密林の教皇
尾崎滋流(おざきしぐる)
密林の教皇
見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。
若き教皇のその言葉に、謁見の間に列席した枢機卿たちは時ならぬ混乱に見舞われた。
故郷よりはるか遠く、この熱帯の密林に壮麗な教会を築き上げた私たちにとって、日記はその組織と教義の中心であった。
もう二百年の間、私たちは日記とともに生きてきたのだ。
教皇が書くその日記に、意味のわからないページなどあっていいはずがなかった。
その言葉を発した時の、教皇ヨシュア三世の表情をよく覚えている。
落水のように流れる長く白い髪と、それと同じほどに白い肌。
まだ少年の面影を残す細面をまっすぐに枢機卿たちに向け、毅然と、しかし何かを恐れるように瞳をかすかに震わせながら。
息を呑む人々の気配の中で、その灰色の瞳がかすかに私の方を向いた。
その視線が何を意味するのか、その時の私にはわからなかった。
何故わからなかったのだろう。
私だけは、その視線の意味をわかっていなければならなかったのだ。
1
「日記の意味がわからないとは、一体どういうことなのでしょう。猊下が、ご自分で書かれたものなのに」
私の疑問に、侍従長は深いため息をついてから応えた。
「お前を呼んだのは、まさにそのことに関してだよ、ジョルジオ。お前に猊下と、そのことについて話をしてほしい。これは枢機卿団の依頼だ」
「しかし、一体何を話せばいいのでしょう」
侍従長は執務室の大きな机に肩肘をつき、金の万年筆を落ち着かなさげに弄んでいる。
その視線は、気まずそうに私から逸らされていた。
教皇が読むことのできない日記のページが発見されてから、教会はこれを非常事態とし、ほとんどの世俗的な職務を停止した。会議も、聖職の任命も、係争の調停も止まり、影響下にある地域に困惑が広がり始めていた。
しかし、教会がその存続の危機に立たされていると知っている者は、まだ多くはなかった。
「お前も知っての通り、このままでは何も立ち行かぬ。今はまだ、この件は公にはなっていないが……もし人々の知るところとなれば、一体何が起こるか想像もつかん。早急に、事態を収拾する必要がある」
侍従長が、ようやく私を見た。
「猊下がお前に特に心を許しておいでなのは、我々みなの知るところだ。側仕えの務めとして、猊下に何か……気にかかることや、お心に障ることなどがないか、確かめてもらいたい」
私は、軽蔑を表すことを抑えるのに苦労した。
一体何を言っているのか。今になって。
教皇ヨシュア三世と私は、神学校の同級生だった。
そこで私は、私たちの神学が紛い物にすぎないことを知った。
かつて、地球規模の気候変動により、人類のほとんどが赤道付近への移住を余儀なくされた時代に、私たちの教会はスマトラの熱帯雨林を切り開いて建てられた。
故郷を追われ、生きる場所の奪い合いに倦んだ人々は狂おしく秩序を求め、千年を超えて続いたかつての教権の後継者を僭称した。咎める者は誰もいなかった。
私たちは神の名を借り、いくつもの宗派から儀礼を借り、あらゆる奇妙な戒律によって救済への道筋をこしらえ、込み入った
密林のただ中に建てられた巨大なバロック様式の伽藍で、私たちの急ごしらえの神の国が始まったのだ。
それから二百年。
たとえ紛い物の信仰であっても、私たちにはそれが唯一の信仰だった。
私たちは、自分を支える枠組みを他に何も持ってはいなかったのだ。
自分たちの歴史の欺瞞を知っていたとしても、ヨシュアも私も、敬虔な神の僕だった。
私たちは神の名の下に自らが許され、そしてこの地に流れ着いた人々が救われることを心から望んでいた。
天井の高い神学校の講堂で、ヨシュアの色素のない髪を初めて見た時のことを覚えている。
──珍しいだろう?子供の時分から、ずいぶんからかわれたものだ。
薄い灰色の、理知的な瞳をこちらへまっすぐに向け、まだ少年だった彼は大人びた言い方をした。
