秋に鳴らす鍵盤
長月瓦礫
秋に鳴らす鍵盤
朝から雨が降り続く。リズムは不規則で、壊れたピアノのようだ。
追いつけない。つかめない。雨は容赦なく俺を叩きつける。
バイト先に連絡を入れるのも忘れて、道路をただ眺めていた。
彼女は俺を置いてバスに乗った。
旅人は連れて行けない。それだけ言って、彼女はいつものようにバスに乗った。
俺は傘をさすのも忘れ、立ち尽くしていた。
今までの思い出ががらがらと崩れる。
これからどうしよう。
バイトに行ってもこんな状態じゃ何もできない。
かと言って、家に帰っても誰もいない。
いっそのこと、旅に出るべきか。
行ったことがないような遠い場所とか。
けど、また逃げてるだけって言われるのかな。
いつ成功するかも分からない。人生から逃げているだけ。
早く就職しろと言われたし、そのための努力もしたけど叶わなかったなあ。
鈍色の雲は厚く、手は届きそうにない。
ただ、冷たい雨が降り注ぐ。
穴があったら入りたい。バラバラになった俺を埋めてくれる穴があればいいのに。
そこのマンホールの蓋とかいきなり吹き飛ばないかな。
道路が真っ二つに割れて地面が抉れて、そこに落ちてしまいたい。
誰か俺を殺してくれ。これ以上、何をすればいいのか分からないんだ。
「あの、すみません。時刻表見たいんですけど」
「あ……はい。すぐどきます」
一歩引いた瞬間、後ろに倒れ込んでしまった。
足に力が入らない。もうダメだ。
思っている以上にダメージを受けているようだ。
「大丈夫ですか?」
「……」
「あの、聞こえてますか?」
後ろにいた女の人はしゃがみ、傘をさした。
「すみません、本当に。
俺のことは気にしないでください」
「でも、すごい濡れてるじゃないですか。
このままだと風邪ひいちゃう……よかったら、使ってください。
もう間に合わないかもしれないけど、ないよりいいと思うので」
俺にタオルを差し出した。
まっすぐ見つめる瞳を見て、それを受け取った。
涙か雨か分からない何かが頬を伝う。
一度でも流れると止まらない。
「何かあったんですか。救急車? 警察?
どっちか分からないけど、代わりに連絡しましょうか?」
俺の肩に手を置いて、冷静に話しかける。
自分の肩には傘を置き、もう一方の手にはスマホを持っている。
俺が濡れないように、どうにかしようとしている。
驚くでもなく、真剣に問いかける。
「……フラれたんです」
「振られた? じゃあ、どこかケガしてるんじゃ」
「そうじゃなくて、彼女にフラれたんです。
旅人は落ち着かないから、面倒見切れないって……そういってバスに乗って会社に行ったんです。いつもみたいに」
つい口からこぼれ出た。
ザックを背負っていないのに、後ろを振り返ってしまった。
彼女は人がいると落ち着かないと言っていた。
外出自体、あまり好きじゃなかった。
だから、俺がいつも出かけていた。
家にいないから不安でしょうがないって言われてたっけ。
せめて、一緒に時間を過ごしたいと思ってバスの時間は合わせたんだけどな。
こまめに連絡を取ったり、近場を散歩したり、そうでもしないと繋ぎとめられなかった。
元々、合わなかったんだな。考え方とかいろいろと。
今になって気づくとは、本当に愚かな奴だ。
傘をさしてくれた彼女は申し訳なさそうに目を伏せる。
「……ごめんなさい。こういう時、なんて言えばいいのか分からなくて。
全然無事じゃなかったんですね」
スマホを両手で握りしめる。
悲しいことに、どこにも通報できない。
壊れた心は放っておくしかない。
時間がかかるが、それが一番だ。
「もうちょっとしたら、立てると思うので。
俺のことなんか気にせず、どうか行ってください。バス来ちゃいますし」
「そんな、置いていけませんよ。
こんなにひどい顔をしているのに」
ひどい顔か。涙は止まらないし、ぐちゃくちゃで何も落ち着かない。
情けない奴だ。困っているじゃないか。
助けてもらったのに言葉が思いつかない。
まごまごしているうちに、俺の肩に傘を置いて立ち去った。
手の届かない鈍色が消える。わざわざ置いて行ったくれたんだ。
「これ、返さないと……」
あの人がどこに行ったのか、まるで見当もつかない。
一旦、家に戻るか。バイトはまた探せばいい。
俺は手足の感覚を確かめながら、立ち上がる。
地面は崩れていない。コンクリートは案外、頑丈らしい。
「あ、元気が出たんですね。
よかったら、これどうぞ」
彼女は安心したような笑顔を向け、俺に温かい缶コーヒーを手渡した。
手のひらに少しずつ熱が戻る。
「何で……」
「寒くないんですか? 今日は一日、こんな感じみたいだし」
彼女は空を見上げる。俺もつられて顔を上げる。
雲は分厚いが、雨は少しだけ弱くなっていた。
「私、両角紅緒っていうんです。
傘は今度返してくれれば、それでいいので」
「両角さん、ですか。俺は東雲冬樹です」
「東雲君ね。それじゃ、今度はゆっくりお話ししましょう」
そういって両角さんは手を振って、バスに乗って行った。
向かう方向は違う。いつか、傘を返さなければならない。
未だ残る缶コーヒーの熱を感じながら、俺は家路についた。
秋に鳴らす鍵盤 長月瓦礫 @debrisbottle00
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