことだろう。先ほど注意されたばかりだし、すぐによそ見をしてしまうとまた先生に叱られてしまう。今度は、真面目に授業に取り組むふりをする。目をつけられたくはない。
青春の時間は永遠の財産だ。一瞬たりとも無駄にしてなるものか。
自作の名言を心に再度刻みこみながら、懸命に眠気を追い払う。
石川先生は飽きもせず、僕はもう読んでしまった部分を読み上げ、主人公の心情描写やその表現方法について説明している。
よくそんな表現をできたものだ、と感心する。名文を読めば読むほどに言葉の美しさとはなんなのか、ということを考えてしまう。日本では、まっすぐな表現は好まれない。本当はただまっすぐで良いはずなのに、捻じ曲げる。捻じ曲げることが彩ることになるのだ。まっすぐ以上の想いにするために。そう思っている。個人的には、だが。
そう考えを巡らせていると、ウェストミンスターの鐘が鳴く。
平たく言えば、学校のチャイムが鳴った。
授業終了、拘束からの解放を知らせる音だ。
授業の始まりと終わりでこんなにも印象が変わるのかと毎回驚く。
「それじゃあ、今回はここまで。号令お願い」と石川先生が言う。
いつもの決まり文句だ。いつも通り淀みなく号令に合わせて席を立ち頭を垂らしておく。タイミングを見計らい、即座に顔を上げ席からすばやく離れる。
なにか小言を言われる可能性もあると思ったが、石川先生も素早く教室から立ち去っていく姿がみえる。
「危ないところだったか」
石川先生の背中を見送りながら安堵する。
「なにがだよ」
後方から友人である伊藤一真に声をかけられる。
高校一年生の時もクラスが同じだった。会話の波長が合い、よく話したり一真の部活が休みの日は遊びに行くこともある。
「いや、呼び出されるかもしんないと思ってさ」
「じゃあ、真面目に授業受けろよ」
ごもっともである。
何も言い返すことができない。
ひとまず笑っておく。
「笑って誤魔化すなよ」
この手も通じないらしい。
次はどの手をうつか迷っていると一真が話を切り出す。
「まあいいや。今日から部活休みなんだけど、帰りに飯でも食べに行かないか?」
「今日は特に予定もないからいいよ」
二つ返事で一真に返答する。
「お前は大体いつも暇してるだろ」
事実である。一真のように部活をする訳でもなく、アルバイトに勤しんでいる訳でもない。
「失礼だな。僕は一真の予定に合わせるため、いつも調整を図っているというのに」
噓八百である。とってつけた言い訳だ。
「はいはい。いつも感謝してるよ」
犬をあしらうかのよう手をひらひらと振りながら答える一真。
いつもの会話だ。
特に何の変哲もない僕たちの日常。心地よい。いつもの時間だ。
考査期間直前ということもあり、周囲は騒がしい。ざわざわ、といった感じだろうか。あたふた、という感じもする。
「一真はざわざわとあたふたなら、どっちだと思う?」
「なんの話だよ」
「いや、なんでもないや」
「なんなんだよ」
うなだれる一真。これもいつものことだ。
流してもいいことなのに律儀に反応してくれるものだから、つい投げかけたくなる。
「あ、そろそろホームルームの時間だぞ。」
「そうだね、早く席にお戻り」
「俺は犬かよ」
さっきはそっちが犬扱いしてきたのに、不平等な言い分だ。
「ハンムラビ法典さ」
一真は訳が分からないと書き殴られた顔のまま、のしのしと席に戻っていった。
僕も改めて席に座りなおし、先ほどの授業に使った教科書類をしまっていると石川先生がまた入ってくる。まぁ、僕たちのクラス担任も務めているのだから当然といえば当然だ。先ほどのこともあり、顔を少し横にずらしてしまう。
「はい。ホームルーム始めるよ」
よかった。特にお咎めは無いみたいだ。
