松ぼっくり祭壇
福田
松ぼっくり祭壇
プロローグ
パンデミックの傷は、まだ癒えない。傷の窪みは戻らない。僕は洗面台に向かって咳き込む。ゴホッ、とかなり大きいのが四回くらい。僕はため息をついた。心はプラスチックみたいな可塑性を抱いているのだなと思う。いや、そうか、プラスチックの語源がそもそも可塑性なのだった。だったら心も「プラスチック」と呼べばいいじゃないかと思う。
僕はプラスチック製の歯ブラシを歯に押し付けてゴシゴシと擦る。鏡に映る自分の顔はいくらかニキビで凸凹としている。しかし、不細工というわけでもないのか? なんとかかっこいいという解釈にできないか。そうやって顔の向きを変えてみる。だが、そんなことをやってどうするのだろうと僕は思う。今はアンチルッキズムの時代じゃないか。
今日は曇りだ。雨ではないだけ良しとする。昨日の雨は本当に最悪で、僕はそれのせいで市民図書館の本を濡らしてしまった。きっと弁償だろう。いつ図書館にそれを持って行こうかと、僕は考える。今日は無理だ。明日か? 一週間後でもいいんじゃないか。いつ行くにせよ気が乗るはずがない。叱られることはないけれど、やはり損害を与えたのだから申し訳ない気持ちになる。僕はいつも、傷つけるくらいなら傷つけられた方がいいのかもしれないと思う。しかし、実際に傷つけられたらそんなこと言ってられないぞと叱られるのではと変な被害妄想をすることがある。僕は本当の苦しみを知らないのだろうか。いや、僕は散々苦しんだはずだった。もうこれ以上ないと思うくらいに泣き叫んで、家族に迷惑もかけた。しかし、それもみんな経験していることなのかもしれない。精神科の待合室のあの静寂を孤独に耐えたことがあるのかもしれない。それなら「みんな苦しかったね」じゃだめなのか。
一
東屋のテーブルは昨日の雨で少し湿っていた。椅子も湿っているし、床はびちゃびちゃだった。しかし、本が置けないほどでもなく、座れないほどでもない。その暗い色をした木の板、濡れてますますどす黒くなっているテーブルに僕は『創世記』を置いた。
颯が「今回は特に難解そうだな」と呟く。「やっぱり解説書も買った方がよかったんじゃないの?」
「宗派によるだろうしそういうのよくわかんないから、とりあえず原文読んでから考えればいいよ」と僕が言う。
颯とは週末にいつもこの公園の東屋に集まっている。松の木が多く生えていて、落松葉や松ぼっくりで地面が覆われた公園。僕らはこの公園が好きだった。街から遠く広い公園なので、来る人は少ないし居たとしても人口密度は小さくなる。だから僕らでこの東屋を独占できるというわけだ。僕らのルーティンは街から公園までの道の途上、それも公園から近いところの古本屋で本を買って、それを公園の東屋で読むこと。僕らはまだ中学生だったが、とにかく背伸びばかりしていて、文学や哲学などの難しそうな本をよく選んで買った。ニーチェとか、大江健三郎とか。一回フランス語の文法書を買ってきたこともあったが、これは全く続かなかった。
「あ、キルケゴールが言ってたところあるかな?」と颯が言う。
「え? 颯、キルケゴール読んだの」
「読んでないよ。前、カミュ読んだでしょ、それ関連で色々検索してたの。不条理、スペース、哲学って」
「それでキルケゴールが出てきたと」
「そう、ちゃんとした文献は当たってないからあれだけどね」
そう言って颯は『創世記』をパラパラとめくる。新共同訳ではなく、岩波版のもの。
「聖書ってこんな感じなんだ」と颯が楽しそうに語る。僕らはどちらともキリスト教を信仰しているわけではない。親族の墓があるお寺の仏教にもそんなに熱心なわけではない。しかし、僕らの心にはいつも宗教的なものが宿っていた。何をもって宗教的なのかは曖昧だが、ある種の「啓示」的なもの、つまり飛躍や発想を信じることと表現するのが近しいかもしれない。僕らはいつも、何か巨大な物語を信じて生きていた。思春期特有の精神、あの噴水が噴き出すみたいな水流をどうにかして調節するには、物語の枠組みで仕切ってあげるのが最も効率的だとも思う。
「お、あったよ! キルケゴールのところ」
そう言って颯は本文を指さし僕に向ける。それは印籠を掲げる水戸黄門の一場面といくらか似ている。
————神は言われた、「君の子、君の愛する独子、イサクを連れてモリヤの地に赴き、そこでイサクをわたしが君に示す一つの山の上で燔祭として捧げなさい」。
(創世記,22:2)
