第四話

 暑さ残る長月二十六日のことであった。稽古が無い平凡な日で、弥助は夕餉の配膳ではなく、日々量を増していく落ち葉の掃除をしていた。

 弥助がさっさと音を立てながら箒を動かしていくうちに、座敷の奥から箏の音が聞こえてきた。二人は姿を見せずとも、箏の音色と箒をはく音で、互いの存在を認めていた。風も無く、ただ静けさに二人の意識のみがあった。弥助は、この昼下がりの雰囲気がことに心地よかった。

「弥助、急いで店へ行っておくれ」

 草履の擦れる音と共に、弥助へ緊急の要件が押し寄せてきた。

「どうしたんですか」

「いいから急いで」

 弥助は箒を放り、走って平蔵のいる大津屋へと走った。箏は依然として緩やかな音曲を奏でている。

 大津屋まで行くと大きな駕籠かごが目に入った。玄関を開き、紺色の暖簾のれんをくぐると、見慣れない格好の小僧が平蔵と話していた。

「弥助が参りました」

 喫緊の応援と察した弥助は、話を遮るように呼びかけた。

「弥助、今日は店につとめてもらうぞ」

 平蔵はなおも具体的な要件を言わない。

「なにがあったんですか」

流行病はやりやまいでほとんどの医者がやられたらしい」

「どうしたらいいですか」

「しばらく藩庁にもるから、風邪薬のあきないだけは任せる。記帳も見まねで構わん」

「はい」

「じきに町にも流行りは来る」

「はい」

 弥助は即答した。半元服以来、普段から店での経験を積んでいた弥助は、平蔵に跡取りとしての才覚を認められていると自覚していた。よって、確実に家を継ぐためにも、この依頼は今後の進退を決定づける一世一代の機会であると確信したのだ。

 既に平蔵は俯きながら草履を結んでいた。

 駕籠舁きは平蔵を駕籠に乗せると、掛け声と共にそれを持ち上げ、通りを駆けていった。弥助はそれを見送っていた。

 駕籠舁かごかきの面影が消えると、一斉に静寂が戻った。

 気づけば、箏の音は聞こえなくなっていた。


 平蔵が店を空けて以降、日に日に店への来訪が増した。仕事はどれも小売りのための調合ばかりで、平蔵が送ってくる薬草の類いから薬を作るのが主な内容である。弥助はどんどんと薬を混ぜ合わせ、紙に包み、記帳することを繰り返したが、休む暇を失っていった。時折思い起こされるのは、平蔵が迷い無く弥助に店を任せると言った初秋の昼下がりであった。

 いつもと変わらぬある日、背丈が五尺に満たぬような男が店に訪ねてきた。

「薬草のお届けに参りました」

 おそらくいつもの発注である。

「ありがとう。こっちへもってきておくれ」

「はい」

「伝票はあるかい」

 ひとしきり内容を確認し会計を始めると、男が口を開いた。

「弥助さんですか」

「ああ」

 弥助は片手間に返事を返した。

「平蔵さんに弥助さんの手伝いをしろと頼まれました」

 男の言葉に、弥助は一瞬にして全身の毛が逆立つのを感じた。余計なことをされたと思った。しかしその予期せぬ出来事の前に、弥助は存外冷静であった。縄張りを守る本能が、一瞬の動揺も許さぬ使命感を働かせていた。弥助は、平蔵の冷静さを思い出し、平蔵のようにどっしりと構えた。

「そうなのか」

 弥助は顔を上げて男の顔をよく見た。

「名前はなんて言うんだい」

「小太郎です」

「歳は」

「十五です」

「分かった。小太郎、とりあえずこれをしまってくれ」

「弥助さん、すみません、やり方を教えてください」

 弥助は小太郎の言葉に少し戸惑った。思い返せば、弥助は薬屋として働くまで、平蔵や実家の酒屋での仕事を見て学んだだけであった。一から人にやり方を教えるというのが、なんとも不思議な感覚だった。

「これはこう紙に包んでやってだな」

「はい」

 小太郎は顔をまっすぐに向けて聞いてくる。従順な子犬のようだと思った。


 毎日増えていく仕事量に対面するうち、二人の一挙一動は似ていき、次第に師弟していの間柄を認めるようになっていた。しかし、ひとたび客がいなくなれば、兄弟のようであった。

