幻覚
@yuhidon_
幻覚
私ではない私が私を見ている。鏡で自分の姿を見るかのように、粘着力の強いシールのように、視線が視界の端にへばりついて私を見ている。
ある日の深夜、突然目が覚めた。枕は汗でぐっしょりと濡れている。突然目が覚めたことを奇妙に思いつつも寝直そうと目を閉じ、意識が朦朧とするのを待つ。しかし、私の目は瞼の裏を見るばかりで意識が遠のいていく気配は一向にない。どうしたものかと目を開けてぼんやりとただ、壁を眺めていた。頭のほとんどがまだ夢を見ている。気づけば、開けていたはずの目は閉じていた。寝ていたのか考えているうちにまた目が覚めてしまった。ここまで眠りが浅かったことはめったになかったため、なにか悪いことが起きそうだという漠然とした不安が私の心に取り憑いた。
一体いつからあったのだろうか。壁に口が浮き出ている。その口元には見覚えがある気がしたのできっと夢だろうと自分で納得した。しかし記憶を辿ろうにもこれといった特徴のない口は私の記憶にもやをかけた。そいつらは間抜けに口を開けたかと思うと大きく歪んで、笑った。なぜかその笑いにつられて私も顔を歪めて笑っていた。部屋に笑い声だけがこだまする、愉快な夢だと思っていた。しかし、頭の片隅では現実に起こっている異質な「夢」に恐怖している。いつしかその恐怖は膨れ上がっていて、私の口角は無意識のうちに下がっていた。数時間立っても笑い声がかすれる気配は一向になく、つばがとんでもおかしくないほどに湿った笑い声が波を打って部屋に響いている。なぜ笑っているのだろう。もしかして、私を笑っているのかと半ば自己嫌悪のような感情が私の頭をぐるぐると回っている。今すぐこの場から逃げ出したかった。そんなとき耳元でささやくように「お前も笑えよぉ」と今にも吹き出しそうな声が聞こえた。頭から冷水を全身に浴びたような寒気が一斉に襲った。声が聞こえたから、とかそんなものはどうでもよかった。それは私の声で囁いたのだ。「全部、お前がやってきたことじゃないか。」と口は笑うのをこらえているような声で続けた。そこでぷつんとコンセントを引き抜いたディスプレイのように意識が途絶えた。
目に光を感じて目を開けた。窓から差し込む光はフローリングの床を照らしていた。カーテンを開けたまま寝ていたのだろうか。とりあえず、起き上がろうと立ち上がったとき、ひどい立ちくらみが私を襲った。頭の血の気が引いていき、どこからともなく現れた黒いもやが私の視界を端から奪っていった。反射的にベッドに腰をおろした。ぎぃぃとマットレスのスプリングがきしみ、その音が部屋を駆け回り、壁の端に消えていった。
昨夜の「あれ」はきっと夢だったのだろう。そういうことにしてしまおう。昨夜の出来事をすべて洗い流そうと洗面所に行き、鏡を見る。鏡の私は笑っていた。そして口をひらき「どうしてにげようとするんだよ」そういった。全身の血の気が引いた。刃物になりそうなものは、カミソリはどこにあっただろうか。一番右の扉の二段目だ。乱暴に扉を開けた。鏡に写った私は半分だけ消えて私を見ている。二段目にカミソリはなかった「どこにあんだよ」おそらくこの言葉は私がいったのだろう、鏡に写った半分だけの私は口パクをした。洗面所のすべての扉を開けて探すのは嫌だった。時間が掛かるし何よりあの鏡と同じ空間に居たくなかった。刃物を探そうと廊下を隔てて向かいにある台所に向かった。台所と言っても掃除をろくにしなかったせいで廃棄場に成り下がった場所だ。長らく洗い物をしていなかったせいで汚れた食器はシンクから一部溢れている。底の方にある食器はおそらく洗っても取れない匂いが染み付いてるだろう。一度染み込んだらどんなに時間が経とうとも消えない。まな板の上に乱雑に置かれた牛刀を手に取り台所をあとにした。洗面所に戻ると鏡の私はまだわらっていた。
「まだいたのか」
「おまえこそ」
どちらがいったのかわからない。二回とも私が言ったのかもしれないし、二回とも鏡の私が言ったのかもしれない。切っ先を鏡に突き立てる。鏡の私も同じく切っ先を突き立てた。ふと、鏡の端にあった亀裂に目が行く。こんなところに亀裂なんてあっただろうか。刃先をてこのようにして亀裂をこじ開けた。カメラのレンズのようなものが光を反射して私のことを見ている。「は」吐息に近い笑い声が口から漏れた。
やっぱり私のことを見ていたのか。体の底の方から得体のしれない熱い衝動が溢れ出した。錆びた牛刀を手首に押し当て、引いた。サビではない赤いものが刃にまとわりつき、濃い鉄の匂いを伴って垂れた。その様子を見て、脳内に不思議と多幸感が溢る。もう寂しさは感じなかった。生ぬるい血液は手の表面を温めたが、衝動を吐き出した底は段々と冷えていった。手首を切っただけでは死ねないというのをどこかで見た気がするが、私は死ぬだろうとどこか確信めいたものがあった。体を床に委ねゆっくりと目を閉じ意識がこの世から去るのをただひたすらに待った。頭の中で電子音が鳴り響いている。