──身体も弱くてね。しかし、今ではそれも神の思し召しだと考えているよ。私のような者が、人々に代わって苦しみを引き受けるのだと。
ヨシュアは私の黒い髪と浅黒い肌を羨ましがったが、私は彼の仄白い髪と肌に見とれた。それはまるで、いにしえの大陸から持ち出された絵画の中の一角獣のように儚かった。
「猊下は……教皇であることを、重荷に感じていらっしゃると思います」
侍従長は、私をじろりと睨んだ。
「思い上がったことを言うな。いいかジョルジオ、お前を側仕えという役職に就けているのは、我々の猊下へのせめてもの心遣いだ。決して、お前の見聞を当てにしているわけではない」
「心得ております」
「お前はただ、猊下のお言葉を確かめればよい。他には何も期待しておらん」
私が冷めた目で見つめ返すと、侍従長は再び目を逸らせた。
「とにかく、猊下が日記をご理解できればそれでよい。たったそれだけのことなのだ」
2
侍従長室を出て階段を降りると、今日も陳情や抗議のために教区から人々が押し寄せていた。
静謐であるべき宮殿に、苛立ったざわめきが立ち込めている。
儀礼と確実さを重んじる教会はほとんどの手続きを対面で行っているので、彼らは島に縦横に引かれた列車ではるばるやって来る。
何日もの間、彼らにとっては意味のわからぬ理由によってあらゆる決裁が滞り、宿から溢れた人々が宮殿のそこここに蹲っていた。
私たちの教会は、教皇の日記を中心として成り立っている。
二百年の間、代々の記憶を継承する教皇たちによって書き継がれた日記は、教会の教義そのものであり、その権威を証すものであった。
日記は厳格な規則と形式に則り、毎日、一ページずつ書かれる。
日々の天候、食事、暦に応じた聖人への祈りと儀式の様子が手短に記され、そして教皇自身の──高度に様式化された──言葉が添えられる。
そこに書かれるのは過去の日記の無限に続く解釈であり、語り直しであり、実践であった。
二千年を経たかつての聖典は、だんだんと顧みられなくなった。
代わりに、私たちの教皇が日記に記したその解釈、そしてその解釈の注解、さらにその再解釈が、己の尾を食らう蛇のように私たちの法となり、難民たちからなる共同体の秩序となった。
2152年5月18日木曜日の日記。守護聖人は聖ヨハネ一世。雲が多く、驟雨が降る。レンガトの教区の分割と、司教の任命についての記述。
2178年7月14日火曜日の日記。守護聖人は聖カミロ。空が赤く染まったとされ、パトモス島のヨハネについて、そして来るべき審判に関連した告解の規則について。
うだるような暑さの神学校の講堂で、私たちは日記の写しを読み、その解釈の過程を辿り、法としての適用を学んだ。
教会管区の管理、税の額と徴収、そして罪と裁き。
私たちの教会は人々の信仰のよすがであり、また相応の世俗的な権力も有していたが、それは常に土地所有者たち、首長たち、商人たちの野心によって脅かされており、ひとたびその権威が揺らぐことがあれば、全てが再び混沌に帰することは明らかだった。
終わりなく連なる書物に埋もれ、ヨシュアは憑かれたように学び続けていた。
──私にはこれしかないんだ。
ある時彼は寂しげに言った。
──父も祖父も、生涯を教会に捧げた。そして私には他にできることはない。力仕事もできないし、人とうまくつきあうこともできない。君くらいだよ、私の友人と言えるのは。
ヨシュアの父も祖父も、教会における地位のある人間で、彼は小さい頃から何不自由なく育っていた。キャッサバ芋の農家の息子である私とは何もかもが違う。
──君は恵まれているよ、ヨシュア。君は飢えたことがない。それに、才能がある。
私がそう言うと、彼は形のいい眉を寄せ、困ったように微笑んだ。
事実、ヨシュアは瞬く間に頭角を現し、聖職の階梯を登っていった。同世代の誰よりも日記を記憶し、理解し、その意味を語ることができた。
しかし私は彼の、何もかもを顧みないような教義への没入が恐ろしかった。彼の姿はどこか、神の名のもとに自己を苛んでいるように見えた。
