二章 熱帯夜
この前、好きな人をお祭りに誘った。約一か月前のことだ。
その時、俺は半ば強引に浴衣で行く約束を取り付けた。理由は好きな人である、
俺は自分で言うのもあれだが手先が器用な方なので、浴衣の着付けには何ら問題はない。だけど、十和が着付けをできるかどうかを考えずにメッセージで誘ってしまったため、困らせていないか心配で仕方なかった。
でも、十数分後に彼から快く承諾の返事が返ってきて、俺は天にも昇りそうな心地になった。
そのメッセージに勢いで「本当に? ありがとう。嬉しい」と返信をして、スマホを伏せた。
心臓の高鳴りがまだ収まらない。さっきからものすごい速さで脈打つ心臓が煩く感じてしまうくらいには、嬉しくて堪らなかった。
楽しみにして過ごす時間はあっという間だ。
今日、ついにそのお祭りの日がやってきた。お祭りの神社の最寄り駅で待ち合わせ。待ち合わせの時間は十六時だ。
お昼を食べた後、浴衣の袖に腕を通す。着付けは慣れてるはずなのに、緊張で上手くできなくなりそうだった。
緊張で上手く動かない手と腕をなんとか制御して着付けを終え、家を出る。蝉が鳴いていて、太陽の光が強さを失っていないような、そんな時間だった。
電車に揺られながらぼんやりと、だけど今日のこの後に期待を込めて窓の外を眺めていた。
十和はどんな浴衣で来るのかな、とか、お祭りどんな風に回ろうかな、とか、色んなことを考えていたらあっという間に神社の最寄りに着いてしまった。思いの外早く着きすぎてしまったみたいで、駅の壁に背を預けて十和が来るのを待つことにした。
だんだん周りには浴衣姿の人が増えてきた気がする。それもそうだろう。今日はお祭りだけでなく花火大会も開催されるし、そもそも神社自体の規模が大きいのだ。きっとたくさんの人が来る。
そんな風に考えていた時だった。
十和が来た。
十和は明るいグレーの浴衣を紺色の帯で締めている。それがどうしようもなく彼の持つ雰囲気と合致していて、俺は思わず膝を打ちたくなってしまった。
暑いのだろうか、頬を紅く染めている彼はこちらへ、ちょこちょこと小走りで向かってきた。その姿のなんと可愛らしいことか。
「
十和が俺の名前を呼んだ。心臓が高鳴り始めるのをどこか遠くで感じていた。
「十和」
そんな高鳴っている心臓とは裏腹に、俺はいたって平静を装おうとポーカーフェイスを保った。
「早かったね! ごめん、待たせちゃった?」
「ううん。俺もさっき来たばっかりだよ」
ああ、可愛い。本当に浴衣が似合っていて、さっきからドキドキが止まらない。
「良かった。じゃあ、行こうか!」
そうして俺たちは神社に向かって歩き出した。慣れない浴衣で歩きづらいのか、十和はさっきから小さな歩幅で歩いている。その姿に、どうしようもなく庇護欲が掻き立てられた。
少しずつ夏の太陽の光も和らぎ始め、濃い群青が迫ってきている。暑さは収まることを知らず、時々吹く風も生ぬるさを含んでいた。
歩きづらくないか、暑くないか、と十和に声をかけようとした時、十和の首筋を汗が伝っているのが見えてしまって、思わず目線を逸らしてしまった。浴衣でただでさえドキドキが止まらないのに、それを更に加速させられてしまった。すでにこの先が思いやられるようだった。
しばらく歩くと、神社に着いた。日は沈み始め、辺りの明るさも弱まってきている。少しずつ提灯が灯り始めていて、お祭りという雰囲気が出てきているようだ。
「お祭りって感じするね!」
十和はワクワクしているようで、その姿もまた俺の目には可愛く映った。
「ほんとだね。まずは神社の方まで行ってみる?」
「うん! そうしたい!」
色とりどりの屋台を見ながら、時にたくさんの食べ物に目を奪われながら歩いて、神社に着く頃にはすっかり空の色は暗くなっていた。いよいよお祭り本番といったところだろうか。
「最初にお参りしようか」
「賛成! なんか最初にお参りするの、蓮斗っぽい」
十和はニコニコしながらそう言う。
「そう?」
俺はそう返すので精一杯だ。
「うん! 真面目そうで誠実な蓮斗って感じする!」
思いがけず十和から褒めてもらったことで、俺の心はいっぱいだ。そう思われているのは正直、嬉しい。十和にはしっかりしている人だと見られたいので、少し頑張っているところもあるのだ。
そんなこんなでお参りを終え、屋台を巡ることにした。
十和は目をキラキラさせながら焼きそば、お好み焼き、りんご飴、チョコバナナ、かき氷……とお祭りの定番を次々と買って制覇していった。一緒に唐揚げを食べたり、たこ焼きを半分こして食べたりもした。十和がブルーハワイ味のかき氷を買うので、口の中を見せてもらったら十和の口は見事に真っ青だった。
その次は一緒に金魚すくいに挑戦したけど、結局金魚はすくえなかった。でも、ヨーヨー釣りで十和は白、俺は紺色のヨーヨーを釣ることができて俺たちは満足だった。
その後、屋台で買ったラムネを片手に他の屋台も見て回り、色鮮やかな時間を過ごしていた。
そろそろ暑さがきつくなってくる頃。空は真っ暗だけど提灯のおかげで暗さはそこまできつくない。
十和、と声をかけようとして十和の方を向いたが、それは音になる前に消えてしまった。
そこには、浴衣が気崩れてしまった十和がいたのだ。
「十和、浴衣が……」