アブラハムが息子のイサクを殺して捧げろと命じられる場面。その後アブラハムは息子を山の上まで連れて行って縛り上げた。そして手にかけようとしたところで天使が制止する。神はアブラハムが息子の命より優先させるほどの信仰の深さを持っているのだと確認した。そして、アブラハムは代わりに近くに居た牡羊を捧げたのだった。
「倫理より信仰を優先させたアブラハムをキルケゴールは高く評価した。彼は享楽にふける生き方も正義を求める生き方も結局限界があると言っているからね。キルケゴールは宗教的実存を最も重んじている」
アブラハムの信仰は、僕にとっては物語のようなものだと思う。いや、物語といったら少しずれてしまうかもしれない。何か……固定する釘だったり、包んでしまうビニール袋だったり、そんな役割。どちらかといえばビニール袋に近いかもしれない。
世界は液体だ。諸行無常は響いているし、万物は流転する。そもそも、あまりにも複雑で僕らの視力じゃ捉えきれない。だからビニール袋に包み込む。そうすれば持ち運べる。やっとそれについて語れるようになる。迷わないで済むようになる。
そういうビニール袋の中でも、幾度も傷を入れられて、その度に治療、補強してきた伝統的な教会が最も強固なビニール袋。聖書に詳しくない人なら「イサク可哀想」ときっと思うのだろう。僕は聖書に詳しくないけど、強靭なビニール袋——特に信仰ともなればビニールの外れ値をとるほどの入れ物になるかもしれない。プールとか。——を守る方が、行動指針を一貫させられるし、結構いい選択肢なんだと思う。だから、簡単に「イサク可哀想」と言うのではわかっていないと言われてしまうのだ。きっと。
僕は巻末の解説を読む。やっぱりそうだ。イサクの生を信じるからこそ殺す。「不可能を可能と信ずる信仰の逆説」とある。詳しい教義はわからないが、確かに何かしらのロジックがそこにはある。このビニール袋をなめてはいけない。
しかし、僕は素朴に「息子のイサクは可哀想だね」と発した。
「やっぱりそう思う?」と颯が言う。
「信仰が大事なのはわかるし、人間には重要なものの二者択一を迫られることはたくさんあるけどさ、だけど、そこでないがしろにされたもののことも僕は考えちゃうんだよな」
颯はそう言うと少し恥ずかしそうにして、頬をかく。
イエスは厳格な教義より、弱者の救済を訴えた。そこには迷いという幅がある。その迷いの中に道徳はないけれど、倫理はある。
「わかるよ。僕もそう思う」
そう僕が言うと、やっぱり颯は恥ずかしそうにした。そのとき風が吹いて、テーブルの上の『創世記』のページがパラパラとめくれる。水浸しの床で松ぼっくりが転がった。
「ねえ、どうして人間とか羊とかを捧げるんだろう?」
「あー、確かに。松ぼっくりでもいいのにね」と颯が言う。床で転がる松ぼっくりを颯も見ていた。
「そういえば、なんかそういうのあったよね。松ぼっくりの……なんか、アートみたいなやつ」
「『松ぼっくり祭壇』じゃない? それ、僕見に行ったよ」と颯は言って、スマホで検索し始める。
「これでしょ」と言って差し出されたスマホの画面には、文字通り『松ぼっくり祭壇』があった。松ぼっくりが捧げられているというよりかは、祭られていた。ヨーロッパ風とかではなくて、どっちかというとアジア的な印象のオブジェだった。仏壇みたいなデザインをしていて、中に松ぼっくりが飾られている。
「そう! これこれ」
「これ美術館で見たんだけどさ、実物は結構大きいよ。写真よりも」
「えー、じゃあ今度一緒行かない? もう二回目かもだけどさ」
颯は少し悩んでいるようだった。二回目というのだけではなくて、美術館のチケットは意外と高い。財布と相談しているのだろう。しかし、颯は「いいよ」と応えてくれた。
「じゃあ、来週の土曜日にしよう。こういうのは早い方が気持ちが新鮮だから」と颯は言った。
二
中学校では『創世記』の話、美術館に行く話を友人たちに繰り返しした。友人たちは僕らの話を楽しんでくれたし、谷川が話を広げてくれた。実存主義の話、不条理文学の話、僕は知的な興味がひらけていく経験をした。
「それでソーカルっていう物理学者が怒ってめちゃくちゃな論文を送っちゃったんだよ」と谷川は言う。
「めちゃくちゃな論文って?」と僕は聞く。
「自然科学とか難しい専門用語を適当にそれっぽく並べて作ったおふざけ哲学論文。それがなんと実際に掲載されちゃったんだから、ソーカルも逆に大喜びしたと思うよ」
「通ったの! それはソーカルも爆笑しただろうね」
