第六夜┊六「誰が為に祓い、封じるのか」
当時、私には可愛がっていた猫がいました。
出会った当時、その猫はダンボールに入れられた、典型的な捨て猫でした。
子猫というにはやや大きく、貰い手が付かなかったのでしょう。うちはペット厳禁だったので、近所の
二年ほど過ぎた頃でしょうか。
猫はすっかり懐き、愛らしく擦り寄ってくる姿に、私たちも幸せを感じながら日々接していました。
彼女は雌猫だったのですが、野良同然だったのでいつの間にか腹がふくれていました。もうじき子猫が生まれるのだと、それはそれは楽しみにしていたのです。
そんなある日の、学校からの帰り道。
いつものように世話をしに行った先で私たちが見たものは、血まみれの麻袋と、無惨に転がる死体でした。
可愛がっていた猫の変わり果てた姿に、まだ幼かった私は、呆然と立ち尽くすしかありませんでした。
それが、先日のお
可哀想に、一緒に世話をしていた妹は、あまりのショックに暫く寝込んでしまいました。
だから私は、その猫を一人で埋葬することにしたのです。
猫を飼っていたことは内緒でしたから、埋葬してやろうにも土を掘る道具がない。弓や剣ならいざ知らず、私がスコップなんてものを身内に
それでも構わず続けていると、やがて爪が何枚か剥がれていく感覚があり、このままでは弓さえ引けなくなってしまうだろうということを、熱に浮かされた頭の片隅でぼんやりと察していました。
しかし、掘り進めるうちに、私は自分がわからなくなってしまったのです。
私は、なんのために弓を引くのでしょうか。
私は、誰を守るために弓を引くのでしょうか。
怪異は
情状酌量の文字はなく、怪異の善悪など論ずるに値しない。
一瞬の迷いが、多くの人の死を招いてしまうから。
けれど、こんな仕打ちをする者たちを脅威から守るために、弓を引く必要があるのでしょうか。弱者を慈しむことのできない彼らこそ、怪異に袋叩きにされて然るべきではないのでしょうか。
世の中に、どうしようもなく愚かな者たちがいるのはわかっています。生かすに値しないような人間でも、私たちは守らねばなりません。罪人を裁くのは司法の仕事であり、私たちの仕事は、目の前の人間を怪異から救ってやることなのですから。
——そう、私は救ってやらねばならなかった。
私を妬んで、こんな小さな命に手を出した、彼らを。
手足をもがれ、何度も叩きつけられ、はらわたと共に子猫たちを撒き散らし、恨み辛みで怪異となってしまった、哀れな母猫の怪異から。
私は、
怪異となってしまった愛猫に矢を向けながら、私は自分を見失ってしまいそうでした。
どれほど強大な怪異でも、心が弱っていれば付け入られてしまいます。
私はいつも
けれどその日、私の心は揺らいでしまいました。
こんな卑劣なやり方で命を奪われた、母猫の怒りはもっともです。
どれだけ苦しかったことでしょう。
どれだけ悔しかったことでしょう。
私は、その
仇を、討たせてやるべきではないでしょうか。
私がその
——しゃらん、とどこかで神楽鈴の鳴る音がしました。
✤
「……」
失っていた意識を取り戻して、最初に五体を確認する。手足が問題なくくっついていることを確かめて、思わず息が漏れた。
束ねられていたはずの黒髪が戒めを失って、ぱさりと肩に掛かる。紙紐が限界を迎えたのだろう。どうやら、結界が最後の仕事をしてくれたらしい。
破魔矢で射抜かれた
しかしあの程度の怪異に心を覗かれるなど、つくづく私はあの手の動物妖怪と相性が悪いようだ。
結界がなかったら、私は
「また、あなたに救われましたね」
真っ二つに裂けて、散らばっていた紙紐を拾い上げる。
「おりがみ」と平仮名で大きく名を書かれただけの紙が、あれだけの結界を張っていたなんて誰が想像し得るだろうか。
