第二話

 数月が経過した頃、食事の配膳はいぜん、文の配達のような、小間使いを任されるようになった。み込みの早い弥助であったから、間もなく器用にこなすようになり、女中たちとも信頼を築き得ていた。弥助は仕事が苦でなく、むしろ大津屋が問屋とんやと受発注を交わす際の配達は、薬屋の建物に入る唯一の機会であり、呼ばれるのを待ち遠しくするほどであった。

 ある時弥助は例の如く平蔵に呼ばれた。いつもの配達であろうと思いながら店の正面玄関から中に入っていく。

「弥助です。どうなさいましたか」

「おお、弥助。今日は走ってもらわなくていいんだがな、お前ここの生活には慣れたか」

「はい。おかげさまで」

「そうか。実は、お前がよう働いてくれるもんで、女たちが楽になったと喜んでいてな。働きぶりに免じて、少し早いが休みをやろうと思う」

 思わぬ要件に、弥助は驚き顔を作った。

「休みといっても、一日だけはなと遊んでやってもらいたい」

「はい」

 それが休みなのかどうか弥助は少し違和感を覚えたが、休暇といえど初の経験であり、箏を教えてもらうんだろうかなどと思うと、少しだけ緊張があった。

「明日はゆっくりしてくれ」

 しかし、弥助は心持が良くなっていた。休みをもらったことや、平蔵と話をできたこと、仕事ぶりを認められたことが理由だったかもしれない。しかし、どうにもそれだけの理由では収まらない気もした。


 翌早朝、弥助はいつもの時間に起きた。寝相でずれた布団を手早くたたみ、白い襷を肩から脇へくるくると渡しながら井戸に水を汲みに行った。たる一杯の水を土間へと運び終えると、おはつたちが食事の準備を始めていた。

「弥助、ご苦労さん。もうしばらくしたらお嬢さんのところへ行ってらっしゃい。庭でほうきをかけていてくれれば誰か呼びに行くわ」

「はいおはつ姉さん。今日はよろしくお願いします」

「ごゆっくり」

 初日に案内をしてくれた女中のおはつと気持ちよく挨拶を交わした後、言われた通り、箒で落ち葉枯れ枝を端に寄せていた。ほとんど砂利じやりを固めるばかりだったのは普段からよく掃除がなされている証左であった。

「弥助や、おいで」

 先輩の仕業に見惚みほれ、浮かれている平穏な時間は、奥からの一声によって打ち砕かれた。

「はい」

「箏を教えてあげるわ。こっちへいらっしゃい」

「ありがとうございます、お嬢様」

 言われるがまま、草履ぞうりを縁側に置いて、姿は下男のまま畳に上がった。そうしてすだれの奥に見えたのは、紅の着物に身を包んだ女性であった。

「こっちよ」

「はい」

 弥助は想像よりも大きな箏の前に座った。

「最近は一曲弾けるようになったのよ。聞いてちょうだい」

 弥助が座るやいなや、おはなは筝曲そうきよくを数曲披露してみせた。弥助はほうほうと意味ありげにうなずきながら、聞き入っていた。

 演奏会が終わると、おはなは箏について話し始めた。

「見てみなさい。こうやって調弦すればこの音はニの音になるのよ。一つ上げれば何の音になるかしら」

「ホの音ですか」

「そうよ。よく分かったわね、弥助」

「いろはの順だとは心得ておりました」

 ただのはったりであるが、弥助は自信ありげにそれらしいことを言ってみたのが、存外上手くいったので、少しうれしかった。

「そう。じゃあこの二つのつめをつけて弾いてみましょうよ」

「ええ」

 そうしていきなり彼女は、僅かに意地を張っているような声色で、右手の箏爪ことづめを外し始めた。二尺先に延ばしていた左手をひょいと引き戻し、右手の親指と人差し指につけた黒色の爪輪つめわ象牙ぞうげの爪をぎゅうと抜いてみせた。暗がりの中で見た白色のいじらしげ指が活発にそそくさと動く様が、なんとも心地よい。腕の動きに合わせて揺れ動く深紅の着物も真白な手腕によく映えている。弥助は、彼女のほんの瞬間の所作に心を奪われ、一時を千年に感じていた。

 弥助はもらった箏爪をはめようとしてみた。

「こっちが親指よ」

「ええ、でもおはなさん、すこし輪が小さいと思いますよ」

「あら。弥助の手が大きいのよ」

「そうですか」

「ええそうよ」

 そう言って彼女は指先を上に向けて右手を差し出した。弥助も慌てて左手をぴったりと合わせるように重ねた。瞬間、弥助は不意にはっと声を漏らした。自分でも分からぬ力が、喉の奥に湧き出たのに驚いて我に返った。