「そうでしょ? ソーカルはその後ネタバラシして、当時の思想界は大混乱になった。色々論争が起きて、もうお祭り状態だったんじゃないかな。お祭りは俺の勝手な予想だけどね」
僕はそれに相槌をうつ。お祭り。そういえば最近の夏はお祭りに行っていない。そんな関係のないことが頭に浮かぶ。小さい頃は金魚掬いが得意だった。いつも五匹くらい連れて帰って、今思えば申し訳ないけれど、飼い方が悪くてすぐに死んでしまうことが多かった。よく考えれば、金魚掬いなんてそれこそ動物を生贄にするみたいな残酷な享楽性がある。
「ねえ、全然関係ないんだけどさ」
「何、どうしたん」
「将来は、金魚掬いって禁止になると思う? ほら、動物倫理的に」
谷川は「えー?」と発して、「ピーター・シンガーは読んでないからなー」と呟いた。
「じゃあさ、もし仮にそうなるとして、僕らは今から金魚掬いをやめるべきかな」
「あーなるほど。確かにそれは面白いね」と谷川は唸る。
「俺は語れるくらい知ってるわけじゃないんだけどっていう注釈の上で。仮に俺らが哲学者だとしたら、やめるべきだと思う」
「なるほど?」と僕は言う。
「知識には重みがある。知識には責任があると思うから……せめてそれを支持する哲学者は一貫してるべきだと思う。ただ、あんまり突き詰めすぎても窮屈だけど。特に原理主義的な考えをしてると、そうなりやすい」
「じゃあ、知識がない人とか、支持してない人はどうすんの」
「それは支持してないんだから物理的に無理でしょ。しゃあない。啓蒙するしかない。まあ、色んな立場があるからそれを一つにしようとはしてはいけないのもある。それぞれの立場のバランスが均衡を作る、そんな感じ」
立場、均衡……僕はパンデミックを思い出す。
「メルケルとアガンベンみたいに?」
「あ、それ國分が言ってたやつでしょ。メルケルは政治家としてロックダウンを決断したが、アガンベンは哲学者としてロックダウンに反対した。まあ、近いものはあるな」
メルケルとアガンベン、そうか、人はバランスを取らなきゃいけないのか。人はあるパースペクティブ、視座、見方に依存するわけだし、それもそうかもしれない。
そういえば一つ思い出したことがある。お祭りがなかったのは、パンデミックがあったからだった。
三
パンデミックの最中、社会がどんどん潔白さを強く求めるようになった頃、僕は手を熱心に洗うようになった。清潔であること、善良であること、それはもちろん良いことだ。小学校の担任は僕の手洗いを褒める話をクラスのみんなの前でした。僕はそれをとても誇らしく思った。確かそれは高学年の時のことで、五年と六年連続してそれは行われた。(僕は二年連続で同じ担任のクラスだった)
しかし、担任はトイレに行っても手を洗わない生徒Aに対して「汚い」とも指導した。それはあまりに執拗で、その生徒Aがトイレから帰ってくるたびに「手洗ったの」と聞いた。そして洗っていなければクラスのみんなにこう呼びかける。
「トイレで手を洗わないって、先生は信じられないんだけど。ねえ、みんなどう思う?」
みんなは「えー汚い」とか「キモイ」とか揶揄した。そういうやりとりが続くごとに、その生徒Aはクラスから浮いていった。
なぜか担任はその生徒Aに対していろんなことについて厳しかった。給食を残した時も、宿題をやらなかった時も、他の生徒より明らかに厳しく指導した。何度か、生徒Aの保護者が学校に来ていたことを覚えている。なんとなく噂で、保護者が担任に怒っていた事を聞いた。それは正しい怒りだ。
将来の夢を書く時間、生徒Aが「医者」と書いて提出したことがあった。その時、担任は「医者は〇〇みたいな子が目指すものじゃないの?」と言って、僕のことを指名した。今考えればフィクションみたいにベタな差別だが、その頃そうは思わなかった。むしろ内心喜んでいて、善良で優秀な自分をさらに誇りに思った。今になってはそのことを悔いるしかない。僕が初めて体験した全体主義がこれである。
僕はそれから手の清潔さを過度に気にするようになった。例えば一時間くらい手を洗い続けたり、トイレで泣き叫んだり。かなり異常だ。これは強迫性障害という精神疾患の特徴と合致する。それに気づいた頃には僕は他のあらゆることについて強迫を感じるようになっていて生活はかなり困難な状況だった。
僕はこの治療を中学受験、入学をまたいで行っていた。受験が成功したから運が良かったという見方もできるが、そういう状況の中でさえ受験を続けなければならなかったという苦痛は計り知れないものだ。さらに言えば、小学六年で僕は性の芽生えと精通を経験していた。当時の僕の用語で言う「精神と性器の汚れ」が生まれたのである。僕はここで初めて自殺を意識する。
