第三話

 気づけば幾月か過ぎ、街は静けさを取り戻していた。雲一つも無い、秋晴れが続いていた。弥助は平蔵の信任をさらに厚くし、おはなと共に箏を習いつつ奉公人としての腕前を一層磨いていた。弥助はよわい十六にして額直しを目前に控え、名実ともに男になろうとしていた。箏のような弦楽は女の基礎教養であって、道を究める目的が無ければ半元服間近の野郎が習うものではない。しかし、大津屋の一人娘の希望で弥助は箏を習っていた。この頃弥助は、おはなと二人だけで習い事に向かうようになっており、他の女中と同等以上に、おはなの側用人としての地位を高めていった。

 おはなが伊勢参りに行きたいと言い始めたのもこの時期であった。家族が伊勢に参ると言えば、それを止めることがかなわない時勢であったから、すんなりと希望は通った。そして付き添いは弥助になった。

 

 出立の朝、早く目覚めた弥助は、庭を白く染める霜に肌寒い秋の朝を感じていた。箒が地面をこする音が軽やかに感じられ、ことに清々すがすがしい心持であった。

「はやいのね弥助」

「ああおはつさん。もう支度も終えました」

「そう、あと少しで来るから待ってなさい」

 そう言っておはつは、逃げるように家の中に戻っていった。

 しばらく一人でいると、おはなは玄関から出てきた。同時におはつと平蔵が玄関先にまで渡ってきていた。おはなは見違えるほどに豹変ひようへんしていた。結っていた髪は変わらず、見慣れぬ色の軽装に、かさをかぶった姿は、一挙におはなの存在が弥助に近づいたように思わせる様であった。

「行って参ります」

「行ってらっしゃい。お気を付けて」

 女中たちはおはなの言葉にさみしげな声色で返事をした。

「弥助。頼んだぞ」

「はい」

 弥助は、平蔵の重々しい一言に、下宿初日のそれとは全く別の含蓄を受け取った。既に下男の弥助ではないのだと悟った。

 雲一つ無い秋晴れの朝を、二人は歩き始めた。



 旅はすこぶる順調であった。普段からよく走る役回りであったし、長旅に関しては経験があった。そして何より、主人の言葉が弥助の背中をたくましく成長させていた。

 家を出てから四日目の朝、宿を出る時であった。

「弥助、あとどれくらいで着くの」

「ゆっくりいけば、伊勢の手前で一泊してすぐ、明日の朝には着くと思います」

「あとすこしね」

 既に三日間歩き詰めており、おはなの脚が持ち上がらぬほどの疲労を抱えているのは明確であった。そんな中、到着の待ち遠しさをひしひしと感じ得る質問と、されど付いて歩くおはなの姿に、弥助は、けなげな少女の愛らしさを見た。弥助は一層歩調を合わせるのに意を注し、旅路を進めていった。

 日暮れ頃、二人はにぎわいを確かめながら伊勢の町を進んでいき、早々と宿を決め夜を過ごした。

 

 翌早朝、二人は宿を後にし、目の前に迫った伊勢神宮へと向かった。砂利道を進んでいくと、奥から物々しい空気が襲ってきた。両脇にそびえる神木の数々が空間を洗うように木漏れ日の林道を作り、圧倒された参拝者はおのずと口数を減らし、神妙な雰囲気に加担している。

 二人は心臓を鳴らし、奥の本殿へと進む。とうとう手を合わせんとする時、弥助は、おはなとは目を合わせた。

「おまいりしましょう」

 弥助の一声で二人は手を合わせ、ぱんぱんと示し合わせたかのように拍手はくしゆと礼を繰り返し、最後に手を合わせる。

 しかし本宮を前に弥助は、隣のはなが気になり、横目に彼女の顔を覗き見た。どこか既視感のあるその姿は、弥助に強い印象を残した。疲れているはずのその横顔は、なぜか生気を取り戻しているようであった。弥助には想像し得ない事柄を念じているのであろうと分かった。何を想っているのだろう、などと考えながらぼうと眺めていると、とうとうはなが目を開けてしまった。

