天使の残響

鹽夜亮

天使の残響

「彼女は天使」

 誰もが口を揃えてそう言った。優しく、常に微笑みを携えた彼女は人々から愛された。

「見ろ!ついに天使の翼が見られるぞ!」

 人々は橋の上に立つ彼女を見て、そう口々に叫んだ。彼女は何一つ物を言わなかった。人々は崇高な天使に近寄ることを良しとせず、橋の見える崖の近くに集まった。

「どんな翼なのだろう?きっとこの世のものとは思えぬほど美しいに違いない」

「そりゃあ真っ白に輝いて、太陽の光に煌めくに違いない」

「どこまで翔べるのだろう」

「どこまでもに決まってる!天国の使いなのだからな!」

 集まった人々は声を潜めながら、微動だにしない彼女を見守った。誰もその美しい儀式を邪魔しようとするものはいなかった。

「見ろ!手を広げたぞ!翔ぶに違いない!」

 彼女は手を広げた。そしてゆっくりと、真っ逆さまに橋の下へと墜ちていった。人々はその光景を、固唾を呑んで見守った。やがて、数時間にも思える静寂の末、ドスンと鈍い音が響いた。

「おい、翼が見えたか!?」

「俺には見えなかった」

「人間には見えないのかもしれない」

「いや、俺は確かに見たぞ!太陽の光を反射して、煌びやかに空を舞う翼を!」

 人々の喧騒に、あらゆる音は掻き消された。口々に、人々は感想を語り合った。見えたと言い張るもの、穢れをもつ人間には見えないのだと言うもの、それぞれが語り合いながら、一人また一人と崖の上を歩み去っていく。

 五分も満たなかったろう。人の群れはたった一人の女を残して消えた。女は、崖の淵にある手すりに身を委ねながら、ゆったりと煙草を燻らせていた。

「翼なんてない」

 女は一人呟くと、橋の下を目指してゆっくりと歩き始めた。永く人の通っていない獣道は草にまみれていたが、女はそれを気に留めることもなく、鋭い葉や棘が手足に切り傷を作ることにも何も思わないかのように、ただ静かに歩き続けた。

 やがて獣道は開け、頭上には橋が、女の眼前には岩だらけの、小さな川が姿を現した。川の携える水は、所々赤色を湛えている。女はそれを辿るかのように、上流を目指した。

 やがて小川のほとりに、女は目的のものを見つけた。白い服が、真っ赤に濡れている。女はその近くの岩に腰掛け、煙草に火をつけた。

「貴女は天使なんかじゃない」

 白い煙を吐きながら、女は呟く。少しの後、横たわる真っ赤な彼女は、小さく呟いた。

「しっている、よ」

「でしょうね」

 女はその声に応えた。多くを語らない二人の世界に、ただ煙草を燻らす、吐息と川のせせらぎだけが響いていた。

「わたし、は」

 彼女は息も絶え絶えに、ゆっくりと声を紡ぎ始めた。女はそれに目も向けず、ただ沈黙で応えた。

「わたし、は、つばさなんて、ない。ただ…の、ひと」

「…知ってる」

 また沈黙が、川のせせらぎを運んだ。血の匂いはやがて濃密さを増した。女の吹かす煙草の匂いだけが、それに混ざっていた。太陽は西に沈み始め、夕暮れが全てを覆い始めた。彼女の息が徐々に浅くなっていることに、女は気づいていた。

「わたし、は……あなたが…」

「ここにいるわ」

「わたし…やっと……やっ…と…」

 沈黙が訪れた。夕暮れは刹那のその美しさを、宵闇に隠した。女は最後の煙草に火をつけた。もはや浅い呼吸の音は聞こえなかった。揺らめく木々の音と、川のせせらぎと、鳥や虫の鳴く声だけが辺りを覆っていた。

 女は静かに、ゆったりと煙草を燻らせた。その行為に何か意味があるのかは、女自身にしかわからないことだった。

「おやすみなさい。せめてゆっくり、眠るといいわ」

 女は初めて彼女の、血塗れの頬を撫でた。慈しむように、労うように、弔うように。


 最後の煙草を吸い終えると、女は崖の上へ向けて獣道を登っていった。

 ただ残されたのは、白く赤い、彼女だけだった。

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天使の残響 鹽夜亮 @yuu1201

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