兎守
蒼開襟
第1話
海の向こうに見える鳥居、少し赤茶けた門が陽を背に立っている。
あの場所に何があるのか祖母に聞いたことがある。祖母は怪訝な顔をしてこちらを見た。
『何故知りたい?』
祖母の声は静かに低くいつもの優しい声ではなかった。
『なんとなく・・・。』そのような答えを飲み込んで黙り込むと祖母の目を
見る。彼女は小さく溜息をつくと、遠くにある鳥居を見た。
『あれは・・・トカミ様だ。』
『トカミ様?』
『ああ、トカミ様は兎に守と書く。兎の姿をした神様だよ。』
『兎の神様。』
『ああ、そうだ。』
祖母はすうっと目を細めて鳥居を見る。
『ワシはずっと後悔している。』
『ばあちゃん?』
祖母は小さな私の手をぎゅっと握り海を背に町へと戻る。手を引かれて顔を上げて見た祖母の目に涙が浮かんでいた。
古の神。いつ神になったのか神自身も知らなかった。ただ独り海辺に居て鳴り続ける腹の虫はやかましく、両手の震えが止まらなかった。
このままここで死ぬ?そう思って海を見る。目の前には食い物も水もあるというのに食いも飲めもしない。ここにたどり着いた時、ふらふらした足取りで水に顔をつけてみた。到底飲めるものじゃなかった。
ここへはどうやって来たんだろう?もう頭も朦朧として思い出せもしない。真っ白な手足が砂塗れで黒く汚れている。べったりとしたものが砂の下にへばりついてごしごし擦っても取れやしなかった。
もう疲れ果ててごろんと仰向けに寝転がった。空は曇り雲が立ち込めている。いずれ雨になるだろうか。そう思っているとポツポツ降りだして叩き付けるような雨になった。
口をぽかんと開けて雨を飲む。海よりはましだろうとじっと雨に打たれている。そんな時、顔に当たる雨が消えて、ゆっくりと目を開けた。
黒い影に何か二つの目が覗いている。じっとこちらを見下ろし傍に座ると額に触れた。
『何をしてるの?』
綺麗な声が聞こえて耳を立てた。ゆっくりと起き上がり黒い影の中の二つの目をじっと見る。
『飲んでいる。』
答えてみたものの声は枯れて、じりっと喉が痛んだ。
二つの目はいつか見た星の色に似て、柔らかく三日月に揺れた。
『そう。』
一筋の風が雨を連れてふわりと影の中のそれと濡れた体を吹き抜ける。
『いい風。トカミ様がいらすかしらね。』
『トカミ?』
星の色の瞳が遠くを見る。海の向こうに思いを馳せるように。
『そう、トカミ様。』
その瞳が水で滲んで揺れるのを見て美しいと思った。
繰り返される輪は断ち切られることはない。永遠に続く。
また独り海辺に討ち捨てられた男が寝転んでいる。
襤褸を纏って片手には小さな刀が握られている。随分と痛めつけられたのか切り傷だらけで顔は青あざでぼこぼこと腫れていた。
腹には矢が刺さりその先は半分に折れ曲がっている。男は開かない瞼を少し開いて空を見る。生憎の雨だ。曇り空からじきに雷雨になるだろうと見た。
動けそうもない。背中には大きな刀傷があり、体を動かすたびに痛みが走った。このまま死ぬのだろうか?