あまり十和の方を見ないようにしてそれだけ言う。はだけてしまい、胸元が開いてしまっている十和の姿はあまりにも刺激的すぎた。
「あっ、浴衣、気崩れちゃってる……」
そう残念そうに言う十和。自分で着付けしたのだろうか。今日のために一生懸命練習している十和を想像したら頬が緩んでしまった。
「どこかで直そうか。人のいないところ行こう」
思わず、そう声をかけていた。
十和の手を取って、人のいない広場の方へ進む。少し歩くだけで着く距離で良かった。
「俺、浴衣の着付け得意なんだ。任せてよ」
そう言って俺は十和の浴衣の襟元に手をかけた。十和は暑かったのか腕をまくっていたので、それを直そうとした、その時だった。俺は、その瞬間に手を止めてしまった。
そこには、彼の二の腕には、確かに赤い模様が咲いていたのだ。
……あの赤い点は一体何なのだろうか。
認めたくない。いやだ。
……いや、きっと内出血してしまったに違いない。そうだ、もしかしたら蚊に刺されたのかも。
期待を込めて彼の顔を見上げると、そこには恥ずかしそうに、けれどもそこはかとなく嬉しそうに顔を赤らめる十和がいた。
それを見たらもう、だめだった。
俺の足は自分の意志ではもう止められなくて、ひたすら俺を遠くへと運んだ。
どこまで走ってきたのだろうか。気づいたら俺は神社の境内にいた。
「俺、何してんだ……」
でも、無理もない、と自分で思う。
彼の腕にあった赤い点は一体誰が付けたのか。その心当たりが俺にはあったのだ。
その人の名前は、
十和とクラスが同じで、よく一緒にいるところを見かける。この間も近い距離で話していたところを見てしまったのだ。
……あぁ、そうか。俺は失恋したんだな。
そう理解するまでに時間はさほどかからなかった。
「はぁ……。なんて言って戻ればいいんだろ……」
しかも、直すと言った十和の浴衣もそのままにしてきてしまった。
「どうしよう……」
俺は頭を抱えることしかできなかった。
今の俺には何でもない顔をして十和の前に行ける勇気がないから。
祭囃子の音が遠くに聞こえる。まるでさっきまでの場所とは別のところにいるみたいだ。
何度目かのため息を吐いた時。その瞬間だった。
「蓮斗っ……! こんなところにいた!」
十和が、来た。
来てくれた。俺を探しに。
「十、和……」
「浴衣、結局直してくれなかった! どうしたの?」
十和は自分で頑張ったのであろう、しかし綺麗に整えられた浴衣姿で俺の前に立っていた。
「……」
どうしたの、という問いに俺は答えることができない。できるはずがないのだ。
でも、優しい眼差しで待っていてくれる十和を見たら、言わざるを得ない気がしてきてしまったのだ。
「十和の、二の腕にキスマがあった、から……」
やっとのことで振り絞ることのできた言葉はそれだけだった。
「キスマ……? あっ! 見られちゃったの? 恥ずかしい……!」
十和はそうやって言う。俺の気持ちなんて知らないで。目頭がじゅわっと熱くなる。
「それ、並河だろ? 隠さなくていいよ」
思わず吐き捨てるように言ってしまった。でももう、いいんだ。
俺は失恋しているのだから。
だんだんと受け入れる準備をしていた時、十和のきょとん、とした声が降ってきた。
「透真? なんで? これ、俺が付けたんだけど……」
「えっ⁉」
「恥ずかしいな、何回も言わせないでよ……!」
あまりの現実の突飛さに俺だけが付いていけない。今、十和は何と言った?
「……つまり、そのキスマは十和が自分で付けたと」
「そうだよ! 俺、これでも恥ずかしいんだけど!」
まさかのまさかである。
この状況にもなってまだ希望があるなんて、誰が考えようか。
さっき、ギリギリのところまで出ていた涙が目の縁で留まっている。
十和はしばらく恥ずかしがっていた後、思いついたように顔を上げた。
「なんで透真がキスマ付けてたら嫌だったの? 蓮斗?」
十和の顔は笑っている。と思ったけど、目元には少しだが涙が光っているようだ。
数回、深い呼吸を繰り返してから口を開いた。
「俺が、十和のこと好きだから嫌だって思った」
そうして再び口を開く。
「十和のことが好きだ。俺と付き合ってくれませんか?」
そうして十和の返事を待った。一瞬にも感じるほどの、長い長い時間。
十和が口を開いた。
「っ、俺も、蓮斗のことが好き! よろしくお願いします」
こんなことがあっていいのだろうか。夢ではないかと何度も自分の頬をつねったけどしっかり痛い。これは、夢じゃないんだ。
「十和、ほんとに?」
「うん。ほんとに!」
俺たちを暑い夏の夜の風が撫でる。ひどく暑い、熱帯夜。だけど俺たちにとってはその暑ささえも嬉しいのだった。
「そろそろ花火大会が始まる時間じゃない?」
その十和の声で思い出す。
「ほんとだ! 行こう、十和」
「うん! 蓮斗」
そうして俺たちは賑やかな方へと駆け出していった。
変わらず暑い夜だったけど、少しだけ涼しい風が俺たちを撫でていく。
熱帯夜はしばらく終わらないだろう。そんな予感を胸に、俺たちはひたすらに明るい方へと進んでいった。
冷めない熱 はれわたる @harewataru
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