4 ナキ・オマ・レプ・シ(泣く者の戦い)
五郎、ゲン、討伐隊、猟犬を連れた猟師たちは、サンケの子を追い始めた。
ここで森に残された足跡と血痕を見失ってしまえば、サンケの子は親の残骸を持つ人間を狙って、古丹別か苫前か、または他の地域か……いつどこに現れるか分からず、しかし確実に襲い掛かってくる日を待つだけになる。
猟犬の鼻は、消え始めた血痕を確実に追ってくれたが、川岸をしばらく歩いていて突然立ち止まった。冷たい川沿いの雪をかき分けながら、鼻をひくつかせたまま動かない。猟師がその異変に気づき、眉をひそめた。
「どうした?」
猟犬たちはじっと川岸のあちこちを行き来して、先へ進む気配がない。いつもなら羆の匂いをたどって迷いなく進むはずなのに、今回は違うようだ。この場に犬の嗅覚を混乱させる何かがあるのだろう。周囲を見回したが特に何もなく、猟犬たちが迷っている理由は分からなかった。辺りは静まり返り、ただ雪が音もなく降り積もり、川のせせらぎだけが冷たく響く。
ふと、ゲンの目が川岸の異変を捉えた。川べりに雪を乱した痕跡がある。「みんな、こっちだ!」ゲンは慎重にその場所に近づき、その跡を観察した。
それは羆が川に入った形跡に見えた。羆の重い体重が、雪と川の狭間にある、凍っていない泥に深い足跡を残したのだ。五郎は、そのまま川の冷たい水面へと続く足跡を見て呟いた。
「……泳いだのか」
冬の川を羆が泳いで渡ったのは、追跡を逃れるための巧妙な手段と言えた。川を渡れば、匂いの痕跡も途絶え、追跡は難しくなる。五郎は羆の知恵深さに舌打ちをしつつも、その努力を感じ取った。流れているために凍っていない川は、恐ろしいほどに冷たく、深い。
仕方なく、迂回できる遠くの渡れる橋まで歩くことになり、貴重な時間を失うことになった。
橋を渡ってようやく対岸の近くまで戻ってきたが、ここでも羆の慎重さを思い知ることになった。川を直線的に泳がず、斜めに長く渡ることで、どの辺りの対岸から上陸したか分かりにくくしていたのだ。しかも何度か上陸地点を増やしている形跡すらあった。
しかし猟犬たちはすぐに血痕の匂いを探しだし、尻尾を小刻みに動かし、その鼻先に確かな手がかりを感じ取っていることを示して意気揚々と皆を引っ張ってくれた。雪に埋もれてあまり残されていない足跡から歩幅を観察すると、森の奥に行くにつれて駆け足から徒歩になっていた。安心しているのか、疲労しているのか。そこにいる全員が後者であることを祈った。
やがて猟犬はゆっくり歩を進めるようになり、鼻を雪に押し付けるようにしながら、慎重に進む。その姿に皆が緊張を覚えた。猟犬がこのように振る舞うとき、それは目標が近いことを表している。猟師が小さな声で「もうすぐだ」と言った。
すでに皆の雪を踏みしめる音だけが静かに響いているが、さらに息を潜めて足音すら極力立てないよう、一歩一歩慎重に進んだ。手に猟銃を握り、目は周囲の異変を鋭く探し続ける。森の静寂が一層深くなる中、五郎は視界に違和感を捉えた。斜面に雪が全く積もっていない一画がある。よく目を凝らすと、それはただの地面ではなく、黒い穴が口を開けていた。
羆の巣穴だ。
そこは古丹別を望む山で、少し行けば苫前も見える。海からの風で匂いが集まり、身を隠すには絶好の場所だった。そして五郎が悔しく思ったのは、マタギの距離感からすれば意外なほど近くにあって見逃していたということだ。遠回りして巣穴にたどり着くようなルートだったこともあり、ここでも羆の頭の良さが伺えた。一行の空気が一気に張り詰め、そこにいる全員の意識が巣穴に集中する。
冷たい風と細かい雪が山肌を吹き抜ける中、五郎たちは巣穴を遠巻きに包囲し、それぞれが木の影で静かに息を潜めていた。巣穴は深いようで、奥まで光が届いておらず、何も見えない。雪が舞い散る周囲には独特の緊張感が漂い、誰もが一瞬たりとも目を離すことができなかった。闇の奧から、ときおり小枝を折るようなペキペキという音と共に、かすかな唸り声も聞こえるように感じられた。野獣の気配が息苦しいほどの重圧となって押し寄せてくるようで、不安をさらに煽る。五郎の背後に陣取るゲンは「五郎さん、あの中か?」と呟いた。
