第7話
3
天気予報によると昼には雨は上がるらしい。
窓の外には霧雨のような雨がさあさあと降っていた。反射した窓から教室の風景がなんとなく伝わる。
教室には電気が付いていて、それに照らされたクラスメイトたちが雑談に興じている。聞こえてくる内容は昨日のドラマのことだったり、最近有名のアイドルの話だったり、ゲームの話だったり。雨のせいで団結力の高まった教室は一つの生き物のように熱気を放っていた。楓は窓を開けてしまいたくなる情動を押さえて、席で頬杖をつく。
和正が熱を出してしまったお陰で、和正以外に教室で話せるような友人が居ない楓は手持ち無沙汰に教室で物思いにふけることしかやることがなかった。本も忘れ、スマホでやることも無くなってしまった。
楓はぼんやりと教室を見渡す。見渡して、ぴたりと視線が絡んだ。
目の合った京陽は感情の読めない瞳でこちらを見ていた。何気に彼女のその瞳を真正面から見るのは久しぶりで、最近になって帰りの電車の中ではその瞳を見ていないことに気がついた。
そういう些細な気づきがあっただけで、しずかに時間は過ぎていった。小説のようになにか大きな動きがあるわけではない。これは現実だから。どうあがいても、思ったとおりに行かない。京陽の噂が消えることはないし、楓のトランスジェンダーのことが綺麗さっぱり解決することも、きっとない。楓や京陽みたいなやつに待ち受けているのは不安定さが飽和して弾ける結末だけだ。
いつも以上に静かに、波風が立たずにその日の学校が終わった。いつもと違ったのは京陽の視線以外では担任の吾妻から、学校生活についてなにか不便があるかと聞かれたくらいだった。わざわざ別室に呼ばれたあたり、何かしら水面下で起こったのだろう。楓はそれに適当な答えを返した。曰く、「なにもないですよ。クラスの皆はいい子ですから」と。それを吾妻が信じたかどうかは楓の預かり知らぬところだった。
今日はなんとなく生明駅から電車に乗り込んだ。たった数十円の運賃をケチったわけではない。ただ、本当になんとなくだった。気分だった。
「珍しいですね。江中がこっちから乗るなんて」
京陽も気になっていたのかそわそわとした様子で言った。いつもと違う違和感か、緊張か、彼女の瞳は揺れていた。
「うん。まあ、気分」
楓がそう答えると京陽は納得したように「そうですか」と声を溢した。
電車に乗り込んで、いつも座っている席に座る。楓は曇天を見上げる。雨は午前中にはやんだ。この調子だと梅雨まつりは開催されるだろう。
楓は隣に座っている京陽を盗み見る。彼女はいつも通り真っ直ぐ前を向いている。
「ねえ」
楓の声に反応して、京陽はこちらに首を傾ける。肩に乗っていた長髪がさらりと流れ落ちた。
「どこに集まる?」
「あー、展望台の上とかにでも集まります?」
「楼台山の? 遠くない?」
楓は思わず京陽に聞く。京陽が言っているところは楓たちがいつも別れている道を登っていくとある山の頂上に設置されている、休憩所兼展望台だ。天気が良ければ椎ノ木を一望できる。休日にはよくお年寄りのたまり場になっている。心もとないが外灯は設置されているから、夜間でも登れるだろう。
「ええ。でも人は少ないですし、人が多いところでの集合は疲れるでしょう? それに、楼台山の近くにも露店は出ます。人通りはまだ少ない方ですから、祭りは十分楽しめると思いますよ」
京陽は真剣な表情でそう言ってまた前を向いた。楓は感心した。自分よりもよっぽど物事をしっかり考えていることに、感心して、驚いた。
「分かった。私服に着替えてからすぐ行く」
京陽は楓の言葉にすぐさま反応してくすりと笑った。
「高校で知り合った人の私服見るの初めてかもしれません」
京陽のその言葉で楓も同じことを思った。いつも制服だから、ぱっと京陽や和正の私服をイメージできない。どういう服を着ているのかとかどういう雰囲気になるのかとか。制服というものの構造上どうしてもその人を構成するものが隠れてしまう。プライベートのことやその人の好きなもの、好きなこと。そういう誰かを知る、という行為が阻害される。それだから噂話なんてものが湧き出るのかもしれない。その人個人を他人が理解するために、補充するために噂話を展開して、個人を傷つける。薄情で無責任な構造。
