回春 / はつね 作
緋櫻
回春
今日の天気は、花曇りというらしい。
ハナは桜の大木の下のベンチに座って、ペーパーバックをめくった。河川敷に位置するこの公園は、絶好の読書場所だ。ここで子供たちの声を聞きながら読書をすることが、ハナの楽しみだった。
「今日も元気ねえ」
子供たちの歓声が聞こえて、ハナは微笑む。そのままページをめくろうとしたが、風が強くて中々めくれない。
悪戦苦闘していると、一人の男が近づいてきた。
「お待たせ。読書中かい?」
優しそうな男の声に、ハナは顔を上げて微笑んだ。
「もう、遅いわ。貴方があまりにも長い間待たせるから、こんなにおばあちゃんになっちゃったじゃない」
男は肩をすくめる。少しからかうような様子だ。
「それは申し訳ないな。でも君は元からそんな感じだった気がするけどね」
「まあひどい。どうして私はこんな悪い人を待っていたのかしら」
ハナが頬を膨らませると、男は慌てて謝った。
「ごめんごめん。やっと会えて嬉しくて、つい調子に乗ってしまったんだ。……許してくれないかい?」
男が機嫌を伺うように見つめる。男の態度が気に食わなくて、ハナはそっぽを向いた。
「さあどうでしょう。四十年も妻を待たせた旦那さまだもの、一生許されないかもしれないわね」
「ハナ。一生なんて言わないでくれよ。一生君と仲直り出来なかったら、僕死んじゃうよ」
ハナは困ったように眉を
「知らないわよ。私は今怒ってるの。第一貴方もう」
「ハナ、本当にごめん! 君が可愛くて調子に乗ってしまったんだ。どうしたら許してくれる?」
男が頭を下げる。本当に反省しているらしく、角度が最敬礼だ。男の態度にハナは口をとがらせた。
「……貴方って人は、本当にずるいわ。そんな風に言われたら、許すしかないじゃない」
ハナの独り言は春一番にかき消されてしまったらしい。男は不思議そうに首を傾げた。
「え? ごめん。なんて言ったか分からなかった。もう一回言ってくれないかい?」
男の返事に、ハナは首を横に振る。
「なんでもないわ。そうね、チョコレート奢ってくれたら許してあげる」
男は目を見開いた。ハナのお願いが意外だったようだ。
「いいけど……それだけでいいのかい?」
「いいの。それがいいの」
ペーパーバックを閉じて、ハナは男を見上げる。
「ずっと夢だったの。貴方と横に並んでチョコレートを食べるのが。このお願いを叶えてくれたら、貴方のことを許してあげる」
ハナが男の目をじっと見つめると、男はにっこり笑った。
「……もちろん。何個でも食べよう」
男がハナに手を差し伸べる。ハナはゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「ええ。楽しみだわ」
二人の間を桜の花びらが駆け抜ける。ハナの髪に花びらが乗った。男は気づいて指を伸ばす。
「ハナ。髪に桜がついているよ」
「あらやだ」
ハナは自分で花びらをつまんだ。瑞々しい花びらと
「随分時間が経ったのね」
「時間が経っても君は綺麗だよ」
ハナの心中を知ってか知らずか、男は甘い言葉を吐く。ハナはこの男の
せめてもの反撃がしたくて、ハナは男に話しかける。
「……知ってる? 若い人たちは、こういうの、デートって言うらしいわ」
「そうなのかい? じゃあ今日は君とデート出来て嬉しいよ」
男の言葉に、ハナは口を曲げた。また喜んでいる自分に気づいてしまったからだ。全く、この男には昔から敵わない。
お願いに隠されたハナの気持ちを男はきっと知らない。ハナが彼と過ごした時代は、チョコレートが贅沢品だった。贅沢は素敵じゃなくて敵だった。
戦場に赴いた者は餓え、都会に住む者は飛行機から逃げ惑う。人の死を目の前に、自分の願いを口に出せなかった、あの時代。まだ乙女だったハナの気持ちを、彼はきっと知らない。
○○○
ハナと男は、とある田舎町に住んでいた。