「あぁ。他の熊かもしれんが、それならそれで撃つだけだ」
五郎は巣穴から目を離さぬまま「ゲン、ランプ持ってついて来い。中を照らせ」と言うと「え、入るのか?」
「確実に仕留めるなら、それしかない」
ゲンは「……よし」と短く返事をして、灯油ランプに火を灯した。
五郎は銃の状態を確認しながら「みんなはここで待っててくれ。もし熊が出てきたら、ためらわずに撃つんだぞ」と伝え、皆は静かに頷きながら手にした銃を強く握りしめ、息を詰めたままその場に留まる。2人は慎重に巣穴の入口へと歩み寄る。
入口から一歩足を踏み入れると、妙に暖かく湿った空気が2人の顔にまとわりつく。そこは野獣の体臭と血の臭気が混ざったひどい匂いで充満しており、雪解けの湿気、低い呼吸音と唸り声……全てが漆黒の闇の中で相まって、地獄の様相を呈している。
ふと、マタギの長年の経験からくる予感が足を止めた。一瞬遅れてゲンも止まる。
この巣穴はおかしい。
普通なら数メートルも行けば行き止まりだが、ここは深く、内部で微妙にカーブしていて先が見えない。天井も少しづつ低くなっていく。崩落の危険も考慮して注意深く、一歩、また一歩と中腰で進んでいった。そのとき、巣穴の奥で何かが動いた。五郎は居場所を確信し「たいまつ投げろ」と小声で指示した。ゲンは素早く火打石で松明を点けて唸り声の方向に投げつけると、奧の状況が詳しく分かってきた。 最奥部は少し広くなっていて、ほんの数メートル先に羆が横たわっていた。1頭が棲むには少し広く、コタンもここにいたと予想できる。周囲に散らばる骨片やズタズタに引き裂かれた毛皮は、集めてきたサンケのものかもしれない。
羆は傷を癒すために横を向いた状態で地面に伏せていて、呼吸が荒々しい。生々しい傷口はまだ塞がっていないようで、敷き詰められた落ち葉が血で染まっている。度重なる襲撃で人間からも反撃を受け、少なからず疲弊しているのが見て取れた。しかし松明が照らし出す巨大な体毛の塊の中で、ギラギラと輝いてこちらを睨みつけるその目には、恐ろしいほどの凶暴さと憎悪が渦巻いている。
五郎は銃を構えて「おめぇサンケの子だな。人里で暴れたならここで討たにゃならん」と言いながら羆の心臓に狙いを定め、1発の弾丸を撃ち込む。全身に蓄積された痛みを乗り越えて巨体がビクッと動いた。五郎は素早く次弾を装填するが、撃たれたときの反応からこの羆が限界を迎えつつあるのを悟った。羆の呼吸はさらに荒くなり、口角の筋肉がブルブルと痙攣して開き、鋭い歯で食いしばっているのが見えた。多くの「邪魔者」に食らいついてきた証であろう、垂れる唾液には血が滲んで引きつっている。その巨体が徐々に震えだし、凄まじい殺気に包まれた五郎とゲンはこれまで経験したことがないほど全身に鳥肌が立ち、自らの心臓の鼓動を強く感じていた。このとき、ゲンは自分の持つランプがガタガタと音を立てていて、自身の腰が抜けて動けないことに気づいた。羆は2人を睨みつけたまま唸り声を上げて両足でふんばり、起き上がろうとした。その動きは遅いが、重量と力強さを感じさせる。足元の骨片がペキペキと音を立てて折れていき、巣穴の狭い空間は一瞬にして圧倒されるような迫力と緊張感に満ち、凄まじい怒りに駆られた羆が再びその巨大な力を解き放とうとしていた。
「だが容赦ぁしねぇ」
弾丸が暗闇に光る目に撃ちこまれた。
羆はこちらに腹を向けて倒れ、五郎は銃に次弾を装填して構えたまま注視する。
しばらくして羆の掌が力なく広がり始めたのを見て、ゲンは堪らず「ト、トドメは俺にさせてくれ」と震える声で呟いた。「仇を討ちてぇ」
五郎は銃の構えを解かずに「……よし、いけ」と静かに答え、ゲンは灯油ランプを熊槍に持ち替えた。
ゲンは血走った目で、鼻息荒く、熊槍の切っ先を心臓の位置に合わせた次の瞬間、力いっぱい握ると何の躊躇もなく心臓に深々と一突きした。羆が呻き声を漏らし手足が疼くように動き出すと、ゲンは顔や首の血管が浮き出るほどに歯を食いしばり、涙を流しながら、心臓に刺さった熊槍をさらに強く握って、捻りこんだ。
