第五話

 深雪の師走しわすは唯、新春を切望する頃であった。

 平蔵は二階の座敷に籠もりきりになり、ともすれば誰とも顔を合わせぬ日も増えていた。侍従じじゆうは弥助の役であった。

 ある日の夕刻、弥助は看病のために座敷を訪れていた。弥助が一人、平蔵の枕元にて和紙に包んだ薬を片付けた頃であった。まさに退出の挨拶をせんとする時、突如として平蔵が口を開いた。

「なあ弥助。頼むぞ」

 弥助はざざざと悪寒がした。ただの悪寒ではない。

 弥助はその場に釘付くぎづけになった。固唾かたずを呑み、時が動くのを待つ他無かった。

 平蔵が震えるように深呼吸をするその一瞬一瞬間に、弥助はこれから起こる事故を予知し、待ってくれ、誰を頼むと言うのだ、と、何かを念じていた。唯一動く心臓は喚くようにどくんどくんと、脈動を強めていった。

 無言の祈りは届くはずもなく、平蔵の深呼吸が生んだこの間が、最後通告であることを示していた。

「小太郎を、頼んだぞ」

「はい」

 無念であった。

 ああ。これはいけない。

 弥助は寝込みを襲われたような絶望を突き付けられた。名を呼ばれたその刹那せつなのうちに、予期していた最も不都合な未来に直面したのだと確信した。弥助は緊張した筋繊維が鋼になって畳と固着したのを感じた。そして次の瞬間には、膝から腐って倒れていった。

 返事をするつもりが、ああ、と嗚咽おえつのような悲鳴が上がった。

 二体のしかばねが止めた時間は、寝たきりの死体の言葉で動き出した。

「すまない」

「え」


 この日、弥助は、これ以上の記憶は無い。忘れたのか、故意に失ったのか、あるいは、そもそも記憶がねつ造されたものであったのか、なぜかどれも当てはまるような喪失感であった。いずれにせよ、たった一つ、とてつもない、しかしやり場の無い悔恨の念があったことをのみ鮮明に覚えている。


 如月きさらぎ九日。寒さの残る小夜さよであった。

 弥助は小太郎の婿入りの媒酌人ばいしやくにんとして礼装を整えていた。

 晴天事足りず、着物を脱いだ裸体は、深夜の和泉に肌寒さを覚えた。しかし弥助の体心は、平常通りであった。

 着替えながら、弥助は和泉での出来事を思い返していた。

 しかし思い返されるのは、危篤となる前夜、平蔵が残した謝罪の一言に、平蔵の断腸たる心中を察し得ないでいた、後悔の記憶ばかりあった。



 平蔵の死後、大津屋は全く新たな組織に変容したと言って良かった。

 ある程度の規模になる大津屋が、武家や他の大規模な商家と隔絶され、庶民ばかりを相手に商売を行えていたのは、思えば特異であったのだ。

 大津屋が守られてきたのは、すべて平蔵の意志のためである。これはおそらく平蔵の出自に起因するのであろう。

 弥助の父と同輩であった平蔵は、和泉から見れば片田舎の出身であって、さらに重ねれば父と同じく貧しい元商家の身分でもあった。余裕の無い平蔵は、弥助と同じく身ぐるみ一丁で大津から和泉に渡って来たのだ。

 しかし、平蔵が弥助の場合と根本的に異なったのは、和泉に渡ってきた時に、弥助にとっての平蔵になり得る存在がいなかったことである。

 弥助が、新天地に慣れるまでの日々にそれでも正気を保っていられたのは、ひとえに故郷を感じ得る大津屋の存在が大きかった。特に和泉の商人の言葉は、その独特の口調が、時に異邦人を圧倒することもある。女中や平蔵に早くから親しみを感じ得ていたのは、平蔵のその言葉の中に理由があったのだろう。