今度ある期末考査期間の説明などが主な内容みたいだ。
事前に確認しておいたから、取り立てて注意深く聞くこともなかった。
「私から話すことはまぁこれくらいか。あとは自習してていいぞ」
なんとも、粋な計らいだ。
せっかくの夏休みに補習は避けたいのでありがたい。
僕もいそいそと教科書、ノートを取り出し勉強を始めようとした。
「あ、斎藤だけ話がある。少し来てくれるか」
唐突に名前を呼ばれ驚嘆する。嘘だ。お咎めはなかったんじゃないのか。思わず、呆気にとられ目を泳がせてしまう。
「斎藤大地。お前のことだよ。このクラスに斎藤はお前だけだろ」
「はい。おそらく」
「確定でそうなんだよ」
しぶしぶ席を立ち、教壇へ向かう。
ちら、と一真の方を向くと馬鹿にしたような顔をしていた。
すかさず中指を立てておく。
「斎藤。早く来い」
「はい」
一真はより顔を破壊させ、笑い声が漏れ出る直前といった様子だった。
後で仕返しをすると固く誓い、前を向く。
石川先生は呆れたような顔をしていた。
「呆れたぞ」
呆れていたようだ。
僕の観察眼は衰えしらずだな、と思わず感慨にふけってしまう。
「もう少し、真面目になれないのか。お前は」
「でも、テストはそれなりに点数とってますよ」
これも事実だった。僕は上位とまではいかないまでもそれなりに成績
は良かった。面倒なことに巻き込まれたくないからだ。
成績さえ取れていれば、割と教師は目を瞑ってくれることも多い。
まあ、あとは大学に行くことを考えているため、部活もアルバイトもしていない僕が 勉強をしないのもなんとなく周りの皆に申し訳なく思う部分もあるからだ。
「だから、言ってるんだよ」
頭に手をあて、ため息を吐く先生。
「そういえば先生。どうしたんですか」
話が長くなりそうなので少し切り出してみる。嫌々ではあるけれど。
「ああ、放課後少し用事を頼まれてくれないか」
「嫌です」
嫌な予感は的中していた。名前を呼ばれた時点でそうなることは分かり切っていたことだが僕なりに抵抗する。一真との約束もあるし、面倒なことに時間は費やしたくない。
「斎藤」
先生が改めてこちらの顔を覗いてくる。
力強い目線に思わず、目を逸らしたくなるが
こちらも本気なため先生の瞳から目線を逸らさない。
面倒を回避するために、本気だ。僕は。
「やれ」
「はい」
大人には敵わない。
自然の摂理だ。
それならば、さっさと用事を済ませる方が楽だと考えた。
「用事ってなんですか」
用件を予め聞いておく。
心の準備ができるからだ。
といっても、このHRが終われば学校は終わりでだからそこまで猶予があるわけではないけれど。
「荷物を写真部まで運んで貰いたいんだ」
どうやら、そんなに時間はかからないみたいだ。
少し安堵する。
「写真部、ですか」
「私は写真部の顧問だぞ。といってももう部員は1人しかいないんだがな」
この学校に写真部があること自体知らなかった。
まあ、この学校の部活といえば弓道部が県内ではそれなりに強いことくらいしか知らないが。
「わかりました」
聞くことは聞いたので、返事をする。
「放課後、職員室に来てくれ」
「はい」
「それじゃあ、席に戻っていいぞ。悪かったな」
悪びれる気があるのなら、用事を頼むのも差し控えて欲しいところだが。大人とはいえ、石川先生は女性だ。重い荷物を運ぶのも仕事とはいえ辛い部分もあるのだろう。
自席へと戻りながら、再度一真の方を見る。
だが、一真は机に置いてある教科書を様々な角度からなめまわし見ていた。
なにをしているのだろう。
新しい勉強方法だろうか。
そんなに、良い勉強方法なら是非僕にもご指南頂きたいものだ。
目線を前へ戻しそそくさと席に座る。