「確かに」
楓は彼女に同意して、頭の中でどんな服を着ていくか考えた。暗いものになりすぎないように、まつりに似合う格好になるように頭の中で空想する。なんとなく固まったところで電車が止まる。
電車から降りて、夕風に吹かれる。二つの影が並び立っている。京陽のスカートが風に煽られているのが影で分かった。
傍から見たら、男女二人というだけでカップルのように思われるのだろうか。なんとなく思った。それも、その人達のプライベートがわからないから発生する噂話の有象無象の一つ。
屋台の出ている道が近くにあるため、風に乗って脂っこい匂いがやってくる。その脂っこい匂いはどこか非日常感を運んできていて、楓は好きだった。
道を挟んで、人々の喧騒が響く。あと少ししたらこの道は参拝へ行く行進に呑まれていくだろう。
「人多いですね」
「一応参拝のルートだからね」
楓はそう返答して、京陽を見る。京陽はしきりにまつりのほうを気にしている。
「そんなに気になる? 好きな人でもいるの?」
楓が聞くと京陽は頬を軽く膨らませふてくされたように言った。
「違いますよ。私、まつりとは縁遠い人間だったので。だからまつりに少し興味があるんです」
色々な感情を誤魔化すように京陽は笑った。彼女はきっと今までも生きにくい人生を歩んできたんだろうなと楓は同情した。
「私は、まつりに行くの久しぶり。多分小学生以来かな」
あの時はまだ男女が完全に別れていない時期だったから、女子の中に紛れていても他の人間からはなにも言われなかった。まだ、性別というものが希薄だった。無知だった。性別とかそういう人間的なものについて、その時は残酷で無知だった。
「私が最後に行ったのはいつだったでしょう……」
京陽は過去に思いを馳せる。彼女の中では今までの記憶が生まれては爆ぜてを繰り返しているのだろう。それは彼女の懐かしんでいる表情が証明していた。
「それでは、また後で」
いつものように別れて、楓は坂を下っていく。家に帰っても、亜夏はまつりに行っているし両親はまだ仕事で誰も居ないだろう。
家に着いて、自室にカバンを放り投げ、制服を脱いでハンガーに掛けた。
鍵を開けて、クローゼットの中から服を見繕う。メンズのグレーのポロシャツとレディースのクリーム色のワイドパンツを出して、着替える。服のしわを伸ばして、手で簡単に髪を
楓は念の為もう一度身なりを確認しておく。世間体を気にしている自分が馬鹿みたいに一瞬思えた。けれどやっぱり世間は怖かった。楓には世間というものは暗闇だった。
楓が家を出たときにはもう山の向こうに日が落ちかけていた。楓は薄闇の中、早足になって楼台山に向かった。
楼台山の麓には小さなお寺がある。その寂れているお寺を横目に楓は坂道を登っていく。コンクリートでちゃんと舗装されている道から、楼台山に入る。楼台山はかろうじて道を成していたが地面は朝の雨のせいか少しだけ湿っていた。けれど歩きにくくなるほどではなく、すこし踵が沈む程度だった。
足跡が一人分あるあたり、京陽は一足先に登っているらしかった。楓は少しずつ歩くペースを上げる。
木々が流れていく。風に吹かれて葉の擦れる音が山の中にこだまする。楓は根っこに足を引っ掛けてつんのめった。転けそうになって、転げないように足を一歩踏み出してかろうじて体制を整える。
無心で山を登っていく。木の葉から雨粒が落ちて楓の足跡に落ちて染み込んだ。
頂上につくと、一つ東屋がポツンと佇んでいた。東屋からは少し距離はあるが楓が立っている場所からでも十分すぎるほど椎ノ木市が良く見えて、まつりの明かりが爛々と輝いているのが分かった。
楓に背を向けるようにして一人少女が東屋に座っていた。少女は景色に見とれているのか、楓の方を見向きもしない。風で舞い上がりそうになったスカートを手で抑え、乱れた髪を整える。ライラックで染め上げられている長袖のブラウスが今にも少女を夜と同化させてしまいそうだった。
楓は東屋に近づいて、少女の隣に座る。