男は今年の春祝言を挙げたばかりだった。可愛い女房が仕方なしに送り出してくれた戦は酷いもので、始めから負け戦だった。
『早く帰るって約束したのにな。』
男はぽつりと吐き出した。頭に女房の顔が浮かんでじわりと涙が出た。
『すまねえ・・・俺は嘘つきだな。』
目を閉じると可愛い女房の笑顔ばかりが浮かぶ、鈴が鳴るような声に、愛らしいしぐさ、好きで好きでたまらなくて、夏の日に思いを打ち明けた。
男は口下手で、それでも一所懸命に言葉を選んだ。すると嬉しそうに笑ったのだ。あの日のことは死ぬまで忘れられない。墓まで持っていくと決めていたけど今じゃない。それだけは分かる。
男は脱力していく体をゆっくりと起こして海の向こうをじっと見た。
遠く海と空の境界がきらきら光っては揺れている。そして耳に雷音が響き顔を上げると雨が降り出した。
ぽつぽつした雨は次第に早足になり叩き付ける雨になった。
男は肩で息をしながら愛しい女房の名前を呼ぶ。繰り返し、繰り返し。
涙が頬を伝い雨が全てを流していく。
『お前に会いたい。』
ゆっくりと倒れこんだ男は砂を一掴みして目を閉じた。
雨が降る。雷が鳴り稲光が走る。美しい光景は海に反射してキラキラと輝く。浜辺で独り座り込みそれをじっと見つめている。
白い手には大きな蓮の葉が握られ、葉の下の暗闇には二つの目が浮かんでいた。その目が水に濡れて揺れるとゆっくりと砂の上に雫が落ちた。
『トカミ様、魂は半分こ。』
幾千の命、魂の導き。潮が押し流し遠く遠く連れて行く。
魂の行く先は誰も知らず神となった者たちがそれぞれ役割を得てこの世に戻ってくる。ある者は草花のために、ある者は人のために。
この海で死んだ者たちはいずれそうなり配置に付く。
兎守は魂を半分に割り、半分を神に変える。もう一度人として産まれたいと願っても聞き入れることはない。魂は半分、半分では輪廻から切り離される。
半分の魂を小さな箱に入れて紐をかける。箱は漆の朱色で兎守が大切に色をつけた。
兎守は毎夜箱を抱いて眠る。
また独り海で死んだ。魂は割られ、一つは神に、一つは箱へ。
海辺では蓮の葉がぽつりとあった。雨に打たれ暗闇に浮かぶ二つの目が遠くを見つめている。大きな目から零れる水はいつしか雨と同じように流れた。
ある夜、沖で船が沈んだ。足元にあった網が絡まり引きずられるようにして男たちが沈んでいく。もがき苦しみあがき両手は水の中で空を掴む。
しだいに動かなくなっていく人の影から光の玉がゆらりと出て海の向こうへ吸われていく。兎守の下へ飛んでいくのだ。
この海で死んだ者は皆こうなる運命だと死んでから悟る。
雨の降らない夜がない。海辺で独り蓮の葉の下で海の向こうを眺めている。暗闇の中の目が水ばかり落としている。
喪失感と絶望感、永遠と続くこれは雨のようだと思った。
目を閉じるたびに誰かの記憶がそこにある。幸せな一日、幸せな過去。
平吉と呼ぶ笑顔の女は誰であろうか?おっ父、そう呼ぶ小さな手は誰であろうか?知りもしないものが永遠と流れてくる。
悲しみが渦になり暗闇の中にある核に流れ込んでは消化されていく。
時々手が震える。ここでただ海を見ているだけなのに、死にたくないという切望がないはずの下から上がってくる。
二つの目はぼとぼとと水を落とし蓮の柄を持つ手が震えている。
『月が半分こになったらお前はここに戻っておいで。』
優しい兎守の声を思い出し、空を見上げる。月などない曇り空が泣いている。
雨がぴたりと止んだのはそれから随分と時間が経ってから。空には丸い月があり、蓮の葉を持った手がくんとそれを上に動かすと暗闇の二つの目が月を写した。
『半分こでないがトカミ様のとこ戻ろう。』
ゆっくりと浜辺を進み海へ入る。暗闇はただ暗闇で波に漂いながらゆっくりと海を渡る。時々何かに触れたようにしては二つの目から水が溢れた。
小さな進みは波に流され漂うように兎守の元へとたどり着く。
小さな箱庭が海の上にぷかりと浮かび、紅い屋敷とその前には半分にちぎられた魂がゆらゆらと海へ向かって歩いていくところだった。
魂は海に溶け、空に溶け、幾つかの違う形を成して飛んでいく。
『トカミ様。』
紅い屋敷の扉を開けて中を覗きこむ。屋敷の高さと同じほどの兎がくるりと振り向くと、赤い目が細く長くなる。
『月は半分こだったか?』
