結局、俺は自宅に帰らなかった。アルコールがかなり入ってる状態でS坂と話をしたら、警察沙汰になるかもしれないからだ。

 職場近くのホテルにで一夜を明かした後、行きつけのジムのロッカーに常備している予備のスーツを着て出社する。

 和也の業務経歴書は、すでに俺の端末に届いていた。そのデータを記録したタブレットを持ち、ボスの元へ向かった。

 今のボスとは5年来の付き合いだ。白人の40代男性、男ぶりがいいやり手で何かと頼りになる。名前はボリス。

「ボリス、突然すまないが、俺の配置について相談にしたいんだ。日本支社からステーツへ異動したい。国籍もステーツへ」

 ボリスは、意味ありげにニヤリと笑うと。

「やはりそう来たか、アキ。この国からやたら独身男が出て行ってる。アキも例外じゃなかったわけだ」

 別室で、詳しく内容を詰めていく。

「近々、日本支社での業務を大幅に縮小する。分かってるだろうが、顧客となる企業がほとんどこの国から出ていくからだ。最終的な人員配置は、連絡要員が10人以下というところだろう」

 今の人数の10分の1以下じゃないか。もはや縮小どころかほぼ全面撤退だ。

「ついては、アキ。お前には先んじて、NY支社に異動してもらいたい」

 渡りに船だな。それも栄転だ。俺はようやく訪れた幸運に感謝する。

 俺はタブレットを差し出す。

「それとこれだ。彼はうちへの移籍を希望してる」

 俺が差し出した和也の業務経歴書を、ボリスはじっくりと読み込み、やがて楽しげに笑った。

「これほどの経歴の人材が、わざわざ自分から来てくれるのか?ヘッドハンターの仕事がなくなるな」

 ボリスは目だけは笑うのを止めて、こちらをうかがう。

「で、何の裏があるんだ?」

「俺と同じく日本国籍以外の国籍だよ。日本から完全に離れることを希望してる」

「やっぱりそれか。日本国籍を捨てたい男が多すぎる。こっちの手持ちのカードがなくなりそうだ」

 苦い顔をしたボリスに、俺は揺さぶりをかける。和也の経歴なら、うち以外にも引く手あまただからだ。

「無理なのか?ならこの話は…」

「待て待て、他ならぬアキの頼みだ。カナダ国籍なら2人分、すぐに用意できる。それ以上は後もう1年程…」

「2人分だけで構わない」

 ボリスは虚を突かれた顔で、

「それだけでいいのか?家族の分は…?」

 脳裏に和也の子供の顔が浮かんだ。ボリスの言葉に、俺は首を振って答える。

「家族はいない。いないんだ」


 一日ぶりの帰宅。S坂が家の中を荒らしていなければいいが。金目の物は全て自室に入れて、厳重にカギをかけているとはいえ油断は出来ない。力技でドアを突破してくることもありうる。

 一階のガレージを横目に、二階の居住スペースに向かおうとして、違和感がよぎる。

 ガレージから、バイクが、なくなっている。

 泥棒か!