電子音が私の耳を刺す。夜中からエアコンをつけたはずなのに部屋は全く冷えていない。体中が水を浴びたように濡れていた。暑さで悪夢を見ていたのだろう。外から笑い声が聞こえ、部屋に響いている。キッチンに向かい、食パンをトースターに入れる。冷蔵庫からマーガリンを取り出し、焼き上がった食パンに塗り、口にいれる。小気味よい咀嚼音が熱のこもった部屋に染み込んでいった。部屋が冷えきるまでショッピングモールに行こうと、着替えを済ませ、エアコンをつけたままドアを開けた。部屋は多少なりとも冷えていたようで、開けた途端に熱く湿った空気が部屋になだれ込んできた。それをかき分けながら私は外に出た。鍵を差し込んだ鍵穴は固く、それは私が鍵をかけるのを諦めるには十分なほどだった。カレンダーを見る限り休日のはずだが廊下から見る道路には誰もいない。誰もこんな日に外に出たくないのだろう。車を持っていたとしても玄関から車までの距離すらも嫌うのだろう。そんなことを思いながら階段を下りる。二階という中途半端な階を選んだことを心底後悔した。道路はそれ自体が鉄板のようで、頭上から降り注ぐ熱線も相まって気分は調理されている牛肉だった。調理から逃げようと日の届かない場所を歩こうと道を曲がった。
方向音痴で土地勘がないのに道を曲がるのは間違いだったようで、どこに行っても日の当たらない場所はなかった。時刻はほぼ12時と行ってもいいような時間で少し考えてみれば当然だった。暑さで意識が朦朧としている中、景色が、空気が少しだけ変わっていることに気がついた。さっきまで熱線を放出していた太陽は、弱々しく、空気自体が冷えている。さっきまでかいていたのとは別の汗が首筋を伝っていくのを感じた。現在地を見ようとスマホを開き、地図をみる。私の現在地を示す青い点は道の真ん中で脈打っている。しかし、その道は家からモールをつなぐ道だ。この景色はその道のものだとは到底思えない。じっとしていても何も解決しない。そう思い、足が向いていた方向に足を進める。
道はコンクリートで舗装されているものの、ところどころひび割れており、割れ目から雑草が生えている。道の両端にはどこかで見たような覚えがあるが、これといった特徴のない住宅がびっしりと広がっている。ただ、家に人がいる気配はなく、まるで家自体が死んでいるようであった。空は明るいが、地面は鬱蒼としている。道なりに進んで程なくすると、曲がり角にあたった。ここはどこなんだと不気味に思いつつ、曲がった先にも同じような道が続いている。しかし、道の両端に並んでる住宅、そのすべてのカーテンが開けられている。家が息を吹き返し、目を開けたように見えた。目に悟られないように少しづつ、足を早めていく。ほとんど走っていると言ってもいいような速さになったとき、家の窓に人影があるのを見つけた。顔を向け、目を向けると目があった。顔は見えないが、目があったと感じた。その瞬間、まるで金縛りにあったかのように足が言う事を聞かなくなった。焦りで今にも走り出しそうに心臓は脈打っている。周りを見れば、家の目から人々が私を見ている。肺は吸い込んだ空気をそっくりそのまま吐き出している。人々の笑い声が私の耳元で響いている。棒になって使い物にならなくなった足を見る。人々は私を見ている。自分の手を見る。人々の視線を遮るように手を目に当てる。視界が黒い雲で覆われていった。崩れるようにその場にしゃがみ込む。上下には動く足を少し恨んだ。手をそのままに目を閉じた。笑い声はいつの間にか止んでいた。肌に光を感じていることにやっと気がついた。目を開けると、GPSが示していた場所の少し先の場所に私はいる。さっきからずっとここまで歩いてきたように、汗が服に染み込んでいる。道の半分以上進んだが家に戻ることにした。どこからか視線を感じたが、無視した。
あれから、視線を感じることが多くなった。最初は気のせいだと思っていた。街を歩いていると、ふと視線を感じる。風呂場にいると半透明の扉から視線を感じる。その程度のものだと思っていた。街を歩きながら考える。おそらく疲れているのだろう。軽い熱中症を起こして、その後遺症とも言える疲れが取れていないのだろう。自分で納得して、家のドアを開ける。帰宅時に快適になるために電気代を払うのを躊躇ったことを後悔した。リモコンで冷房の設定温度を28.5℃にして、洗面所に向かう。蛇口から出てきた水は意外に冷たかった。手を洗いながら鏡を見ていると鏡の自分が笑ったような気がした。反射的に下を見る。気のせいだと自分に言い聞かせて顔を上げた。鏡は憔悴しきった顔を映している。今までの疲れが一気に押し寄せてきた。フラフラとした足取りでリビングのソファに沈み込む。
