蝉の声
白池
蝉の声
その日、私は蝉になった。
白に囲まれた病室で告げられたその現実。
「あなたのの余命は残り一週間です。」
七日間はここまで生きてきた十五年の五百分の一にも満たない。あまりに短すぎる。そう思った。
ただ、嘆いているわけにもいかない。入院してからはずっと死というものを間近に感じていたし、きっとこの日が来ると予想はしていたからだ。
余命宣告された主人公がそうするように、貴重な半日を使って、やりたいことを書き出してみた。学校にも行きたいし、原宿でクレープを食べてもみたい。友達とカラオケも行きたい。そうだ、たこ焼きパーティーもしよう。
この世界との別れが迫っているというのに、私の心はまだまだ学生で、楽しむことが第一になっている。
しみじみするよりはいいか。そう思って、ノートを閉じた。
残り六日
リストの中の最優先事項をまずは達成しよう。そう思って私は通っていた高校へ行くことにした。
入院してから三か月間ずっとハンガーにかかっていた新品同様の高校の制服に身を包む。まだ毛羽立っている繊維が肌にチクリと触れるその新鮮さで病気の苦しみが少し和らいだ。それと同時に涙があふれてきた。
「もっと普通の高校生として生きたかったし、もっと長くこの世界を見て回りたかった。」
ずっと心の底に抑えていた感情が一気に解放され、私は遅刻しそうになるまで泣き続けていた。
時間をこれ以上無駄にできないと息を深く吸って涙を止め、何もない空間に「いってきます」を言う。ありがたいことに天気は曇りでずっと屋内にいた私にとっては快適に感じられる。教室の後ろのドアを開けて自席にバックを置く。
「ばさん。」
少し大きく鳴った音に振り向いた人が私の顔を見て目をそらし、それでも気になるのか目の端でこちらを見ている。病気のせいで肌は雪のように真っ白で、骨格標本のような細さの腕を力なく垂らしている私はきっと幽霊のように見えることだろう。
そう思っていたら私を眺めるグループの一人が近づいてきた。
「璃々だよね。来てくれて本当にうれしいよ。男子たちがうるさいかもしれないけど、注意しておくから許してあげて。じゃ。」
ずっと学校に来ていなかった私にかけてくれたその言葉は、草木の枯れた心の砂漠に雨を降らしてくれた。
たった一日学校に行っただけで一つの事実に気が付いた。それは誰もが私のことをよく覚えているということである。私が学校に通っていたのは入学からわずか十日ほど。新しい環境を怖がっている間に周りはグループを作っていて、私は一人教室の隅にいただけだったはずなのにまるでずっと一緒にいたかのようにそばにいてくれる。音一つしない病棟の中に一人幽閉されていたのと比べると居心地がとても良い。
そうだ、あれもやってみよう。
予定でぎっしりのカレンダーの一角を消してそこに新しい予定を埋めていく。気づけばノートには一生をかけても達成で来なさそうな量のやりたいことが書かれていた。
残り三日
余命宣告を受けてから四日が経った。
学校でやりたいことを全力で消化したからか、三日間は足早に過ぎ去っていった。病気のことも余命のことも、何度聞かれても答えることはできなかったけれど、そんな私をみんなは受け入れてくれた。しかし、カレンダーの枚数が一枚、また一枚と減っていくにつれて一つの事実が私を苦しめ始めていた。
「段々と体が動かなくなるから無理しないように」
そう医者から告げられてからずっと気にしないようにしていたがもう駄目なのかもしれない。学校への通学路を歩いているだけでめまいがして倒れそうになる。あと三日しかないのに。この残りの日々の一瞬一秒も無駄にはできない。
「璃々、聞いてる?返事して!」
そこにいるのがわかっているのに、その声はまるで地球の反対から発せられたかのように遠くから聞こえた。
そして私は熱されたコンクリートの上に横たわった。
次に目を覚ましたのは見慣れた白い監獄の中だった。カレンダーを見ると一枚減っている。
「あぁ…。」
きっともう学校には行けない。歩くこともできないからもはや外にすら出られない。差し込む柔らかな朝日とは対照的に、黒を垂らしたような絶望が心を蝕んでいく。
そんな私を見かねたのか医者がとある提案をした。
「今日だけなら点滴さえ外さなければ車椅子でどこかへ行ってもいいよ。」
「別に行きたいところもないし……」
「それともあと二日間も死と隣り合わせの状況でぼーっとしているのかい。」
そう言われると行ったほうがましなのかもしれない。そう思って私はお母さんに電話をかけた。