「兄さん。あそこに猫がいますよ」

「黒猫に横切られるとよくないらしいな」

「ああ横切りやがった」

「ああ」

 小太郎は歳の割には幼さの残る声色である。


 さらに二十日余りが過ぎた頃であった。

「弥助、帰ったぞ」

「旦那様」

 平蔵の帰還は、実に二ヶ月ぶりである。

「店は大丈夫だったか」

「ええ何とか」

 平蔵の目線の先が小太郎に移る。

「小太郎は大丈夫か」

「弥助さんにいろいろ教わりました」

 三人が同時に顔を合わせるのは初めてであるが、既に全員が顔見知りであるから会話がとても迅速である。

「藩庁は地獄だったぞ」

 二ヶ月の出張の割に、平蔵は大丈夫そうだと思った。

「旦那様、私らどうしたらいいですか」

 雑談を遮るように弥助が聞く。

「弥助にはきちんと商を教える。小太郎もよろしく頼むよ」

 小太郎の奉公は既定きていのことであった。弥助には小太郎の去就きよしゆうが予想外であった。騒動のための一時しのぎではないのかと。しかし徐々に違和感は消え、弥助は弟分ができたことにこの上ない喜びを感じていった。


 平蔵の帰還の頃、季節は秋を過ぎ、冬を迎えていた。そして同時に、店の様子が一変した。

 大津屋は件の功績により、藩御用達ごようたしの薬屋となることで一層繁盛し、気づけば平蔵に加え、弥助、小太郎も店を守るようになった。主に店番をした弥助は、箏の稽古に通うのが難しくなり、家事や外役は小太郎が任されるようになった。そしておはなの侍従は、いつしか小太郎が務めるようになっていた。

 弥助はすっかり大人びており、小太郎も弥助を見習って、頼もしくなっていった。弥助は、家業を任されるようになったことに、自らの成長を確かめていたが、成長を実感する要因はそればかりでなかった。


 それからしばらくして、客人の来訪も増えた。多くはやはり取引先の問屋や仲買なかがいといった連中であったが、店ではなく屋敷の方に向かう者もいた。それらの者は新たに増えた人脈であるとは簡単に察しのつく話であるが、見送りのたびにげっそりとする女中や平蔵の様子を見るうち、一階の座敷での会合が、何か物凄く恐ろしいものに感じられるようになった。弥助は敢えてそれらとは距離を置いていた。今でなくても良いだろうと、暇ができるたびに脳裏をよぎる不安げな平蔵の顔を、弥助は、将来への展望で上塗りしていた。

 他方、弥助は中庭の掃除の後、何度か例の座敷の側を通ることがあった。が、締め切られた座敷を見るのは今日が初めてであった。その部屋は、おはなの座敷とは全く違う近寄り難い様相を呈していた。戸の前でふと足を止めた弥助は、妙な興味が湧き起こるのを感じた。耳鳴りがするほど静かな屋敷の中で唯一、かすかに男の声が響いている。弥助は思い出したように右足を差し出し、驚くほど冷たい床の上に添えた。左足はかかとを上げ、己では制御できないほど震えている。屈み込んで、隙間に目をやり、見えたのは男だった。しかしただの男ではない。弥助に背中を向けて座る男は、左脇に刀のさやを備えていた。顔も見られぬその男には、そのためか圧倒的な迫力があった。

「小太郎も弥助も、まさに素晴らしい才覚を持っておりますから、どちらも一人前の番頭ばんとうに成長しておりまして、この前も──」話していたのは平蔵であったが、その語り口は異様に饒舌じようぜつで、まるで追い詰められた動物が絶叫するように、言葉をたたみかけていた。男は微動だにせず、黙ってそれを聞いているようだった。やがて男が口を開いた。「あの丁稚はどうするんだ」「ええ、はあ」男の問いかけは、平蔵の喉元に刃の切っ先を向けるような鋭い殺気を持っていた。平蔵は瞬時に口ごもり、切り裂かれるようにして会話が途絶えた。弥助は、まるで拷問のような光景を前にして、一刻も早くこの場を離れなければならないと思った。しかし凍てつく床に縛られた身体のために、かろうじて土間に向けられたのはその視線だけであった。そしてその視線が一度男の背中から離れた途端、戸の隙間は二度と覗けなくなっていた。弥助は、鉛の身体を引きずるようにして屋敷を抜けた。弥助は禁忌たる密会を垣間見てしまったのだ。