電車の中と同じような状況になって、少女はやっと楓の存在に気がついたらしく、驚いた様子でこちらを見ていた。薄い朱色に色づいた頬は彼女が目の前の光景を見ていて興奮していたことが証明されていた。
「江中……来てたんですか。驚かせないでくださいよ」
京陽はそう言ってむくれた。その表情がおかしくて楓は軽く吹き出した。
「なんですか!」
京陽は理解できないといったふうに楓を見つめる。楓は肩を震わせて、京陽を見る。京陽の楓を見ている視線がやはりおかしかった。
「――いや、なにもない」
「なんなんですか、もうっ」
まつりの空気に当てられているのか、楓と京陽の間に流れている空気はいつもより優しいもののように感じた。まつりの音や灯籠の光、人々の楽しさに当てられた。きっとそうだった。
「まつり、行きましょ」
京陽がいつまで経っても笑ってばかりの楓に向かって言った。楓が立ち上がると、京陽は嬉しそうに下り坂を下っていった。
下っていくのに、多少の面倒さを感じながら楓は降りていく。京陽はスマホのライトで地面を照らしながら慎重に、しかし素早く降りていっている。楓は置いていかれないように必死についていった。自身の運動神経のなさを呪ったのはこのときが初めてだった。
山を下りきり、大通りのほうへ向かう。まつりの匂いが近づいていくに比例して人の密度が増えていった。飛び交う言葉や人の発する音に目眩に似たなにかを感じながら楓は必死に歩みを進める。人の匂いがきつく感じて、脳みそが揺らぐ。
「りんご飴です!」
京陽は目を子どものように輝かせる。まつりと縁遠い人間だったと言っていたから目に入るすべてのものが新鮮に映っているようだった。彼女はきょろきょろと辺りを見渡しながらずんずんと進んでいく。
「買わなくていいの? りんご飴」
「よく後半食べきれないと聞くので」
「みかん飴もあるらしいけど」
「ホントですか? それだったら食べられそうなので買います」
京陽はそう言って列に並んだ。楓はそれを微笑ましい気持ちで眺めながら人通りの少ない道の隅へ逃げ込む。
目の前でゆっくりと人が動いていく。これでも人が少ない方なのだから、まつりの中心部のほうに行ったら消えてしまいそうだと、そんな事を思った。
時折途切れる人の波を縫って、京陽が楓の元へやってくる。その両手には割り箸に刺された琥珀色のみかん飴が二つ握られていた。
「どうぞ」
片手に収まっていたみかん飴を楓に差し出す。楓は驚いて京陽に問いかける
「私、買ってとか言ってないけど?」
「なんか買うように差し向けられた気がしたので」
「そんな気なかったんだけどなぁ」
楓は笑ってみかん飴を受け取る。割り箸に彼女の体温が仄かに残っていた。京陽がふふっと笑い声をこぼして言った。
「りんご飴じゃなかっただけありがたいと思ってください」
確かにそう思っておくべきだろうか。楓もりんご飴を食べ切れる自信がない。りんごを丸かじりできるほどの貪欲さはもうない。
ざくりと透明だった場所に亀裂が入る。それは靄のように広がった。わずかにみかんの果肉を削り取り、楓はそれを口の中に含む。少しだけ甘さが強く感じた。それを京陽は美味しそうに食べている。彼女にはお気に召したようで、彼女の手元からは静かに琥珀色の宝石が失われていく。
彼女の唇に飴の破片がひっついている。それに気が付かないふりをして、楓は話を振った。
「なんでまつりに誘ったの? 私じゃなくても良かったでしょ?」
楓のその言葉に京陽は顔をしかめる。はあ、とわざとらしくため息をついて、彼女は口を開いた。
「ディスってます?」
京陽が若者らしい言葉遣いを使ったのはこれが初めてだったように思える。楓はそんな些細なことに驚きながらも、首を振った。
「いや、そうじゃなくってさ。わざわざ私を誘った理由が分かんなくて。ただ一緒に帰ってただけだし、まつりなら私以外にも、例えば中学校時代の子とか、誘う人はいたんじゃないかなって」
言い訳混じりに放った言葉は地面にコロコロ転がって自然と溶けていった。その溶けた言葉をじっと見て、京陽はつぶやいた。