「どうしたの。お詣りするのでしょう」

「ああ、すみません」

 彼女の言葉に弥助は我に返った。

「そうとう疲れたのね、弥助」

「そうかもしれません」

「お詣りなんてこれくらいでいいわ。街の方へいきましょう。これからが本番よ」

「ああやっぱりですか、そうですね、いきましょう」

 二人は街へと下っていった。

 しかし、晴々とした様子のおはなと異なって、弥助はお詣りをなおざりにした事実が頭から離れず、本殿を背にして歩く間に、危機感に似た違和感を脳裏に認めていた。



 伊勢の出立よりはや二日、歩くばかりの観光旅行の中で唯一の楽しみといえば、人混みのある町中を散策する時や、旅籠での一汁三菜のみであった。一方で、帰路に着いてからは事情が変わっていた。往路では何につけても節制を主張した弥助も、参拝を終え、急ぐ理由を失ってからは、おはなに旅の主導権を奪われていた。

「おいしそうなおもちじゃないかしら、弥助」

「昨日食べたのとそっくりじゃないですか」

「仕方ないのね、弥助は食べたくないの」

「さすがに贅沢ぜいたくがすぎると思いますよ」

 伊勢街道は餅菓子の宝庫であった。行きしなに目もくれず歩いていたおはなは、余裕を得るや否や、天真爛漫てんしんらんまんな少女へと豹変し、街のそこかしこにある餅菓子に釘付けになっていた。しかし、それでも弥助の制止を受け入れつつある彼女の態度が、弥助に、二人の関係が少しずつ、着実に変わっていることを実感させていた。

「ねえ弥助」

「はい」

「お風呂に入りましょう」

「お餅はいいんですか」

「弥助が止めるからじゃない。いいのよ、そんなの」

 弥助は、おはなの急激な気の変わりように動揺した。

「もうそろそろ昼を下がりますから、早く見つけましょう」

「そうね」

 そうして周りを眺め始めた二人であったが、弥助がふと見た彼女の横顔は、内宮で見た神妙な面持ちを保っていた。


 銭湯を見つけた弥助は、日の暮れきる前には店を出た。しばらくして、おはなが店から出てきた。

「お待たせしたわね」

 弥助ははっとした。おはなは髪を綺麗きれいに結っており、実家の頃と変わらぬ姿になっていたのだ。あじけのない旅化粧が、この時ばかりは趣のあるように思えた。そして同時に、湯船につかる前、横目に映った若い湯女ゆなたちを思い出した。

「いえ。今出てきたばかりです」

「あら、それじゃあ弥助、あまりにも長湯じゃないかしら」

「気持ちよかったですからね」             「そうね。いきましょう」

 様変わりした容姿とは反対に、おはなの返事はあっさりしていると思った。

「そうだ、お餅も食べたいわ」

「お風呂に入ったじゃないですか」

「そうじゃないわ。今度の宿ではお夕餉作ってくださらないんでしょう」

 旅費の節約のため、宿泊のみの安く済む宿に決めていたことを弥助はすっかり忘れていた。

 二人は見かけた餅屋で少しだけ腹を満たし、足下に気を付けながら宿へと向かった。


 二人は宿に着くと、お金を払う間もなく早速部屋へと案内された。部屋に着くなり、他の客との相部屋ではないことを強調して告げられた。

 弥助はきょとんとせざるを得なかった。流されるように案内され、気づけばおはなと二人取り残されていた。部屋は広くはないが布団を敷く暇はあり、ここでもまた、行燈が真暗まつくらな空間をおぼろげに照らしている。未だに残る疲労と空腹感が余計に弥助の思考をにぶらせていた。

 