五郎は、ゲンの鬼のごとき表情に尋常ならざる復讐心を感じたが、同時にその様子がこの羆とよく似ているような気もした。
やがて羆は完全に動かなくなり、その最期を迎えた。
ゲンは流れる涙を拭うことなく五郎に「ありがてぇ、ありがてぇ」と頭を下げた。その涙は静かに地面に落ちて染み込んでいった。
2人が巣穴から歩み出ると、討伐隊と猟師、猟犬たちが心配そうにこちらを見ている。五郎は静かに頷きながら「仕留めた」と言うと、張り詰めた空気が緩み、その静寂の中で安堵の空気が広がった。ゲンは外に出ると深呼吸し「やったよ、春子、正吉……」と静かに呟いたが、誰にも聞こえることなく雪に吸い込まれていく。
その後、村からロープ、布、橇を持ってきて、何とか工夫して巣穴の奥の巨体を引っ張り出そうとするが、人が立ち上がることもできない巣穴では大きく重い体は動かせそうになく、仕方ないので五郎が巣穴の中で内臓を抜いて軽くしてから運び出すことになった。
灯油ランプに照らされた巣穴の中は決して明るいものではなく、血抜きも行えていない解体作業は困難を極めた。幸い、腹をこちらに向けていたため、腹の毛皮と厚い脂肪を裂き、肉を排泄物で傷めないよう、膀胱と直腸を先に取り出し、端を結んで内容物が漏れ出ないようにしてから麻袋に詰めてゲンに運び出してもらう。血糊ですぐ山刀の切れ味が悪くなるため、皆の山刀を集めて適時交換して解体を進め、険しい表情で黙々と奇妙に膨らんでいる胃や腸を取り出していると、やはりその中身が気になったが、とりあえず麻袋に詰めて外に運び出すことにした。
そして、それ以上に気になる袋状の塊が体内から出てきた。妙に白くてピンクがかっており、中に骨のような出っ張りが見える。
まさか。
柔らかい表面を慎重に切ると、羆の胎児が出てきた。全身ピンク色で体毛もなく、大きな目は被膜に覆われていて、ツメも柔らかい。まだ暖かくて少し動いているが時間の問題だろう。五郎は胎児に合掌すると、小刀で心臓を突いた。やがて五郎の手の中で動かなくなった胎児を子宮に戻し、まとめて運び出そうとしたとき、五郎は自分も泣いていることに気づいたが、涙を拭って「いや、穴ん中が臭くてよぉ」とブツブツ言いながら外に出た。降雪が強くなる中、五郎の持つ子宮に全員が注目し、言葉を失い、動きが止まった。やがて、誰が言うともなく、この羆に「メスコタン」という呼称がつけられた。
内臓を抜いたメスコタンは軽くなったが、それでも重く動かせそうにない。最終的にロープを無理やり胴体に回して、橇に体を半分乗せ、力任せで少しづつ外に運び出した。
ついにメスコタンの亡骸が外に運び出されると改めて驚愕、恐怖、畏怖の念で、ゲンを除く全員が両手を合わせた。
いくつもの銃創はあるが致命的なものはなく、そういう意味では無意味に苦しめたな、と五郎は思った。他の者はそうは思わないだろうが。
そして体毛に絡みつく泥に混じった無数の骨片も印象的だった。親を殺され、兄弟も殺された野獣が人間に恨みを持つのも当然だろう。サンケの匂いは、唯一の心の拠り所だったのかもしれない。
解体作業は手慣れた猟師のおかげで、あっという間に全身の毛皮を剥ぎ、手足を枝肉に分けて、最後に頭を落とした。近くに水場はないが、ちょっとした嵐のように降り続ける雪を焚火と鍋で溶かすことで血を洗い流すお湯を用意した。これもまた優れたチームワークの成せる業だ。
五郎は解体されたいくつかの内臓を自分用に取り分けていると、心臓を見て驚いた。至近距離で命中したと思った弾は心臓をわずかに掠っただけで、熊槍の刺さった跡だけがしっかりと残っていたのだ。もし羆が弱っていなかったら、こちらがやられていた可能性もある。
心臓、肝、胆のう、腎臓を分けて雪と共に革袋に詰めて、自分の籠に入れると「残りは好きにしな」と言って村人の作業を見守った。
解体されたメスコタンは多数の麻袋に雪と共に詰め込まれ、橇に乗り切らなかった麻袋は肩に乗せ、男たちが古丹別に向けて山を下っていく。山道を歩き始めてしばらくすると、空がさらに暗くなり、風も強まり始めた。森を覆う木々が不気味に揺れ、1人1人を四方八方から雪が包み込む。
五郎は呟いた。「{熊嵐|また}か」