なにを勉強しようとしていたか、辺りを見回しながら考える。
しかし、窓を見たときに見えた雲の形、その蒼穹に目を奪われ引き出しに伸ばした手をそのまま机に投げ出し雲の流れる様をただ、視ていた。
キーンコーンカーンコーンと同じリズムで2回鳴る。
授業終わりのチャイムだ。結局、なにもしなかったな。普段から勉強はしているので特に問題はないのだが。一真を見ると、今度は背筋をいつも以上に強張らせ教科書を手に持ち読んでいるようだった。
確かに読むことは大事だ。
だが、その手に持っているのは数学の教科書。
計算を実際にやる方が身につくのではないかと思ったが、あれも彼なりの勉強方法なのだ。
ついでに言えば、教科書の上下も逆さまだし。
さぞ高度な勉強方法なのだろう。彼に師事するのはやめておこう。
僕は僕なりに勉強するほうがいいや。
「それじゃあ、今日はこれで終わりだから帰っていいぞー」
号令もしなくていい、と手を振りながら答える石川先生。
それなりに適当なところもある人だ。
だから、生徒には人気がある。
学校の堅苦しい雰囲気に苦手意識がある生徒は多いため、緩く接してくれる先生には親近感を覚える。
そのうえ、石川先生は頼りがいもあり数多くの生徒からの相談も受けているみたいだ。
「斎藤」
ふと名前を呼ばれ、びっくりした。
石川先生が教室の扉から顔だけ出している。
「頼んだぞ」
そこまで言われて、先ほどの用件のことを思い出す。
会釈だけすると、石川先生も満足そうに顔を綻ばせ教室を出ていく。
それを確認してため息を吐く。ここまでため息を吐いていれば肺活量が鍛えられそうだ。眉をひそめ、やれやれと手を横に広げるジェスチャーをする。誰に見られている訳でもないのに。
「なにやってんだ」
いや、見られていた。
一真に。
「いいや、なんでもないよ」
お前の方こそ先ほどまでの奇想天外な行動はなんだと問い詰めたくなったが、口に出す寸前で止める。それは放課後にゆっくりと話すとしよう。
「お前、用事頼まれてるんだろ。手伝おうか」
一真がバッグを肩に提げながら提案してくる。
いいところもあるやつだ。
「大丈夫だよ、校門で待ってて。すぐ行くから」
そうか、と一真は理解してくれたみたいで教室の扉へ向け歩を進めていった。
何はともあれ、自分の不始末であることに間違いはないため友人を巻き込むのは気が引ける。
一真は優しいやつだから気にしないのだろうけど、僕は気にするのだ。
さっさと行って一真をいじらないとな、と気合を入れてバッグを手に職員室へと向かった。
さきほど気合を入れたとはいえやはり少しばかりか足が重かったが、無事職員室に着く。しかし、その扉の前で思わず足がすくんでしまう。
どうしてこうも職員室の扉というものは威圧感があるのだろうか。
まるで、冥界の入り口のように厚く重く厳かに佇んでいる。
職員室の前で挙動不審になりながらも手を扉にかけようとした時、急に扉ががらりと音を立てて素早く横に滑る。
「なんだ斎藤もう来てたのか。なにをしているんだ」
件の石川先生がそこにいた。
「イメージトレーニングを少々」
一応言い訳をしておく。
「入るだけだろう」
大人には分からないらしい。この恐怖が。大人というものは子供の時から大人なのか。それとも大人になれば精神的に急成長して達観できるようになるのだろうか。
子供の僕にはまだわからないことだ。
「まあいい。少し待っていてくれ」
石川先生はそう言うと、再び職員室へと戻っていった。
暇つぶしがてら、職員室の中を覗いてみると黙々とパソコンに向かっている先生たちの姿や考査前だからか生徒が先生に質問している姿がみえる。
やはり、職員室はどことなく居心地が悪い。大人の世界を垣間見ているような気がしてここにいてはいけないような気さえする。