窓の外、道路を挟むように作られた住宅街。子持ち世帯もいるが、その賑やかさは幼少期を思い出すようで心地よかった。二階から見る人の往来の激しい道が好きだった。眠れない日は窓の近くに立って外を眺めた。悲しみに暮れたとき、興奮で眠れないとき、流れに身を任せるように動く人々を見ると、不思議と何事もきっとうまくいくと感じられた。音のない痴話喧嘩はとても滑稽で、自然と笑みがこぼれていた。あの日も窓の外を見ていた。どうしてかはわからない。ただ眠れなかったのか、切なさを忘れたかったのか。ひたすらに人の往来を眺めていた。夜も更けた頃、人の往来が少なくなった道に人影が一つ、ゆっくり移動していた。どんな人か見ようと窓に顔を貼り付けるが、人影は消えて、映るのは私の顔だけだった。手元にあるリモコンで電気を消すと、人影は人となって再び現れた。街灯が照らしたその顔は男のようだった。その男はゆっくりと歩いている。私のいる窓からちょうど前のところで立ち止まった。偶然とわかっているが、寒気が背筋を走った。男はまだ立ち止まっている。怪訝に思っていると男は首を動かし顔をこちらに向け、顔を歪めて、口角を上げた。笑顔と呼ぶには、その顔はあまりにも不気味過ぎた。男は不気味な笑顔を浮かべながら玄関に近づいてくる。ドアの取っ手が乱暴に引っ張られた音が聞こえてきた。ドアを施錠していたことに安堵した。記憶の中から施錠した覚えのない窓を探す。窓を動かそうとする音が聞こえてきた。一つだけ、施錠するのを忘れた窓があったのを思い出した。それと同時に窓がズズと開く音が家中に響き渡った。一階を歩き回っている。恐怖で足が動かなかった。階段を登る音が更に私を焦らせた。部屋のドアの前で足音が止んだ。ドアノブが少し動く。私の視界はそれを捉えたのを最後に真っ暗になった。目を開けたとき私はまた、窓の外を眺めていた。しかし、大事なものをなくしたときのような喪失感をただ、漠然と抱いていた。今日も私は窓の外を見る。喪失感を埋めるために、あるいは、あの男を見つけるために。ずいぶんと人通りの少なくなった道を見ている。急いで走る人を見て哀れに思う。フラフラと歩く人を見て大笑いする。部屋から出れないが部屋の外にあるものより窓の外の景色のほうがずっと面白い。今日も道の端で誰かが歩いて来るのを見つけた。不安そうに徐々に歩く速度を早めている。目には少し涙が浮かんでいた。眺めていると、向こうもこっちに気づいたのか私の方を見ている。ふと、あの男を思い出した。彼はいつの間にかいなくなっていたが、彼に対する願望は膨れ上がっていく。彼がどんな生活を送っているのか見たい。彼はどのような悩みを抱えているのか知りたい。彼がどんなことを笑うのか見てみたい。自分の顔は見ることができないが、きっとあの男が私に見せたような笑顔を私は浮かべているに違いないだろう。
ソファの上で目を覚ます。エアコンが効いているのか、汗はかいていないようだ。視線はそれ自体が目になって私を見ている。笑い声が聞こえる。まるで私を笑っているかのようだ。なぜ、私を見るのか。なぜ、私を笑うのか。目を閉じて考える。今まで人に迷惑をかけたことはないと考えていた。だが、それは単なる自分勝手な妄想であって、実は多くの人に多大なる迷惑をかけているのではないか。そんな思考が頭の中でぐるぐると回る。あれは、私がかけてきた迷惑の裏返しではないのか。妄想に過ぎないとわかっていても思考を止めることはできなかった。目を開け、周りを見る。相変わらず目は私を見ている。銃口が私に向いているようだ。私も銃口に目を向ける。私は多くの人を傷つけて生きてきた。それは妄想ではなく単なる事実だ。そして、私はそれを知らずに生きてきた。知ろうとしなかった。もし死後の世界があるのならば、私は間違いなく地獄行きに違いない。目が私を見ている。私の心の中まで見ようとしている。笑い声が聞こえる。私のすべてを笑っている。耳をふさいでも聞こえてくる。どんなところにいようと私を見ている。逃げるようにドアを開ける。廊下を走る。片目に見えた隣人はドアから身を乗り出して私を笑っている。階段を数段、飛ばしながら落ちるように下りる。道に出る。意味がないとわかっていても、耳をふさぐ。しかし、笑い声は聞こえ続ける。目を閉じると、暗闇が視界を覆い尽くす。平衡感覚を失ってよろけた。目を開けようとしたとき、金槌で殴られたような重い衝撃が私を襲った。車にはねられたと理解するまで時間がかかった。野次馬が私の周りに集まって、はねられた私を笑っている。笑い声が頭の中で響いている。ゆっくりと目を閉じた。次、目を開けたときにいるのはベッドの上ですべて夢だったのなら、そのときは大声で笑おう。そんなことを考えながら。ただ、意識が消えるのを待った。
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