まだ「お」と「あ」がうまく書き分けられない彼女の字は、ぱっと見「おりがみ」ではなく「あいかゐ」だったが。呪印を刻むどころか、己の名前すら正しく書けていないというのに、その効力は絶大だった。
今朝も、私の
……さあ、そろそろ《彼女》のもとに帰らなくては。
よろめく身体をなんとか支えて息を吐く。また、返さねばならない恩が増えてしまった。
借りた恩を返すまで、私は死んでも死にきれない。
それに今頃、九尾の狐を相手に奮闘しているであろう彼らの前に、弱った姿を見せるわけにもいかない。
「手伝う元気はありませんから、私が着くまでに片付けておいてくださいね、
手前勝手な独り言を呟いて、一人笑いながら、私は清らかな空気に満ち溢れている山道を下っていった。
✤
「……なんかムカつく気配がしたな」
山を駆け下りる
僕は今、
野生の動物の声ではない。高らかで気高い遠吠えは、明らかに九尾の狐のものだった。
結果、僕らはそれを「
「一般的には、狐の遠吠えは仲間に危険を知らせるものだけどな」
「その『仲間』が我々を指しているならまだしも、そうでない可能性がある限り、やはり急いだ方が良いでしょうね」
「でも、もし僕らを指していたなら、若宮さんに何かあったってことじゃないんですか?」
「残酷な言い方をしますが、あの人に何かあったなら、私達が行っても手遅れです。祓い屋は人々を怪異から守るためのもの。私一人なら確かめに行ったかもしれませんが、君たちを連れて危険は犯せません」
ちなみに、なんで僕が担がれているのかという疑問については、僕が先日の持久走でどれだけ惨めな姿を晒したのかを思い出してもらえれば、納得してもらえると思う。
「全く、
十年前に建てられた、死者を
神の
「なあ、冗談だろ。ここに九尾を降ろす気かよ。怒られるどころじゃ済まないぞ」
自分の持ち家ならぬ持ち神社に、勝手に神獣を封じたと知ったら、若宮さんはどう思うのだろうか。
僕は怒られたことがないのでいまいちピンとこなかったが、
「神社そのものを
「神社との相性より、
「君たちだって、怪異アレルギーと怪異じゃないですか」
ぐうの音も出ない。
先生は「きっと仲良くやれますよ☆」とウィンクして見せたが、言葉の端々に若宮さんへの私怨を感じる気がするのは気のせいだろうか。
不意に茂みががさがさと揺れて、青い目をした白兎がぴょこりと顔を覗かせる。
「そう、ご苦労。……
「なんだ。あんなこと言ってたくせに、ちゃんと確かめに行ったんだな」
う、と
「九尾の狐は、
「それはいいけど、神社の結界はどうするんだ? 俺や九尾はこれがある限り中には入らないぞ」
「あ、そうでした……」
参道の入り口まで辿り着いたところで、
頑丈な結界は、人間には何の害もないものだから、すっかり忘れていたのだろう。
「
「あーー、なんて言えばいいんだろうな。俺が一歩でも入ろうとしたら、結界も大きく損傷すると思うけど、俺たちからするとそれはルール違反なんだよな。これは『人に害成すものは立ち入り禁止』っていう立て看板みたいなもので、俺や九尾みたいな神に片足突っ込んでるようなやつは、人間がつくったこういう境界を意味なく
「侵犯するとどうなるんです?」
「天罰が下る」
……天罰。
彼が大きな魚だったころ、土地神様が作った敷居をまたいだせいで、体が崩れてしまったことを思い出す。
彼があんな風になるのは僕も見たくないし、九尾の狐もきっと、この境界を越えようとはしないだろう。
使い魔の白兎も、足元でじっとその境界を見ているだけで、近寄ろうとはしない。
「おまえこそ、こういうの得意分野だろ。正しい手順で解錠すればいい」
「誰が張ったか知りませんが、他家の結界の開け方なんか知りませんよ」
「あ、それなら僕、多分開けられますよ」
けろりと返すと、二人が無言で僕を振り返った。
とりあえず、担がれていた肩からおろしてもらう。
普段はまあまあ足手まといな自覚はあるので、怪異絡みのことで僕が何かを手伝えるのは珍しい。