「反対に江中以外にいると思います? 私がクラスでどうなってるのか知ってるのにそんな事言うなんて、最低ですね。ひどい。人間じゃありませんね。それに中学時代にも、友人はいませんでしたよ」
人々の喧騒に紛れて、彼女の声はかろうじて届いた。特に最後の一言は弱々しくて、今にも消えそうだった。
「そっか」
楓はそっけなく言い返して、自分の選択を悔やんだ。高校入学してすぐに彼女の噂話が蔓延していたというところから、中学時代にも似たようなことが起こっていたというのは簡単に想像できたはずだというのに。
「――少し人酔いましたね。人の少ないところに行きましょうか」
たっぷりと時間をかけて彼女は言った。薄く化粧の乗った肌が柔らかく光を反射していた。なんとなくこれを言うために今日誘ったのだろうと感づいた。きっとこれから始まるのが京陽の本当のまつりなのだろう。楓はみかん飴をかじって頷いた。
連れてこられたのは椎ノ木の中心を横断している椎川にかかっている橋の一つである、水霧橋。コンクリートで作られている水霧橋は風情も特別な雰囲気も何もなかった。
「ここなら人はいませんね」
あたりを見渡して京陽は言った。このあたりは外灯さえほとんどない。昼ならまだしも夜に好き好んでこの橋を渡ろうとする人間は居ないだろう。
楓は夕焼け色に色づいた割り箸を手でもてあそぶ。完全に手持ち無沙汰だった。
京陽はわずかに震えながら肩を上下させゆっくりと深呼吸を繰り返す。頬は赤く濡れていて、彼女の吐く息は今にも白く凍えそうに思えた。
「私がレズビアン――同性愛者だったという噂は忘れていませんね?」
楓は頷く。忘れるわけがない。楓が高校生活で一番はじめに聞いた印象深い出来事の一つだったから。
楓の反応を見て、京陽はホッとしたような、傷付いたような反応を見せた。
「あれは、半分嘘です」
彼女の声は一瞬で空気に溶けた。恐ろしいくらい早くに京陽の声は楓の耳に届いた。楓の耳に熱が灯った。
「半分?」
「はい。半分だけ」
強かな風が吹いて、京陽の髪をもてあそぶ。スカートがふわりと舞った。楓は一瞬目を細める。京陽の姿がより繊細に映る。
「私は両性愛者。いわゆるバイセクシャルっていうやつです」
京陽の声が風に乗ってやってくる。楓は彼女の放った言葉を楓は口の中で転がす。両性愛者。バイセクシャル。楓には大人な味の言葉をごくりと飲み込んだ。
「いや、厳密に言うとオムニセクシャルっていうやつなんだと思います」
「オムニセクシャル?」
楓の疑問に京陽はまるでその質問がやってくることを理解していたことのように頷いた。
「はい。全性愛者っていいます。パンセクシュアルとはまた違うんですけど、相手の性を認識したうえで好きになる。だから体と心の性自認が違っても良いんです。私の好きに性別は含まれないんです。その人が好きっていうだけなんですよ」
楓は何も言わなかった。言うだけ無駄だと思った。この時間は確かに一条京陽が主導権を握っていた。
「小学生の頃、好きな人が居ました。その人は女の子でした。中学生の頃、好きな人が居ました。男の子でした」
彼女は懐かしむように言った。過去の自分を確かめるように、撫でるように。
「レズビアンだった、というのは小学生時代の噂の名残です。告白したのはあとにも先にも彼女だけでしたから。東小の人間が東中で流してここでも流して。生憎様、私に友達らしい人は出来た例がなかったんです。小中高とそう続く。そう思ってました」
ちらりと楓の方を見て京陽は笑った。
「どうやらそれは悪い想像だったようですが」
京陽は視線をそっと下げる。彼女の瞳はその時確かに感情を宿していた。彼女の今までの苦しみや、やるせなさや、確実に存在していた幸せを瞳の中で咀嚼していた。
カミングアウトをし終わって、京陽は楓をじっと見つめる。不必要なくらい息を吸って、言葉を吐いた。
「江中は……」
京陽はそこまで言って、一度言葉を止める。まだ指先が冷える時期ではないのに彼女はしきりに指を温めている。まるで指先に付着した恐怖を拭い取るようにして、何度も何度も何度も指先をこすり合わせた。
「――楓は、私の、ことを」
どう思っていますか?