三歩ほど後ずさりして子供の世界に逃げ帰る。
ほどなくして大きな段ボールを抱えた石川先生が戻ってくる。
よく見れば微かに震えており、すぐさま手を貸そうとするが
石川先生はふっと息を吐きながら、一度荷物を廊下に置いた。
「すまんな斎藤。少し重いから気をつけてな」
廊下に置かれた荷物を少し横にずらして重さを確認してみる。
持てないほどではないが、確かに"少し"重い。
まぁ、大人とはいえ女性にこの重さの荷物を運ぶのは苦だろう。
「そういえば、僕写真部の部室の場所を知らないんですけどどこにあるんですか?」
大事なことを聞き忘れていた。流石にこの荷物を抱えたままこの三階建ての校舎を歩き回るほど体力に自信はない。
「なんだ知らなかったのか。三階の美術室の奥だよ」
唖然とする。三階の美術室はここ一階の職員室から一番遠い場所。
その付近ということは、必然的に写真部の部室も遠いということだ。
ため息を吐きたくなるが、堪える。
さっさと終わらせよう。
「分かりました。置いてくるだけでいいんですよね」
「ああ、頼んだ。」
石川先生はにこやかに笑い、手を振っている。僕は廊下へと向き直しその応援を背に受けながら再び腰をかがませて荷物を持ち、歩を進める。
目標まで遠いことが分かったからか幾分か足が重く感じる。
いや、早く終わらせないとな。一真も待たせている訳だし。
荷物を持ち、歩いていると教室で談笑している生徒や体操服に着替えどこかへ向かっている生徒も見受けられる。
ただでさえ気温が高いのにそれなりに重い荷物を抱えているせいで嫌でも汗が流れてくる。談笑の声と蝉の鳴き声が幾重にも脳に響いてくる。その振動たちのせいでもっと汗を掻いているような気さえしてくる。急いでこの区間を過ぎなければ身体の水分が枯れてしまう。荷物を持つ手に一層力を込めた。
よそ見をやめ、廊下をまっすぐ見据えて歩を速める。
職員室前から廊下を一直線に進み階段にたどり着く。あとは三階まで登れば目的地付近のはずだ。
しかし、運動不足も祟ってか少々腕が痛い。一度、荷物を床に下ろし休憩することにした。
「ふう。結構きついな」
段ボールの表面はつるつると滑り持手があるわけではないので持ちづらく重さ以上に腕が疲れる。腰に手を当て息を整えていると、階段の上の方から声が聞こえてくる。
いや、声というより絶叫というべきだろうか。
「まずいまずい!」
こちらの方に降りてきているのだろう。徐々に声が鮮明に聞き取れるようになってきた。なにがまずいのかは皆目見当がつかないが、急いでいることには間違いないだろう。飛び降りるような速度で階段を降りているであろう音がドタバタと聞こえてくる。荷物が邪魔になっては申し訳ない。腰に当てていた手で再び荷物を持ち横にずらしているうちに件の人物が見えてくる。いたって真面目そうな眼鏡をかけた男子生徒だった。
一瞬ではあるが目が合う。
「む、すまない。恩に着る」
その男子生徒はそう言い切るとスピードを落とすことなく走り去って行ってしまった。独特な言葉遣いだったな、武士みたいな。走り去って行った方向につい顔をやるとその姿はもう小さく玄関に方に向かっているようだった。
「俺の!冒険が待っている!」
なんだかよくわからないことを叫んでいた。
先ほど談笑していた生徒たちも銘々に廊下へ顔だけ出して彼を眺めている。
彼へ向け指を指しているようにも見える。バカにしているのか、分からないけど。
でも、なんだろう眼鏡の彼はなんだか輝いて見える。彼は他人にどう見られようとナニカを求めて走ってるんだ。
僕はどうだろうか。果たして今の生活に満足しているか。いや、決してそんなことはないだろう。
漠然とそんな気がする。