『まんまるだったよ。』
『そうか。』
兎守は小さな蓮の葉を持つ手に指先を触れさせた。
『まだ手しか出来なかったのだな。』
暗闇の中の二つの目が兎守を見る。
『目玉はあるよ。』
『本当だ。』
兎守は蓮の葉をそっと撫でた。
『本当だ・・・目玉はある。』
兎守の一日は永遠と続く。休む暇もなくやってくる魂たちの相手をしている。ちぎっては半分を外へ、半分を箱へ。そのたびに暗闇の中の二つの目がびくりと揺れた。
あの者の名前は・・・。聞かずとも流れ込んでくるそれが記憶だと気付いた
時にはもう遅かった。もう数え切れないほどの者の記憶が永遠と回り続けている。
私の名前はタカヨシで、ヒナタで、ユキチで。
二つの目から溢れる水は滝のようで兎守は顔をにごらせる。
『どうして顔が生えないのか。』
『顔?』
『お前の顔が見たいのだ。触れたいのだ。』
兎守の白い指が暗闇を突き抜ける。
『実態のないお前には触れられない。』
実態のない私。核を突き抜ける記憶たちの中に私の記憶はない。私について何一つ存在しない。
毎日毎日誰かの記憶が駆け巡る。ないはずの何かが酷く痛んで時々動けなくなる。蓮の葉を握る手がずっと震えている。
見かねた兎守が傍に座ると暗闇の中の目を見つめた。
『お前は昔自分で死んだのだ。だからその悲しい過去はお前の中にはない。』
『ない?』
『新しいお前はゆっくりと生えてくるだろう。神の力を持って、人の命を使ってお前と言うものを形作る。以前と違うお前になるだろう。お前の目玉が星の光に染まったように、お前は美しく生えるだろう。』
『美しく?美しいとは何?』
『お前そのものだ。以前のお前も美しかった。それでも消し去りたいほどに悲しかったのだろう、次はきっと大丈夫だ。』
兎守の言うとおりにはならなかった。暗闇には目玉が二つ浮かんでいるだけで、いつまでも手以外に生えはしなかった。
兎守もまた心配したが神の時間は長い、だからさほど心配はしないと笑った。
夜、兎守の傍で眠る。暗闇の中の二つの目は兎守が大事そうに抱えているそれを見た。それに半分こを入れていた。
震える手で兎守の手の中から箱を引き抜いた。肩を揺らし眠る兎を横目に箱を持つと外に出た。美しい漆の箱。紐を解いて蓋を開くと、無数の半分の魂が湧き出て空へと飛んでいった。いつだったか大きな音のする夜の花のようだ。
箱の下には薄茶色の毛皮が入っている。両手で持ち上げると小さな兎だった。堅くなった体が両手の中で重く、指先からどす黒い記憶が流れ込む。
『あ・・・。』
嵐の海、沢山の人が溺れている。兎はその人たちの上でそれを見ていた。
言葉が話せる兎なんてめったにいない。だから連れてきた人たちは口々に助けてくれと叫んでいる。しかし助ければ自分も死ぬだろう。
何も出来ずただ沈んでいく人たちを眺めていた。
でも船は波に潰されて兎もじきに死んでしまった。そう思ったが目を開けたとき、美しい男の神がそこにいた。
『どうした?兎。』
神は両手で兎を抱えて海の上を歩く。波は穏やかで足元でキラキラ光っては後ろへと流れていく。
神は艶やかな黒い髪で美しい顔をしていた。肌は少し浅黒く陽の光りの下では鮮やかで。ふと見惚れていた自分に気付き兎は顔を伏せた。
なんて浅ましい、神に見惚れるなど。
神の手の中で兎はじっとしていた。なるべく気分を損なわせないように。
神の家は赤い屋敷で箱庭の上にぽつりとあった。誰かが来るのか尋ねると迷った鳥や魚だけ。お前は初めての客人だ、そう言うと笑った。
朗らかな微笑みに兎は心臓が潰れそうになった。どうしてこのような人がたった独りでいるのだろうと。
一緒にいるだけで幸せな気持ちになれるのに、どうしてあげることができないのだろう?あの瞳に優しさを、あの唇に慈しみを。
兎はたくさん考えた。屋敷の鏡の前で長い耳を両手で整えて黒い瞳でじっと見る。そんな時、愚かな考えが浮かんだ。
くだらない、そんなこといけない。頭を振るも兎はそうでなければいけないと願ってしまった。
月の夜、兎は波打ち際で海に月を浮かべて女神に願う。一瞬でいい、神様と。
女神は戯れか兎の手を掬うと両手に息を吹きかけた。みるみる人の手に変わり、女神の息吹は頭の先から足の爪までも包み込んだ。
兎だった姿は美しい女の姿に変わった。水面に自分を映しては兎は涙を浮かべた。