震え声で京陽は言った。京陽の声は静かに地面に染み込んで、川に流される。それほど弱い言葉で、それほど頼りない意思だった。
楓は京陽の言葉を拾い上げる。ひとつひとつ丁寧に拾い上げて、意味を咀嚼する。
楓にとって京陽は京陽でしかなくて、それ以上でもそれ以下でもない。友達か、と言われるとどうだろうかと首を傾げるし、かといって友人ではなくただのクラスメイトなのか、と聞かれても楓は首を傾げるだろう。楓にとって京陽はそういう中間的な立場にいる人間だった。
「――私にとって一条は、一条でしかないよ」
楓は服の輪郭をなぞる。京陽と夜の堺がはっきりとしているうちに、しっかりと彼女を認識しておく。境界が曖昧になって彼女が消えてしまう前に、しっかりと目に焼き付けておく。肩から腕。腕から杏色に染まった指先。そして腰を通って足。
「そうですか。私は私でしか無いですか」
京陽は面白おかしそうに口の中で何度かその言葉を転がす。その言葉を飲み込んでから、彼女は笑い声を落とした。
「うん。私にとって私が私であるように、京陽も京陽で。もう、私の中では居ないものとして扱えないくらいには、京陽の存在が心のなかに存在していて……なんというか私の安心できるものっていうか」
楓はどんどんと言葉を重ねていく、顔も真っ赤になるほどの恥ずかしい言葉を何重にも塗り重ねていく。
「なんかね、一条って独特な雰囲気だったから、ちょっと怖かったんだ。まるで私と生きている世界が違うみたいで。だから」
楓は京陽に対して言葉を紡いでいく。少しづつ頭の中で散らばっていた感情が集まってきて、明確化される。答えのなかった感情が具体性をもって楓の胃から吐き出された。
「安心、したんだ。一条なら、きっと私を助けてくれるんじゃないかって」
助けてくれるなんて少し大げさかもしれない。けれど、楓にとってはそれ以上似合う言葉がなかった。
楓は言葉を探す。この場にふさわしい言葉を必死に探す。彼女に伝えるべき言葉を探し出す。
「孤独が、辛かったんだ。私」
熱を保った言葉が口を突いた。楓の心の空白にすとんと落ちたその言葉は、しっとりと空気に溶けていく。
そうだった。一人が辛かった。一人だけ、足元が浮いている感じがしていた。
でも、一人じゃなかった。
京陽は楓のことをじっと見つめて、口をもごもごと動かす。じっくりと言葉を選定するように、彼女は話し始めた。頭の中で考えながらとも思えたし、反対に考え練られた言葉達だったように思える。
「私には夢があります。一つだけ、大きな夢があるんです。叶えたい、夢があるんですよ、楓」
あなたに、それを手伝ってほしいんです。同じ景色を見てほしいんですよ。
まつりの残響が残っていた。鼓膜に残った人々のざわめきと、鼻腔に溜まった群衆とまつりの匂い。それが唯一、先程までの時間を証明するものだった。それを流すようにシャワーの水圧を上げた。貼ったばかりの新聞紙の色が変わった。
元々鏡があった所には新聞紙が貼られている。それはつい先ほど楓が貼り付けたものだ。そうすることで鏡は鏡としての機能を失い、楓の体を映さなくなる。それだけで幾分か気分が楽になった。楓にとって自分の体は見ていてあまり気持ちの良い物ではなかったからだ。自分の体は見ないようにすれば良いが、鏡というものはそうはいかない。無理矢理自分の姿を見せられる。それが嫌だった。そのことを知っているのは楓だけで、家族の中では誰も知らない。
ずっと脳内にこびりついていた。京陽の声が、しっとりと染みついていた。
京陽は隣にいてくれるのだろうか。恋愛的ではない関係は恋愛的な関わりよりも途切れやすい。卒業したら案外すぐに途切れるかも知れない。
楓は足早に風呂場から出て、タオルで水分を拭き取る。できる限り素早く寝間着に着替えて、風呂場に貼られたままの新聞紙に手をかけた。
楓には分からなかった。京陽のように自分は声を出せるのか、分からなかった。ただ、孤独感がずっとあって、それがやっと剥がれはじめたような感覚がした。
変われるのか、分からなかった。
ただ、このいいようのない孤独を埋められるのなら何でもいいような気がした。偽らないことが正解だとは言えない。自分が認められればいいという訳ではない。それはきっと正解だ。偽ることも、我慢することも、溶け込むことも正解だ。きっと間違いじゃない。苦しさも間違いじゃない。
楓は自室に戻り、ベッドに倒れ込む。視界にクローゼットを収める。クローゼットはなにも変わっていないみたいにそこにある。そこに収めてあるものを隠しているみたいだった。楓は静かに唇を噛む。鋭い痛みが溜まって、放出された。
言いようのない焦燥感だけが、楓の心のなかに募っていった。
甲高い女子の声が響いている教室。その中に京陽の姿を見つけて、楓は静かに胸をなでおろした。理由はない。ただ、居なかったら楓の携えた勇気が無駄になってしまうという、利己的な感情から来るものだった。
緊張、していた。今からカミングアウトするわけではないというのに、とても緊張していた。それは自分の周囲に対する漠然とした恐怖から来るものだということは分かっていた。だから、それを克服するために、いや違う。
楓は京陽と並び立つ為に、彼女を手伝うために、この恐怖を少しでも希釈する。
「一条」
賑やかな教室に紛れ込ませるように、楓は静かに言葉を溶かした。
弾かれるように京陽がこちらを向いた。教室が一瞬静まって、どよめきが広がった。
「楓……」
僕は彼女の近くへ向かう。和正は特に気にした楓もなくクラスメイトたちと話している。ただなんとなく、もう戻れないんだろうという気がした。それでも良い気がした。
わずかに世界が変わった気がした。
独性 宵町いつか @itsuka6012
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