A vacancy room

秋犬

A vacancy room

 その部屋には人魚が住んでいる。

 狭い水槽の中で、外へ出て行こうと日々泳ぎ回っている。


***


 郊外の空き室が目立つ雑居ビルの一室に、「ミドリヶ丘協会」の札はかかっていた。他のテナントのように特に看板も出さず、窓は厚い布で覆われている。


「ミドリちゃん、今日もよろしく」

「あ、どーも」


 階段を掃除する雑居ビルのオーナーに、ミドリはぺこりと頭を下げる。ミドリの本当の名前は咲良さらであったが、ここでは「ミドリ」で通っていた。外出するときは長い髪をひとつに括り、黄色いキャップにぶかぶかのTシャツとよれよれのパンツスタイル、それがミドリという少女だった。


 ミドリヶ丘協会の扉を潜ると、入り口にも厚いカーテンがかけられている。用心のため二重になっているカーテンを開けて、ミドリは大きく息を吸う。 早朝の空気が冷たくなってきたため、部屋に入るとミドリはほっとする。


「今日もいい匂いだな」


 薄暗い室内でミドリが照明のスイッチを弱から強に変えると、ますます青緑色の植物が生き生きと輝く。部屋一面に鉢植えされた植物の面倒を見ることがミドリの仕事だった。


「まずは水やり」


 ミドリは給湯室に該当する部屋の水道から水を汲み、鉢植えにじょうろで水をかけていく。雑居ビルの事務所くらいあるフロア全体に水をかけるのは少々骨の折れる仕事だった。植物はミドリの胸くらいの高さがあるので、かき分けて歩くのも一苦労だ。


「……ったく」


 半分くらい終わったところで、ミドリは特に理由はないが舌打ちをする。ミドリはこの仕事を望んでしているわけではない。小学校の時にクラスでいじめにあって、それから不登校を繰り返しているうちに何故かこんなところで働くことを余儀なくされていた。


 ズルズルと学校を休んでいるうちに、単位を取れなくて高校を2年で中退した。それから半年ほどふらふらしていると「どうせお前ヒマなんだろう」と、友達の友達の叔父の友人を名乗るこのビルのオーナーに半分拉致されるような形でこの仕事をしている。他言無用の内緒のバイトだった。


 全ての植物に水をあげたら、後は夕方まで自由だった。室内にいれば基本それでいい。夕方になったらもう一度植物に水をあげて、後は照明を弱にして帰ればいい。仕事はそれだけだった。


「よーし、やるか」


 ミドリはM・Mと印字された箱から水色の紙巻き煙草を取り出して、火を付ける。煙を思い切り胸に吸い込むと、ぐらりと世界が揺れたような気分になる。


(あー……きた)


 ミドリの世界は海中に沈んでいく。青緑色の植物がおいでおいでとミドリを海の底深くへ誘い込む。ミドリの長い髪は海中をたなびき、群青色に輝いて見える。


「ふふ、ははは」


 ミドリは海中で呼吸をするように、次々と煙を吸い込む。その度に視界は青く染まり、身体は海の底を漂っているような浮遊感に包まれる。時折現れる宝物のような光は、珊瑚や真珠のようにミドリの周りを光りながらくるくると魚のように踊る。


「あ、あー……そうね、うん、そうかもね」


 ミドリの摂取したドラッグは大麻に似ているが、どこかの誰かが品種改良をした全く新しい草として外国から密輸されてきたものだった。日本では通称「M・Mマーメイド」と呼ばれ、まるで海中散歩をしている気分になるとして一部で大評判であった。


 ミドリはその「M・Mマーメイド」の栽培のバイトをしていた。


「うん、わかってるって……もう」


 M・Mマーメイドの効果が切れたミドリは、のろのろと買ってきたコンビニのサンドイッチを頬張る。それからスマホで自分と似たような境遇の女子はいないかとサーチする。


『自殺配信! コツコツためたDPS80シート一気に飲む!』

『破局記念の過食配信』

『病垢でリスカ見せあいっこ』


 そんな風に同じ年頃の少女たちがもがいている様を見て、ミドリは優越感に浸る。違法薬物の栽培という仕事をして、彼女たちが何枚パンツを売っても買えないような値段のするドラッグを管理人特価という待遇でタダみたいな値段で買っていた。


「さて、もう一本」


 時計を見て、ミドリは再度M・Mマーメイドに火を付ける。午前と午後に一本ずつ、それがミドリが自分で決めたルールだった。この決まりを守っている限り、M・Mマーメイドに依存することはないとミドリは勝手に思っていた。