 皆が新たな環境に慣れた雪の日であった。

「誰か医者を呼んで。誰か」

 店番をしていた弥助は切迫した女中の声を聞いた。

 ただ事ではないと、膝を伸ばして立ち上がろうとした時、玄関から小太郎が駆け込んできた。

「旦那様が倒れました」

 弥助は一気に心拍が速まるのを感じた。

「医者を呼べ」

「はい」

 考える間もなく弥助は動いていた。

 小太郎は店を飛び出し、平蔵の元へと迷わず向かった。現場に着くと平蔵は自室で女中たちに囲まれ、両手をついて俯いていた。どうやら意識はあるらしい。弥助はすかさず駆け寄った。

「少し疲れただけだ。心配はいらんよ」

 弥助の姿を見るなり、平蔵が言葉を発した。がしかし、弥助は嘘だと確信した。あの秋を乗り越えた平蔵が意識を失って倒れる事態をここまで軽視するはずがないからだ。弥助は秋の流行り病からの平蔵を思い返した。思えば最近は平蔵が店番をする頻度もその時からどんどんと減り、平蔵が店にくる機会は、弥助たちへ細かい調合や仲買とのやり取りを教える時に限られていた。平蔵との関わりが減ったことで、体調悪化の兆しを見落としていたのだ。

「旦那様。わしらはどうしたらいいですか」

「安心して店を回してくれればいい。今も店を開けているんだろう。物取りが来る前に店に戻れ弥助」

 弥助はこの言葉に違和感も予想外も無かったが、しかし、それは考え得るうちで最悪の事態であった。平蔵が病に倒れるということは、つまり弥助の婿入りを支持する後ろ盾がいなくなるということであった。弥助は、心臓をむち打ちにされるような苦悶くもんを感じていた。弥助には強盗に襲われるような、恐怖にも思える絶望であった。弥助はその場から動けなくなっていた。

「旦那様は休んでください。医者がすぐに参りますから、もうしばらく横になっていてください」

「お布団を敷きますから」

 女中たちは平蔵の言葉から正反対の含蓄を受け取り、予想外と言わんばかりに焦りを募らせていった。

 弥助はつられるように、膝を支える力を失っていった。

 しばらくした後、小太郎が医者を連れ、横になっている平蔵の枕元へと近寄っていった。

 二人はひざまずき、平蔵の診察を始めた。時折、平蔵が小さな声で小太郎と話しているのが見えた。弥助はこの時、女中と共に遠くから様子を伺っているだけであった。意識の方向は平蔵の健康のことよりもむしろ、今後への不安が際限なく増幅していることにあった。それはひとえに、弥助の将来がほとんどこの平蔵という不安定な男に委ねられていたためである。

 というのも、小太郎が店の人間になる以前は、大津屋の跡取りは暗黙のうちに弥助であると決まっていた。しかし、平蔵の心持によっては、弥助の将来が危惧される事態になったのである。

 つまり、弥助にとっての将来とは、和泉大津屋の跡取りになるか、よくできた奉公人になるかの二者択一であり、その選択権は平蔵に存するのである。弥助はその事実を悟っていた。しかし、弥助には、平蔵の信認に任せて、大津屋を引き継ぐ決心がついていたというのもまた事実であった。とどのつまり、弥助の震えとは、婿養子になる将来への不安というよりも、その出世の既定路線に入った傷によるものであったのだ。

 弥助は依然として立ち尽くすばかりであったが、その眼球もまた、鋭くある一点をのみ凝視していた。


「弥助兄さん。旦那様、とりあえず大丈夫だって」

「ああ」

 弥助はただ返事をしたつもりであった。しかし、その声色は、獲物を守る獣の威嚇いかくを思わせる恐ろしいものであった。 小太郎はそれをいさめるように口調を強めて言った。

「旦那様は大丈夫です。あとは医者とおはつさんたちに任せましょう」

 しかし、弥助は返事もせずに部屋の出口へと急いだ。弥助の脳裏では依然、小太郎と平蔵がひそひそと話していた。

 耐えきれず部屋を後にしようと、現場から逃げきる直前、弥助は服を強く引っつかまれた。

「やすけ」

 震えるその声は、おはなのものだった。

「大丈夫ですから安心してください」

 瞳孔が開ききり、黒曜石のように深い闇を抱えたおはなの瞳に脅され、弥助は酷く投げやりに口を開いた。しかし、本当にその言葉は父親を失いかけている少女にかけるべき言葉であったろうか。一度契りを結んだ男女のあるべき会話であったろうか。

 再び歩き始めると、おはながすすり泣くのが聞こえた。

 玄関を出た頃には遅かった。冷静さは降り積もった純白の雪によって呼び起こされた。

 弥助は焦燥感に駆り立てられて二階を見上げた。

 かろうじて見えたのは鈍重な雪雲であった。

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