「弥助」

 密室に放たれた一声は、一瞬にして弥助を覚醒かくせいさせた。そして身体も一挙に興奮し、鋭いまなざしは、たかのようであった。しかしそれは当然、単に名前を呼ばれたからというだけで起こったのではない。彼女の声色に、これより起こり得ることを鮮明に予期したからであった。返事はできなかった。しかし不都合は無いと思った。おそらく彼女ももう、すべてを悟っていたのであろうとも思った。

「もう寝ましょう、弥助」

「はい」

 弥助は言われるがまま、みつの香りに誘われていった。


 出立から十二日が過ぎた頃、和泉に着いた二人は、女中と居合わせた平蔵の多くの親族に厚くもてなされ、旅の無事を祝った。

 二人揃そろった所に平蔵が歩いてきた。

「弥助、どうだった」

 平蔵の声色は温かなものであったが、浮かれたものは含まれていなかった。至って真剣であった。弥助はその真意をくみ取り、一層精進して参ります、と返した。


 年が明け、弥助は十七になった。この年は、とりわけおはなとの一夜を経てから、順調そのものであった。顔を合わせる機会こそ少なくなっていたものの、弥助とおはなの関係は確固たるものになっていた。長く二人を知る大津屋の人間も、二人の関係の確固たる様を認めていた。二人の奏でる箏曲の数々は、さながらつがいの鶴のような艶美えんびさと壮健さをたたえていた。可憐な二人の運命を疑う者は、平蔵を含め一人としていなかった。


 伊勢の参りからすぐ、かなり遅れた弥助の額直ひたいなおしが行われることになった。遅れたのは、言わずもがな例の参詣のためである。秋になればもう時期ではなかろうと、繁忙期を避けて年を越した半元服になった。

 当日になるまで、弥助の頭の中では旅の記憶が浮き沈みしていた。不器用な会話の記憶は、きめ細やかなおはなの発声を再現し、時折弥助はそれに返事をしてみせた。しかしそうして記憶を辿めぐる旅は、内宮での彼女の横顔を見て終わるのが常であった。

 髪を整えるその日も、日増しに虚妄に変わる彼女の像を思い返していた。狭い座敷に押し込められた弥助は、手早くがれた頭髪とともに、自らの青さを落とした気でいた。同席していた平蔵は、何をするでもなく、じいと弥助を見つめていた。

 弥助の知る半元服は、手代の役を委嘱される儀礼であった。店の中での地位が上がるのを、弥助はひっそりと喜んでいた。

 着替えを済ませた弥助は、平蔵への挨拶の言葉を考えていた。しかしいざ平蔵に会った時、よろしくお願いしますの言葉が出るのは反射的であった。平蔵もすかさず返事をした。家に来た時のやり取りとはまた違った緊張を、弥助は感じ取っていた。それは単に、り上げて浮き彫りになった青白い奴頭やつこあたまの頭皮にかすめる、そよ風のせいでもあったかもしれない。


 気づけば幾年が経ち、寒さも過ぎた迎春正月の頃であった。稽古で通った河川敷は、こげ茶と桃色のまだら模様に変わっていた。

 弥助はよく背を伸ばし、身体にはしたたかな筋が浮き彫りになり、半元服を済ませた面には、一片の幼さも残っていなかった。しかし、弥助の意識がたくましく変化した自らへと向くことはなかった。


 おはなの発育は劇的であった。部屋に入るたびに、豊満になった彼女の身体を、弥助は四肢の先端にまで鮮明に感じていた。

 屋敷はいつの間にか魅惑を放ち、佇む女性は、絶世の美貌びぼうを体得していた。時折響く箏の音は深山幽谷の情緒をあらわにし、夕顔を唄う声は、みやびの真骨頂を貫く天女さながらであった。

 おはなはあまりにも刺激的であった。件の夜から、彼女は駆けるように刺激的になっていった。もはや、弥助の意識が他所へ向くことはなかった。

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