男たちは厳しい天候に晒されながらも足を止めることはなく、むしろ、奇妙なことに、その誰の顔にも険しさは見られなかった。先頭では松明を持った猟師と猟犬が意気揚々と歩いており、皆の心はついにメスコタンも倒したという安心感で満ちている。熊嵐も今や彼らにとっては勝利の後の儀式にすぎなかった。誇らしげに、肩に担いだ獲物をさらにしっかりと掴み直し、黙々と歩き続ける。
ゲンはこのとき熊嵐に感謝すらしていた。涙を流し、クシャクシャの顔でむせび泣く姿を誰にも見られずに、聞かれずに済むのだ。そしてすぐ目の前には五郎の背中が見える。その足取りは力強く、どこか穏やかだった。
男たちが古丹別に戻ると、熊嵐の中でも村人総出で迎えられた。歓声は吹雪の音に溶けてしまうが、安堵と歓喜の表情で全てが伝わってくる。あの野獣を倒したという知らせは、まさに古丹別に希望をもたらすものだ。村では、すでに羆の解体肉を調理する準備も出来ているという。
血抜きができていないためかなり臭い肉になってしまったが、味噌と鰊で味付けされて煮たり、豪快に焼き上げられたりして、その香ばしい匂いが村に広がる。それでも大量に残る熊肉は、燻製や塩漬けのための下処理をすれば、厳しい冬を乗り越えるための貴重な糧になるだろう。
囲炉裏を囲み、巣穴の羆を仕留めた時の話を振り返る中、ふとゲンが「あの巣穴、放っておくのは危険じゃないか?」という話を持ち出し、誰もが頷いた。他の羆が住み着くかもしれず、今後の脅威となる可能性は十分にある。不安を根元から断ち切ってしまいたいのは五郎も同感で「なら、埋めちまうか」と提案し、全員が同意した。しばらく談笑していると、笠と蓑に雪を盛らせた数人が入ってきた。
「またまた大手柄だな、大将!」
「これで安心だ! 今回も買うぞ!」
「解体した肉、外にある奴で全部か?」
熊嵐をものともせず、苫前の商人たちが馬橇で駆けつけてきたようだ。その笑顔は、羆害による商売への悪影響が終わる喜びだけでなく、この商機を逃すまいとする意志もはっきりと浮かび上がっていた。
「お前たち、相変わらず耳が早いな……」
心の中では呆れつつも、素早い行動力と好機を逃さない判断力という意味では、狩猟とマタギ、金銭と商人、両者の目的は違えど、生き抜くための知恵は、どこか似ているような気がしてならなかった。
なによりゲンが笑顔になった。苦笑いだが。
五郎は熱燗を一気に飲み干すと、肩の荷が少し軽くなった気分で、商人たちの笑顔を受け入れた。
次の日、男たちは再度森の奧に入り、再び羆の巣穴の前に立った。
五郎の持つ御神酒の小瓶が、巣穴の凍える空気の中で小さく揺れる。最奥部でゆっくりと蓋を開け、山の恵みへの感謝を胸に、その酒を地面に捧げた。透き通った酒が落ちると、瞬く間に消えていく。まるで、山そのものがその献上を受け入れているかのように見えた。ただ静かに、ありがとう、と呟いて両手を合わせた。自然の摂理に従い、与えられた命を敬うこの行為は、マタギにとって狩猟の一環であり、同時に生きていることへの深い感謝の表れだった。
外に出て深呼吸すると、改めてそこにいる男たちを一瞥し「やってくれ」と低い声で伝えた。その言葉を合図に、次々に石や泥、藁や丸太が運び込まれ、入口を鍬で崩して完全に埋め戻し「大正五年 古丹別熊害 此処にて封ず」と刻んだ小さな岩を安置した。これで過ぎ去った死闘の記憶として後年に語り継がれるだろう。ゲンはこの岩を前にしばらく目を閉じて春子と正吉を想い、祈り続ける。
やがて全員で静かに合掌した。
これまでに戦い抜いた人たちと犠牲者に想いを寄せて。
ふいに吹雪が弱くなり、ゲンの肩を軽く叩くように吹き抜けていった。
数日後に熊嵐が収まると、コタンとメスコタンの胃と腸は、内容物調査のためサンケと同じように三毛別の分教場に運ばれることになったが、五郎は同行せず苫前港に戻り、船を待ったという。
完
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■著者 丸鬼
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