3
宮殿内にある教皇の公邸へは、椰子の立ち並ぶ庭園を通っていく。
橙色のヘリコニアが植えられた小径を歩いていると、大きな嘴を持ったオオハシが樹から飛び立ち、尖塔の向こうへと消えた。
生垣の間を抜けると、彫刻と噴水を備えた前庭を持つ、白亜のルネサンス様式の館があった。
教皇の居室に通される時に、入れ違いに出てくる者があった。
金髪の巻毛の、小柄な男だ。
「おや、ジョルジオじゃないか。相変わらず浮かない顔だね」
よく知った顔を認め、私はそれが意味するものに驚愕を覚えた。
「フィリッポ……なぜお前がここにいるんだ」
「なぜって、人形師の仕事はひとつしかあるまい。まあ、驚くのも無理はないか。なんといっても、僕の初めての仕事だからね」
青い瞳を挑発するように光らせて、金髪の男が答えた。
行く先に向き直りながら、表情が強張るのがわかる。
「ずいぶん、怖い顔をしているな」
ヨシュアは略式の法衣を纏い、広い応接間で私を迎えた。
こちらを一瞥しただけで手元に目を落とし、手にした枝切り鋏で大きな鉢植えのグアバの剪定をしている。
「人形師と会われたのですか」
「ああ」
「何故です」
「決まっているだろう。必要になるのだ、私の肖像が」
「猊下!」
私の剣幕に、教皇はようやく顔を上げてこちらを見た。
目を合わせて話すのは、ずいぶん久しぶりだった。
「何を考えておられるのです」
「何も考えてはいない。ただ、私は間もなく死ぬだろう」
人形師と会うということは、つまりそういうことだった。
教皇が死去すると、次の教皇が枢機卿団によって選ばれる。それまでの間、教皇の姿を象った人形が御座に据えられる。
肖像と呼ばれるその似姿もまた、日記と同じく教皇の不死性の象徴だった。教皇の不在を、同じ姿をした人形が埋めるのだ。
ただでさえ儚げな教皇の姿が、よりいっそう寄る辺なく見えた。
「なんということを仰るのですか。まさか、お体に何か──」
ヨシュアはまっすぐに私を見つめ返し、その視線に私はたじろいだ。
「今さら取り繕うな。お前はずっと私を見てきたはずだ」
抑えられぬ怒りが、声に滲んでいた。
彼の言う通りだった。
私はヨシュアが何もかもを捨てて学び、教皇たちの日記を血肉としていくのを見ていた。
教皇は代々の記憶を継承するというが、それは特別な技術によって為されるのではない。それは単に、教皇となる者が、受け継がれた日記の内容を己の中に刻み込んでいるというだけのことだった。
心に鑿で言葉を刻むような修練の中で、私は古い君主たちの言葉と法が、ヨシュアそのものを侵食していくのを見ていた。
私は教会が、彼らの残酷な力を最も従順に受け入れた者として、ヨシュアを教皇に選んだのを見ていた。
彼の才能、彼が誰よりも強く持っていたその能力は、
ヨシュアは枝切り鋏をぎりぎりと握り締めていた。
「私はもう、あまりにも多くのものを受け入れた。自分の心が軋んでいるのがわかる。私の中に、古き教皇たちが、教会が、あらゆる支配の力が根を張って、私を蝕んでいる。私は死ぬだろう」
「猊下」
ヨシュアに駆け寄り、その手を取った。
震えているその手は、やはり冷たい。
「私に触れるな。教皇は人に触れぬ」
凍り付いたような言葉に、私は手を離す。どうしていいかわからず、言葉を継いだ。
「日記に、意味のわからないページがあると伺いました」
「ああ……そうだな。読めないんだ。文字は見えるが、何が書いてあるのかどうしてもわからない。奇妙なことだ」
教皇は強張らせていた身体から力を抜き、目を伏せた。
「日記に理解できないページなどあってはならない。他の者が読めたとしても、私が読めなければ同じだ。このままでは、二百年続いた私たちの秩序が崩れるかもしれない。ジョルジオ、お前ならなんとかしてくれるのか」
「私にできることであれば、必ず……日記を、見せてくださいますか」
「聖務室へ行って自分で見るがよい。話は通しておく」
