夏の少女

真花

夏の少女

 その少女は僕によく似ていた。

 真夏の日、蝉の声、流れる汗、僕は上野公園の花壇に座って本を読んでいた。周りにいるのは外国人ばかりで、それぞれの言語で大声で喋っている。顔を上げれば自動販売機、喫煙所、小さなカエルの噴水が見えて、ここら一帯は大きな木の陰になっている。汗を拭いながら、本のページを捲っていく。『アイデアの作り方』と言う本で、極めて薄いから、すぐに読み終えるだろう。

「お兄さん」

 右側から声をかけられて。本を閉じて振り向く。ティーネージャーに差し掛かるくらいの少女が僕の右の席に座って、じっと僕の顔を見ていた。

「何ですか?」

 少女はずっと探していたものを見付けたみたいに笑った。少女も汗だくだった。地元の子だろうか。悪意は感じないし、妙な親しみを覚える。

「読書ですか?」

 少女は僕の手元を凝視する。僕は、本をひょいと上げて、表紙を見せる。少女は「アイデアの作り方」と読み上げてから、興味に輝く眼差しを僕に向ける。

「アイデアが足りないんですか? こんな暑いところでどうして読むんですか?」

 僕は半分苦く笑って、本を膝元に戻す。

「足りなくはないけど、もっと出たらいいなと思ったんです。ここで読んでいるのは、そうですね、いつもと違うことをしたら、いつもと違うことが起きないかと思ったからです」

「私も本は好きです。でも今は音楽の方に熱中しています。ギターを弾くんですよ」

 少女はエアギターの要領でFのコードをじゃらんと弾いて見せる。コードが聞こえた気がした。

「熱中するのは、最高ですね」

 少女は身を乗り出す。初対面で入っていい距離を越えて来た。

「そう思います? モノになるか分からないことにエネルギーとか時間とかを使うのって愚かだって風潮があって、だからちょっと自分だけ熱中しているのはおかしいのかって思っていたんです」

 僕は少し引いて、距離を保って、首を振る。

「言い訳をつけて最初から本気でやらないのは、死ぬまで負け犬です。その遠吠えに耳を貸す必要はありません。討ち死にするかも知れなくても、必死でやる。それがいいと僕は思います。大事なのは、何をやるかです。それに出会えたなら、あとはやるだけ」

 少女は元の位置に戻って、何度も頷く。

「お兄さんも、やっているんですか?」

 まあ、訊くだろう。真剣にやっていることを他人にはあまり言いたくないが、きっともう会わないし、それ以上にこの子には言ってもいいような気がした。

「僕は小説を書きます。まだ泥から出られないですけど、本気です」

「泥?」

「有象無象ってことです」

 少女はふむ、と少し考える。

「じゃあお互い、本気だけどまだまだってことですね。いいんですね、本気でやって」

「もちろん」

 少女は心底ホッとして、かつエネルギーの種を植えられたみたいな笑顔になる。

「一番訊きたかったことがいきなり訊けました。……お兄さんは元気ですか?」

 初めて会って訊くには違和感があったが、僕は、元気ですよ、と答えた。

「君は元気ですか?」

「もうピンピンしています」

 見るからにそうだった。僕は頷く。

「私、逆上がりが得意なんです」

「僕は、実は出来ません」

「私、猫が好きなんです。お兄さんは、犬ですか?」

「犬猫二択なら犬ですね。他でもよければ、うさぎです」

 少女ははにかむ。

「私、いくらが大好きです。一番はいくらです」

 僕も笑う。

「僕はウニですね」

 少女はまるで花が踊るみたいに笑顔で揺れる。揺れが次第に収まって、体にその振動を残したまま、表情だけがわずかに落ち着く。

「……私、未来から来たんです」

 ちょっと変わった子とは思っていたが、そう来たか。

「そうなんですね」

「パパに会いに来たんです」

「会えるといいですね」

 少女は顔をキュッとしながら考える。

「そうですね。……もう行かないと。勇気をありがとうございます。それじゃ、さようなら」

 少女は立ち上がり、前に進み、振り返ったとき、僕は、またね、と言った。

「うん。またね、パ……お兄さん」

 少女は喫煙所の脇を通って、御徒町の街に消えて行った。僕はその背中が見えなくなるまで見送った。蝉の声が急にうるさくなって、僕は僕が上野公園にいることを自覚した。少女が座っていた右の席を見ると、まだそこにいるような気がした。だが、少女はいなくて、僕はすぐに本を開く気になれず、夏の中にずっと座り続けた。


(了)

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