Nothing
増田朋美
Nothing
大きな台風が過ぎ去って、日常が戻ってきたようだ。なんだかいろんなところに被害をもたらした台風で、杉ちゃんたちの住んでいる静岡県では全く被害が出なかったのが、申し訳ないくらいだった。それでも、なんとかして、日常生活を送れるというのが、嬉しいのかもしれなかった。
「じゃあ、今日の施術はここまでにしておきましょうか。二時間突きましたので、2万円でございます。」
蘭は、最後の針を引き抜いて、仕事台の上に腹ばいになって寝ていた女性に言った。
「ありがとうございます。あたしの背中、どうなりました?」
と、女性は蘭に言う。
「ええ、ちゃんと青龍さんが、緑色を取り戻しました。」
蘭はそう彼女に言った。女性は、改めてありがとうございますと言って、二万円を蘭に渡した。
「はい確かに受け取りました。じゃあ、領収書を書かせていただきますね。お名前は、菅谷友美さんですね。いろんな肩に施術しているんですけど、こう毎年定期的に、龍を書き直しに来るのも珍しいです。よほど、刺青に愛着があるんですね。」
蘭はそう言って、領収書をかき、菅谷友美さまと名前を描いて、彼女に渡した。
「ええ、もうあたしには、青龍さんしか、私を守ってくれる人はおりません。家族というか、両親はずいぶん昔になくなってしまいましたし、あの家であたしは実質的に一人ぼっちなんです。子どももできなかったし、だから、そういう神仏に頼るしか無いじゃありませんか。」
と菅谷友美さんは言った。確かに、居場所がどこにもなくて、自分しか頼れるものがないので、背中に観音様でも彫ってと依頼される人は少なくない。だけど、蘭は、彼女の言葉をその通りに受け取ることができなかった。
「でも、あなたは、」
蘭がいいかけると、
「先生。あたしが寂しいの知ってるでしょ。あたし、彫ってもらっている間、ちゃんといいましたよ。あたしの家は、家族は職人気質の男の人ばっかり。女性はあたしと、姑だけです。だから、寂しいの何の。そういうわけで先生にお願いしに来たんでしょうが。」
菅谷友美さんは、急いで洋服を着ながら言った。
「そうですか。それほど、孤独なんですか。でも、お姑さんがいて、ご主人もいて、ご主人のお兄さんがいる。それでは大家族だと思うんですけどね。僕なんて、妻と二人暮らしですよ。もし、本当に寂しいんだったら、ペットを飼うとか、相談してみたらいかがですか?」
蘭は菅谷友美さんにそういうのであるが、
「それができたら苦労はしませんよ。でも、幸い男の人ばかりの家族だと、あたしがここに来るのに何もうるさく言われないから、まあそれは助かってるんだけどね。」
と菅谷友美さんは笑っていった。
「じゃあ先生。又薄くなってきたら来ますから、またそのときはちゃんと突いてください。あたしの話を聞いてくれて、ちゃんとあたしの望みを叶えてくれるなんて、先生だけですよ。」
洋服を着終わった菅谷さんはそういった。
「そうですか、、、。」
蘭はそう言うしかできなかった。それと同時に、玄関のインターフォンが五回なった。
「おーい蘭。買い物行こうよ。もう約束の時間は過ぎちゃったよ!」
杉ちゃんの声であった。
「あら先生。今日は、別の用事があったんですね。じゃあお邪魔虫は消えますから、先生、しっかりやってください。今日は、ありがとうございました。それでは、又よろしくお願いします!」
と、菅谷友美さんは、カバンを持って、蘭の家を出ていった。蘭はその姿を見ながら心配そうな顔をした。それと同時に、
「今親切な女性が中に入れてくれたんだけど、蘭のお客さんか?なんかすごく嬉しそうな顔してた。お前さんもあんな顔されてたら、嬉しいだろうな。」
と言いながら杉ちゃんが蘭の家に入ってきてしまう。
「杉ちゃん、許可もないのに入ってこないでよ。本当に、時計より正確な時間で来るんだねえ。」
蘭は、杉ちゃんの顔を見ながら、やれやれという感じの顔で言った。
「あれえ、なんか悩んでいることでもあるの?」
杉ちゃんという人は、何でもすぐ口にする。それは、良いことなのか悪いことなのかよくわからないけれど、蘭はこのときは、ちょっと嫌な気持ちがした。
「いやあねえ。実はあの女性、菅谷友美さんっていうんだけどさあ。有名な、楽譜屋をやっている家に嫁いで、ご主人と、お姑さんと、そのお兄さんと暮らしているようだが、話を聞くと、自分は孤独だって話がよく出るんだけどね。でも、楽譜屋は繁盛してるし、家族はそうやって一緒にいてくれるんだから、そんなに孤独でもなさそうだと思うので、なんかおかしいんだよ。」