「思った通りだわ。大きいのね。お父さんに頼んで弥助の箏爪も作ってもらわなくっちゃ」

「ええ、ありがとうございます」

 なにげなく返事をした弥助であったが、しかし思い出したように慌てて加えた。

「いやでも私はここの丁稚ですので」

「いいのよ。作ってもらうだけよ。今度また一緒に弾きましょう」

 弥助はそれ以上言葉を発しなかった。

「弥助や。いつまで親指につけているの」

 弥助は目をパチパチさせながら右手の親指に意識を向けた。

「そんなに弾きたいのね。一度やってみましょうよ、ほら、こっちへいらっしゃい」

 弥助は箏の前の空いた場所に座ってみた。

「そうよ。どこでもいいからちょんと弾いてみなさい」

 今にも外れそうな爪をぎゅっぎゅと押し込みながら、それらしく両手を開き、十三本の弦の上一面にあてがった。弥助は勇気を振り絞って弾く。

「つうん」

 妙に響きの良い、気の抜けた音が鳴った。同時に箏爪が外れて転がった。かと思えば左隣から大きな笑い声が飛び込んできた。

「あは。ああおっかしい。弥助、おもしろいわね、ほんと」

「いやあ、やっぱり爪が小さかったんですよ」

 破顔一笑、弥助の緊張は一気に砕け散った。彼女はさらに大笑いをしていた。弥助もつられてやはり笑った。

「絶対に箏はやりましょうね」

「いいんですか」

「ええもちろん」

 弥助は、心の通じ合うのを悟った。

 この時の二人は、既に主従の関係にはなかった。



 例の休暇からすぐ、弥助は新たな仕事を得ることになった。

 おはなは箏を師匠の元へ習いに通っていたのだが、これが定期的に外を歩く唯一の機会であるので、だいたい女中がかわるがわる付き添いをしていた。

 それからすぐに箏爪の件が平蔵へと伝えられた。おはなと弥助が仲良くなったことを察した平蔵は弥助が付き添いに行く機会を増やした。

 ことに、昼下がりの送り迎えは、主人、侍女、侍のわらわといった調子で小旅行するのが日課となっていた。

 ある日の稽古けいこの送りの最中である。

「ねえ弥助」

「はい」

「弥助も箏を弾いてみない?」

「そうですね」

 弥助は少し生返事を返した。

「あら、意外ね。きっぱり断るのかと思ったわ」

 普段の弥助であれば自らの身の上を理由に丁重に断るはずだが、町中につり下がっているちょうちんの数々に気が散っていたのだ。

「ああいや、すみません、ぼうとしていたもので。私は箏なんか弾けやしませんよ」

「ええ。やっぱりあきらめきれないわ」 

 そう言って、いつもの通りを、雑談を交えつつ歩いているうち、目的地に着いた。

「弥助、手を出して」

「はあ」

 そう言って両手を差し出すと、彼女はたもとから小さな巾着きんちやくを取り出した。弥助はそっと受け取った。

「中を見てみなさい」

 弥助はおもむろに中を覗いてみた。

「ええ、はい」

 中身は四角い象牙の箏爪であった。弥助は目を大きく見開いて、おはな、はつの順に顔色をうかがった。

「そうよ。あなたの箏爪よ。さあいきましょう」

 一呼吸おいて弥助は尋ねた。

「おはつさん、本当にいいんですか」

 侍女はこの上なく優しげな顔で肯いた。弥助は、笑顔でいっぱいのおはなの勢いを殺さぬよう、最大限に大きく、手早く侍女に一礼をし、そしてすぐさま振り返って二人並んで門をくぐっていった。

 弥助は幸せを受けすぎているような気もした。しかし、主人の一人娘がここまで乗り気であるのならば、と、納得した。


 稽古の終わり、弥助は部屋の入口で尋ねてみた。

「本当によいのですか」

「ええ、さっきまで楽しそうに弾いていたじゃない」

「いいえ、きっともう緊張で真剣な面持ちでしたよ」

「そうかしら、とっても楽しそうだったわよ」

 二人は談笑を交わしながら廊下を歩いていた。

 玄関を抜けた頃、おはなが口調を変えて言った。

「私が箏を弾ける仲間が欲しかったのよ。気にしないでちょうだい」

 弥助は冷静になって、仕事を思い出してみた。彼女が箏を弾いている間は、確かに夕餉ゆうげの支度と、箒を片手に持て余す自由な時間があった。弥助はおはつたちの顔を想像し、葛藤かつとうさいなまれながら帰路についた。

 既に夕日は夕焼けをつれ西に沈んでいた。

「ねえ弥助」

「はい」

「今日は縁日かしら」

「どうもそのようですね」

 昼間に見たちょうちんに火がつき、淡い光を放っていた。

「ちょっと寄っていきましょう。」

「もう夕餉の準備ができていますよ」

 すぐに侍女が声色を最大まで柔らかくして諭した。いたいけな彼女の横顔は、おはつの言葉のために頬が膨らんでいた。

 一方弥助は、縁日を歩いているというだけで満足した心持であった。あたりを暖かに照らすちょうちんの群衆によって、歩く町並みはさながら浄土であった。唯一人を想い、愁いを一切感じずにいた。

 気づけば、弥助はおなつを通り越して、おはなと二人並んで歩いていた。後ろで影を隠して歩く侍女は、微笑ほほえみを隠しきれないでいた。

「ねえ弥助」

「はい」

 不意に、少しの沈黙が生まれた。おはなの呼びかけに「はい」と返事をするだけの、ありふれたそのやり取りが、中途に終えられてしまった。しかし、そこに気まずさは無かった。おはなはそれっきり何も言わなかった。別に何という理由は無い。ただ彼女は、隣に歩く男の名前を呼んでみたかったのだ。弥助も彼女も、それを悟っていた。弥助は、この上ない幸せであると思った。彼女は、夏に不似合いな純白の頬をほんの少し赤らめながら、何かをかみしめるような表情で、まっすぐ前を向いて歩いていた。弥助も同じくその先を望んでいた。その先には、いいにおいを放つ団子屋があったかもしれない。

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