ゆびわ

@tottakai_am

ゆびわ

 夜になったから爪を切った。よつめの鬼が来て、爪切りを持っていった。

 朝になって、何時間か経ってから、伊都はもぞもぞと起き上がった。蝉がもう鳴いている。のどが、からからに渇いていて、試しに「あ」と声をだしたら、声変わりを焦らすような濁点がついたひび割れた声が出た。伸びをしたら、一瞬息が止まってそのあとあくびが出た。カーテン越しでもわかる眩しさに瞼の裏の暗さが恋しくなって両手で顔を覆う。寝てるときもずっとつけていた指輪が顔に当たって、それが冷たくて伊都は驚いた。

 左手の人差し指に去年からついている指輪はすごく不格好で、鈍く光る。大きめの平たい石に穴をあけただけのようなそれを、指にはめてしまえばそれは指輪だ、と伊都の中では結論付けていた。触ると冷たくて、外してその穴を覗くと、鬼が見える。鬼は決してこちらを見るようなことはなくて、ただこちらが一方的に見ることができる。鬼は、よく絵で見るようなツノの生えた鬼ばかりではなくもっと人間に近い見た目をしているものも、小さいのも、綺麗なのもいる。伊都はそれらすべてをまとめて鬼と呼んでいた。指輪を外して目の前にかざす。カーテンと窓の間に隠れて外を眺めている、小さな鬼の足が見えた。毎朝指輪を覗くことは習慣になっていた。目をこすりながら、下の階に降りていく。ダイニングキッチンから水の音が聞こえる。ドアを開けると、涼しい風が流れてきてその風に誘い込まれるように居間に入った。

「あ、おはよ。朝ごはん食べる? シリアルならテーブルの上にあるけど、パンも焼く?」

「ううん、大丈夫。シリアル食べる」

 母の手に洗い終わった食器があるのをみて、少し罪悪感を覚えながら伊都はそう言った。

「ん。牛乳ここ置いとくよ」

「ありがと」

「あ、そうだ。伊都、爪切りしらない? さっき爪割れちゃって、切りたいんだけど」

 伊都は少し考えた。

「神隠しにあったんじゃない?」

「なにそれ。神隠しって、面白いこと言うなぁ」

 笑いながら言う母親をみて、伊都は少しだけ微笑んだ。

「爪割れたの、絆創膏とかしておきなよ」

「うん。ありがと」

 母はまた皿洗いに戻った。それを見て伊都は急いでコーンフレークを口に運ぶ。母の皿洗いが全て終わる前に皿を滑り込ませてこっそりと二階に上がった。「宿題ちゃんとしてよー!」階段を上がる伊都に向かって居間から母が呼びかけた。伊都は抜き足差し足で歩くのをやめてはーいと小さな声で返事をした。部屋に戻り、机に向かう。大きなため息をついてから、伊都は教科書を取り出した。

 『随筆を書こう。』教科書のタイトルと、教科書に挟んでいた、タイトルに『小学校の思い出を書こう』と書かれた紙を眺める。その紙の中央にでかでかと『学校』と書いてある。マインドマップを書くために印刷されたその文字からはなんの言葉も繋がっていない。しばらく考えてから、伊都は小さく『転校』と書いて『学校』に繋げた。もう一度、少し考えてから、『ぼくは、この小学校に五年生のときに転校してきました。』と紙の端に書いた。一年と少し、その間に学校生活の中で特段良いことも悪いことも何もなかった。ただ一つ、こだまが転校してきたことはいいことだったなと思った。

 もともと人見知りで話すこともあまり得意でなかった伊都が、ずっと一人でいることになれてきたころに、こだまは転校してきた。

「ねぇ、その指輪どうしたの? きれいだね!」

 朝の会が終わったあとのどんどん騒がしくなる教室で、転校生に興味津々のクラスメイトにこだまに話しかけるすきを与えず彼はまっすぐ伊都に向かってきた。

「えっ、別に。普通の指輪です……」

 戸惑いながら伊都が答えると、こだまは机のそばに座り込んで見せて、と言った。いきなりで、断ることもできずに指輪をわたした。こだまはそれをスッと目の前にかざして輪の中を見る。伊都が声を出す暇もなかった。こだまは輪の中をのぞいたまま、嬉しそうに笑って、すごーいと言った。指輪のことはこだまにしか話していない。