会うだけで辛くなるからと病院にも来ないように言っていた私からのお願いにびっくりしているのが電話越しにも伝わってきたが、少しでも楽しませてあげようと思ってくれたのか病院に急いで来てくれた。
「どこに行きたい?」
「どこでも。」
つっけんどんな答え方をしてしまったのに、母は何かを察した表情でアクセルを踏んだ。
着いた先は少し離れた渓流。子供のころは駆け上っていた川のそばを点滴をまとった車椅子でゆっくりと登っていく。木々がさわさわと揺れ、いたるところに小さな陽だまりができている。今は緑色の銀杏と紅葉は秋になったら目がおかしくなったのかと思うほど色とりどりに染まっていたはずだ。昔は走って流れていた景色もゆっくりとまるで一巻き一巻きフィルムを巻くように流れている。
「秋に来たかったな。」
ふと言葉と涙が出てきた。そんな私を母は優しく包み込んでくれた。一人では達し得ない温かさに触れて心の芽が少し背伸びをした。育てきれなかった芽。どのくらいまで大きくなったのだろうか。そんな感傷に浸りながら下る並木道は夕焼けを反射して輝いていた。
残り一日
ベッドに寝転んで天井のシミを数える。うん、この前と変わっていない。昨日よりも確実に動かなくなった体は少しの行動をも許してくれない。昨日置いた窓辺の椅子は居心地が悪そうに鎮座している。私がこの世界にいられる時間ももう二十四時間を切っているのに、何もすることができない。漫画で読んだみたいに最終日にドラマが待っているわけでもなく、ただ一人で朽ち、この世界の一億パーセント分の一が消える。私が生きてきた道はきっと忘れられる。
この世界はちっとも優しくなかった。
私は傍にいたナースさんにノートとペンをとってもらい、日記を書き始めた。最終日になってやることではないし、現実に起こっているのも馬鹿馬鹿しい。そう頭ではわかっていても、どうしても居ても立っても居られない。もしかしたら病気のせいで体がおかしくなったのかもしれない。そんなことを頭の隅で考えながらこの一週間のことを思い出す。
「一日目。医者から余命宣告をされた。辛いけどこれから頑張っていこうと思った。
二日目。学校に久しぶりに行った。
――――――――――――――――――――――――――――――
七日目。これまで楽しかった。」
ここまで書いてふっと顔を上げると、いつも真っ白な壁がオレンジに染まって光り輝いている。時計がさしている時刻は午後六時。気づけば二時間が流れていっていた。
「だれか私のような人がいたらこれを見せてあげてください。」
そう言って日記をナースさんに預ける。弱々しい字で乱雑に書かれたその日記を残して私は死んでいくんだ。
最後の一時間は母親に手紙を書いた。仕事が大変なのにいつも運動会に来てくれて、終わった後はお寿司に連れて行ってくれてうれしかったこと。突き放したのにいつも気にかけてくれて、大好きなメロンを送ってくれたこと。私と一緒に生きてくれたこと。
死の間際になるとこんなに感謝の言葉が出てくるのかと少しくすりと笑う。それを見てナースさんも笑う。暖かい空気にほっとして、私は長い眠りへとついた。
残りマイナス二日
周りを見渡すと、そこは私がいた病室だった。
「幽霊になったのか。」
不思議とそう思って浮遊をする。が、私の体は動かなかった。右に目を向けるとそこには目を真っ赤にはらした母の顔があった。
「やかった。本当に良かった。」
そう言って母が抱き着いてくる。暖かい。
「え……」
確かに私の肌と思われるものは温度を感じた。頭の中は光の速度で今の状況について思考を巡らせている。ありえない、そうあり得るはずがないのだ。医者も治る確率は実質ゼロと言っていたし、実際に私の体はどんどんと衰弱していっていた。
「おはようございます。戸惑う気持ちはわかりますが落ち着いて聞いてください。あなたの中に新種の抗体が発見されました。正確なことはまだ不明ですが、あなたの体は病気を克服しました。時間をかければまた昔のように戻れるでしょう。」
えぇと、こういう時はインクレディブルというのだったかな。一度死を受け入れてしまった分、なかなか私の頭は納得しなかった。
ふと思い立ってナースさんに日記をもらう。そして、こう書き足した。
「残りマイナス二日。まだ生きられることになった。まだ現実に頭が追い付いていないけれど、やりたいことがたくさんある。やっぱり生きているということは素晴らしい。」
後ろでは蝉がうるさく鳴いていた。
蝉の声 白池 @Harushino
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