ヨシュアはもう、私の顔を見なかった。
何も言えないまま、私は立ち尽くした。
教皇の姿は、いつにもまして孤独に見えた。
教皇は家族も持てず、誰かと親しく交わることもできず、儀礼で定められた動作以外では他者に触れることもできない。ただ過去の教皇たちの記録をよすがとし、神にのみ仕える存在だった。
私はその姿に背を向け、応接間を辞した。
4
密林を切り開いてできた街に、容赦のない陽射しが降り注いでいた。
真白く陽光を反射する街路を歩きながら、じっとりと汗をかいた私の足は脇道へ逸れていった。
側仕えとして教皇の身の回りの世話をしながら、ここしばらくの間、私はヨシュアとまともに話していなかった。
彼の態度はよそよそしく、必要なことだけを告げるとすぐに自室に籠もった。
久しぶりに目と目を合わせて話したのが、先ほどの会話だった。
ヨシュアの言っていることは、誇張とは思えなかった。
私は、彼がいかに脆い存在であるかを知っていた。記憶を継承したと言えるほどに過去そのものを自分に同化させる過程で、ヨシュアの意識は引き裂かれ、あるいは引き裂かれた後に繋ぎ合わされて、ある特別な形の脆弱さを持つことになった。
それゆえ、何かしらの出来事によって、その精神に、あるいはその生命そのものに、何か重大な影響が現れないとは限らなかった。
いつしか私は、人形師の工房へと辿り着いていた。
「なんだ、君が来るとは思わなかったよ」
フィリッポは心から驚いた顔をして、私を工房に迎え入れた。
代々の人形師が使う工房は、鑿や鉋、錐や鋸など、まるで中世の職人が使うような原始的な道具で溢れていた。
彼らが磨き上げた技量は、教皇が死んだ時にのみ必要とされる。
そのような者たちの工房の中央に、布覆いをかけられた背の高いものが置いてあった。
金髪の人形師が告げる。
「それが、猊下の肖像だよ。もうほとんど完成している。残念ながら、見せてはあげられないけど」
「もう完成しているだと? では、猊下は……」
「しばらく前さ、依頼を承ったのはね」
教皇は、側仕えの私にも知られぬように肖像の作成を依頼していたということだ。
しばらくの沈黙の後、フィリッポが口を開いた。
「おい、ジョルジオ。さっきから見ていれば……お前にそんな顔をする資格があるのか?」
まるで神学校にいた頃のような口調だった。
彼もまた、私やヨシュアと同じ時期に神学校で学んでいた。
北方から移住して来た一族の直系であるフィリッポは、最初から教会での高い地位を約束されていたが、本人は日記や法の解読もそこそこに工芸に興味を見出し、最低限のことを学ぶと退学して先代の人形師に弟子入りしてしまった。
ヨシュアとは別の意味で才気があり、教父たちを挑発するような言動も多かった。
──おかしな話だよな。最初、神は偶像崇拝を禁じていることになっていたんだぜ。どんな聖性も権威も、イメージによって表象されてはならなかったんだ。一体どうやってそれがなしくずしになったか、教えてやろうか──
一族の蔵書の中から教会の教義に含まれない知識を仕込んでは、悪戯っぽい目で私たちに披露した。
「……猊下は、もうすぐご自分が死ぬと仰った。そのことについて、何か聞いていないか」
「知らないふりをするのをやめろと言っているんだ」
フィリッポは作業机の椅子に腰を降ろすと、背凭れに寄りかかって私を見た。
「この教会に生かされている人間は、多かれ少なかれ自分を痛めつけて生きているが……その最たるものが教皇だ。教皇は何もできない。外にも出られず、旅をすることもできず、誰かに触れることすらできない。日記を読んで、書くだけだ」
人形師の目は、神学校にいた頃と同じ鋭い光を放ち、言葉を失った私を見つめていた。
「教皇なんて、まともな人間にできることじゃない。じゃなけりゃ、先代が肖像を二体も作ることもなかっただろうよ。しかし、こんなことを僕に言わせるためにわざわざ来たのか?」
「猊下にも、同じようなことを言われたよ」
「そら見ろ」
