大津屋の花 / 古川R太郎 作
名古屋市立大学文藝部
第一話
春一番が過ぎる頃、
「
住所を思い浮かべながら、ある家の前で弥助の足が止まった。両開きの玄関を抱える大きな間口はいかにも商を行う様であり、薬屋であることを誇示するその
「こちらで世話になります弥助です。戸を開けてくれやせんか」
間口の広さの他に手がかりが無いため、とかく戸を叩いて様子を見てみることにした。
しかし仮にここが大津屋だとして、本来は日の暮れぬ前に訪ね、その日のうちには奉公人としての立ち居振る舞いを見て学ぶべきであるが、弥助が戸を叩いたのは夕暮れと
右に向き少し歩いた先には土の床しかないと分かった。弥助はその場で引き返すと、薬屋の左隣に立派な屋敷を見つけた。軒先に石畳の床と張り出た屋根があり、格好の寝床であろうと思われる。
弥助は思わず腰を下ろしそうになったが、ふと思い立ち、忍び足で近寄り、生垣の奥の方を
ほんの
彼女の横で
朝日が身体を温め始めた頃、弥助は活動を始めた。東西に延びる大通りであるため、早くに日が差していた。弥助はおもむろに立ち上がり、眠たげにふらふらと左右に揺れながら薬屋の戸の前へと向かった。
「朝早くにすみません。大津から来ました弥助です。戸を開けてくれやせんか」
予期していたことだが、やはり反応は無い。弥助は再び寝床へと歩いていく。すると、屋敷の玄関から襷を掛けた女が戸を開けて出てきた。
「弥助さんでしょう。中へいらっしゃい」
卒然、女は弥助の名前を呼んだ。
弥助は思わず目を覚まし、ふらふらと揺れるのをやめ、直立不動になった。大津屋の女中であるのがすぐに分かり、弥助は一層どきりとした。
「とりあえず着替えなさい」
そう言われるがまま、弥助は女のいる部屋へと行き、阿波藍の綿服に着替えた。そして、間髪入れず女中と共に別の部屋の前に向かった。
「旦那様がいらっしゃるわ。
弥助はこくりと
「弥助が参りました」
「入れてくれ」
低い男の声に呼ばれ、弥助は部屋へと入る。
部屋の奥には濃紺の着物をまとった壮年の男が
「お世話になります。弥助です。よろしくお願いします」
「おお、しっかりしてるじゃないか。よろしく頼むよ」
何か話が飛んでしまっているように感じたが、父のつてで進んだ話だから、おそらく二人の間で話があったのだろう。平蔵はすぐに続けた。
「仕事は今のおはつたちに聞けば分かる。とりあえずは生活に慣れなさい」
「はい。ありがとうございます」
ありふれた挨拶を無事終え、退出しようとしたその時であった。
「弥助? 一緒に住むの?」
少女が呼び止めてきた。
「はい。ここでお世話になります」
「今度一緒に遊びましょう」
話しかけてきた彼女は間違いなく
「ええっと、そうね、弥助はお
「いえ、まだ弾いてみたことはありません」
「ああそう、じゃあ今度教えてあげるわ」
「ええ。ありがとうございます」
「そういえば弥助は何が好きなのかしら」
「団子が好きです」
「違うわ。できることを聞いてるのよ」
「ああ」
「そうよ」
弥助の歯切れの悪い返事が、二人会話に少しの間を生んでしまった。
「ええそう」
知り合ったばかりの主人の前で少女との会話を続けることに少し引け目を感じ、さらに店番の無いのを見るに、おそらく到着の遅れた弥助を待っていたのだと思い、多忙を装い、感謝と謝罪を交えながら会話を切り上げた。弥助は足早に部屋を出た。
弥助は女中と共に
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