もっと。
もっと、ナニカできることがあるんじゃないのか。
でも、やってこなかった。
心のどこかでずっと願っているんだ。誰かが僕の手をひっぱっていってくれるんじゃないかって。なんて、身勝手な願いだろう。自分ではなにも行動していないくせに。
でも、そんな僕でも友達はいる。いてくれる。
特に一真には感謝している。暇さえあればよく声を掛けてくれる。そんなこと恥ずかしいから面と向かっては伝えないけど。絶対に。
早く行ってやらないとな。いや、早く行きたいな。
腕の痛みももうほとんど感じない。もう階段を上がるだけだ。さっさと置いて校門へ向かおう。先ほど横にずらした荷物を抱え上げる。不思議とさっきより軽く感じる。
だが、荷物のせいで視界が悪いので一歩一歩確実に階段を踏みしめる。
放課後とはいえ生徒がまだ残っている可能性も十分にありえるので万が一にもぶつからないよう細心の注意を図る。
これは相手に怪我させたくない気持ちだけではなく、もしこの状態でぶつかってしまったら僕は忽ち重心を崩しふらふら、果ては階段の下まで真っ逆さま。そこまでの絵面が容易に想像できるからだ。
まだ死にたくはない。
幸いにも校舎の隅っこだからか生徒の姿は全然みえない。
無事、命の危機に陥ることなく三階まで到着することができた。
やはり、生徒が残っているような雰囲気はない。話し声すら聞こえない。
想像よりも閑散としていた。こんな場所に部室があるのなら写真部の存在を知らなくても仕方ないのかもしれない。
周りを見回すと美術室の二つほど隣の小さな扉に写真部という文字やカメラやお花が描かれている色褪せた張り紙が貼られている。
写真部の部室は間違いなくここだろう。
すりガラス越しにかろうじて確認できることは中の照明はついていない、ということだけ。今まで存在も知らなかった部活だ。人もいないだろう。
荷物を持ったまま肘と足を使って扉を開ける。少々粗雑かもしれないが指摘されないだろうし、そこまで気にしていなかった。
中に入るとカーテンが半分ほど開けられ外の光が入ってきており少し眩しい。
部屋の中央には六人ほどで囲えそうなテーブルがあった。
場所的にも目立つし丁度いい。ここに荷物を置かせてもらおう。
「ふう。これで完了か」
荷物をテーブルに置き、手をはたく。この行為に意味は特にないんだろうが、おそらく幼少期の頃よく見ていたアニメーションの影響でクセがついてしまったのだろう。
なんとなく、部屋の中を見回してみる。写真部、という部活がどういう活動をしているか気になったからだ。
まあ基本的にはその名の通り写真を撮るんだろうが。それでも見覚えのない機械や大部分が埃を被っているモニターとパソコンがあり、壁には色んな写真が飾られている。個人的に写真を撮っていることもあり、どんな写真があるのか見てみたくなった。写真を撮っている、といっても空の写真ばかりだが。中学生の頃、携帯電話を親に買い与えられてからなんとなく撮っていた。
ソラを眺めるのは昔から好きだった。何者にも干渉されず流れていく雲、その奥に伸びる青く虚ろな空白。その全てに魅了されていた。その空白はいつでもそこに在った。どんな姿になったとしても。
僕は虚ろな人間だから、惹かれるのかもしれない。憧れのようなものだろうか。
虚ろでありながら受けいれられているその様を。見上げられるその様に。
一人でいるとどうしてもあれこれと考えすぎてしまう。
頭を振り、再度壁に飾られた写真をみる。二十枚ほどだろうか、植物の写真。猫の写真。人の写真。いろいろあった。
でも、僕が目についたのは壁の隅に貼られているソラの写真だった。
その写真は、大きな雲が山のように連なり、痛いように青い空がどこまでも伸びているように撮られていた。