自殺しようと思ったのか、ただ逃げ出したかったのか、僕は下校中に寄り道して海沿いの公園まで行ったことがあった。そのとき、僕は公園で一人読書をする同じクラスの佐藤を見かけた。佐藤は僕にすぐに気づいた。そして、「寄り道? 珍しいね」と笑った。
僕は拍子抜けしてしまった。あの全体主義クラスでは、寄り道なんてしたらはぶられてしまうと思っていたのに。
「ああ、そうだよ」と僕は言った。
「〇〇先生には内緒にしとくよ。先生怖いからね。クラスの雰囲気もあいつのせいで最悪だし」と佐藤は言う。
「そんなこと、僕以外にも思ってる人いたんだ」と僕は言った。
「だって授業中ずっとAに怒ってるし、あいつ頭イカれてるでしょう? 一学期は楽しく授業してたのにさ。いい先生だと思ったんだけどねー」
僕は「確かにイカれてる」と返答した。この時、僕は道徳から逸脱し佐藤と「倫理」を共有した。それからは色々悪口で盛り上がって、帰りはだいぶ遅くなった。しかし僕が帰ると両親は叱らずに、むしろ心配してくれた。
「友達と、先生の悪口言ってたんだよ。あいつイカれてるって」
そういうと母と父は二人で僕を抱きしめてくれた。
僕は悪口が倫理になるのだということを初めて知った。強迫症の治療がうまくいき始めたのもその頃からだった。
四
金曜日、僕は夏の水泳の授業を受けていた。僕は泳いでいる間だけ、パンデミックを忘れることができる。強迫症は良くなったけれど、余韻みたいなトラウマは僕を強迫症と同じように苦しめることがある。僕はその波のバランスの中で生きていた。
準備体操とシャワーを終えて、僕はプールの中に入る。プールの中では、僕は一切のものから解き放たれることができた。あらゆる傷、世界にないがしろにされた記憶を忘れることができた。プールの心地よさは僕の頭をぼーっとさせる。世界への解釈が保留され、全てが直接に知覚される感覚。全てがぼんやりとしていて、それでいて鮮明な風景画のようだった。
僕は日差しの暑さとプールの冷たさの乖離、その刺激に興奮し、またそんな興奮を抱く自分のことを思って「僕にはこんな無邪気さがまだ備わっているのだ」とどこか安心した。僕は思春期の入り口に立っている。そして、それは僕だけではない。おそらく、僕以外のみんなも何かしらの思いを抱いていた。もちろんそこには颯も含まれている。僕は颯の顔を探した。三組の方にそれを見つけて、僕たちの目が合った。二人は笑い合って、颯の方が変顔をした。それはひどくくだらない営みだったが、それは僕らにとって一番重要な時間だった。それは長い間、ないがしろにされ続けたものだったからだ。僕たちは「はしゃがないこと」を強いられた世代だった。
僕は冷たいプールの表面を撫でるように泳ぐ。そうやって泳いでいる間は、強迫は無意識に隠れてしまって出てくることはない。泳いでいる時は幸福だった。全てが自由だった。内的に自由ならば、どんな不自由も不条理も受け入れることができると思った。
泳ぎをクロールに切り替えて、足でプールの壁を強く蹴る。水は身体を阻むけれど、同時に浮遊させ、遠くへと押し出す。僕はその抵抗も推力も受け入れて、手を大きく動かした。水面から顔を出すたびに太陽が眩しくて、空気が心地よい。僕はこの時、全てを受け入れることができた。それは祖母が僕に向ける愛と似ていて、世界のもつ、弱さも、欠陥も、不条理も、その何もかもを愛おしいと思えるようなものだった。そこには、あの「強迫」さえも含まれていた。
僕は一往復、五十メートルを泳ぎきり、壁に手を確かに触れさせた。銀色の小さな梯子を上がって、顔を手で拭った。
この時、僕はトラウマ、強迫の余韻が静止していることに気づいた。思考空間を飛び回っていたはずの強迫は、僕の指先に止まっていた。強迫は羽音を止めて、沈黙している。それはもはや強迫ではなく「啓示」とも呼べるものだった。
————『松ぼっくり祭壇』が捧げられる。
それは以前の強迫のように妄想じみた考えだった。しかし、それは押し付けがましくなく、むしろ、気づいたら心の深部まで染み込んでしまうような啓示だった。「捧げられる」詳しい解釈はできなかった。しかし、なんとなくの感覚はわかった。いいことではない。極めて怖いことが起こる。それは僕にとって確かなことに思えた。僕はこの啓示に服従するのか。この妄想に?