 蝉の声に混ざって、遠くから笛と太鼓の音がした。伊都は考えるのをやめて鉛筆を机においた。今日は、この町の夏祭りらしかった。この地域は、昔から神様との繋がりが深い地域であり、規模は小さいが毎年、伊都が前いた地域の夏祭りよりも格式的に祭りが執り行われる。その雰囲気がおみこしにまで伝わっている。その音が家の前まで来たのを聞いて、伊都は窓を開けた。大きな掛け声の中、おみこしはそれが通るには少し狭い道をゆっくりと通っていた。おみこしが太陽の光を反射して伊都の目に飛び込んできた。その眩しさに伊都は窓辺にいた鬼を思い出して指輪を覗き込んだ。そこにはもう鬼はいなくて、いた痕跡さえ見つけることはできなかった。伊都はそのまま窓の外に目をやり、息を呑んだ。朝ごはんを食べる前まではいなかったはずの鬼と、見た事のない、鬼よりも人間に近い何かがたくさん歩いている。行列だ。一人二人ではなく、数十人、もしくは数十匹で歩いているのは初めて見た。それらはおみこしについていくようにしてゆっくりと歩いている。一歩一歩歩くたびに地響きが聞こえてくる気がしてしまう。

「あれも鬼……なのかな」

 鬼について歩いている、『鬼よりも人間に近い何か』は鬼と似ていて、でも明らかに違う何か雰囲気があった。百鬼夜行のようなその行列は音もなく、騒がしく、ゆっくりと伊都の目の前を通り過ぎていく。伊都は少し考えてから、指輪と両手の親指を握りしめて全力で階段を駆け下りた。

 おみこしは、町のいくつかある神社のなかでも一番有名な神社へ向かっていった。

「あっ」

 伊都は立ち止まった。わかれ道で鬼だけが、人の形のものが行く神社とは違う道へ進んでいく。指輪を目の前からおろして鬼が行っていた道を見る。薄暗くて少し狭い道は、そのまま山へと向かっている。

「あの道で肝試ししようや」

「えーあそこ、鬼が出るんでしょ? 暗いし」

 クラスメイトが話していたことを思い出す。

「おに……」 

 指輪をもう一度目の前に掲げる。おみこしはだんだん遠ざかっている。人の形をしたものは、鬼が別の道へ行っていることなどまったく気にしていないようでおみこしのそばに群がってしづしづと歩いている。

 伊都はもう一度おみこしの方に目をやってから向きを変えて暗い方へ向かった。知らないものも気になるけれど、今はいつもそこら中にいる鬼がどこへ行くのかが気になる。蝉の声が少しずつうるさくなるにつれて、道も少しずつ暗くなっていった。右側を見るとずっと塀が続いているし、左側はずっと森で、たくさんの木が続いている。鬼はおみこしについていっていたときと同じスピードでゆっくりと進んでいて、そのまま森の中に曲がった。伊都は少し焦って指輪を握ったまま駆け足になった。鬼が入っていったのは、ハゲかけの朱色のペンキの鳥居の間だった。微妙に傾いているその鳥居とその奥にある小さな社を眺めてから伊都はその鳥居をくぐった。勝手に口角が上がっていて、わくわくしていることに気づいた。指輪を少しだけ強く握りしめてまっすぐ社まで歩いていった。振り返って、入ってきた鳥居の方を見る。神社は静かで誰もいないように見えた。伊都は指輪を覗いた。そこがさっきまでの景色と同じ場所だとは伊都には思えなかった。たくさんの鬼があちらこちらに向かって歩いている。自分が一方的に見ているだけだとわかっていても伊都は思わず息を殺して鬼たちを見つめていた。鬼は目的を持たずに神社の中を歩いていた。

 突然、指輪の向こうから風が吹いた気がした。次の瞬間伊都は親指を強く握りしめて目を見開いた。指輪は落とさなかった。指輪を持つ右手が固まったように動かない。指輪の向こうの目がこちらをみていた。パールのような真っ白な顔に真っ白な長い髪の毛、一つの目と一つの角を持ったその鬼はこちらを見たまま少し歪な笑顔でこちらを見ていた。一瞬の時間が流れて、鬼は口を開いた。