思わず、見入ってしまう。
青色、というよりは藍色のように深く濃いその空白には、いつも感じる雄大さというよりはすべてを包みこんでくれているような見守ってくれているような温かさを感じる。
こんな表情をみせてくれることもあるのか、とまじまじと僕は写真を見ていた。
「それ、良い写真だよね」
不意に後ろの方から女の子の声が聞こえてきた。
急に話しかけられるものだから、吃驚してしまった。叫び声は出なかったが、少しばかり身体がびくっと動いてしまった。
後ろを振り返り、その姿を探してみるがどこにもない。
「え」
もしや、心霊現象だったのか。
その事実に次は背筋が凍りそうになるが。幽霊と話せる、というのも一生に何度もある経験じゃないな。積極的に交流してみよう。仲良くなれるかもしれないし。
「貴方は生きてますか。もし、死んでいたら返事してください」
なにも返ってこない。音沙汰なしだ。
やはり、少女の幽霊がこの部室には住み着いてしまっていたのか。果たして僕にきちんと祓ってあげられるだろうか。
そう思っていたのも束の間。
「それ、どういうこと。返事したら死んでることになるし、返事しなかったらそれはそれで変になるじゃん。」
件の少女は部室の奥に置かれていたソファの背もたれに肘をつき、片手で目を擦り大きく口を開けふわぁと欠伸を零しながら顔をこちらに覗かせていた。
こんな誰もいないところで眠っていたのだろうか、その女の子は肩にかかるくらいの長さのショートヘアで髪色は日に当たってか太陽のように暖かな黄色がかったオレンジ色にみえる。 虚ろに開かれた目はそれでも長い睫毛を携えた力強い瞳だ、という印象を受ける。
「ああ、いや。生きているなら別に大丈夫なんだけど」
不謹慎かもしれないが僕にも遂に非日常が訪れたのかと期待してしまったので、否応にも落胆しそうになってしまい、返事が覚束なくなってしまった。
「私を勝手に死なせんな」
ご立腹のようだ。まあ当然だろう。勝手に入ってきて、幽霊呼ばわりされたんだ。申し訳ないことをした。
「そういえば、君はどうしてここにいるの。ここは写真部の部室のはずだけど」
「私は写真部なんだからいてもおかしくないでしょ」
驚いた。まだ部員がいたのか。
開いた口が塞がらない。入学時にも紹介されていたかどうかすら定かではないのに。
「ま、とは言っても私一人だけなんだけどね、部員は」
いつの間にか僕の隣にまで来ていた彼女は壁に飾られた写真を撫で、眺めている。
そして、先ほど僕が見ていたソラの写真を指差し話始めた。
「私ね、この写真が好きなの。空なんていつもみてるはずなのにこの写真の空は暖かい気がする」
言いたいことは分かる。僕だってそう思った。
この写真のなにがそうさせるかは分からないけれど。
良い写真、なのだろう。きっと。
「これ、誰が撮った写真なの」
「分からないの。撮った人や撮った場所も。」
「石川先生も知らないんだって」
「でも、ひとつだけ。わかったことがあるの」
そう言うと彼女は身体を翻し、窓の方へと向かい開きかかったカーテンを全て開いた。一気に外から陽光が射してくる。
薄暗かった部室の隅々にまで日向が降り注ぐ。
壁に飾られた写真たちが銘々に輝きだした。
「ねぇ、 ソラの向こうにはなにがあるか知ってる?」
目の前の少女が振り向きながら聞いてくる。
笑っているのか、真剣な顔をしているのか。
窓から反射してくる光でその表情はほとんどみえない。
だがしかし、彼女はそう。
輝いていた。
ヒナタ、ふりそそげ 伊藤 嶺 @ley_sun
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