五
その夜、僕は奇妙な夢を見る。僕は『ソラリス』のクリス・ケルヴィンになっていて、ソラリス・ステーションに着陸するところだった。なぜ『ソラリス』なのか。僕は颯と『ソラリス』を熱心に読んでいた時期があった。ソラリスの海の神性、その不完全な神性、幼稚な神性に僕らは心を奪われたのだった。それが今、夢として僕の精神に射影されている。
スタニスワフ・レムのSF小説『ソラリス』はとても神秘的だが不気味な話だ。惑星ソラリス、そしてソラリスの海の調査のために科学者たちが宇宙ステーションに派遣される。しかし、この惑星ソラリスというのが不思議な現象を起こし続けるので、科学者たちは精神をやられてしまって、憔悴してしまう。そこに心理学者のクリス・ケルヴィンが派遣され、彼もまたその不思議の現象に呑み込まれていくこととなるのだ。
僕は自分のなかで「クリス・ケルヴィン」と「僕」という人格が溶け合って、どっちつかずの状態になっているのを感じる。そんな曖昧な自我の中で、僕はソラリス・ステーションを歩き、そして颯と出会った。ソラリスの不思議の現象とは、いるはずのない人間が現れること。それも心の暗部から現れた思い出が実体として現れる。
そして、もう一人いる。あれは誰だ? 僕は目をこらす。颯より少し背の高い女性、年齢は四十歳から五十歳……颯とよく似ている。あれは、颯の母なのだろう。しかし、颯の母はもう亡くなっているはずだった。
颯と颯の母は手を繋いでいる。そして、颯の母はナイフを手に持っていた。二人は強く手を握り、表情ひとつ動かさず僕の方を見ている。もしかして、彼らは心中しようとしているのではないか? すると、颯の母はナイフを颯の首元に当てた。
「だめだ!」と僕は叫ぶ。僕はナイフをもつ手を剥がして、颯の手を掴み、こちら側に強く引き、強く抱き抱えた。
その瞬間、颯の母は自らの首を切った。赤黒い液体が飛び散る。僕は颯の手を強く握って抱き抱えたまま、硬直してしまった。
颯は母の元に駆け寄ろうとする。僕はそれを止めることなんてできない。僕は手をはなす。颯は母の元に駆け寄ると、ナイフを手に取り、自身の首も切り裂いた。
*
眼が覚める。悪夢だった。僕は涙を流していた。
携帯を見る。朝の七時三十七分。颯から連絡が来ている。そうだ。今日は颯と美術館に行くのだった。ああ……あれはもちろん夢だったのだ。現実ではない。妄想じみた悪夢に過ぎない。本当に良かった。
僕はあの夢のことを考える。そういえば……颯は母を亡くしたとき、悲しんだだろうか。もちろん、悲しんでいるに違いなかった。僕は颯の母とも生前何回か会っているし、彼らの仲の良さはよく知っているつもりだった。颯は悲しかったはずなのだ。しかし、それを僕の前で表出することをしなかった。いや、表出できるはずもない。友人の前でまで親の死のことなんて考えたくもないだろう。僕は、颯の傷を深いところでは理解していなかった。いや、それはいつまでも理解できるものではないのだ。他者の傷を理解できるということ自体、傲慢な発想だ。僕らは浅い部分でしか、他者を理解できない。ただ理解を深めようというだけでは、それはいつか暴力性を帯びてしまう。それに理解を深めることだけが配慮ではないのだ。何年後でも、何十年後でもいい、僕は颯に颯の傷のことをいつか聞いてみようと思った。というよりも、颯が僕に話してくれるのを待とうと思った。
僕は颯からのメッセージを確認する。
「テレビのニュース見た? このツイート見て」というメッセージと一緒に、とあるツイートのリンクが添付されていた。プレビューが出ていない。僕はリンクを押す。
アリス @alicexxxxxx・6分
XX美術館で『松ぼっくり祭壇』が爆破される事件が今朝あったらしい。まじ? 流石にゆるせんのだけど???