蘭は正直に答えた。
「それは彼女の主観の問題だろ。いくら周りのやつが恵まれてるって言っても、理解されないで寂しい思いをしているやつは、意外に多いぞ。製鉄所に来ているやつだって、口を揃えて皆そう言うよ。孤独だって言ってもわかってくれない、みんな恵まれているって言って、私の話を一蹴するとね。」
杉ちゃんがそう言うと、
「あんがい、孤独だと感じている女性は多いのかなあ?」
と蘭は考え込んだ。
「まあ、そういうこっちゃ。人間は欲と怒りとぐちの動物だからね。まあ、そういう気持ちが出ちゃうのよ。そういうときはね、頭で考えるんじゃなくて具体的に動いてみなくちゃだめだと思うよ。そういうわけで、僕らも、買い物行こう。」
杉ちゃんに言われて蘭はそうだねと気持ちを切り替え、杉ちゃんと一緒に買物に行った。だけど、買い物している間も、なんだかその菅谷友美さんの言うことが、頭に残ってしまって。買い物を楽しむことはできなかった。
それから数日後のこと。蘭が、客に頼まれた刺青の下絵を描いていると、玄関のインターフォンがなった。
「はい、どちら様でしょうか?」
蘭はインターフォンの受話器を取って、聞いてみる。
「あの、菅谷と申します。菅谷道雄。菅谷友美の、義理の兄でございます。」
ということは、友美さんのご主人のお兄さんか。そんな人物が何をしに来たのかと、蘭は思った。とりあえず、外へ出したままにしては要件も伝えにくいと思ったので、蘭は、とりあえず、菅谷道雄さんを、家のなかへ入れた。道雄さんは、蘭に言われた通り、応接間の椅子に座った。蘭がお茶を出すと、道雄さんは、ちょっと困った顔をしたが、意を決してくれたようでこう話してくれた。
「実は、昨日友美が睡眠剤を大量に飲んで、自殺を図りました。なんでも、病院でもらった薬を少しづつためていたらしいんです。」
晴天の霹靂だった。あんな明るい顔をしていた菅谷友美さんが、自殺を図るなんて、とてもわからなかった。
「友美さんが自殺を?あ、あの失礼ですが、一命は、、、?」
蘭は急いでそう聞いてしまう。
「ええ。幸い、発見が早かったので、命に別状はなかったんですけどね。友美が、自殺を図る前に、接触した外部の人間はあなただったものですから、もしかしてあなたが、なにか知ってるんじゃないかって思って、それでこさせてもらったんですよ。」
と、道雄さんは言った。蘭は余計に困ってしまう。確かに菅谷さんと話はしたのだが、自殺を予見するようなことは、彼女は一つも口にしなかったので。
「ええ、僕は何も知りません。彼女は確かに僕のところに、刺青を入れに来てくれましたが、それ以外何もありませんでした。」
「本当に友美がなにか話していなかったのですか?」
道雄さんは、念を押すように蘭に言った。
「そうですね。変わったところといえば、確かに自分は寂しいんだ、孤独なんだということはよく話してくれていて、それは僕もよく聞いてましたけど、他にご家族が3人もいらっしゃるんだったら、誰か味方になってくれる人がいるのではないかと思っていましたので、僕もそれ以上は言及しませんでした。」
蘭は思っていることを正直に答えた。
「そうですか。友美はやはりそういうことを言っていたんですね。全く、洋一のやつ、もう少し友美を大事にしないからそういうことになるんだ。すみません。すぐ私情が入ってしまいますよね。」
と、道雄さんは、申し訳無さそうに言った。
「洋一さんとは、友美さんのご主人ですか。」
蘭が聞くと、道雄さんはハイと答えた。
「もう少し、仕事ばかりしていないで、友美にもっと優しくしてやれと、さんざん言い聞かせたつもりなんですが、洋一はそれを守ってくれないようです。全く若い男はドライです。」
「それなら、もう少し詳しく教えてください。洋一さん、つまり菅谷友美さんのご主人ですが、なにか友美さんに対して、いけないことでもしていたんでしょうか。例えば、DVのようなものがあったとか?」
蘭がもう一度聞くと、
「いや、そういうことではないんですが、とにかく友美さんを放置しっぱなしなんです。まあ確かに、楽譜を売る商売というのは、最近はインターネットでダウンロードできることもあり、なかなか需要も減ってきていますので、お客さんのためになんとかしたいというのはわかるんですけど、そればっかりに打ち込みすぎて友美さんのことを放置しっぱなし。まあ世間では、恵まれたご主人と言われるんでしょうけどね。だけど、友美さんは可哀想すぎです。」