 ひとしきり海の底を堪能したミドリは、残りの時間をショート動画を見ながら無難に潰した。それから夕刻再びM・Mマーメイドたちに水をあげ、部屋の照明を弱に切り替えて部屋を出る。本来は照明を強にしておいたほうがよいらしいが、電気代をケチったオーナーからの指示であった。夜の間くらい自然と同じく暗くてもいいのでは、とミドリは無邪気に思っていた。


 それからミドリはカーテンをかきわけて部屋を出て、扉に鍵をかける。それから朝まで適当にどこかで時間を潰して、朝にまたここにやってくることになっていた。住居用でないからここに泊まってはいけない、とだけオーナーに言われていたことをミドリは律儀に守っていた。それはオーナーを信頼しているからではなく、時折裏の世界の顔を見せるオーナーが少し怖かったからだった。


***


 元からミドリはひとりが好きだった。誰かに合わせて何かをするというのがたまらなく苦痛で、友達なんか何故必要なのかと本気で思っていた。世間体を気にする親からは「気味の悪い子」と呼ばれ、学校で激しくいじめられても「あんたが悪いんでしょ」と取り合ってくれなかった。


「あんたらはいいよな」


 M・Mマーメイドに水をあげると、ミドリは青緑色の葉が喜んでいるように感じた。


「何にもしなくても金になって」


 M・Mマーメイドにミドリが話しかけると、さやさやと返事をするように葉がそよいだ。水をかけられて揺れただけだったが、ミドリには葉が頷いたように見えた。


「いい奴らだな」


 いつの間にか、すっかりミドリはM・Mマーメイドの世話が好きになっていた。当初は水と照明だけの世話だったが、最近では肥料の与え方や収穫なども手伝っている。オーナーの知り合いを名乗るコバタという男が月に数度やってきて、オーナーと共に主に収穫の手伝いをしていく。


「ミドリちゃんも一緒にご飯行く?」


 コバタが来た日は仕事の後、ミドリはコバタとオーナーと一緒に大体焼肉を食べに行った。その際オーナーがミドリに何着か服を買ってくれたが、ミドリは服の着こなしというのがよくわからなかった。服は身体に馴染めば何でもよかった。


「匂いがちょっと、ね」


 とにかく食事に行く際はいつもの服ではいけないようなので、ミドリは「食事用の服」というのをストックしてあった。そんなミドリをコバタは何だかんだと可愛がって、製品化されたM・Mマーメイドを少し多めに分けてくれたりした。


 そんな日々がミドリの中で1年半ほど続いた。M・Mマーメイドに水をあげて、1日2回M・Mマーメイドをキメて、夜は魚のように街を泳ぎ回る。その気になればその辺の男と遊んだ。その時になんだか舐められたくなかったので、バイト代をはたいてミドリは左肩に人魚のタトゥーを入れた。水の中で髪がたゆたっている表現が美しくて、何度も鏡で確認した。自慢のM・Mマーメイドたちにも自分の人魚を見せて回った。M・Mマーメイドは「よかったね」と言っているようだった。


***


 その日は突然やってきた。ミドリがいつものようにM・Mマーメイドの世話に来ると、扉の鍵が開いていた。中でオーナーとコバタが深刻そうな顔をして話し合っていた。


「あ、ミドリちゃん。もう来なくていいから」


 ミドリに気がついてあっけらかんと言い放ったオーナーのひとことに、ミドリは血の気が引く思いだった。


「来なくていいって、どういうことですか?」

「なんかね、ちょっとヤバそうだから引っ越そうかってね」


 ミドリはM・Mマーメイドたちを眺める。皆ミドリが世話をして大きくしたM・Mマーメイドたちだった。収穫した葉はしかるべき製法でミドリに還元されるべきで、そういうものだとばかりミドリは思っていた。


