“智子”という人間

「見つけた、次代の器を――」


 智子は指を噛んで歓喜する。血が指を這って口に流れるも、美味しく感じてしまうのは変だろうか。


 器自体はこの世に何億個もあるっていうのに、彼女の魂はそれを認めない。長年探し続けてきた器。それが長年帰っていなかった〝智子〟誕生の地に現れるとは――まさに灯台下暗し。今の器がもう持たなくなってきた今だからこそ、初心に帰れたのかもしれない。

『神様が導いてくれたんだ!』能天気な杏ちゃんならこう考えるだろう。一方智子は神というものを信じない、智子は彼女を信じている。まあ彼女の神として祀られてきた経歴を鑑みると、神を信じていることになるが……


 智子は売り物のべっこう飴を二本口に咥えた。心地よい甘味が口の中に広がる。長年開発してきた最も美味しいと思う味だ。お酒に弱い智子はこれを祝杯とする。


 自転車に跨り、故郷の探検を開始だ。愛車はキイキイと音を立てるボロ車だが、そんなところが愛らしく気に入っている。


 一度は無に帰った故郷…しかし復興した今の姿は昔と一切変わらなかった。智子は変化を受け付けないこの地が、退屈であった。その反面絶えず変化する人間は酷く心地良い。


 サドルを握る智子の手は震えている。ふと、智子は砂利に引っかかった。その弾みで自転車から振り落とされ、用水路に落っこちる。大きな水飛沫が上がって周囲を湿らせる。ドジョウは潰されまいと泥から這い出て、カエルもピョンっと水草に張り付いた。

 智子は尻もちをついて尾骨が悲鳴を上げた。しかし痛そうな顔は全くしない。むしろ笑っているようだ。


 一方自転車は智子と共に泥だらけにならずに畦道で後輪を回している。智子は持ち主を差し置いてのうのうとしている自転車に腹が立つことはなく、愛車と紙芝居に泥が付かなくてよかったとつくづく思う。紙芝居は当為の傍ら始めたもので合ったが、各地を放浪する内に相棒となった。


 智子は起き上がろうとするが、体は中々指示を聞いてくれず、小刻みに震えた。

 そしてこの体もそう長くは持たないと確信した。しかし智子はいつか終わりが来るという人間の良いところを体感するのを、良しとする。永遠を生きる彼女にとって、人生を全うするということは未だに理解できない。この体を持ってしてもだ。しかし理解したつもりにはなれる。

 田んぼの泥で生命について考える女。傍から見たら変人だが、この田舎では傍から見れる人は早々現れない。安心して一人の時間が得られ反面、助けが来る可能性は低い。

 智子は深呼吸をして、壁に指を掛けた。指は小刻みに震え落ちそうになりながらも智子を立たせた。用水路から生還した智子は力強い顔を誇っていた。



 帰宅して風呂に入ると、臭い泥が湯船に蔓延した。とはいえ彼女が元来常に泥に塗れていたことを考えると、これは智子を心地よくさせるようだ。

 智子は作戦開始の合図として右手を掲げ、家臣らへと命令を送る。家臣に命令が送る度智子は血を吹き出すが、それを塞ぐことはない。終焉に向かうこの体を味わうことは、智子の楽しみになってきていた。泥に少しの血が混じった浴槽で、智子は頭から湯を被り、また吐血した。風呂場は血と泥で大惨事となってしまったが、智子は目もくれず「これだから人間は面白い」と得意げな顔をするのみ。


 具合が悪いなら医者にかかれと誰もが思うだろうが、智子はこの体に何かされるのを良しとしない。言わば無為自然を目指していよう。その考えは愛車にも反映されており、十年前から鳴らない錆びたベルを今でも愛用している。


 興が乗った智子は家臣をすり潰し、いつまでたっても上手くならない笑顔を作った。その魔女のような顔が塵が浮きまくる水面に映る。智子は愉快げに笑った。感情というもは素晴らしい。楽しいと言っても、その深みは何千とあるのだ。そして何回感情を知っても感嘆が消えることは無い。智子はこの感情を捨てるのが惜しくなってきたが、次の感情を知るのが楽しみなのもまた事実。あと少ししか持たないこの心を存分に味わうと決めた。


