虫取り

ぽんぽん丸

晴天

快晴。晴天。


麦わら帽子のつばがあって良かった。36度の日光は人間を弱らせてしまう。虫たちも同様だ。高い気温は活性を下げる。見つけづらくなるが、見つけてしまえば捕まえやすくなる。


都会の公園の虫を捕まえる。防腐剤を注射して珍しくない標本を作る。子供の頃から続けている。今は店頭で販売しているところを見かけないがAmazonでは注射器や防腐剤、虫を固定するピンは変わらず購入できる。私の書斎の壁はそんな虫たちの標本がところ狭しと飾られている。


珍しい虫の標本はなんだかときめきがない。世界中から取り寄せた珍しい虫を大切に飾って自慢する人を知っている。私に言わせればセンスがない。数千万する腕時計だとか宝石だとか見せびらかしているみたいだ。満足は自分の中にある。


そうすると、そろそろ去年の冬に捕まえたオオヒラタシデムシをよして、夏の虫と入れ替えたい。今日は昆虫採集日和だ。


だが私の趣向は先へ進めなくなってしまった。大きな公園の人の少ないエリア。林になっていて腐った落ち葉や枝でシートを敷けないような場所に行くと虫ではない鳴き声が聞こえてきた。小さな女の子だった。


私は困ってしまった。長い前髪をくくって頭の上のへんな位置にアンテナを立てた彼女は汚れた服を着て泣いていた。平日の大きな公園の人のいないエリアには暑さも手伝って他に誰もいなかった。私は仕方なく声をかけることにした。


「どうしたの?」

「おかあさん、帰ってこない」


3度目の呼びかけに答えてくれた。小さく屈んで目線を合わせてみてやっと私の顔を見て少女は泣くのを弱めて話してくれた。


「おかあさん、どのくらい帰ってこないの?」

「ずっと。ながい」


嗚咽を間に挟みながら少女は言った。


「おかあさん、飲み物かってくるからここでまってなさいっていった」

少女は問題の解決を大人の私に託して話してくれた。


「大丈夫だよ」

私は少女の目線よりちいさく屈んで安心するように言った。


しかしどうしたものだろうか。母親は飲み物を買いに行っただけなのに長時間帰ってこないという。公園内の自販機はいくら探すのが下手でも10分もあれば見つかるだろう。事故にでもあったのだろうか。いやそもそもこんな目立たない場所で子供を待たせるだろうか。せめてベンチだったり落ち着ける場所が良い。そもそも子供を一人にせずに一緒に自販機に向かえばよいのではないだろうか。


しばらくアブラ蝉の声だけが響いてしまってまた少女は泣き出した。


私は虫かごの中の虫に手が伸びてやめた。子供を虫であやそうとしてしまった。この子は虫が嫌いかもしれない。少女に背を向け首からかけていた虫かごからここまでに捕まえた虫を逃がしてリュックにしまった。リュックの中にいては虫達は死んでしまう。おじさんの奇妙な行動は幸い泣く少女はうつむいて見ていなかった。


「おかあさんどっちに行ったの?」


少女は泣いたまま公園の中央の方を指さした。


「おかあさん探しにいこうか」


少女は顔をあげた。泣き顔を強張らせて涙を止めた。胸を張り目と鼻の穴をガッと開いた。すごい顔だった。彼女は決意してくれたのだと思う。私は立ち上がり少女が指した方に半歩進んで振り返った。すると涙や鼻水を乱暴に拭いて濡れたままの小さな手を私に差し出した。だけど手をつなぐわけにはいかなかった。


「ごめんね、おじさん手をつなげない生き物なんだ」


悲しい顔を作って言った。少女はまたうつむいて泣きそうになったが、また全身に力を入れてすごい顔をして堪えた。


公園の中央の方まで来たが少女が母親に駆けることはなく最初の自販機にたどり着いてしまった。


「好きな飲みものある?」

私は少女のますます落ち込む様子を見ていられなくて自販機に小銭を入れた。


「じゅーす…」

泣いて水分と心を寂しくしている女の子に私はオレンジジュースを渡した。


「疲れたね。あそこに座ろうか」

屋根がついて影になっているベンチがあった。少女は座ってジュースをごくごく飲むと少し落ち着いた。もしかしたらこの暑さの中で何時間もあそこにいたのかもしれない。


少女と私はぽつぽつと会話した。オレンジジュースよりりんごジュースが好きだと言った。とっくにさっきの一缶を飲み干していたから私は買ってくると言った。


「ダメ」


少女はガッと顔を強張らせてまたあの酷い顔をしながら訴えてきた。


「一緒にいこうね」


私は気遣いが足りなかった。


この公園は大きいが管理事務所があるほどの規模ではない。やはり仕方なく私は少女に聞いた。


少女が言うには朝早くに電車に乗ったそうだ。お母さんは普段ずっと家にいない。毎日食べ物だけおいて仕事にいくそうだ。なのに今日は早くに起きておでかけだった。いつも見るアニメより早くに家を出て長い間電車に乗ってこの公園にきた。


私は泣きそうになった。この少女は捨てられたのだと思った。住所も地名も知らなかった。自分はゆーだと言った。苗字も言えなかった。何度か変わって覚えられなかったそうだ。


私はすぐに警察に連絡するべきだった。だけどまだどこかで母親が現れてリュックに虫取り網を挿して麦わら帽子に釣り人みたいなベストを着用した不審な私に罵声を浴びせながらこの子を抱きかかえて通報してくれることを待ってしまった。またはいっそ親子連れが私達を不審に思い通報してくれないかと思った。


だけどどちらも起きなかった。


私たちは話すことにも疲れて夕暮れを眺めた。そのころにはゆーちゃんは落ち着いていた。今日会ったばかりの私に安心してしまっている。私はスマートフォンで警察に連絡をした。


2人の警察が来てくれて私は少しほっとした。だけどゆーちゃんは大きな制服の大人に泣きじゃくった。だから私もまた不安になった。警察官に事情を説明する。


「何時間もここで?」


警察は目を細めて怪訝な顔をした。それから私を責めた。当然だった。すべてしっかりと謝った。それから私はとして根掘り葉掘り私の個人情報や状況を伝えた。その様子を見てゆーちゃんはますます泣いていた。もう1人の警官があやしたけどダメだった。


いよいよ別れの時がきた。少女は警察官と手を繋いで落ち着いていた。だが私がいなくなることを理解するとまたあの酷い顔をして堪えようとしてた。だけど今度は堪えきれずに泣いてしまった。人の少ない林にこだましていた大きな泣き声だった。


彼女はまた別れてしまう。私はまた同じ言葉が出かかった。大丈夫だよ。私はあれが嘘だと悟った。何が大丈夫なのだろうか。そしてもう一度嘘をつきたくなくて言葉をひっこめた。


「ありがとうございました」

少女の泣きじゃくる様子を見て警察官は私に心を込めてお礼を言ってくれた。


警察官に応える。

「当然のことです」

それからゆーちゃんの前にまた屈んで目線を合わせた。

「元気でね」


少女は泣いて顔を上げることができなかった。私は彼女の顔を見れなかった。あの酷い顔が涙に崩れるところが最後に見た彼女の顔だ。


私は帰宅すると壁にかけたオオヒラタシデムシの標本を壁から下ろした。それだけではなく、すべての昆虫標本を処分した。虫網やかごや防腐剤やピンも一切処分した。


私は少女に嘘をついたことが許せなかった。そしてこれからもずっと自分を許さないでおくことにしたのだった。

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虫取り ぽんぽん丸 @mukuponpon

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