六
それは朝の報道番組に速報としても入ってきた。どうやらデマではないらしい。今日の午前六時、美術館が開く前のことだ。突如としてなんの前触れもなく祭壇が爆破したとアナウンサーが伝える。怪我人はいなかったらしいが、周辺の展示物も被害を受けた。警察が色々調べているそうだが、不可解なことに爆破方法が一切わからないという噂もあるらしい。これはツイートで見た。この時代に「一切わからない」なんてことがあるのだろうか。これこそおそらくデマなんだろう。そもそも動機はなんなのだろうか。よくある、気候変動対策を批判するためのアートを使った抗議活動なのか。それにしては少し大胆すぎはしないか。現代アートの商業性を批判したテロリズム? 宗教的な理由? 色々思いつくことはあったが、決めつけてしまえばどれも偏見になってしまいそうで、僕はそれをやめた。
とにかく、今日の美術鑑賞は中止になった。代わりにあの公園で会わないかという話にもなったが、そういう気分でもないので断った。僕はLINEを閉じる。
ホーム画面には颯とのツーショットが写っている。こんな壁紙にするのは恋人同士だけなのだろうか。しかしまあ、友情だったってそれはあり得る話だろうと思った。
このツーショットを指摘されて、友人に揶揄われたことが一度あった。許される行動ではない。僕と颯はそういう関係ではないし、仮にそういう関係だったらどうするつもりだったのだろうか。なんでも恋愛とか性愛とかに結びつけるような風潮は僕にとってひどく不快なものだったし、異性愛規範に結びつけてからかいにすることについてはさらに不快なことだった。そう思った。それに関しては本当にそうだ。
しかし、その一方で僕は昨日の夢のことを思い出す。颯を抱き抱えた感覚、手の感触、その全てがあまりにはっきりと浮かび上がった。そういえば入学式で出会って以来、颯に触れたことがあっただろうか。そうだ、颯が英語検定に受かった時、ハイタッチをしたことがあった。そして模試で共に成績優秀者にのった時、あまりに嬉しくて一緒に抱き合ったこともあった。あの抱き合う感覚と夢で見た感覚が重なる。僕の背中にまわされた颯の手の体温、あのぬくい感触が、僕の全身をむず痒い快楽で覆う。それは電気のようでいて、液体のような感覚だった。僕はあの時、確かに彼を欲望していた。そして、その欲望が今、僕をまた覆い込んでいる。僕の手は震え、頭の全体が火照るのを感じる。ほんの好奇心、ほんの出来心だった。僕はそのまま自慰をした。
七
その後も僕はそわそわしたままで、部屋中をうろうろしていた。僕はいてもたってもいられずに、紙とペンを取り出してその妄想を書き留め始める。
『松ぼっくり祭壇』の爆破、昨日の啓示、そして夢……僕はちょっとしたファンタジー小説を書き始めた。
「松ぼっくり祭壇が爆破された後、突如として松の木が世界から消えた」と書き始める。あの公園の松の木も、松ぼっくりもその一切がなくなってしまう。まるで初めからなかったかのように綺麗さっぱり消えてしまう。日本中、世界中から松の木が消える。もちろん世界は混乱するし、連日そのことばかりが報道されるようになる。
その次に、とある牛丼屋チェーンの店舗が消えてしまう。その次は赤塚不二夫のある漫画書籍が消える。「松」という言葉に反応して、世界からそれは消えてしまう。あまりにふざけた、馬鹿馬鹿しいダジャレだ。人々は思う。まるで神が僕らを馬鹿にして遊んでいるようだと。
僕はその冗談じみた世界の「奇跡」に唯一神でない、不完全な神の子供じみていて遊戯的な奇跡を見る。この神は万能の神ではない「ソラリス的な神」なのではないか。
そして社会は本格的にまずいことになっていく。「松」をその名に持つ人が次々と行方不明になり始めた。何より僕にとってまずかったことは、颯の苗字が「松田」であったことだった。僕は颯に改名を提案する。すでに各地の役所には「松」を名前に持つ人たちの改名申請が殺到していた。そのための法案も提出されたところだった。
しかし、颯は改名を拒む。僕は反対するが、颯は語る。松野とは死んだ母の姓らしい。父は母の姓を守りたくて、婿入りしていた。それは母が病弱なことをわかっていたからだった。そして母は新型ウイルスに罹患し、元々の病弱さから急逝してしまう。彼と彼の母の別れの機会は確保されることのないまま、そのまま火葬が行われた。
「仕方のないこと、不条理なことはたくさんあるし、それは受け入れるけれど、一方で、それを弔うことだけはし続けたい」と颯は誓っていた。颯にとって改名しないことは弔うことを続けるための抵抗だった。
————パンデミックと母の死、そして決意。これは実際に颯から聞いていた話だ。