と、道雄さんは答えるのであった。
「そうですか。店の経営ばかりに熱心で、友美さんのことは放置していたのですね。それで友美さんは寂しいと言っていたのか。まあ確かに、良く働く男性は日本では好まれますし、好青年と見られても不思議はないでしょうね。それで、洋一さんは今どこに?」
「ええ、楽譜を仕入れに、東京へ出てしまいました。僕が急いで、メールをうちましたが、既読にもなりません。今病院には母が行ってくれているのですが。」
つまりお姑さんか。恵まれた家庭ではないかと、蘭は思った。彼女はお姑さんも誰も相手にしてくれないと言っていたが、そういうわけでもなさそうだった。
「それで、夫婦仲はそうなっていたとしても、お姑さんや、お兄さんであるあなたが、友美さんの側にいてくれているということを十分に示していれば、」
「ええ、力不足だったと思います。」
と道雄さんは言った。そうやってしっかり反省してくれているのだから、彼も悪い人ではなさそうだった。では何が原因で菅谷友美さんは自殺してしまったのだろう?
「そういうことなら、きちんと反省してくださっているようですし、友美さんのことを、ちゃんと見てくれると思いますので、もし友美さんがこれから寂しいと口にしたら、できるだけ側にいてやってください。もしそれが無理だと思われるのだったら、ペットを飼うとか、なにか対策を立ててやってください。」
蘭は、原因を求めても仕方ないと思ったので、とりあえず彼に今できそうなことを言った。
「ありがとうございます。今回は、友美さんに対する言葉がけが足りなすぎました。これからはもう少し、彼女の訴えを聞いてあげようと思います。ありがとうございました。」
道雄さんはそう言って、椅子から立ち上がった。そして、蘭に頭を下げて、玄関へ出ていった。なんだか背のたかい男性なのに、とても小さく見えてしまった。それくらい力がなくなってしまっているのだろう。まあ確かに人が逝ってしまうというのは力が抜けるが、それが自らの意思で逝ってしまうというのは余計に力がなくなるものである。その光景を友美さんに見せることができなたら、友美さんも自殺をしなくてもいいのではないかと蘭は思うのだが、人間というのはそうはいかないものであった。
「あのすみません。これから友美さんはどうなるのでしょう。それだけ教えてくれませんか?」
蘭は、そう靴を履いている道雄さんに聞いた。
「ええ、とりあえず医療保護入院ということにしていますが、彼女が踏みとどまってくれるには、どうなるのか、僕らも予測がつきません。とりあえず、意識が戻ったら、大渕病院に行ってもらうことにしていますが、でも、どうなるか、僕もわかりませんよ。」
と、道雄さんは言った。蘭は友美さんの持っている問題について知らなさ過ぎたのかと思った。あまりにも明るくて、とてもおもしろい人のように見えてしまっていたから。明るい裏に、友美さんは重大な問題を抱えていたのに違いない。
「じゃあ先生、ありがとうございます。」
と、道雄さんは、頭を下げて蘭の家を出ていった。蘭は、友美さんのことが気になった。なんだか、こうして道雄さんから言われた以上、なにかしなければと思った。とりあえず、一命はとりとめてくれたので、嬉しいと言わなければならないのは確かなので、蘭はお見舞いに行くことにした。すぐに固定電話で、大渕病院に電話をかけてみようかと思ったが、意識が戻っていない患者と面会はできないだろうなと思った。それでは友美さんを知っている友人関係を調べてみようかと思ったが、友美さんは自分には友達が一人もいないと言っていたことを思い出す。なのでこれも無理だと思った。とりあえず顧客名簿に書いてあった友美さんの住所を見て、そのあたりに行ってみることにした。蘭は、すぐに、障害者用のタクシーを呼びだして、友美さんの住所のあたりに行ってみることにした。
友美さんが住んでいたあたりに行ってみると、そこはよくある普通の住宅街であった。普通に田んぼがあって所々に家が建っている。店は確か富士本町の商店街にあると、友美さんが言っていた。蘭は友美さんが住んでいた家を探してみようと思ったが、
「車椅子さんそこで何をしてるの?」
と、通りかかった老人が蘭に言った。
「ああ、あの、すみません。菅谷友美さんのことでちょっと伺いたいことがありまして。」
蘭は思わず言ってしまった。