金髪の男が、呆れたように顔を覆う。
「おおかた、お前は自分で自分を騙していたんだろう。お前はヨシュアがどんなに苦しんでいるか知っていたのに、知っているということに耐えられずに、自分で自分の目を塞いだんだ。お前がそんなことでどうするんだ? ヨシュアが頼れるのはお前だけなのに」
「私は側仕えの侍従だ。私は私の職務を全うすることしかできない」
ため息が聞こえた。
私はずっと、布を被せられた背の高い像を見ていた。
それは、ヨシュアと同じように、人々の意思と欲望を受け入れる依代だった。
その姿を覆い隠した布の白さが、私を怯えさせた。
5
教皇は、毎日決まった時間に聖務室で日記を書く。
宮殿の中心にあるその部屋には、これまでの教皇が記した日記が全て保管され、厳重に守られている。
私が来意を告げると、侍従長が不服そうな顔で待っていた。
「猊下からお知らせがあった。お前に日記を見せるようにとな」
衛兵の守る扉を通り、奥の書斎に向かいながら、侍従長は聞きづらそうに尋ねた。
「して……猊下のご様子はどうだった」
「ずいぶんと、塞ぎ込んでおられたように思います」
「そうか。日記については何と?」
「何とも……ただ、本当にその日の内容を読むことができないのだと。その日の日記には、何が書いてあるのでしょうか?」
「特別なことは何もない。形式に則った、何らおかしいところのない日記だ。激しい嵐の日で、椰子の木が倒れて東棟の窓が割れた」
思わず、足を止めた。
侍従長が訝しげに振り返る。
「侍従長殿……猊下がお読みになれないページとは、どの日付のものなのでしょうか」
「一ヶ月ほど前のものだ。4月21日だったか」
宮殿を揺さぶる、激しい風雨の音が蘇った。
あの日の雨には傘も役に立たず、ずぶ濡れになった服が公邸の絨毯を濡らした。
そのまま動かない私に、侍従長は苛立った声を上げた。
「何をしている。早く来い」
「申し訳ありません……急に………大切なことを思い出しました」
あっけに取られた侍従長をその場に残し、踵を返して足早に聖務室を出る。
世界が崩れ去っていくような感覚を覚えていた。
これまで信じ、頼みにしてきたものが、ひび割れて塵に還ろうとしていた。
誰かと話さなくては耐えられず、気がつくと再び工房の前にいた。
「どうした、忘れ物か」
扉を開けたフィリッポが怪訝そうに尋ねる。
「フィリッポ、私はどうすればいい」
私の顔をまじまじと見つめ、小柄な金髪の男は深い息を吐いた。
「なあ、ジョルジオ。たかが二百年だよ」
フィリッポは肩をすくめて続ける。
「神の御子がお生まれになったのは二千三百年前。僕らの祖先が、ここに住んでいた人々を追い出して、紛い物の聖堂をこしらえてからはたったの二百年だ。取るに足らない年月だよ。それに……メシアの時間においては、全ての歴史は一点に凝縮して向かい合う。君にとっては、今がその時かもね」
言葉を継ぐこともできない私をよそに、金髪の男は部屋の奥へ向かい、抽斗の中をかき回して戻って来た。
「誰も使わないから、お前にやるよ。裏の納屋にある」
彼が差し出すものを受け取り、まだ考えをまとめられぬままに、言葉を絞り出した。
「私は罪を犯そうとしている。いや……もともと罪は犯していたんだ。でも、さらに……」
「より善く生きるための行いは、罪ではない。そして何人も、悲しみによって人を支配してはならない。罪ではなく、喜びのために生きろ。スピノザが言っていたことさ……もう行くんだろ? 元気でな」
私は彼の不敵な青い目を見下ろし、頭を下げた。
「ありがとう、フィリッポ」
「そうだ、これも持って行け」
踵を返そうとした私に、フィリッポが大きなものを投げて寄こした。
慌てて受け止めると、分厚い本だった。
6
教皇は毎日決まった時間に公邸を出て、聖務室へ向かう。
その時間を狙って、私はヨシュアを迎えに行った。
爆音が鳴り響き、教皇が目を丸くして立ち竦む。