 縁の無い異国の地で、その言葉、文化に順応することの難きを、弥助はよく知っていた。よって平蔵が和泉に来た時に、頼るあての無い身の上で、薬屋を開き、娘のおはなを育て上げるまでに至る道程には、言い尽くし得ないほどの災苦があったろうと、直感的に想像し得ていた。

 そして、そうした成り上がりの物語の中で、平蔵が目にしたのは、風俗の差異ばかりでなく薄汚い大人の欲であった。葉の上のつゆのような希望を掴み、数多あまたの苦難を超えて築き上げた大津屋の地位を、尊ぶばかりか、金の匂いを鼻で嗅ぎつけ、続々と群れる連中は、平蔵にとって、汚らわしい虫けらと差異は無かった。大津屋の名は、故郷大津を一層想いしのんで付けられたのだ。そればかりか、大津の地に住む旧友に直接縁談を頼むことからも分かるが、平蔵は、金に虫食むしばまれきっていない大津の、その地でかろうじて守っていた純粋無垢じゆんすいむくな縁に、この上ない思慕しぼの念を抱いていたのだ。つまり、弥助が招かれたこの事実が、白無垢の大津屋を守りたいという、平蔵の頑強たる意志によって為された計らいであったのだ。

 そして、その計画は、弥助の半元服に従って、成功を間近にしていた。

 大人になった弥助とはなとを見て、一番に喜んだのも、やはり平蔵であったのだ。


 しかしある時、平蔵が守り通してきた大津屋のじようが破られる事態が起こった。

 例の流行病のあった秋である。

 そういった経緯があるため、平蔵は商売の相手は慎重に選んでいた。特に武家の連中とはなるべく関わりを持たないようにするなど、過分に嫌っていた節もある。そういった姿勢が、かえって連中の反感を買っていたかもしれない。いずれにせよ、騒動の最中さなかに、商家の息のかかった藩の大命によって、半ば強制的に関わりを持たされたのである。

 そしてどさくさに紛れてやってきた、商家の息子、丁稚小太郎は、同じく大津屋にとって、平蔵にとって、そして弥助にとって、まさに刺客であった。

 具体的にどのようにして小太郎を受け入れるに至ったのかは平蔵しか知り得ないことである。しかし一方で、小太郎の家は二十四組の一つであり、大名貸だいみようかしや巨額の冥加みようがを納める桁違いの大店であった。果たしてそれが、平蔵の嫌うような商家であったのかは、実際は分からない。しかし、会談のたびにやつれていく平蔵を見て、死に際の言葉を聞いて、弥助が取りつく答えは一つであった。




 着替えを終えた弥助は、甘い匂いに気づき、窓辺に目をやった。そこには真白な水仙すいせんが数本だけ生けてあった。弥助は、その硬い茎を強く握り潰すようにして折り、青臭くなった右手を袖に隠して階下へと歩き始めた。

 廊下を進み、階段を下る。ぎしぎしと音を立てる床板が、人だけがいない廊下の静けさを強調している。弥助は座敷の前に到着した。足を止めると、宴会の喧騒けんそうが鮮明になった。



 長旅であった。長い長い旅であった。それでいて、目的地に到着しない旅であった。

 そして今、目的地は眼前にある。

 両手を差し出しておもむろに戸を引き開ける。向こう側には一対の目的地が佇み、弥助の到着を待っている。期待通りにつがいを前に座す。一礼の後、慣例にしたがって赤色のさかずきに清酒を注ぎ、男へ渡す。

 そして白無垢の女がそれを受け取る。


 長旅であった。長い長い旅であった。それでいて、目的地に到着しない旅であった。

 弥助はどれだけこの瞬間を待ちわびたであろうか。あの白無垢の横に並び、盃を交わすのをどれだけ渇望したであろうか。

 弥助のはらわたは冷たく凍り、一点のみが弥助を生かしていた。

 ありし日の思い出である。

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大津屋の花 / 古川R太郎 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei

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