 ガレージの中でもチェーンで地球ロックしていたのに、チェーンごときれいさっぱりと消えている。

 まるで、もとからバイクなどなかったかのように。どうやらプロの犯行のようだ。

 そこへS坂が現れた。

「なんか騒がしいと思ったら、アンタか」

「バイクが盗まれてる。犯人を見なかったか?何か怪しい物音を聞かなかったか?」

 S坂は心底楽しそうに、

「何キョドってんのウケる。バイクなんか、盗まれてなんかいないっつーの」

 予想もしなかった事を聞き、俺は警察へ連絡しようとしていたのを止める。

「アタシはさ。バイクとか好きじゃないんだよね。あんなの危ないし。だからアンタのためにも処分してやったのよ」

 S坂は、封筒に入った万札と、買取の書類と思しき紙をヒラヒラと振った。

「アンタがアタシに生活費をよこさないからこうなったのよ?代金はアタシが預かっとくわ。というか、さっさと現金かクレカをよこしなさいよ」

 あのバイク。あれは俺が就職して最初の、インセンティブで買った、俺の、成功の証。

 瞬間、脳が沸き立つ。俺は思わず拳を振り上げて……アンガーマネジメント。アンガーマネジメントだ、明彦。

「…何よ?ムカついたっての?」

 S坂は、少し怯えているのを誤魔化すように、声を張り上げる。

「言っとくけど、アタシにちょっとでも傷を付けたらムショ行きよ!必ずぶち込んでやるからね!」

 赴任先の途上国では、もっと理不尽なことに振り回されてきたじゃないか。散々こっちを邪魔した挙句、堂々と賄賂を要求してきた連中、そいつらに比べればこのぐらいは。

 俺は懐からクレジットカードを取り出し、差し出す。

「生活費だったな。2週間はコレで何とかしてくれ。こちらの仕事の都合で、当分帰れない」

 このクレジットカードは、強盗に襲われた時のために用意した囮だ。限度額は100万円ぽっちで、ローンやリボ払いなどの機能はない。

「そっちも新しい生活で色々準備がいるだろ。星哉くんとも、男と同居することについて、きちんと説明しないとな」

 こいつは売春婦だ。つまり高確率で裏社会の厄介な連中と繋がってる。そんな奴と縁を切れるなら、100万円程度安いものだ。

 ビジネスにおいて手仕舞いするとなれば、目先の損失に囚われず、いかに早く状況を脱せるかが勝負だ。グダグダ時間を掛けていたら、その分だけ金を失うことを、俺はよく知っていた。

「ようやく分かってきたじゃない。しばらく留守にするわよ。星哉ともよ~くお話をしないといけないから」

 幸いなことに、S坂は欲で目が濁りきってる。こちらの真意は掴めていないだろう。

「悔しいだろうけど、アンタと違って彼は人気者なのよ。ちゃんとお話ししないと、あたしの愛を疑われちゃう」

 S坂は小躍りせんばかりの浮ついた様子で出て行った。

 …さあ、撤収準備だ。ギアを上げていこう。


 S坂が喜び勇んでホストの元に向かってから一週間後、俺は成田空港の出国ターミナルにいた。

 自室のドアは破られていなかったので、パスポートその他重要書類は無事だった。スイス製腕時計をはじめとした貴重品も。

 バイクは買い戻して、すでに北米に送っている。日本の税関で止まっていたポルシェも同様だ。

 引っ越しの手配と、異動の引き継ぎで多忙を極めたが、その甲斐あってわずか一週間で日本を離れる手筈が整った。

 和也もあれから3日で、正式にうちの会社へ移籍が決まった。俺と同じ便で出国する予定だ。

 やり遂げた心地よい疲労感に包まれていたところ、俺は思い出した。実家に連絡を入れてないと。

 最後に実家に帰ったのは6年も前のこと、これまでだってろくに連絡をいれてない。一月前、帰国した時に一言連絡したのが最後だ。

 とはいえ、俺が黙って北米に永住したのがバレたら、さすがに騒ぎ出すだろう。面倒になる前に一報だけ入れておくか。

 サブ機のスマホを使って、実家に連絡を入れる

「はい、Y谷です」

「俺だ。明彦だ。母さん」

「あんたどうしたの、珍しい」

「しばらくの間、また北米に行くことになってさ。ひょっとすると向こうの国籍に移るかも」

「ちょ、ちょっと待ちなさい。父さんに代わるから」

 滅多に話をしない父親が代わって出てきた。

「明彦か。I西市の福祉事務所の誰だったか、お前が独身女を扶養するって、連絡があったぞ。お前、嫁候補を紹介して貰ったんだってな」

 あのタカリ屋の何をどうすれば、そういう解釈になる。

「色々戸惑うこともあるだろうが、一緒に暮らしてみろ。お前もいい年なんだから。男は家族を支えてこそだ」

 この男の、相も変わらずの昭和の価値観にげんなりする。

「結婚しろってことか」

「そうだ。先祖に申し訳が立たないと思わないのか。今回はいい機会だ。馬には乗ってみよ、人には添うてみよと言うだろう」

 俺の中で何かが弾けたのを感じた。その勢いのまま、俺は吐き出す。

「あの女は売春婦だ。ホストに狂って体を売り、性病だらけだ。今の日本じゃ、未婚の女どもはほとんどが売春婦だ。田舎じゃ分からないだろうが、東京じゃそこら中に立ちんぼがいる。そんな連中に寄り添えって、俺に病気になってくたばれってことか」