戦争の真っただ中の婚姻だった。急な見合い結婚だ。つまり、男の両親は愛息子に結婚の幸せを味わわせてやりたかったらしい。
戦場で命を終える前に。
「君がはじめに言ったこと、僕は覚えているよ」
男が笑う。
「あまりに冷たい対応だから、すぐに分かったよ。ああ、この子は結婚したくなかったんだなあって」
「それについては申し訳なく思ってるわ」
ハナは目を逸らす。図星だったからだ。
○○○
『私は貴方のものになるつもりはないから』
彼のもとに嫁いだ日、ハナはきっぱりと宣言した。盗み聞きをしていた両親が卒倒していたのを思い出す。
『貴方のものにはならないし、貴方に一生を捧げるつもりもないから』
ハナにはどうしても叶えたい夢があった。目標に向かって
○○○
「あの時は裏切られた気持ちでいっぱいだったのよ」
ハナは笑いながら目を閉じる。
○○○
だが、青年は予想外の反応を示した。
大爆笑したのだ。
『何で笑うのよ⁉』
『ああすまない、あまりにも真っすぐだから眩しくて』
『何よ眩しいって! 馬鹿にしてるの⁉』
ハナが立ち上がると、青年は真剣な顔で言った。
『してないよ。笑ってしまって本当に申し訳ない。ただ、親の期待に従って生きてきた自分と違って、自分の意志を貫く君はすごいなと思ったんだ』
ハナは中腰のまま、青年を見つめる。
『君が大きな夢を持っていて、ずっと努力をしていることはご両親から伺ってる。こう言っちゃあなんだけど、幸い僕の家にはお金がある。こんな奥まった田舎町だ、餓えや爆撃に遭う心配もない。君の人生を縛るつもりも毛頭ない。僕は君の夢を応援するよ。
……だから、ハナさん。僕と結婚してくれないかな』
○○○
「あの日は凄く頑張ったなあ」
男が目を閉じてしみじみ言った。
「あのときの僕、格好良かったでしょ?」
「そうねえ」ハナは口を開く。「凄く頑張ってるのが伝わってきたわ」
「手厳しいなあ」
男が苦笑する。ハナはすまし顔で呟いた。
「貴方の言葉に惹かれたわけじゃないもの。貴方の行動に惹かれたのよ」
○○○
『……お帰りなさいませ』
上がり框で三つ指をつくハナを見て、男は困惑したように眉を下げた。
『えーっと、これはどういうことかな』
『どういうことも何も』ハナは顔を上げて自分の夫を見つめる。
『私は妻で、貴方は私の夫。つまり主人でしょう。普通、妻は帰ってきた主人を迎えるものじゃないんですか』
男はハナの言葉をポカンとして聞いていた。
『聞いてるんですか。口が開いていますよ』
男は慌てて口を閉じた。そっぽを向いたその耳は赤い。
『ああ、ああ聞いているさ。でもまさか……君が玄関で出迎えてくれるとは思わなくて』
ハナは表情を変えずに尋ねる。
『照れているのですか?』
『そんなことは……ある。うん。照れてるよ』
あっさり認めた男に対して、ハナは変な人だと思った。たいていの男性は
『今日は何をしていたんだい?』
男が上着を脱ぎながら聞いてくる。ハナが受け取ろうとすると笑顔で断られた。本当に変な男性だ。
『お義母さまから家事の仕方や、家庭の行事の取り仕切り方を教えてもらいました』
ハナの答えを聞いた男は、ピクリと眉を動かした。
『……それだけかい?』
『ええ』
『君には夢があるんだろう? それに向けた勉強などはしなかったのかい?』
『夜に勉強しようかと。朝方はお義母さまが熱心に教えてくださりますから』
ハナが淡々と答えると、男は顔を歪めた。
『……君の人生を縛るつもりはないと、初めに伝えなかったか?』
『貴方にそのつもりがなくても、お義父さまやお義母さまにそのつもりがないとは限りません』
実際のところそうなのだ。いくら男がハナのことを尊重しようが所詮ハナは嫁、この家の底辺でしかない。神前式のあとあんな
『私はこの家の嫁なんですから』
『駄目だ』
男が
『駄目だ。君はまだ若い。若い分、夢に向かって努力する時間と力があるんだよ。それを家事や内治を覚えるために使うべきじゃない。ましてや老い先短い老人たちのために縛られるべきじゃない。……それに』