颯は松の木の消えた公園でそれを語り終えると、僕の手をとる。僕もそれに応えて、颯の手を強く握りしめる。手と手が絡み合う。僕らは誰もいない公園の地面に倒れ込む。びっくりするほど青くてひらけた大空だった。
僕は静かに目を閉じる。そして、颯は僕の唇にキスをする。
唇が離れて僕が目を開くと、そこに颯の姿はなくて、ただ青い大空が僕の視界を覆っているのだった。
八
僕はそれを見返してうっとりした気持ちになる。そして、もう一度自慰をした。
しかしその直後、急激に立ち昇る違和感があった。僕は強烈な吐き気を感じた。僕はしゃがみ込み、深呼吸をする。吸って……吐いて、吸って……吐いて————吐き気は治まらない。颯への欲望が変わったわけではない。同性愛に拒否反応を起こしたのでもない。どうして僕は吐き気を感じているのだろう? 僕は胸から腹へと手を撫で下ろす。その次の瞬間、今まで感じたことのないような嘔吐のイメージが僕の全身を貫く。僕はトイレに駆け込んで、そのまま嘔吐した。
「ああ……」と僕は呟き、再び便器に顔を向けて吐き出す。それを七回くらい繰り返した。僕は涙を流す。そして気づく。
そうか、僕はあの小説で、颯を殺してしまったのだ。そして、逸脱に制裁を与えてしまったのだ。あろうことか、僕自身の手によって。
僕は洗面台で口を濯いで、歯磨きもした。排水溝に吸い込まれる歯磨き粉の泡を僕は見つめる。水で再び口を濯いで、それを吐き出した。
僕は落ち着いて水を飲む。透明なコップと水。透明なはずなのにそれは歪みを見せていて、コップの向こうの景色ははっきりとしていない。冷蔵庫のあるキッチンの窓、マンションの窓からは県庁が見える。結構いい晴天だったので、綺麗に、はっきりと見えた。そういえば何ヶ月か前、県庁の市民スペースで佐藤と再会したことを思い出す。
「あの時の担任さ」と佐藤が言う。
「うん」
「確かにめっちゃイカれてたけど、それだけじゃないなって思ったんだよ」
「どういうこと?」と僕は眉を潜めた。
「いや、井口さんと中学一緒なんだけど。会話の流れで小学校の話になって……あの人、小学校の頃だいぶ病んでた時期あったじゃない。メンクリも行ってたっぽくて、その時にめっちゃ恩師がサポートしてくれたって話してくれたんだよ。井口さんその恩師のこと話す時すごい楽しそうでさ」
「あの人病んでたんだ」と僕は言った。
「そう、そうなの。で、よく考えたらその恩師って多分あの時の担任なんだよ。俺、あいつのことは許せないし、そうするべきじゃないとも思うけどさ。井口さんにとっては恩師なわけで、やっぱり、なんか難しいなあって思ったんだよね」
僕は思う。ニーチェの言うように全てはパースペクティブに過ぎなくて、ポストモダンが主張するように世界はやっぱり相対主義で、一つの正解なんて結局ない。しかし、それだけではダメなんだとも思う。
僕はマンションの窓をもう一度眺める。空が青い。街はグレーに近い色をしている。しかし、同時に鮮やかにも感じられる。牛丼屋の看板が特に目立って目についた。
僕は家の鍵を手に取る。僕はやっぱり公園に行くことにした。もちろん、颯にも再び連絡を入れる。二人で牛丼を食べてからあの公園まで行こうと思った。きっとあそこには、松の木も、松ぼっくりも残っている。
エピローグ
「『松ぼっくり祭壇』というのは、私が幼い時に思いついた造語なんです。松ぼっくりって複雑な造形をしているでしょう? 襞みたいなんだけど、一つ一つが小さな羽みたいで、初めて見る人なら気持ち悪いって思ってしまうような」
「ええ、確かにそうかもしれませんね」
「だけど、普段みんなはそう思わない。ありきたりなただの『松ぼっくり』としか認識しない。しかしね、むしろ私は『神聖』を感じたんです」
「『神聖』ですか」
「ちょうどその頃、母を亡くしたばかりでした。八歳の私は、母をどうやって弔うかを極めて重んじていました。うちは浄土真宗なので、自然なのはお寺で祈ったり、『南無阿弥陀仏』と唱えたりすることでしょう。でもね、私はそれでは納得できなかったんですよ」
「納得できなかった……それはなぜなんでしょうか」
「なんでかって聞かれたら、それもよくわからないんだけど、とにかく納得できなかった。そして、自分なりの、私が確信できるような弔いを考えるようになった。今考えたら不思議な発想ですけど、あの頃はとにかく必死でした。そして、たまたま行った公園で出会ったんです。それはもう美しい松ぼっくりでした。間違いありません。私は『松ぼっくりのイデア』を見ているのだと確信しました」
あの公園のことはよく覚えている。冷たい風が吹いていた。足元は松落葉でいっぱいで、一歩進むたびに落葉の擦れる感触がした。そうやって歩いていると、向こうの方に一本、目立って巨大な松の木を見つけた。私はそこに向かった。