「そんなはずは…」

「その上、貞操観念なんて全くない。平然と夫との子だと騙って、浮気相手の子供を産む。赤の他人の子を孫だと騙されて、世話したいか」

俺はさらにまくし立てる。

「お前みたいな男性差別主義のクズが、考えもなしに女を甘やかすだけ甘やかした。その結果がこれだ。独身男らはみんな、この国を見捨ててる。老い先短いだろうが、その前にこの国が滅びないことを、先祖とやらに祈ってろ」

 俺は返事を待たずに電話を切った。

 ついでに信販会社に連絡して、S坂に渡したクレジットカードを使用停止にした。

 このサブ機はもう用済みだ。俺は、せいせいしたとばかりにSIMを抜いて踏み潰した。


 その頃。

 都内某所のラブホテルで、S坂は自分が担当するアイドルの卵、現ホストの星哉とベッドで体を重ねていた。

「でさ、そのオッサン、金だけは持ってるみたいなんだよね」

 S坂は星哉の甘いイケメンに見とれながら話す。

「もちろん、金だけだよ。他は全部、星哉の方がずっとイケてる。オッサンには面倒を看させてあげるけど、アタシの気持ちは星哉だから」

「ありがとう。ホントにうれしいよ。愛奈だけだよ、僕を本当に愛してくれるのは」

 S坂は星哉の甘い台詞に、おかめの様な目を引きつらせる。本人はうっとりと微笑んでいるつもりなのだろう。

「今だったら、アタシ、星哉の赤ちゃんを産んであげられるよ?ゴムなしでやろ?」

「ホントに?凄い!うれしいな。僕と愛奈の赤ちゃんだったら絶対可愛いし。でも育てるの大変じゃない?」

「大丈夫、オッサンの子供ってことにするから。あのオッサンも、アタシと星哉の愛の結晶を育てる手伝いが出来てうれしいでしょ」

 目を引きつらせていたS坂は、一転して顔をしかめる。首にあるバラ状の発疹が赤みを増した。

「でも、アリバイのために、一回はオッサンとヤラなきゃいけないんだよね。ゴメンね。ホントに愛してるのは星哉だけだから」

「気にしないよ。そのぐらいじゃ愛奈は汚れたりしないし。あ、そうだ。喉渇いたろ。何か飲む?」

 星哉はS坂をベッドに置いたまま、備え付けの冷蔵庫に行き、飲み物を取り出す。それと一緒に、自分のバッグから、レジ袋に入った抗生物質の錠剤を。

 星哉は、愛奈に見えないように背を向け、病気への恐怖と共に抗生物質を腹に収めた。

 愛奈は全く気付かない様子で、ベッドの上でまどろむ。

「でもさ、オッサン、病気にビビってアタシに手を出そうとしないのよね。病気なんか薬飲んでりゃ、そのうち治るのにさ。これだから童貞は」

 レジ袋に抗生物質と一緒に入れられた啓発パンフレット。それが星哉の目に止まる。

『先天性梅毒  妊婦が梅毒に感染していると、胎児にも感染し、死産や早産、新生児死亡や奇形が起こることがあります』

 パンフレットの警告文に、星哉は一つ身震いをする。

「このババアの餓鬼は、俺が面倒を看るわけじゃない。オッサンに押しつける。大丈夫だ。そう、病気だって大丈夫」

 星哉は自分に言い聞かせるように小さくつぶやくと、飲み物を手にベッドに戻っていった。


 出国ターミナルで和也と合流した俺は、税関、さらには出国審査場に向かう。

 俺も和也も海外へ働きに出る機会が多い。この辺の手続きは手慣れたものだ。

 列に並ぶ俺たちの前には、ビジネススーツに身を包んだ女性。どうやら一人で出国するつもりのようだ。時間の無駄だろうに、ついてない。

 案の定、その女性は出国審査で引っかかり、係員に別室に連れて行かれた。係員数人がそれに手を取られ、しばらく出国審査の列が止まる。

 和也が呆れて呟く。

「今日日、日本から女性だけで出国出来るわけないだろうが」

