九月嘘八百
襟裳ミサキ
9月4日(火)
平日の朝だからだろうか。公園は、静寂に包まれていた。生い茂った木々の影が私の座るベンチを丁度覆うような形で伸びている。汗で肌にぺたりと貼り付いたセーラー服を鬱陶しく思いながら、私は入学祝いに祖母がくれた腕時計をちらりと確認した。時刻は十二時三十二分。七時丁度に家を出たから、もう五時間以上こうしていることになる。今頃クラスメイト達も、弁当を食べている頃だろう。私も昼ご飯を食べようと、スクールバッグに手を伸ばしたそのときだった。遠くから、私を呼ぶ声がしたのは。
「おーい!美月ちゃーん!」
Tシャツと短パン、それと麦わら帽子を身に着けた少女が、手をぶんぶんと振りながらこちらへ走ってくる。
「陽向。」
私は自分の口から発された、その名前の響きの懐かしさに、どこかほっとしたような気持ちになった。
「久しぶり、隣座るね?」
陽向は記憶の中より少しだけ大人っぽくなった笑顔でそう言って、私のスクールバックを端に除け、私のすぐ左隣に腰掛けた。
まだ座っていいなんて言っていないのに、そう思いながら陽向の方に目を向けた私は、彼女の服に違和感を覚えた。
「…ねえ、それ裏表逆じゃない?」
Tシャツを指で指しながらそう指摘すると、陽向は耳まで真っ赤になって、「わ、本当だ!恥ずかしい〜後でトイレで直そ!」と笑った。
顔は大人っぽくなってても、ちょっと抜けてるところはあの頃と変わらないなあと、私は陽向の寝癖だらけの髪を見ながら苦笑を浮かべる。
陽向は小学校の頃の同級生だ。いつも陽気に笑っていて、そのおっちょこちょいな性格から、クラスではマスコットキャラクターとして扱われていた。彼女は、俗に云う劣等生であった。簡単な掛け算を間違えたり、卒業まで後転ができなかったり、ミシンの下糸のセットに二十分以上かけたりと、とにかく苦手なことが多かったと記憶している。
一方、私は全てにおいてかなり優秀な方だった。テストでは常に90点以上、体育テストでもA評価以外は取ったことはなかった。卒業式の合唱では、ピアノの伴奏を任された。
「来週から学校だから、暇な内にランニングでもしようかと思ってさ、そしたら美月ちゃんに会えちゃった!あれ?そういえば、なんで制服なの?」
陽向にそう聞かれて、私は初めて自分が制服を着ていることを思い出した。まずい、このままでは、学校に行っていないことがバレてしまう。よりによって、あの陽向に。とにかく何か言わなくては、と慌てて口を開いた。
「その、他の服は、全部洗濯中で。」
自分でも苦しい言い訳だと思いつつも、平静を装いながら、私はそう答えた。額にはきっと、うっすらと汗が浮かんでいただろう。こちらの目を不思議そうに見つめながらも、ふうん、と頷いた陽向に、これ以上この話題に踏み込ませまいと、私は畳み掛けた。
「陽向にうちの制服を見せるのは、初めてだったよね。」
「うん、セーラーなんだね!」
「そうだよ。ああ、みんなの学校はブレザーだったっけ。」
「そう。いいなあセーラー、可愛くて。私も美月ちゃんと同じ中学にいけたらなあ。」
あなたが私と同じ中学に進学だなんて、無理に決まっているでしょうと内心嘲笑いながらも、素直な賛辞の言葉に、私は思わずほくそ笑んだ。久々に感じる優越感は、特効薬の様に私の心に染み渡っていく。
いつもそうだ。陽向といると、欠けた自尊心が満たされるような感覚がする。
「陽向、中学ではちゃんとやれてるの?周りに迷惑かけてない?」
「もう、美月ちゃんひどーい!」
小学校時代、鈍臭くて、何においても不器用な陽向の手助けをするのは、先生から信頼されていた私の役目だった。私の手助けなしで陽向が、中学で上手くやっていけているとは思えない。小学校では持ち前の明るさのおかげで、それなりに友達はいたかもしれないが、中学校はそんなことが通用する様な甘い世界ではない。きっと、陽向も孤立しているはずだ。そんな願いの様な確信があった。
「でも、大丈夫、なんとかやれてるよ。私の面倒を見てくれてる子がいてね、」
へえ、と適当な相槌を打ちながら、私は内心落胆していた。陽向の孤立を確信していたからこそ、その考えが外れてしまったことへの失望は大きかった。
それから私たちは、他愛のない近況報告を続けた。まあ、私の話していたことの半分は嘘だったけれど。初めこそ嘘をつくことに多少の抵抗感を覚えていたものの、そんなものは久々に褒められたことによる高揚感に掻き消されて、どこかに行ってしまった。陽向は、私の出鱈目な作り話、一つ一つに目を輝かせて、私に賛辞の言葉を贈った。
時計の針が、二時十分を指差した頃だっただろうか。陽向のポケットから、着信音が鳴った。
「電話、来てるよ。」
と教えてやると、陽向は、「本当だ!ちょっと外すね。」と断りを入れて、ベンチを立った。数分話して戻ってきたものの、ベンチに座る様子もなく、立っている陽向に、「誰からだったの?」と尋ねる。
「はるかちゃ、あ!中学の友達からで、三時から一緒に遊ばないか、って。行ってもいいかな?」
そう私の顔色を伺う様に話す陽向の様子に、私は少し腹を立てながらも、
「いいんじゃない?私の許可なんて取らなくても。好きにすれば?」
と答える。
「ごめんね、今度また話そう!」
そう言って去って行こうとしたかと思えば、陽向は突如、ぴたりと動きを止めて、こちらを見下ろした。
「美月ちゃん!あの、あのね、」
普段考えずに言葉を発する陽向にしては珍しく口篭っている。急かす様な視線を送っていると、陽向は決心した様な顔で、こちらを真っ直ぐと見つめ、こう叫んだ。
「困ったことがあったら、いつでも言ってね!じゃあ!」
薄く微笑を浮かべた日向は、手を振りながら、今度こそ走り去っていく。その後ろ姿をベンチに座ったまま見送った私の体は、さっきまであんなに暑かったというのに、ガタガタと震えていた。
全部、バレてしまっていたのだ。私が制服を着ていた理由も、嘘の数々も、全部。
別れ際の陽向の微笑は、小学校時代ではあり得ないものだった。あの微笑みに含まれていたのは、まさしく私自身が陽向に対して向けてきたきたものだった。憐憫と、少しの軽蔑。
陽向に会う前、昼食を食べようとしていたことを思い出した私は、スクールバッグに手を伸ばそうとして、その手を途中で止めた。西日に煌々と照らされたスクールバッグの校章は、私には、あまりに眩しすぎた。それに、この状況で食欲など、湧くはずもなかった。あの陽向に、よりによって、あの劣等生の陽向に、私は見下されたのだ。
もうどうでもいいや、夢でも見ようかな。そう呟いて、私はベンチの上の現実から目を背ける様に、ゆっくりと目を閉じた。
九月嘘八百 襟裳ミサキ @pudding319
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