大津屋の花 / 古川R太郎 作

名古屋市立大学文藝部

第一話

 春一番が過ぎる頃、弥助やすけ和泉いずみの国へと向かっていた。十四にして初の孤独な長旅となり、大津おおつから二日余、両脚は持ち上がらぬほどの疲労を抱えていた。大坂街道の最後の宿場を抜け、障子を閉めた木戸番をやり過ごし、残すは目的の薬屋を見つけ出すのみである。しかし、既に夜が更け時が経ち、初見の建物を見つけ出すのは困難であった。弥助は一層足早に駆け、目を凝らし、大津屋を探した。

戸上とがみ町大津屋」

 住所を思い浮かべながら、ある家の前で弥助の足が止まった。両開きの玄関を抱える大きな間口はいかにも商を行う様であり、薬屋であることを誇示するその風貌ふうぼうは、弥助に箪笥の大群を想像させていた。圧倒され、卒然暗闇を意識してしまった弥助は、たじろぎながらその戸をたたく。

「こちらで世話になります弥助です。戸を開けてくれやせんか」

 間口の広さの他に手がかりが無いため、とかく戸を叩いて様子を見てみることにした。

 しかし仮にここが大津屋だとして、本来は日の暮れぬ前に訪ね、その日のうちには奉公人としての立ち居振る舞いを見て学ぶべきであるが、弥助が戸を叩いたのは夕暮れと行燈あんどんの明かりの懐かしい夜更けである。女中がいたとして、戸を開けるような者がいるだろうか。まして、名の知らぬ丁稚でつちの来訪となればなおさらである。仕方ないので弥助は、あたりにし良い場所を探すことにした。重い足を運び、横目に薬屋、隣の家、といった具合で探り始めた。

 右に向き少し歩いた先には土の床しかないと分かった。弥助はその場で引き返すと、薬屋の左隣に立派な屋敷を見つけた。軒先に石畳の床と張り出た屋根があり、格好の寝床であろうと思われる。

 弥助は思わず腰を下ろしそうになったが、ふと思い立ち、忍び足で近寄り、生垣の奥の方をのぞき見た。

 ほんのわずかに明かりが見えた。弥助は、引き返すことができなかった。開け放しの障子と雨戸の隙間すきまから覗く、ゆらゆらと揺れる蝋燭ろうそくの明かりに、微妙な魅惑を感じたのだ。弥助はそのまま半歩進んだ。夜虫のごとく、誘われるように屋敷の奥を見た。頭を少しずつずらし、二枚の間に蝋燭の火の中心が重なるように動く。そして三寸左にずれた時、弥助ははっとした。見えたのは女であった。おそらく十三、四くらいであろうか。白色の肌着を身にまとい、異様に薄い肌色の手櫛てぐしで、長く大人びた黒髪をけずられている。

 彼女の横でたすきを掛ける女は、おそらく髪結いである。いとも珍しい時刻であると思った。

 うつむいた顔と、ほぼ閉じた細目は今にも横になりそうな様相であるし、既に眠っているのかもしれない。しかし、弥助は、その様子に異様な妖艶ようえんさを覚えた。弥助は動けなくなってしまった。そして同時に光源氏の垣間見を思い出した。極秘に覗き見る女は、初めて見る女の像をさらに厚塗りにした。一瞬のうちに思考が巡り、気づけば心拍が速まっていた。男四兄弟の末っ子で、女気の無かった弥助にとって、精通にもなり得る衝撃であった。薄暗い畳の上でぽつりとたたず可憐かれんな花に、弥助は見事に誘われたのだった。


 朝日が身体を温め始めた頃、弥助は活動を始めた。東西に延びる大通りであるため、早くに日が差していた。弥助はおもむろに立ち上がり、眠たげにふらふらと左右に揺れながら薬屋の戸の前へと向かった。

「朝早くにすみません。大津から来ました弥助です。戸を開けてくれやせんか」

 予期していたことだが、やはり反応は無い。弥助は再び寝床へと歩いていく。すると、屋敷の玄関から襷を掛けた女が戸を開けて出てきた。

「弥助さんでしょう。中へいらっしゃい」

 卒然、女は弥助の名前を呼んだ。

 弥助は思わず目を覚まし、ふらふらと揺れるのをやめ、直立不動になった。大津屋の女中であるのがすぐに分かり、弥助は一層どきりとした。

「とりあえず着替えなさい」

 そう言われるがまま、弥助は女のいる部屋へと行き、阿波藍の綿服に着替えた。そして、間髪入れず女中と共に別の部屋の前に向かった。

「旦那様がいらっしゃるわ。挨拶あいさつが済んだらお勝手に来てちょうだい」

 弥助はこくりとうなずいた。それを見た女中はすぐに奥に呼びかけた。

「弥助が参りました」

「入れてくれ」

 低い男の声に呼ばれ、弥助は部屋へと入る。

 部屋の奥には濃紺の着物をまとった壮年の男が胡坐あぐらをかいており、その左脇に少女が座っていた。主人と思われる男を正面に凝視する弥助は、目の前の男を旦那の平蔵へいぞう、横目に映った彼女をお嬢さんのおはなであろうと察した。弥助はすかさず挨拶を始めた。

「お世話になります。弥助です。よろしくお願いします」

「おお、しっかりしてるじゃないか。よろしく頼むよ」

 何か話が飛んでしまっているように感じたが、父のつてで進んだ話だから、おそらく二人の間で話があったのだろう。平蔵はすぐに続けた。

「仕事は今のおはつたちに聞けば分かる。とりあえずは生活に慣れなさい」

「はい。ありがとうございます」

 ありふれた挨拶を無事終え、退出しようとしたその時であった。

「弥助? 一緒に住むの?」

 少女が呼び止めてきた。

「はい。ここでお世話になります」

「今度一緒に遊びましょう」

 話しかけてきた彼女は間違いなくくだんの女であったが、しかしその髪を結った姿は衝撃的であった。複雑に結われた髪は昨晩見られなかった透明なうなじをあらわにし、一挙に彼女を成長させたようであった。そして、大人びた姿に対しその顔立ちは思いの外幼げであった。弥助は昨夜の女と目の前にいる少女を重ねると、その差異に震えるような心地よさを感じた。しかし震えるばかりの弥助は、見とれていて返事をし損なってしまった。無返事のために勢いを失った彼女は、探るようにして言葉を続けた。

「ええっと、そうね、弥助はおことは弾けるのかしら?」

「いえ、まだ弾いてみたことはありません」

「ああそう、じゃあ今度教えてあげるわ」

「ええ。ありがとうございます」

「そういえば弥助は何が好きなのかしら」

「団子が好きです」

「違うわ。できることを聞いてるのよ」

「ああ」

「そうよ」

 弥助の歯切れの悪い返事が、二人会話に少しの間を生んでしまった。のどにつっかえた言葉はすぐに口へと戻ることはなかった。弥助は、心の中でも「ああ」と気まずさを吐露した。「朝の仕事がありますので、失礼します」

「ええそう」

 知り合ったばかりの主人の前で少女との会話を続けることに少し引け目を感じ、さらに店番の無いのを見るに、おそらく到着の遅れた弥助を待っていたのだと思い、多忙を装い、感謝と謝罪を交えながら会話を切り上げた。弥助は足早に部屋を出た。


 弥助は女中と共に朝餉あさげの片付けを始めたが、最中、平蔵の顔を想像していた。弥助が女に慣れていないように、おはなも男や同年代の子供に慣れていないようであった。互いにとっての初めてであるのかもしれない。そんな会話を見て平蔵さんはどのような顔をしていたのだろうか。などとぼうと考えていた。

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