「引っ越しって、どこですか!?」

「そんなん言えるかバカタレ」


 オーナーもコバタも取り付く島がなかった。


「だって、この子たちは、私が、育てたんですよ?」

「はあ?」

「だから、引っ越しても、私が、この子たちを」

「うるせえ」


 ミドリはコバタに突き飛ばされた。壁に強く叩きつけられて、ミドリは一瞬呼吸が出来なくなった。


「あ、がっ!」


 そのまま暴れそうなミドリの元へコバタが歩み寄り、手足を抑えつける。


「あのな、これはビジネス、大人の話だ。ガキのアサガオの観察じゃねーんだよ!」

「ひあっ、あっ、で、でも、わたし」


 ミドリが必死で声を出そうとすると、ニヤリとコバタが笑った。


「そーか。お前、コレM・Mが欲しくて騒いでんのか」

「ちが、あ、あう、わ、わたし、その」


 純粋にM・Mマーメイドの世話がしたい――ミドリはそう伝えようとして、本当にそうなのか自分に自信がなくなった。


「よっしゃ、オジさんもオニじゃあないからな。ひと肌脱いだるわ」


 そう言うとコバタはミドリを離し、どこかに電話をかけ始めた。


「もしもしサイトウくん? 今忙しい? この前欠員補充したい言ってた件、あれ解決しそうなんだけどどう? 処女? それは……ああ、わかった、じゃあ後で」


 不穏な響きのある会話内容にミドリは慄いた。


「そーいうわけで、再就職先決定だ。おめでと、後は自分で稼いで何とかしてな」


 後ろではオーナーがニコニコと手を叩いていた。ミドリはこれから自分がどうなるのか、さっぱり見えなくなっていた。


「で、でもその、あたし、傷ものだし、ほら」


 ミドリは咄嗟にシャツを脱ぎ、左肩の人魚をコバタに見せつける。一瞬きょとんとしたコバタとオーナーだったが、その後声を出して笑い始めた。


「あのなあ、そんなの傷ものって言わねえよ!」

「可愛い落書きだなあ!」


 せっかく人前で肌を出したのに、一笑に付されたことでミドリは顔を真っ赤にする。


「なんだあ? それともここでキメセクしてえってか?」


 コバタのひとことでオーナーは腹を抱えて笑う。コバタは懐からM・Mマーメイドの箱を取り出すと、ミドリに二本同時に咥えさせる。


「これでキメてひとりでやってみろ。いけるか?」


 ミドリの目の前でライターの火が揺れていた。迷わずミドリはM・Mマーメイドの煙を胸の中に思い切り吸い込んだ。


 途端に、醜い二本の脚が消え失せた。どれだけ触っても、大きな魚の下半身しかミドリには見えなかった。


「ふふ、本当に人魚になっちゃった」


 そーか、そんなら服もいらないなというコバタの声が聞こえた。


「そうだね、いらないね」


 ミドリは水流に身を任せる。ごぽごぽという水音がどこかから聞こえてくる。そちらを目掛けて泳ぐと、目の前がちかちかと輝いて見える。


「私のM,私のM,みんな私のM」


 若木から成長を見守ったM・Mマーメイド。収穫を手伝ったM・Mマーメイド。製品化されて手元に帰ってきたM・Mマーメイド。そしてミドリの身体の中を駆け巡るM・Mマーメイド。全てがミドリであり、ミドリはM・Mマーメイドの中にいた。


「わたし、だいじ、みんな、あたしのこ。だいじなあたしのこ」


 そーかそーか、ガキがほしいか。


「こども、そだてるよ。そだてるの、だいすき」


 ガキにガキが育てられるものか。


「ちがうもん、わたし、ちゃんとするから、わたしが、そだてる」


 どれ、よく見せてみろ、な?


「こんどから、ちゃんとするから、おねがい、わたしここにいたいの」


 ミドリは自分の脚を確認する。まだ脚は魚のままであった。


「ああよかった、わたし、まだあたしでいられる」


 暗くて寂しい海の底だったが、そこには安らぎがあった。青緑色の植物に囲まれて、ミドリは深く安らかな気分へ誘われていった。


「……あー、サイトウくん? 俺。さっきの件さあ、処女じゃなかったわ。別に、自己申告だよ? 後でそっち連れて行くわ、そんじゃまた」


 コバタとオーナーは服を着ないまま陶酔状態のミドリを部屋の隅に転がした。


 次の日にはたくさんのM・Mマーメイドもミドリも分厚いカーテンも部屋からなくなっていて、「ミドリヶ丘協会」の札もいつの間にか消えていた。


***


 その部屋には人魚が住んでいた。今では空き室になってしまったが、狭い水槽から抜け出した人魚がこの街のどこかを泳いでいるという。


「はいコレ、別に変なヤツじゃないよお? 一本あげるからさあ、一緒に泳ご?」


 どこかの路上にM・Mの文字が印字されている箱を出して、カラカラと笑う長い髪の女がいた。その空虚な眼光は底尽きることない深海へ誘う人魚のように、目の前のことも明日も映していなかった。


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