「よく見つけられたね。その指輪を見るのは久しぶり。また会いに来てくれたんだ。嬉しい」

 歪なままで満面の笑みを浮かべる。

「でもね、危ないよ。ここはあまりいい場所じゃない。気づかれないうちに帰りなさい」

 そのままじっと伊都を見つめる。小さいガラガラ声のように聞こえるけれどなめらかできれいな声だった。伊都はゆっくり左手の親指を離した。

「あ……」

 何かを言わなきゃと思って出した声が鬼の何倍もガラガラで焦りで涙が出そうになった。でも、その後に続く言葉が出てこなかった。鬼が微笑んでうなずいたので、伊都はきっと何かを言う必要はないんだと解釈して口を閉じた。

「出ていきなさい。帰りなさい。ここに来たことを話しちゃだめだよ」

 きれいな声でそう言われると従う気になって、周りの鬼を見るのも簡単に諦めて指輪を目の前に掲げてその場にたたずむ鬼を見ながら鳥居までゆっくりと進んだ。背中から鳥居をくぐった。


 チャイムの音が家に響いた。ぼんやりとしていた伊都はすこし驚いて、親指を握りしめた。少しの間があってから、 

「お友達来たよー!!」

 と母親の声が一階からした。

「はーい!!」

 来たのはこだまだろう。こだま以外に家に来るような友達を伊都は思いつかない。ドアを開けて、登ってきてと一階へ向かって呼びかけた。

「ちょっと、そのぐらい降りてきなよ」と母親が言うが、すこしするとこだまはちゃんとドアの前に来た。

「お邪魔しまぁす……」

 シンプルなTシャツに七分丈のズボン、まったくの手ぶらで部屋に入ってきたこだま伊都はに少し笑う。

「さっき、おみこし通ったね。見に行った?」

「……行かないよ」

 おみこしが行った神社には行っていないから嘘は言っていない。

「そっか」

 こだまはそう小さな声で言って伊都の勉強用の椅子に勝手に座り、机の上においていた指輪を触る。そのこだまの目が少し怖くて、伊都は指輪を守るようにこだまの手の下から指輪を取り返した。

「……鬼見るの好き?」

「えっ、うん」

「貸して」

 こだまは伊都から半分無理やり奪うようにして指輪を覗き込む。

「……なにがみえる?」

 いつもは気にならない無言の時間が気になってしまって、伊都はそう訪ねた。

「いや、別に」

 こだまはそう言って机に指輪をおいた。長く息を吐いてから伊都の方を見た。

「宿題やってる?」

「随筆が終わる気がしない」

 よくわからない緊迫した空気が緩んだ。

「ほんとにそれ! おれら転校生書くことないっつーの。って言っても随筆以外も全然手つけてない」

「こだま宿題いっつも後回しじゃん」

「んふふ」

 よくわからない笑い声をたててこだまは少し長めの髪をいじった。

              *

 こだまは豆電の明かりで作業するのが好きだった。丁寧に詰められた手書きの文字を一文字一文字なぞっていく。

(指輪……、あった。指輪自身の霊力が強いために、指輪を覗くことで霊力の高い鬼や神に近しい霊力のフィルターを通し、霊力の高い者を見ることができる指輪。もともとは自分よりも霊力の高い物を持つことで、霊力を求める鬼や神などへ対する目眩しとして、魔除けの意味で使われていた。……伊都が神社から持ってきちゃってから一年とちょっとぐらいか)

 髪をいじるのはこだまの考えているときの癖だった。

「やっぱり端境が弱くなってるんだろうな……」


 こだまが”神様”を知ったのは小学校に入る前だった。文字を少し読めるようになったぐらいのときに”おじいちゃん”はこだまに神様の話をした。 

 神様や鬼が人間と違うのは霊力が強すぎて、霊力の弱い、人間からは見えないからだ。逆にいうとそれ以外の部分で神様や鬼と人間というのはほとんど同じようなものらしい。神様や鬼も人間と同じでいい人も悪い人もいる。神様と鬼は生き方が違うだけでほとんど同じだ。霊力が強いことで、神様と鬼ができることはたくさんある。反対に言えば、霊力がとてつもなく高ければなんでもできる。悪い神様や鬼がその力を悪用してしまわないように人間と、神様や鬼の世界は混ざってはいけない。霊力が弱く、そのままでは鬼や神を見ることができない人間は、力を高めるために霊力を奪おうとする鬼や神からは絶好の獲物なのだ。運悪くあちらの世界から目をつけられた人間はそのわずかな霊力を奪い取られ、力尽きてしまう。そうならないために、あちらとこちらの端境を守るのがおじいちゃんと、そしてお前の仕事だ。