「そうなんだねえ。あの楽譜屋のお嫁さんのことだねえ。」
「ええ、その菅谷さんですが、どんなふうに生活していたのでしょう?なにか家庭で問題があったのでしょうか?」
蘭はそう老人に聞いてみる。
「まあ問題はどこの家にもあるからねえ。でも心がやんでしまうと、普通のことも、普通じゃないように見えてしまうからねえ。確かにあの女性は一生懸命やってたと思うよ。だけどさあ、世の中ってのはさあ。そういうふうに一生懸命やろうとすればするほど、なんか遠回りになっちゃうようになっているみたいだね。友美ちゃんは、一生懸命やってたけど、よく叱られている声が聞こえてきたもんだ。やっぱり、音楽は好きだというだけじゃ成り立たないってことかなあ。」
呑気な顔をして老人は言った。
「そうですか。なにかトラブルがあったんですね。そういうのを決定させてしまうような。なにかご存知のことはありませんか?こういうときですから、何でも話してください。」
蘭がそう言うと、
「そうか。そういう人物が友美ちゃんの周りにいなかったんだねえ。」
と、老人は言った。
「あのねえ。実はねえ。とてもいいにくいことなんだけどねえ。何でも友美ちゃんが、間違って別の人に楽譜を送ってしまったことがあって、あの仕事熱心な洋一くんはえらく怒ったが、道雄くんは、それはよくある話だからって言って、かばってくれたらしいんだ。それで洋一くんと道雄くんが大変仲が悪くなってしまったと、お母さんがよく嘆いていらした。」
「そうなんですか。そういうトラブルがあったんだったら、なんで、周りの人とか、弁護士のような人に相談しなかったのでしょうか?」
蘭は当たり前のことを言った。
「そうだねえ、車椅子さん。すぐ相談するってことは、なかなかできないと思うよ。」
老人は不意に真顔になってそういった。
「人に打ち明けるって、本当に難しいことだと思うし。」
蘭はなんだか、友美さんが可哀想になってきた。せめて誰かに話してくれれば、解決の道があったかもしれないのに。友美さんは、それでかなり悩んだに違いない。
「確かに、そういうことはいいにくい話ですが、でもどこかで解決しないと人間、いきていけないと思うんですけどね。それはしないで、友美さんは自殺を図ってしまったのでしょうか?」
蘭は、そう老人に聞いてみた。
「ただ黙って見ているのだって、いけないことだと思うんですが?誰かに話すことで、気持ちが楽になることだってあるはずですよ。それなのに、何も勧めてあげなかったんですか?例えば病院へ行くとか、そういうこと、、、。」
「さすが車椅子さんだ。そういうことが言えるっていうのは日頃から、そういうものに触れているからそう言うんだろうね。だけど、友美ちゃんのように何でもできているような人はなかなか人に言うことはできないよね。」
老人は、そう蘭に言った。確かにそうなのかもしれない。友美さんのご家族は、外から見たら、非の打ち所がない家族なのかもしれないし、それはある意味で羨ましがられても仕方ないことだ。それで誰にも聞いてもらえないこともあるかもしれない。
「人っているようでいないんですね。そうやって、家族がいてくれているのに、友美さんの味方になってくれた人間は誰もいなかったじゃないですか。それでは、彼女はどこにも行き場がなかったのでしょう。息抜きをする場もなかったのでしょうね。」
「ああ、わしらの頃は、何でも誰かに平気で話していたもんだけど、今はそれがないから、、、。」
老人は、空を見上げるように言った。
「でも、これからなんとかしていかなくちゃいけないんですから、僕は友美さんのみかたとして、彼女のちからになりたいと思います。おそらく、これから壮絶なガチンコバトルが待っているのかもしれませんし。」
と蘭がいうと、
「あんたさんは、友美ちゃんの何に当たるのかね?遠縁の親戚とか?」
と老人は聞いた。
「いえ、刺青師です。」
蘭は正直に答える。老人ははあという顔をしたがすぐに分かってくれたようで、
「彼女が戻ってきたら、支えになってあげてくだされよ。」
と、ホッとしたように言うのであった。蘭は、こういうこともしなければいけないんだという思いを改めて強く感じたのであった。菅谷さんたちが、そういうアクションしか起こせなかったのであれば、自分にできることをするしか無いのだ。
Nothing 増田朋美 @masubuchi4996
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