第6話
京陽の頭の後ろに設置してある車窓に絶えず雨粒が衝突しては風に煽られて散っていく。それを楓は呆然と眺めていた。
「どうやら江中は女の子説が出ているらしいです」
梅雨まつりの前日、電車の中で京陽が唐突に変なことを言い出した。変に詰まった喉からクツリと音が鳴った。
「はい?」
かろうじて吐き出した言葉は情けなくて素っ頓狂なものだった。楓は乱された脳内を必死に落ち着かさせながら、京陽を見つめる。京陽はいつものようににやにやと楽しそうに笑いながら話し始める。京陽は楓を皮肉るときか弄るときによく笑う。それが今は少し鬱陶しく感じた。京陽の口から溢れた言葉が真実に近いものだったから、詳細を知って早く楽になりたかった。
「いや、江中楓は実は女であるって噂が流れてたんですよ。なかなか皆さんは噂話がお好きみたいです」
事情なんて聞かないんですよ、あいつら。
妙に冷え切った口調でいつものように言葉を操る京陽を見ながら、楓は一人安心する。どうやらトランスジェンダーだとかそういうところはバレていないようだった。そもそも亜夏にしかトランスジェンダーであることを言っていないからバレていないのは同然なんだろうけれど。
「へーそうなんだ」
動揺が悟られないように京陽から視線を外しながら楓は言う。瞳に曇天がひどくきれいに映った。
京陽はいつものように隣に座っているだけで必要以上の事をしようとしない。思えば彼女の方からああいう世間話的な話題を振ってきたのは久しぶりのような気がした。
それに彼女が噂話について言及したのも珍しいことだった。いつも京陽は帰りに今日あったことや聞いたこととか、学校に関することは言いたくない人間だと楓は認識していた。そしてそれは間違いではなかったはずだった。
「興味なさそうですね。噂話」
京陽はふてくされたように言った。窓から差し込んだ夕日に濡れて、アンニュイな表情をさらしていた。
「噂は所詮噂だから。真実とは違うし」
「それは確かにそうですね。現に私の噂も真実ではないですし」
京陽がなんてことないように呟いた。一瞬楓の脳内が停止して、急激な回転を始める。急に動き出した頭は軽い悲鳴を上げた。
「あ、そうだったんだ」
楓の言葉に京陽は小さく吹き出した。
「なんだ、ちゃんと知ってたんですね。しかも噂話を鵜呑みしてるんですか? 人間として大丈夫ですか、それ。人を疑いましょうよ」
これよみがしに京陽は楓の発言に対して問い詰める。生き生きとしたその声は弾んでいた。この声がいつも出ていたら、彼女は教室で孤立をしないのに。そんなことを思った。
楓は感情をごまかそうとしてうなじを爪でかく。鈍い痛みがやってきて、意識がはっきりとしていく。自身が犯した間違いだとか、そういう反省点が明確になっていった。
「まあ、ね。そりゃ嫌でも耳に入るよ。一条京陽に関係する話題の大半はその噂話だ」
頭の中で記憶を反芻させる。現に彼女の話題が出たら、決められたようにその噂話へ収束する。大体の人間にあるその人のイメージや話の種、というものが一条京陽の場合は同性愛者というものになっているというだけの話。
「そりゃ光栄なことですね」
彼女はどうでもいいことのように呟いた。彼女にとってはどうでもいいことなのかもしれないけれど、周りからしたら異物なのだ。一条京陽という人間は。
降車駅に電車が着いて、楓たちは降りる。改札を通って、外に出ると同時に彼女の頭の上に黒華が咲いた。黒い花びらに雨粒があたって、花弁を伝ってゆっくりと落ちていく。楓の頭上にも透明な花が咲いた。
京陽は黒い雲に覆われた空を見上げて残念そうに言う。
「明日もこの天気だと梅雨祭りはしなさそうですね」
「多分」
淡々と、抑揚のない会話がだらける。それを繋ぎ止めようとして、楓は意味なく声を発した。
「あのさ」
とくに内容も考えずに飛び出した言葉はやけにはっきりと空気を振動させてしまう。楓にはそんなつもりがなくとも、透明な膜は等しく声を届ける。楓はその向こうで、キョトンとした顔のまま止まっていた。
「いや、やっぱなんもない」
「そうですか。言語化する頭がなかったんですね。可哀想に」
彼女の感情を可視化するように傘が揺れる。
彼女の言う通りだった。楓には、今の感情を言語化するほどの語彙を持ち合わせてはいなかった。きっとこれは恋なんて陳腐なものでは無いし、かといってこの二人の関係を示す斬新なものではないことは確かだった。
雨音に耳を傾けながら、楓たちは歩みを進める。雨音の間を縫い合わせるように会話を続ける。楓が話題を提供し、京陽がそれに茶々をいれる。それが楓にとっては心地よく感じた。
分かれ道に差し掛かる。右は登り坂、左は下り坂。楓は下り坂、京陽は上り坂のほうに足を向け。何も言わずに歩いていく。きっと、明日も会えるから。そういう不確定なものを信じていたから。二人の間には不確定なものだけで十分だったから。
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