(no title)

Hoshimi Akari 星廻 蒼灯

(no title)

 目覚めると俺は真っ白い高原の草はらに横たわっていた。

 まばたきをし、地面に肘をついて上体を起き上がらせる。真っ白だと思ったのは、遠くに雪原となった山嶺が連なっているのが見えたのと、見渡す限りの景色をとても深い霧が立ちこめて覆っていたせいだった。

 白い霧は視界に映る風景を遠くまで一面覆っていたが、目に見えるものを全てさえぎってしまうほど濃くはない。だから立ち上がって、ここが高地で、周辺一帯が雪の積もった山嶺なのだと見て取ることができた。

 まぶたを固くつむり、頭を左手でおさえて考える。自分がなぜここにいるのか。どうやってこんな場所まで辿り着いたのか。

 思い出せるのは、バスに乗っていたことだった。自宅から出先に向かう途中、バスに乗っていて、そして俺はこの山嶺を日頃からバスの窓越し、遠い場所に見上げていた。だがどうやってここまで登ってきたのか、そしていつここに向かったのかが思い出せない。楽な登山道はなかったはずだ。この山嶺は街のある平地にけわしい断崖をいつもそびえさせていて、登山家たちを迎えるのは、万年雪がまばらに積もった細い細い山道だけだと聞いていた。一度その登山道の入り口まで行ってみたことはある。登山道具も何も用意せずただ眺めに行っただけだ。それは死出の国への入り口のようにも見えたし、楽園へと続く狭く小さな門戸もんこのようにも見えた。俺はそこから引き返して以来、再びこの山嶺を訪れたことはない。あの街に何年住み続けていても、俺がこの場所への境界を踏み越えることはないだろうと思っていた。

 留まっていても仕方ないので、俺は立ち上がり、まず身の回りにあるものや所持品を確認した。といってもバスに乗っていたときに持っていた財布と携帯がポケットに入っているだけだった。電波は通じていない。財布にはわずかばかりの現金。何にせよ人に出くわすか、登山道なりを見つけなければ話にならない。辺り一帯に森林は見えず、見晴らしはいいから、大型の動物と突然鉢合わせる危険は少ないだろう——いや、ちょっとした岩陰からいきなり熊が現れたり、遠くから見つかって追いかけられるということもあり得る、と思い直す。急峻な峰の上を進んでいた登山者が、突然熊の子供2頭に襲いかかられたという動画をいつか見たことがあったのを思い出した。

 夏の昼過ぎのはずだが、太陽の光は曇り空と、このどこまでも広がる白い霧にはばまれて薄ぼんやりとしか高原に届かず、動くのをやめたらすぐに体温が奪いつくされてしまうくらいに肌寒い。雪の積もった遠くの山肌から風が吹き下ろしていないのが、せめてもの幸運だった。

 体力が尽きる前に、どこか安全な場所まで辿り着かなければいけない。この上なく危険な状況で、その上どうしてこの場所にいるのかすらさだかじゃないというのに、草原を進む自分の足音と、薄い大気のせいで早くなった呼吸音以外に、遠くで鳴くかすかな鳥の声くらいしか音のない、動きもないこの景色に、俺は恐怖を感じながらもどこか心が安らいでいくのを感じた。ようやく長い長い苦役を終えて、本当の自分の居場所に戻ってこれたような、そんな気分がしていた。

 30分近く歩き続けて、草原の丘を一つ越え、ようやく視界の遠くに人が歩く道のようなものを見つけた。草原を横切って向こうの丘の下へ続いている草の生えていないその道は、少なくとも獣道には見えない。というより草原に獣道なんてできるんだろうか。ともかく俺はそれを人の整備した道だと信じて近づいた。

 近くまで来て見てみると、やはり人が通っている道のように思えた。道標のようなものや柵なんかは全く見当たらなかったが、俺は次の丘の下へ向かってその道を辿ってゆくことにした。霧のせいで先に何があるかは分からない。もしかしたらすぐ近くに建物やロッジなんかがあるかもしれない。

 それから1時間近く歩いた。土がむき出しになったその道は途切れることも、分岐することもなかった。ずうっと同じような幅で、周囲の植生も変わらず、動物の姿も見当たらない。自分が本当に進んでいるのか分からなくなりかけながら、それ以外に方法もなく、ひたすら歩き続けた。

 いよいよ恐怖からの汗がにじみはじめ、いったん立ち止まって体力を温存して、人のいる方角を見定める方法を考えた方がいいんじゃないか、と思いはじめた頃に、俺は木組みのロッジらしきものを、視界の遠く向こうに見つけた。急いで駆け寄りたくなったが、余計な体力を消耗するのはまずいと自分を律して少しずつ歩いて近づいていった。切り立った小さな崖の下に、沿うようにして建てられているそのロッジは、草や苔に覆われていたり木が朽ちて崩落しているということもなく、人の手によってある程度の管理がされているように見えた。もっとも高原の植生というのが分からないので、数十年間放置されてもこの状態が保たれているという可能性もある。が、とにかく俺は藁にもすがる思いでそのロッジの玄関口に立ち、拳で扉を叩いた。

 しかし、いくら叩いても、中から人が出てくる気配はなかった。

 ここまで歩き続けてきたことと、期待が徒労に終わったことに疲れ果てて、俺はロッジに背を預けて座り込んだ。

 ふとおかしな光景が脳裏によみがえってきた。

 ……俺は、以前にもこの高原に足を踏み入れたことがあった。その時はたしか夢の中だったと思う。今見ているのと同じような景色が広がっていて、そこには登山をしている人間や、この山に住んでいる人たちが幾人もいたような気がする。山のふもとを少し登ったあたりから、山上へ向けてロープウェイが伸びているのも見た。俺はロープウェイには乗らなかったが、その様子を見て、この高原が自分の生活と、存外とても身近につながっていたのだと肌で感じて、感動したのを覚えている。

 では、今見ているのも夢なのだろうか?

 だとしたらどうして今度は、人が全く見当たらないのだろうか?

 自分が幻影の中にいることを自覚しながら、それは他ならぬ俺自身が、人間と出会うことを避けているからだと悟らざるをえなかった。

 いつか見た夢の中の光景と、今見ている夢とで一体何が違ってしまったというんだ。俺はたしかに、あの日見た高原の景色に憧れていて、もう一度この場所に来たいと願っていたはずだ。なのに何かがずれてしまって、誰もいない、霧がどこまでも立ちこめる草原を、安全な場所を求めて歩き続けることになった。

 たった一枚の見えない壁が、自分を、いつか見たあの場所と隔てている。

 ……何かが。

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(no title) Hoshimi Akari 星廻 蒼灯 @jan_ford

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