男は顔を緩め、穏やかな笑顔を浮かべた。
『僕が見たいんだ。君が自分の人生を切り開いていくところを』
ハナははじめ、彼の言葉を信じていなかった。きっと金持ちの道楽だ。毛色の変わった女が珍しいだけで、どうせいつかは飽きて、自分に嫁の役割を求めるだろうと思っていた。
しかし男は言葉通り彼女の夢を応援し続けた。
『家事はしなくていい』『妻の夢を応援するのは夫の責務であります』『今日は何をしてた?』『君はもう十分僕の役に立ってる』『母には上手く言っておくよ』
毎日のように浴びせられる言葉たち。その一つ一つがハナの夢を応援するもので、ハナの家事も日ごとに減っていった。
○○○
「貴方が律儀に私の夢を応援してくれるから、拍子抜けしちゃったのよ」
「そりゃ、君を幸せにするために結婚したんだから当然だよ」
男はさらりとそんな
「ハナ、あそこに屋台があるよ。クレープって何だい?」
「甘い食べ物よ。チョコ味のものもあるから、あそこで一休みしましょうか」
男はハナの提案に賛成した。屋台の看板に歩み寄り、笑みを
「うわ、
「チョコバナナクレープくださいな」
「あいよ」
ハナが財布を出すと、屋台の店主がお金を受け取る。ハナの隣に男が並んだ。
「お金なら僕が払うよ」
「いいの。貴方お金持ってないでしょう」
「ばれたか」
男は頭を掻いて笑った。店主は二人に構わず、黙々とクレープを焼いている。
「昔は貴方に助けられたんだから、これぐらいさせてちょうだい」
「分かった。ありがとう」
「お婆さん、焼けましたよ」
男の声と店主の声が被る。店主は熊の様な巨体に、ちんまりしたクレープを持っていた。
「ありがとう」
「まいどあり」
ハナが手を伸ばすと、店主はハナが受け取りやすいように身をかがめた。男は二人を無表情で見つめている。
「それにしたって、あの時の貴方は言い過ぎよ」
ハナはクレープを受け取ると歩きだした。男はハナの横を歩きながら首を傾げる。
「言い過ぎって?」
「だって、自分の両親を老い先短い老人って呼んだじゃない。もし私が手塩にかけて育てた子供からそう言われたら、とても悲しいわ。それに私を花嫁修業から遠ざけたって、いつかはやらなきゃいけなかったのよ。……貴方が居なくなったあとにね」
考えなしだわ、とハナがなじる。男はというと、とても驚いたような顔をしていた。
「……そうか君は、あのあともずっとあの家に……」
男は絞り出すように言った。男の足が止まる。
「じゃあどうすればよかったんだ?」
男の語気が強まる。ハナはそっと彼を見た。
「何も言わずに君がこき使われるのを見ていればよかったのか?父母と一緒に君を突き放せばよかったのか?僕は君が好きで、君の幸せな顔が見たかった。あの選択は間違っていたのか?」
男の目にはうっすら涙が溜まっていた。この男は普段は大人だが、時おり子供のような行動をする。時々酷く
「違うわ。そんなことが言いたいわけじゃない」
「じゃあ何だっていうんだ? 僕はあの時自分が出来る精一杯の選択をしたつもりなんだ。それを君に否定されるのは、一番つらい」
「ねえ聞いて」
「ああごめん。こんなこと言われても困るよね、両親の重圧も世間の視線も、僕が勝手に抱えてただけなのに」
ハナは男の両頬を掴み、自分に振り向かせた。クレープに乗っていたバナナの塊が落ちる。
「……聞きなさいよ」
男は目を
「私は貴方にとても感謝してる。貴方のお陰で私は自分の夢を叶えることが出来たし、自分の人生を切り開くことが出来た。……でもね、その隣に貴方は居なかったのよ」
ハナの目から温い水が滴った。何となく磯っぽい味がする。
「悔しかったの。貴方が何でも一人で決めてしまうことが。何でも一人で背負い込んでしまうことが。貴方は私の我儘をいつだって聞いてくれたけれど、貴方の
「……ハナ……」
男はじっとハナを見つめたあと、ハナをおもむろに抱きしめた。
「ごめん。言い過ぎた」