 俺もため息と共に、不平を吐き出す。

「仮に出国審査をクリア出来ても、相手国の入国審査で跳ねられて、結局送り返されるだけだ。とっくに常識だろうに、どこの会社だよ」

 少し前から、日本人女性の海外での人身売買と違法売春が世界的に問題になり、ほとんどの国が日本人女性の入国を厳しく審査するようになった。

 日本人女性だけでの海外旅行はまず確実に拒否される。男性と同伴であっても、入国審査でほぼ犯罪者も同然の尋問を受ける。スムーズに通過出来るのは新婚旅行くらいのものだ。

 結局、日本からの海外出張は、男性だけで行うようになった。日本人女性が世界へ出て、グローバルな活躍をすることは、もはや夢物語ですら語られなくなった。

 ようやく、出国審査が再開された。俺たちは係員の前に出る。

 奇遇にも、係員は入国時と同じだった。彼はニヤリと笑うと、

「やはり、『近々また出国する』ことになりましたね」

 俺は、パスポートと会社の赴任辞令他、必要書類を手渡す。

「ええ、立て続けに2度もお手数をおかけします。ですが、3度目はないでしょう」

「それはなによりです」

 俺の出国審査はすんなりと済んだ。

 しかし、和也が出国審査で止められた。係員がタブレットを見せて説明する。

「A木和也さん。貴方には扶養義務親族該当リストに登録されています。出国は認められません」

 そんなリストの存在自体、初耳だ。日本から男が逃げ出しすぎて、いよいよ政府が追い込まれたのか、滅茶苦茶な理由で出国を止めはじめた。

 和也は、会社の採用書類を見せる。

 だが、係官は冷淡に告げる。

「世界的なコンサルティング会社にお勤めなのは分かりますが、勤務先の記載がありません」

 係官は和也の審査は終わったとばかりに書類を返し、次に並んだものを呼ぼうとする。

 俺は思わず、出国審査窓口に戻る。

 係官は戸惑い、問いかけてきた。

「貴方の審査は終わりましたが?何か問題が?」

 しまった。飛び出したが、何の考えもなし、だ。焦った俺は辺りを見回し、新婚旅行とおぼしきカップルを見つけて、

「俺とこいつは、同性婚が認められている国に行って、結婚をするつもりだ」

 和也はもちろん、言いだした俺も唖然とするようなことを、口走ってしまった。

 係官は、あんぐりと口を開け、顔を歪め、そして吹き出した。大爆笑だ。よほどツボに入ったらしい。

「しゅ、しゅっこくを、み、認めます。どうぞ。す、す、末永く、お幸せに」

 他の係官を手で制して、パスポートを渡してきた。

 審査場を後にし、旅客機に向かう途上、和也が声を掛けてきた。やたらと楽しげだ。

「焦って斜め上をやらかすのは相変わらずだな。それか、お前ひょっとして、そういう性癖だったのか」

「なわけあるか。とにかく、これで貸し一つだ」

「分かった分かった。向こうに着いたら、ウイスキーを奢るよ。上等な奴をな」

 俺たちは後ろを振り返ることなく、旅客機に向かって歩き続けた。まるでソドムとゴモラを去る時のように、あるいは、黄泉の世界から帰るときのように。軽口で不安を誤魔化しながら。


 出国から1ヶ月後、俺の日本国籍からの離脱が認められた。



 日本国籍からの離脱には、外国籍の取得が必要です。詳細な手続きは、お近くの法務局にお問い合わせください。

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単身女性世帯に対する単身男性世帯による扶養に関する法律(略称、単女扶養法) 駄文科卒 @acanthus

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