 そういったことを、おじいちゃんは幼いこだまに難しい言葉で説明した。

 そして一年前、おじいちゃんは指輪の話をした。

「古くからお守りとして使われていた指輪で、霊力が強すぎるために人が神の世界に流出してしまう危険があると判断されて、神社に捨てられた。それを見つけてしまった少年がいる。お前と同じ歳ぐらいだ。うん。お前の初仕事かな」


 豆電の明かりで字を追いながら、仕事を一つするだけにしては頑張りすぎてるとこだまは思って、少し笑った。でも、友だちが増えたことは良いことだ。プラマイゼロ。きっと。

「でも、本当にぎりぎりで端境ができているっていうぐらいだった……」

 昼に伊都の部屋で見た鬼は指輪の中を見た瞬間少しだけ、こちらを見た。おじいちゃんは、向こうからはこちらが見えないような端境を作った。それだけではなく、伊都が本人は気づかずに指輪に執着してずっとつけているところからみても指輪と伊都自身に特別な繋がりがあるのだろう。おじいちゃんは明確には言っていないけれど、指輪の霊力を使って伊都自身を守るためのバリアみたいな端境を作ったのではないか。

「どうしたらいいかな」

 おれはまだ端境は作れない。できるとすれば、繋がりを切ること……。切った後に指輪の保管場所も考えなきゃいけない。あれだけ霊力の強い指輪を保管できるのは、あの霊力が弱い霊力になるぐらいもっともっと霊力の強い場所に置くしかない。そんな場所は滅多にあるもんじゃない。力の強い神社になら、そんなスポットがないこともないだろうが……。

「よしっ。頑張るか」


「もしもし、伊都? 神社に行かない?」

『えっ、突然? なんで』

「鬼を見れる場所考えてたんだけど、この町、神様の神社だけじゃなくて鬼の神社もあるでしょ」

「鬼見るの好きって言ってたし、おれもちょっと気になってきた」

 自分でも白々しいと思うが、しょうがない。こだまは、できるだけテンションの高い声で話した。

                *

『神社に行かない?』

 それを聞いて伊都は一瞬固まった。あの白いきれいな声の鬼を思い出す。

「えっ、突然? なんで」

 できるだけ自然に出した質問にこだまは鬼を見れる場所を考えていたと言った。

『おれもちょっと気になってきた』

 嘘だ。でも、どっちでもいい。危ないよ。ときれいな声が頭の中で言った。その声が聞きたい。

「いいんじゃない? 鬼見たい」

 そう答えてしまった。危ないよ。ときれいな声がもう一度頭の中で言った。

『じゃあさ、あそこの神社めっちゃ森と山で囲まれてるじゃん、あそこ入ってみようよ』

「え、大丈夫? 入っていいとこ?」

『うん。……大丈夫だよ』

 確信を持っているような言い回しをしたから、こだまのことを信じることにした。


 神社の前で待つこだまはやけに真剣な顔をしていた。指で髪をいじっている。

「こだま」

「あっ、ごめん。考えてた」

「知ってる。また髪の毛くるくるしてたよ。……行こうよ」

 こだまは、少し笑ってからあるき出した。鳥居の前で、一礼したのを真似て伊都も一礼する。神社にはこの前と同じように誰もいなかった。遠くでセミが鳴いている音が少しだけして、止んだ。

「鬼の神社だったんだね。ここ」

「うん」

 こだまは、あたりまえのように軽く返事をした。

 越してきたとはいえこだまよりは前からこの地域にいたのに知らなかったことを伊都は少し恥じる。

 社の前で一度お参りをする。この前はあまり見ていなくてただぼろぼろなお社だとおもっていたけれど、よく見てみると、色あせてはいるけれどきちんと手入れされていた。その裏の森は、目の前がもうすでに草と木々に覆われていて、どうみても歓迎されているようではなかった。

