第5話
2
春の麗らかな空気も一瞬で過ぎ去って、いつの間にかじめっとした梅雨の時期がやってきた。その短い間にこの教室ではちいさな変革が起こっていた。
一条京陽が腫れ物扱いされていた。いじめ、とまでは行かないが、確実に彼女は教室から浮いていた。教室では誰とも話さず、常に一人。良く言えば孤高、悪く言えば孤独だった。愛する対象が他人と違うというだけで排他的になるこの小さな世界は、京陽にとっても、楓にとっても生きにくいものなのかもしれない。
梅雨の時期には珍しく、朱が差している駅のホームで楓はスマホを取り出して、電車の来る時間まで暇を潰す。一本遅い電車に乗るのも、最寄り駅と違う駅で帰ることも慣れきってしまった。それに一本遅れの電車に乗ることによって僕についての変な噂がたつことは防がれているらしい。それだから今更電車の時間を変えたりする気も起こらなかった。
楓はホームに乗り込んできた電車に乗り込んで、いつものように連結部分から一番近い席に座る。夕日が差しこんできて、少し痛かった。
生明駅に着く。ホームが開いて、数人乗り込んでくる。部活動が本格的に始まってからというもの乗り込んでくる生徒がめっきり減ってしまったように感じる。
「どうも」
視界の端で見慣れた顔がやってくる。いつものように感情の読めない瞳を煌めかせながら京陽が入ってきた。数日前までオカルト研究会に入っていたらしいが、辞めたらしい。腫れ物扱いされている人しか居なかったから居心地が悪かったらしい。ただの傷の舐め合いは惨めなだけ、そう辞めた日に言っていた。
「どーも」
楓の面倒臭そうな態度を見て、京陽が笑いを零す。
「今日は随分お疲れなようで」
京陽は労る気など毛頭ないといった様子でにやりと笑う。それに楓は態度を変えたりせずに、そのまま面倒臭そうに対応する。ここで彼女に向かって苛立ちに似た感情を持ってしまったら彼女の思う壺だから。
「体育のせいかな。久しぶりに体を動かしたから」
いつの間にか京陽の口調は砕けたものに近づいていて、彼女の心が氷解しているように感じられていた。
楓は席に座ったままぐっと伸びをした。
「そういえばあとすこしで梅雨まつりですね」
梅雨まつり。正式名称は椎ノ木市梅雨まつり。雨が降りすぎて不作にならないように、洪水しないようにと神様に願う祭りだった。生明地区のある椎ノ木市は大正時代に大雨に降られ、多くの農作物が死に、家々が浸水した。そのような事がもう二度と起こらないように、椎ノ木市にある主要な神社三つを練り歩き、参拝することを始めた。それが今まで一度も途切れずに続いている。
「梅雨まつりね……」
楓はスマホでカレンダーを開ける。梅雨祭りは今日から一週間後。テスト週間に入る前日だった。
「江中は行かないんですか」
「んー行かない」
楓は元々人混みの多いところは苦手だった。それに家から屋台のあるところまでなかなか距離があるため、進んで参加したのは小学生の時に一度行ったくらいでそれ以降はまつりと縁遠い生活を送っていた。
「でしょうね。江中には似合わなさそうですから」
隙あらば楓に皮肉を叩き込んでくる京陽は心做しか楽しそうだった。少なくとも教室で一人いるときよりも楽しそうに見えた。
「江中」
京陽は改まって、真剣な表情で楓を見る。無意識に身構えながら楓は「なに?」と聞き返した。
京陽は大きく息を吸って、黒瞳を大きくする。緊張しているのか、唇の端が震えていた。
「――あの、一緒にっ」
そのとき、彼女の言葉に覆い被さるようにして電車のアナウンスが入る。京陽の、楓の最寄り駅。
「……もう、着きますか」
残念そうに、安堵したように京陽は言った。京陽の中で言わなくて良かったという感情と、言えなくて残念だったという二つの感情が衝突していたように思えた。
京陽は立ち上がる。彼女はつり革を持って楓のほうを向く。背後で景色が流れていた。まるで彼女だけ生きている世界が違うように思えた。楓は立ち上がる。彼女の隣に並び立つようにして、彼女が流れていってしまわないようにしっかりと地面を踏みしめた。