「別にいいわよ」
ハナは男の背中に腕を回して
「私も言い過ぎたわ」
それはきっと、男がハナを一人の人間として見てくれていたからだろう。
遠くで子供の笑い声がした。
「それにしても、こんな風に本音をぶつけたのは久しぶりじゃない?」
ハナが男に問いかけると、男は苦笑した。
「そうかもしれないね」
「あの時、泣きじゃくる貴方を見てほっとしたの」
男はハナから手を放し、頭を抱える。『あの時』を思い出してしまったようだ。
「もうやめてくれよ。思い出すだけで恥ずかしい」
「あらどうして? 本当の貴方を見せてくれて嬉しかったのに」
我儘な貴方も好きよ。ハナが笑いかけると、男はそっぽを向いてしまった。そんな子供っぽい仕草でさえ愛しい。
……男は言葉通り彼女の夢を応援し続けた。
赤紙が来るその時まで。
○○○
赤紙が来たその日、彼はどこか上の空だった。生返事、乾いた笑顔、いつもの彼とは違う態度。不思議に思ったハナが事情を聞くと、やっと白状した。
『赤紙が来たんだ』
不思議と恐怖は湧かなかった。ああ、ついに来たかと思った。しかし彼は違ったようだ。いつでも戦地に行く覚悟が出来ているように見えた男は、目の前で
『どうしよう。いつでも死ぬ覚悟は出来ていたはずなんだ。だから君と過ごす毎日を大切にした……なのに今、死ぬのが怖い。君の未来に僕が居ないのが怖い。僕がいなくなったあと、君が他の男の隣で笑顔を浮かべるのを想像してしまうんだ。共白髪まで君と一緒に生きたかった。……君の人生を縛るつもりはないって言ったのに』
すすり泣く彼の背中をハナがさする。彼がしゃくりあげる度にうん、うんと相槌を打った。
『ごめん。こんな弱いところ見せてごめん。君の前では頼れる男でいたかったのに』
全然いいのよ、とハナは言った。ずっと一人で抱えてつらかったでしょう。貴方の本心が知れてよかった。
『ハナ』
彼は涙を流しながら名前を呼ぶ。いつも余裕をたたえていた男の顔は赤く腫れていて、とても幼く見えた。
『君の人生、僕にちょうだい。今更ごめん。余裕なくてごめん。嘘つきで、ごめん……』
男はそう言ってハナを抱きしめた。ハナは彼の背中に腕を回しながら、あやすように背中をたたく。馬鹿ね。謝らなくてもいいのに。男の腕の中でそう呟くと、彼はハナを一層強く抱きしめた。
『君のことをいつまでも応援するよ。それで君が人生を全うして、おばあちゃんになったら……いつか、君を迎えに行くよ』
そして彼は戦地へと赴いていった。もうすぐ蝉のなく頃だった。
蝉がなきはじめて、その寿命を終えた頃、天皇陛下が降伏を受け入れた。
ハナは黙ってラジオを聞いていた。その腕の中には、小さな箱の中に収められた彼がいた。
○○○
「ねぇ」
男はゆっくりと振り向いた。
「何?」
「私さっき、貴方に『一生許さない』って言ったわよね」
「うん、そうだね」
ハナは顔を上げる。ハナの目の前には、風に
彼の顔は相変わらず幼い。まるでハナの前で泣いたあの日のように。四十年の時がなかったかのように。対してハナの髪は白く、身体は皺だらけだ。
二人の間にこんなにも時が流れたのに、また残酷に春は
「今気づいたのだけど、私は貴方のことをどうしたって許すしかないのよ」
男はくすりと笑った。ハナをからかうように聞き返す。
「どうして?」
「だって、
いつのまにか空は晴天になっていた。
死神は顔を曇らせる。笑顔のハナと対照的だ。
「迎えに来るの、早かった? やっぱり死ぬのは怖い?」
死神がか細い声を出した。今までの余裕が嘘のようだ。
「相変わらず優しいのね。怖くないわ」
ハナは優しい死神を抱きしめた。ハナの両腕には何の感触もない。
しかし確かに死神は、ハナの愛した男だった。
「貴方と一緒だもの」
回春 / はつね 作 緋櫻 @NCUbungei
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