 智子は冷えてきたので、湯の温度を上げるべく蛇口をひねった。四十四度にも及ぶ熱湯が降りかかるも、泥で中和されて火傷するといったことはない。


 智子としての生活は彼女に知恵を齎した。そして決して終わることの無い野望も齎した。この野望が器が変わっても続くのかは、今回の検証の山となっている。

 そこに家臣からの朗報が参った。少年が蟻野神社に向かっているという。



 智子はすぐさま水滴を振り払い、結婚式へ向かう新婦のつもりでおめかしを始める。柄付きのワンピースに、真っ赤なパンプス。頭には杏の花のヘアピンを施す。その最中は常に少年のことを頭に入れていた。少年が恋しくて仕方がない。

 智子は三十歳の女でも心は乙女のままであった。実を言うと、智子の精神年齢は杏ちゃんだった時からあまり変化していない。

 智子は恋をしたことが無かった。恋は、愛は人を成長させるものだ。彼女は誰からも寵愛を受けたことがない。受けたことがあるのは精々崇拝、しかも彼女に全く波紋を及ばさないものであった。

 愛が極端に少ない智子は成長していなくて当然だ。

 彼女が愛を受けられないのには理由がある。彼女はまだ智子に、一人の人間になりきれていない。二十年超の歳月を持ってしてもだ。彼女は愛を単なる馴れ合いだと決めつけてしまっている。それを辞めたら一つ成長出来ると言ってくれる親しい人も居ないのだから。



 仕上げに智子はポケットにべっこう飴を入れた。べっこう飴は別に食べる為に入れた訳では無い。毎日欠かさず作っているべっこう飴は、智子の精神安定剤としての役割も持っていた。どうも智子の体は甘いものが好きなのである。



 智子は生家に行くべく自転車に跨った。


 神社に似つかわしくない風貌の女が、蟻野神社の狛犬――狛蟻を丁寧に撫でる。その間も智子の中の怪物は煮えたぎったままだ。


「さて、どうやってあの人間を手玉にしようか」


 知恵を手に入れた彼女にとってそれを考えるのはご褒美であった。この頭もあと数日で無に帰すのだから使っておいて損はない。二つとして同じものは存在しない。彼女は次に体感する脳を想って顔に喜色を浮かべた。



 そこに、お目当ての少年が参った。酷く疲れていているが、愛らしさはそのままだ。


「こんにちは」


 智子は精一杯の笑顔で語りかける。しかしそれは少年を困惑させてしまう。当然だ。智子の笑顔はいつも意図的に作ったもの。しかも口だけで笑う下手くそな笑顔だ。智子は金輪際心から笑ったことが無い。分からないのだ。笑顔が湧き出るという感覚が。お笑い番組を見たり、劇場に行ったりして笑いを誘っても無駄だった。

 彼女にいつも笑顔で接していた杏ちゃんなら分かるだろうか。彼女は内に眠る杏ちゃんに質問した。どうやって笑っていたのかと。答えが帰ってくることは無いが、彼女は答えを想像することは出来る。杏ちゃんは『好きな人の前だったら、自然に笑えると思うよ!』と言ったと思う。


 少年を見つめてみるも、智子から笑顔が湧き出ることはない。そして少年は眉尻と口角を下げた。

 少年は今どんな感情なのかと考えるも、言い表すのは案外難しい。一つの感情ではなく複数の感情が作用し、その人間を形成する。小説でよく人間の心の描写を見るのだが、智子はそれらを真に理解したことはない。紙芝居の上映は感情の観察の一環でもあった。


「なっ、何?!」


 このような反応は彼女を高ぶらせるばかりだ。


「初めまして…では無いかな。私は紙芝居師の智子。君はさっき、私の話を聴きに来てくれてたよね」


 智子は今度は紙芝居を語るように優しく語りかけてみた。さて、どんな反応を魅せてくれるかな。


 少年はコクリと頷く。智子は〝かわいい〟と声に出す既の所で留まった。これは声に出したら嫌われるやつだな。もう智子としての生活は長いので、人間の考えは知っているつもりだ。


「べっこう飴、いる?」


 智子特製べっこう飴は少年の目を一瞬輝かせた。


「……大丈夫です」


 しかし返ってきたのはツンデレな一言。たまらなく智子は小さく唸る。


「少年、蟻は好き?」


 この質問は次の器が現れた時にとっておいたもの。これを智子が少年に言うということは、世代交代を確かなものにする意思表明だ。


「別に、好きでも嫌いでもない…です」


 そうこなくっちゃ!


「……そっかあ。くれぐれも……蟻を食べないようにね」


 智子は同族を食べられるのが嫌だった。初めては自分が良い。


 智子は蟻を地面にそっと置き、自転車に跨った。


「またね」


 精一杯の笑みを浮かべて――


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2024年10月14日 22:55

蟻を喰うべからず @miri-li

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