「ちょっとだけまわり見てきたけど、立入禁止とか書いてなかった!」

 遠くから嬉しそうにこだまが報告してくる。

「あと、道になりそうな場所、見つけたよ」

 こだまが案内したのは、他のところよりも少しだけ草が少なくて、少しだけ地面が平なところだった。

「おじゃまします」

 もう一度深く一礼して、二人は森に入った。最初は空が見えていた上が、だんだん木で覆われていくことで、森がどんどん深くなっていくことがわかる。蝉の声で耳がつんざけそうになる。

「伊都、指輪。見てみてよ」

 こだまが伊都に蝉に負けないような大きな声で呼びかけた。

「あっ、忘れるとこだった」

 伊都は、指輪を外して輪の中を覗き込んだ。息を呑んだ伊都を見て、こだまが少し笑う。

「何が見えた?」

「よく、わかんない……。なんか、いつもの鬼より、ぼやぁってしてる……」

 社の前でははっきり見えてたのに。

「そっかぁ」

 やっぱり森の中のほうが霊力が高くて指輪がピンぼけみたいになってる。このままだ。

「もうちょっと、奥の方まで行ってみてもいい?」

「もちろん」

 こだまは満足そうに笑った。

「あのねぇ、鬼の中にはすごく霊力が高い妖怪みたいなものがいてね、神様と同じくらい高いんだって。でも、霊力が強い分、向こうに気づかれたら終わりだけどね。その指輪……神様は見れるのかな?」

 何度目かに立ち止まった時、こだまはそう訪ねた。

 白い顔をした、まっすぐその綺麗な一つ目でこちらを見た鬼のことを思い出した。

「いや、それは……わかんない。れいりょくもわかんない。でも、ぼくは……たぶん神様はみたことない」

 人の形をしたものを思い出しながら言った。

「あははは、だよねぇ」

「今の笑い方、めちゃくちゃ嘘笑いっぽい」

 今度は本当に楽しそうに笑った。

 森がどんどん深くなる。もともと少しだけ木々の奥に見えていた空が全く見えなくなる。汗が吹き出して全身が濡れる。汗が目に入らないように瞬きをするたびに、脳裏に白い鬼の声が大きく聞こえてきた。嬉しい。そう言っていた。帰りなさい。そんなこと言わない。嬉しい。そう言っていた。嬉しい。嬉しい。こだまが何か言っている。

「危ないよ」

 白い鬼の声だと思って、急いで指輪を翳した。一つ目が、じっとこちらを見ていた。その場でぎゅっと立ち止まると、体に脳が追いついていなくて驚いて、目の前が真っ白になって、少し涙がでた。白い一つ目は全く歪ではない顔で嬉しそうに微笑んだ。

「君ならまたきてくれると思っていたよ、いらっしゃい」

 嬉しい。そのざらざらした声を聞くと無性に安心して、こだまは指輪の中にいるそれに手を伸ばした。

「伊都、よこせ」

 伊都の腕が強引に引っ張られて白い鬼は伊都の目の前から引き剥がされた。こだまが指輪をかざす。途端に、伊都はなにか丸い力が指輪の輪の中からとてつもない勢いでこちらに向かってくるような勢いをかんじた。次の瞬間には伊都はこだまに手を引かれて走っていた。

「え、なに? どうしたの?」

「見つかった。行かなきゃ」

 なにも言うまいとするようなその声に、伊都は何に見つかったのかも、どこに行くのかも、もうそれ以上なにも聞けなかった。走っている間に指輪がこだまの手から落ちそうになって、伊都が慌てて掴む。一心不乱に迷いなく進むこだまのあとを追って進んでいるうちに伊都は違和感を覚えた。蝉の声が少しも聞こえない。

「こだま、ちょっとまってよ。ね、どこに行ってるの?」

 こだまはなにも聞かずに大股でずんずんと進んでいく。

 突然、目の前が開けた。奥が見えないぐらい暗く木が生い茂った森の手前に細い川が流れていて、小さな赤い橋がかかっている。ここに立つ直前まで聞こえなかったはずのせせらぎの音がやけに大きく聞こえる。伊都はまるでとてつもなく大きな川を前に、自分がのまれそうになっているように感じた。ここがどこか、なぜ橋があるのか、こだまはここを知っていたのか、一瞬のうちに伊都の中に疑問が溢れ出してきて、そして消えた。催眠にかかったようなふわふわした頭で思う。