女神は去り際星を散らして笑う。
『命は変わらぬ。』
兎は去り行く女神に頭を下げて、屋敷の奥で眠る神の元へ駆け寄った。
美しい神の寝顔に指を触れ、すぐ傍に跪くとそのまま眠りについた。
目覚めた神は傍で眠る女に兎の面影を見る。そして優しげに笑うと彼女を抱き上げ腕の中で眠らせた。
兎もまた目を覚まし、神の腕の中にいることに気付き、その優しい眼差しに微笑むと静かに口付けを交わした。
愛し合う二人の時間は朝と夜を溶かす。二人きりの時間はお互いが全てを差し出しても足りないほどだった。
けれど幸せな時間は長くは続かない。兎の時間はとうに過ぎている。
体の中から蝕まれ、次第に衰弱していく女の姿に神は悲しみ泣き暮らした。神もまたよからぬ思いを持った。神の力をもたない兎に持たせるためには生贄を。
その夜から神は海を荒らした。人が死に神の元へ流されてくる。魂の話を聞き、犠牲にするには悲しすぎると魂を半分に割り半分を女の口へ滑り込ませた。魂の欠片は女の頬を上気させる、しかし一つでは数秒と持たぬ。
神は幾度、幾千とそれを繰り返した。
繰り返される悲しき行為に女の体は解け兎に戻った。神は絶望し小さな箱にそれをいれ、それからも繰り返し魂の半分を入れ続けた。
穢れは神を襲っていた。美しい顔だったのに黒い痣がでて、美しい両手は獣のように毛むくじゃら。いつしか耳は長くなり、神が鏡を見る頃には大きな兎の姿に変化していた。
何万の時を経て神の傍で小さな暗闇が産まれた。神は喜び消えてしまわないようにと蓮の葉を持たせた。小さな目印だ。
暗闇は海の向こうばかりを気にしている。ここにいては退屈だろうと神は約束を交わして暗闇を送り出した。
『月が半分こになったら戻っておいで。』
その頃になればきっと、そう信じて疑わなかった。
暗闇の二つの目から涙が零れた。昔の記憶、神様の記憶。
振り返ると兎守が悲しげな顔をしてそこにいた。
『知る必要などなかったのに。』
『トカミ様。』
兎守がしゃがみこみ暗闇の二つの目を見つめる。
『お前は・・・いつまでもこのままであるのは望まないからだろう?私がこ
んな風に変わってしまったからだろう?お前のためにしていることも今は神の名に恥ずべきこと。私は穢れてしまった。お前がどのような姿でもいいと願ったのに・・・目玉だけのお前でもいいはずなのに、何故触れたいと願うのだろうな?私は浅ましい。お前に触れたいのだ。』
両手で顔を覆い兎守は泣いた。
暗闇の中、核に流れ込んでくる記憶の数々は悲しみに溢れている。
『トカミ様、聞いてもいいですか?』
『うん。』
『私の中の人たちはどうしたら幸せになれるのでしょうか?今も悲しみに暮れています。トカミ様のように泣き悲しいと。』
『そうか・・・お前はそうしたいか?』
暗闇は小さく頷くと兎守の顔を見た。その顔が優しく微笑み昔の面影が見えた。
兎守はそうか、と笑うと立ち上がり両手の爪で自分の胸を貫いた。白い毛皮が赤く染まり倒れこむ。すると暗闇の核が暴れだし、小さな穴を作り出すとそこから魂が大きく噴出した。暗闇は気を失いそうになりながらも兎守の傍によると両手で兎守の背を撫でた。
輪廻の輪が繋がり、また人々は愛する人の元へ戻り始める。暗闇が目を覚ますとあの日女神に願った人の姿になっていた。すぐ傍には兎守が横たわっている。女はそっと兎を抱きしめると呪詛を呟いた。
神殺しは禁忌。ならば私は永遠にこの記憶を持ち続けよう。幸せの中にいても兎であったことを胸に刻もう。
遠く空が曇っていく。雨雲が雷雨を連れて来る。祖母はそう言った。
私は祖母がぽつぽつと話すトカミ様の話を聞きながら、胸の奥に湧いてくる記憶の波に溺れそうだった。
幾千の、幾万の悲しいほどに愛する感情。祖母が?それとももっと前の?
私ではない誰かの血の中に刻んだ呪いが、今もここにある。
そしてまた私も祖母と同じように受け継いでいくのか。
海の向こうにある赤茶けた鳥居、そこにある愛する人の記憶を。
ふと私の手を引く娘の姿に笑みを零す。
『お母さんどうかしたの?』
『ううん、なんでもない。』
小さな娘の瞳に映る鳥居を見て私は視線を逸らす。
『さあ、帰ろう。』
兎守 蒼開襟 @aoisyatuD
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