私はその木の根元に松ぼっくりを見た。「この松ぼっくりは『神聖』だ」と、そう直感した。あの「神聖」……美的な何かが、私の心臓を掴んで離さなかった。私は松ぼっくりに近づいた。
そのとき、鱗みたいな一つ一つの羽が交互に動き出した。そして松ぼっくりは浮遊した。それは蜂が飛ぶみたいな動きに似ていた。滑らかな軌道を描いて私の手元にすとんと落ちた。それは、とても美しい軌道だった。
信じられなかった。確かに松ぼっくりは浮遊した。手元の松ぼっくりを私は凝視した。美しかった。そして儚かった。すぐにでも消えてしまいそうな、そんな美しさだった。
私はこれを「奇跡」だと思った。イエスや聖人が起こすのと同じ類の、その「奇跡」だと確信した。
私はその松ぼっくりを持って走った。とにかく、無我夢中だった。冷たい空気を掻き分けて、私は人生で最も懸命に走った。走っている瞬間、今この瞬間が、人生で最も重要な瞬間なんだろうと思った。
私は家に帰ると、靴も並べずに居間に走った。そして、父に向かって言った。
「これ、この松ぼっくり! これ、お母さんの魂なんだよ!」
父は驚いていた。父は母親の仏壇の前に座っていて、目を赤くしていた。あの時、父は泣いていたのだと、今となっては思う。父は涙を拭いた。そして、私を優しく抱きしめた。
「……」
父は何も言わなかった。そしてしばらくの間、私を抱きしめ続けていた。
「それから、松ぼっくりは仏壇のなかで一緒に飾られることになりました。私はその仏壇を『松ぼっくり祭壇』と呼んだんです。この作品にはそういった弔いの想いを込めました。パンデミックのせいでちゃんとした弔いを受けられなかった人、弔いを強く願っても、それが叶わなかった人が世界には大勢いて……そういった方々に、私なりの弔いをしたかったんです。松ぼっくりは私にとって、弔いの象徴なんです」
————「以上でインタビューは終了となります。大変興味深いお話でした。本日はありがとうございました」
「ええ、こちらこそいろいろ話せて楽しかったです。ありがとうございました」
*
タクシーに乗り込む。自宅の近くの住所をドライバーに伝えて、私は目を瞑った。私は異常な睡魔に襲われていた。大体、こんな早朝にインタビューをすることがあるだろうか。私はこのまましばらく眠ってしまおうと思った。しかし、その眠気の中で、ふと考えた。幼い私が経験した、あの「奇跡」は一体なんだったのだろうか。
インタビューで「奇跡」のことは話していない。怪しまれても困らないわけではないが、自分の中で解釈できていないことを他人に話すことは嫌だったからだ。
よく考えれば、私はあの奇跡を美化している。当時は、それを呪いだと思って怖がる気持ちもあった。なぜなら、私にとって奇跡とは母が死んだこととセットであって、母が松ぼっくりに変えられてしまったという呪いでもあったからだ。
あの奇跡、あれは唯一神が起こしたものではないと思う。不完全な神が起こしたもの、あるいは幻覚か、人間が起こしたものだ。人は絶対的なものを思うと服従してしまう。不条理なものを受け入れてしまう。もちろん、受け入れることが間違っているわけではない。不条理はまず受け入れることで乗りこなせる。それはもっともなことだ。
しかし私だけは、そういうシステムに抵抗しなければならないといつも思う。それは他の逸脱者のためでもあるし、自分の信念を守るためでもある。システムの内でこっそり逸脱するのか、システムの外に思いっきり逸脱するのか、どちらでもいい。私は逸脱を祝福したい。
母の死は防げたものだった。私のこの逸脱、この傷はシステムに吸われてしまうものじゃない。私はだから、壁に投げつけられる卵の側でありたいと思う。壁がいくら巨大で、壁がいくら正しいものであってもだ。そして、どっちも卵なら、どっちのことも考えたくなってしまう。私は芸術家として、知識人として、これまでもそういう姿勢でやってきたつもりだ。しかし、そんな中でも一番重要なことは、本当は絶対に卵は投げつけられてはいけないということだ。
「あんた、もしかして芸術家の人じゃないの? テレビに出てる」と運転手が言う。
「あ、まあ、はい、そうですが」と私は言う。眠りを邪魔されて少し不快だった。
「大丈夫? あんたの作品。さっきニュースでえらいことなってたよ」
「え?」
その時、電話が鳴った。その時私は啓示のように直感した。今日もまた、卵が割れた。
引用
関根正雄訳,創世記,岩波文庫,1989年,第46刷,p59
同書,p230
松ぼっくり祭壇 福田 @owl_120
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