柳は風に乗って

@Rokumonnsenn6

第1話

今年の梅雨はどうも遅いらしい。六月も中旬に入ってもなお、雨が降る日はまばらで梅雨の訪れなんて感じることはあまり感じられなかった。ただ季節外れかのように紫陽花の花が初夏の日の元で咲いている。

今日もエラーをした。それも一つや二つではない。監督に練習後に呼び出されてこっぴどく叱られた。別に集中していないわけではないのに、ゴロの打球が自分のグラブに収まってくれない。少し前までは安定した守備が売りの内野手のつもりでいたが、今はその面影もない。

グラウンドから自転車で家まで帰る時に監督の言葉が何度も蘇る。

「お前はなんでここまで注意散漫なプレーを連発するようになったんだ」

自分でもこの問いに対して答えなんてなんて出ない。特別なきっかけなんか思い当たらないし、何よりプレーの質を上げるために早くこの問いの答えを知りたかった。

郊外の夜は暗い。部活が終わると、日は完全に落ち灯りは街灯がちらほらある程で緑葉が陽光で輝く日中とは全く別の場所に見える。帰り道の川沿いを寂しげに流れていく風が気分の冴えない今の自分にとってはなんだか心地よい。

その風の中に老婆の声のような何かが聞こえた気がした。部活のことで思い詰めすぎなのかもしれないが、確かに老婆の「どうしたの」という心配の意を感じた。二十二時を回った川沿いを見渡しても人影は全く見えない。ただ、川の向こう側に異質な柳の木があることに気づいた。二年近くこの道を通っているが、果たしてあんなところに柳の木なんて生えていたかと疑問を持った。

柳の木に近づくと風がまた吹いた。思った以上に大きい柳の木はその風に揺られて話かけてきた。

「なんでそんなに暗い顔をしているの」

 やはりこの柳の木はしゃべっている。もう一度周りを確認したが、人影はやはりない。

「話してご覧なさい」

 優しい声だった。今の落ち込んでいる自分を全部包み込んでくれるような慈愛に満ちた声に導かれるように、最近の野球の調子について話してみる。

「原因はイマイチはっきりしないんだけど、最近部活でミスを連発してしまうんだ」

「それは大変ね。でもあと少しすれば元に戻るはずよ」

「なんで?」

「それは風に任せればわかるわ」

というと柳の木は少し強い風に吹かれてから何も喋らなくなった。たった数秒の出来事だったが、少しは楽になった気がした。


 それからというものの、部活が終わってから柳の木と一言二言話す日々が続いた。梅雨に入ってからはわざわざ雨に濡れてまで柳の木に話しかけることはしなかったが、晴れた日には練習でミスした心の傷は柳の木が癒してくれた。柳の木に話しかけることでメンタルは見違えるほどに強くなった。どれだけ監督に叱られようが立ち直れなくなるほどのことはなくなった。

 ただし、部活の後は毎晩のように悩みを打ち分けていたものの、守備のレベルは一向に戻ってくる気配がない。盤石だったスタメンショートの座も後輩に奪われかねないところまで来ていた。

「心は今すごくいい状態にあるんだけどさ、やっぱりプレーの質はむしろ悪くなってるきがするんだよ」

「そうなのね。でも大丈夫よ。あと少しすれば良くなるはずだから」

 前にも聞いたこのワードをもう信じることはできない。

「あと少しってどのくらいなんだよ」

「それも全部風が教えてくれるわ」

 そういうと今日もしゃべらなくなった。


 翌日から梅雨最後の大雨が丸二日続いた。家の前の川は泥みたいな色に様変わりし、龍が暴れるように濁流が音をたてて流れていった。氾濫する一歩前くらいまで増水し、ぎりぎりで雨が止んだ。

 翌日から見違えたように天気は回復した。本格的に夏が始まり、日中の気温は三十五度を優に超える日々が続いた。快晴の空のもとでやる練習はこれまでより数段きつかった。

 雨上がりのグラウンドで守備なんて上手くできるわけがないと前までなら弱気になっていたところだろう。しかしなぜか今の自分は前よりも上手く守備をこなせると思った。雨が降る前はあんなにも酷い守備をしていたのに。

 気のせいかもしれないなと思いグラウンドに出てみると、やはり自信は正しかったようだ。守備が悪くなったここ数日が嘘かのように前までの守備のレベルが戻っていたのだ。難しいハーフバウンドだって、追いつくか際どいゴロだって全部グラブの中に収まった。久しぶりに野球が面白いと思えた瞬間だった。

 柳の木にこのことを話してみようと思った。柳のあなたがせ元気づけてくれたからついに元の守備力を思い出すことができたよ、と。練習が終わったら真っ先に柳の木に向かって話そうと思い、無我夢中で白球を追った。


 川沿いを自転車で走ってあの柳の木を探してみる。でもどこを見渡してもあの柳の木は見当たらなかった。この辺りに生えていたという記憶の場所には木が生えていた形跡すら無くなっていた。それはそうだろう。ここ二日の大雨で川沿いの植物はほとんど濁流に飲まれてしまったのだから。練習後の夜でもわかる水増しした濁流を見つめながら冷静に考えてみる。それでもやはり、あの柳の木の声がどこからか風に乗って聞こえてくるような気がした。


 翌朝、学校に向かう時にもう一度柳の木が生えていた場所を見てみると、そこには小さな苗木にも満たない草が風に揺られていた。やはり木は無くなってしまったのかと思い、再び自転車を漕ぎ始めたとき、どこか遠くで良かったねと聞こえた気がした。


 後日、現代文の授業で柳の木の花言葉は「幸福と凶報」ということを先生はさらっと流した。別に授業の本筋に関わるほどのことではなかったし、なにより教室の誰も柳の花言葉なんて興味はなかった。でも自分はそれを聞いて驚きが隠せなかった。柳の木が自分の前に現れてから、部活の調子は急激に悪くなり、無くなると見違えるように良くなった。これは間違いない、柳の木が自分に凶の期間で成長してほしいというささやかな願いがあったのだと。


 柳の木の老婆はいつも落ち込んでいた。自分が人間と関わる間はその人物がなぜか不調になっていることに気づくからだ。でも自分がその人物の前からいなくなると、彼らはまるで不調だったことが嘘のように調子がよかったことを思い出す。私なんて必要ないんだと落ち込むたびに私の前で想いを吐露する人間が別の人物に変わっている。今日もまた風に乗ってどこかの柳の木に私を吹き込む。そして私の声が聞こえる人物はみんな揃って悲しい顔をするのだった。


 梅雨明けの初夏の風はどこか生ぬるい。でも明らかに、風が通るたびに柳の木はどこか哀しいひ気分になるのだった。

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