ちょっと嬉しい気持ちが僕の心を
一見、何の変哲もない参道の入口だけれど、僕には《彼女》が作った境界線が見えていた。
「
参道の先、本堂にまで聞こえるように声を張る。
結界が微かに揺らめいて、続きを促すように僕を見た気がした。
二つ、
四つ、向き合い
藤の花を揺り飾り お客人が通られます
いざ 導かれませ 導かれませ
——しゃらん、とどこかで神楽鈴の鳴る音がした。
本堂の奥で何かが目覚めた気配がして、神社を覆っていた結界が、夜霧へ
そんな僕の背後で、
「……おまえは、あいつがどこの誰なのか知ってるのか」
「まさか。調べても何も出てこなかったと以前伝えたでしょう。私だって驚いていますよ。なんで彼にこんな事が出来るのか」
「あのへっぽこ
「ええ、普通なら考えられないことです。
「役に立つかどうか、って観点でだろ。それでも
怪異を見つける手段なんて無数にある。それこそおまえを呼んだ方が早いだろう。怪異アレルギーなんていう不確かなものをあいつが当てにするわけがない。
あのへっぽこ
うしろで何やら言い合いをしている二人を「あの、開きましたけど……」と振り返ると、二人は揃って満面の笑顔を作って僕に向き直った。
「よーしよしよし。偉いぞカルタ、よくやった」
「さすがです
ごまかすようにもみくちゃに撫で回されて、なんだか二人で隠し事してるなーと不信半分、褒められた嬉しさ半分で半端に頬をふくらませる僕らの足元を、
十匹近い兎たちは、それぞれ
一匹、迷子なのか逃げ遅れたのか、白兎が
「ほら、頑張れよエキスパート。あとはおまえの仕事だぞ」
「準備はできています。……
教わった名前を復唱すると、消え残っていた一匹の白兎が、とことこと僕の前まで歩み寄る。
ぶわっと一瞬目の前が白く
やがて青白い狐火とともに姿を現したのは、山上でも見た、ゆたかな白金の尾を持つ大きな狐だった。
「……使い魔に混ざってたのかよ。おまえ、神獣に神獣を封印させる手伝いさせてたのか」
「私の胃が限界なので、それ以上言わないでください」
あの兎はさっき
あーあ、と
「不敬」
「もう本当に、あの人からの依頼は
乱れた口調で若宮さんを罵ってから、
九尾の狐はひどく穏やかに、僕らを見つめて
天より
千代を経て尚 解けぬ契約の証となりて
この地が御身に 安寧をもたらさんことを
「神獣、
略式の準備と
あとは本人の選択に身を任せるのみだった。
祈るような雛遊先生の視線をかいくぐって、九尾の狐が僕の前に伏せる。
茶トラの猫の時と同じように、九尾の狐は擦り寄るように、僕に頬を寄せた。
まるで、遠い記憶を懐かしむかのように。
✤
招かれた白い
本堂には既に、
境内を一瞥して、私は招かれざる客であることを感じ取っていた。
もしも焚き上げられた呪符や呪言が私の自由を縛るものであったなら、或いはそれが吉兆の力を独占せんとするものであったなら、私はここから立ち去っていただろう。
私は罪を犯した。祓われるならば抵抗しないが、この身を新たな禍根の種とされることだけは耐え難かった。
けれど、告げられた
私の前に立つ少年は、見慣れぬ儀式を前にして、おろおろと私や周囲を交互に見渡している。
その不安げな瞳は、この儀式が私を苦しめるものではないのかと、ひとえに私の身を案じているようだった。
「この地が御身に 安寧をもたらさんことを」
『——ここが君の、安寧の地になることを祈っているよ』
……嗚呼、そうだ。
あの村で最初にかけられた言葉も、
私は少年の肩に頭を預けて、目を閉じた。
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幻想奇譚あやかし日記 終日惰眠 @damin_99
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