(怖い、けど、あの橋の向こうに行きたい)

 無意識に伊都の足が動く。その瞬間なにかに躓いてころんだ。指輪が手から離れる。さっとこだまがそれを拾った。指輪を掴んだまま、橋の方へかけていく。

「えっ……、こだま?」

 思わず漏れた言葉は、こだまには伝わらなかったらしい。こだまは、小さな橋の向こう側につくとくるりとこちらを見た。

「こだま! なんで? どうしたの」

 今度は叫んでこだまに呼びかける。こだまは微動だにせずに立っている。

「危ないよ」

 こだまがそう呟いた。右手の指輪を高くかざして、こだまは静まり返った深い森でじっと伊都を見た。左手を指輪の正面まで持っていく。すべての動作がゆっくりと、丁寧に行われた。伊都にはそれがどこか神々しくも見えた。親指を握りしめていた手がゆるくなる。こだまの手がはさみの形を作り、指の刃を閉じる。

 ちょき

 体の中で、なにかが切れた気がした。見えない糸から開放されて、その反動で伊都は後ろに倒れ込んだ。景色がこだまの指先から空へ、ぐるんと大きく周り、そして消えた。

 目が覚めると、伊都が寝ていたそこは神社入り口においてある壊れかけのベンチの上で、こだまが隣に座っていた。伊都はぼーっとした頭で赤い入道雲を見た。

                 *

蝉が鳴く木々の間を、昨日走った道をたどりながらこだまは歩いていた。

 小さな川の前に出る。こだまは、ポケットの中から歪な形の指輪を取り出した。

(伊都に騙された感じするな。あの鬼、伊都のこと知ってて襲おうとしてた。前にも伊都は来てたんだ。あのとき指輪をちゃんと奪ってよかった)

 自分が騙されたことがなんだかおかしくてこだまは頬を緩ませた。小川は小さいのに流れが早くて近くによると少し恐怖すら感じる。

「ごめんね。気づいてたと思うけど、あの時伊都のこと転ばせたの、あれおれだよ」

 指輪を眺めながらこだまは呟いた。そして、川の向こうを見ると思いっきり指輪を投げた。指輪は川の向こうに落ちて、見えなくなった。

                 *

 伊都は、机を前に座っていた。手元の原稿用紙にはマス目を無視した字が並んでいる。


 ぼくの小学校での思い出はあまり多くありません。ここに引っ越してきてから一番心に残っていることは、指輪を見つけたことです。

 小学校の五年生のとき、ぼくは神社の裏で指輪を見つけました。最初は指輪だとは思わずに、石だと思いました。歪な形をしていたからです。でもそれはちゃんと指が通るぐらいの穴が空いていて平べったくて、ちゃんと指輪でした。形はいびつだったけれど、わたしにはそれがとてもきれいに見えて、早く母さんに見せたくて、手に掴んで家まで走って帰りました。

 帰り道、ほとんど人のいない道の向かいからおじいさんが歩いてきていました。その人は、どこか普通の人とは違う空気をまとっていてその人に目が止まってしまい、その一瞬の間に段差に躓いて転んでしまいました。手をついた時に指輪が転がりました。歩いてきていたおじいさんは、その指輪を拾おうとしました。しかし、その指輪に触れた瞬間に驚いた顔をして、そのあと少し困ったような怖がるような、そんな顔をしたのです。その顔がとても怖くて、指輪を守らなくちゃと思って、ぼくはその人から指輪を奪い取ろうとしました。ぼくが指輪に触れた時、「危ない」とその人は言いました。バチッと静電気が起こったような衝撃がありました。家に帰って、何気なく指輪をのぞいてみたら、何かが見えました。後々わかったことですが、それは鬼でした。これも後々わかったことですが、鬼はとても強い霊力を持っているので、バリアみたいなものを張って置かなければやばいらしいです。

 あの時、もしかしたらおじいさんがなにかおまじないをかけてくれたのかなとぼくは思います。指輪は今はもうありません。でももう鬼は見れなくても大丈夫です。


「だめじゃん。やばいとか書いてるし」

 伊都は、笑って原稿用紙を丸めてゴミ箱に投げ捨てた。

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