電車が止まって、京陽は立ち上がった楓のことを怪訝に思いながら「それでは」と別れようとした。彼女が駅のホームに降り立って、楓もその後ろに着いた。背後で電車の扉が閉まって、発進する。驚いた表情の京陽に向かって楓は笑顔で告げる。
「私もこの駅が最寄りだったんだよね」
「な……なんなんですか、ほんとに」
肩を落とした様子の彼女を見て、楓は少しうれしくなった。彼女が人にちょっかいをかける理由が分かった気がした。
楓は一足先に改札を抜ける。遅れて髪をぱたつかせながら京陽が着いてきて、隣に並ぶ。向かう方向は同じだった。
夕日に濡れた道路を歩きながら京陽は先程の電車の中で溢してしまった言葉を探しているようだった。
「あの、その」
途切れ途切れになりながら京陽は言葉を紡ぐ。楓はそれを一つずつ拾い上げる。
「あの、私そこまで人と仲良くなれたことが無いので、正直、どうすればいいのか分かんないですし、どう言えばいいのかわかんないので直球で言いますね」
京陽は夕日を浴びて顔を朱色に染めて言った。
「私と梅雨まつり行きませんか?」
「ん、いいよ」
楓の言葉を聞いた京陽は驚いたように目を見開いて、すっと笑った。そんなに自然に笑えるのかと、ほんの少しだけ驚いた。
「そうですか、よかったです」
京陽は夕日と楓に背を向けて歩き始める。その背中はいつもより楽しげに見えた。
「お前、一条京陽とどういう関係なの?」
教室で自分の席に座ると開閉一言、和正が聞いてきた。教室の中は人は少なく、秘め事を話すにはもってこいの時間だった。
「どういう関係って?」
「そのまんまの意味」
楓はじっと和正の顔を見つめる。和正は至って真剣といった表情で楓を見つめている。
「友達、かな」
「そっか。じゃあ、一つアドバイス。近づきすぎんな」
ぴしゃりと和正が言った。どうしてなのか、すぐに見当がついた。そして、それが彼の本心からの言葉で悪気のない言葉だということも分かっていた。
「一条京陽と一緒にいるとお前まで悪い噂がたっちまう」
その必死の訴えに楓は違和感を感じてしまった。それだと京陽は言われていいみたいじゃないか、と。悪い噂にさらされて、一人孤独でいなきゃいけないみたいじゃないのかと。
「でも、私にとって京陽は友達だから。和正が私に思ってくれてるように、さ」
言ってしまってから、我ながら驕りが過ぎたことを言ったな、と後悔した。けれど、今更赤面して引き下がることは楓には出来なかったので和正の顔をじっと見つめることしか出来なかった。
「ああ……そっか」
「心配は受け取っとく。適度にやるよ」
楓はそう言って和正に感謝を伝える。数少ない友人の言葉を受け取って、楓は改めてこのクラスに、世界に蔓延した一条京陽の噂を認識する必要があった。
楓が知っているのは入学当初に和正から聞いた彼女がレズビアンだということだけだった。それ以上のことを和正が言ってきたことはなかったし、もちろん京陽からも触れてくることはなかった。
その噂が与えている影響というのも楓が認識しているのは京陽が教室内で孤立していることと学校内でどこか腫れ物扱いされているということくらいだった。悪口やいじめなどが行われていないだけましだと思うべきなのだろうか。
楓は教室を見渡す。まだ人の少ない教室は完全にグループ分けされていて、人の島が出来ていた。
さすがにここで京陽の事を聞くのは気が引けてしまった。
もし自分に噂が立つとしたら一体なにになるんだろうと考えてみる。レズビアンときたらやはりLGBT関係で統一されていくんだろうか。それはそれで面白そうだった。
教室に京陽が入ってきて、一瞬教室が静かになる。しかしすぐに薄膜を破ったかのように賑やかさが復活する。しかしそれは京陽が入ってくる前よりもささやかな催しに思えた。
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