芝生を蹴散らし、石畳から埃を巻き上げて、焼けるように熱せられた大型四輪駆動車を公邸の玄関に横付けした。
車高の高い運転席から、教皇を見下ろす。
「ジョルジオ……」
「猊下、お迎えに上がりました。一緒に来てください」
「一緒にって、どこへ」
「教会を出ます」
白い髪に覆われた顔が絶句した。
運転席のドアを開け、車を降り、慌てる侍従たちを退けて教皇の正面に立った。
内燃機関が獰猛な唸りを上げ続け、宮殿の静寂を乱している。
「あの夜、猊下は泣いておいででした」
「何の話だ」
「4月21日の、嵐の夜です。猊下が、読むことのできない日記を書かれた日です」
法衣を纏った華奢な身体が強張るのがわかる。
「あの夜、猊下は、私に傍にいてほしいと仰いました。だから私は、翌朝まで猊下の部屋で過ごしました」
「嘘だ」
「嘘ではありません。実際に起こったことです」
私はヨシュアの手を取った。
冷たい手。
「嘘だ。あってはならないことだ」
「だから、お忘れになったのですね」
教皇は、息を呑み、呆然と私を見上げた。
ぶるぶると震えながら、灰色の瞳の中で像が結ばれようとしていた。
すり切れた意識が、痛みとともにその糸を紡いだ。
ほんの数秒のうちに、教皇は老い、死に瀕し、そして生へと這い上がった。
熱帯の陽が西から射し、過去の影を未来へと灼きつけていた。
「それゆえ……私は、あの日の日記を読めなくなったのだな」
教皇の身体からふっと力が抜け、まるで縮んだかのように見えた。そこにいるのは、もはや教会の至上の君主ではなく、一人の若者にすぎなかった。
「私はただ、自ら為したことから目を背けていただけだったということか。情けない」
「そうではありません。猊下は戦っておられました」
噛み締めるように、言葉を続ける。
「猊下は、日記の理解を拒むことで、教会から逃れるきっかけを自ら作られたのです」
俯いていた顔が上を向き、視線が視線に応えた。
握った手を、ヨシュアが握り返した。
「ジョルジオ。傍にいてくれるか」
「はい、猊下」
咎めるような目に、私は言い直した。
「一緒に行こう、ヨシュア」
ヨシュアは頷くと、ふと我に返ったかのように、周囲を見渡した。
「私がいなくなったら、皆困るであろうな」
「大丈夫です。あれを置いていきましょう」
私は四輪駆動車の荷台を指した。
そこには、白い布に覆われた大きな包みが積んであった。
7
宮殿を出るまでに、四つの車輪は鋼鉄の唸りを上げながら、いくつもの門柱と、花壇と、彫刻を破壊した。
いまその車輪は、密林の中、舗装されていない道を力強く進んでいる。
「すごい振動だな」
助手席で、ヨシュアが周囲を見回しながら言った。
「車とはこういうものです。これは骨董品の部類ですが」
「フィリッポらしい。どこで手に入れたのやら」
石油で走る乗り物が、いまだ人の住まない森に煙を吐き出して走っていく。
轢き潰された灌木の立てる音が、内燃機関の咆哮と混ざり合う。
横目で窺うと、ヨシュアは背後に走り去る木々をずっと見つめていた。
「教会から遠く離れたら、我々は、我々がここから追いやった者たちによって責められるであろうな」
「そうかもしれません」
「私が教会で犯した罪など、その罪の前では些細なものかもしれん」
「どのような罪であっても、それを償いながら生きるのが私たちの務めです」
「簡単に言いおる……」
ヨシュアは背凭れに寄りかかり、ため息をついた。
そのような表情は、神学校にいた頃以来、久しく見ていなかったように思えた。
その時ヨシュアが、計器盤の下に押し込まれていたものを見つけた。
「これは何だ?」
シフトレバーの上で重なっていた手をほどき、ヨシュアがそれを引っ張り出す。
「ああ、フィリッポの餞別です」
「本か」
「ええ、
「聖書か」
白く細い指が、その本の薄いページをめくった。
密林の教皇 尾崎滋流(おざきしぐる) @shiguruo
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