第8肢

 水の滴る音で目が覚めた。

「うぅ……」

 視界は薄ぼんやりしていたが、顔に当たるものの硬さと冷たさから、濡れた床に寝ているのがわかった。

 体を動かすとあちこちが油が切れたみたいにギシギシいった。おまけに(やっぱり)素っ裸で……見えるところだけでも、麻疹はしかにかかったのに似た紅色の斑点で覆われている。

 それから大量のべたべた。

 腰がまだ重だるく力が入らない。机の脚につかまってようよう体を起こした時、内股を何かがどろりと流れ落ちる感覚があった。


 大量の白濁液は、シーザーの精莢から出た精子に違いなかった。

 これが僕の中に差し込まれたということは――……

 僕は振り返り、そして見た。

「シーザー!」

 水槽の縁から身を乗り出し――ラボに担ぎ込まれてきた時と同じように――黄色くしなびてぐったりと動かない彼の姿を。


 僕は引出しを引っこ抜き、ステロイドと副交感神経遮断剤のアンプルと注射器をまとめてつかんだ。

 震える手で薬剤を吸い上げ、色を失った腕に針を突き刺す。ぐんにゃりした体を何とか持ち上げ外套腔に海水をかけて蘇生させようと足掻きながら、次第に冷えていく僕の頭の一部では、無駄だと囁く声が聞こえていた。


 何度海水を吹き込んで人工呼吸を施しても、シーザーの体の色は変わらなかった。


 こうなることはどこかでわかっていた。

 今から1800年前に、ギリシャの詩人オッピアヌスはうたった、『蛸は、愛の終わりこそが命の終わりとなる。』と。

 多くのタコは、成体になり交接した後、オスは間もなく、メスは数万個の卵の孵化を見届けてから死ぬ。僕がスパークル(オス)たちと、マギー(メス)を別々にしていたのもそのためだ。

 シーザーは急速に性成熟して――それが彼の属する種の標準的な成長曲線だったのか、そうでないのかはわからない――交接相手に(何を間違ったか)僕を選び、そして死んだ。

 僕はシーザーに触れている自分の手の甲が温かい水で濡れているのに気づいた。

 涙だった。

 

 涙は小さな海だ。

 4億年前に脊椎動物の祖先が乾いた大地に初めて足を踏み入れた時、故郷ふるさとを思い出すよすがとして、体内に海の痕跡を閉じ込めた。だから、涙の浸透圧は海水と同じだ。


  ★


 シーザーを連れていくはずだったコンテナと運送業者は手ぶらで帰り、交換にカリフォルニア・ツースポットダコを4匹置いていった。僕と同じくらい社交性のないタコだ。

 旅の疲れと狭苦しい容れ物に入れられていたストレスからだろう、タコたちは水槽に入るとすぐ、岩礁を模したシェルターの陰や素焼きの壺の中に入り、出てこようとはしなかった。


 彼らの寿命は長くて3年、僕は……少なく見積もってあと40年はある。タコの目から見れば(それにある種の人間にとっては)40年は気の遠くなるような長さかもしれないが、進化の道程からは3年が40年だろうが、どちらもまばたきをする間ほどの時間でもない。その長くも短い間に、何度出遭いと別れが繰り返されるのだろう。

 そしてその中に、シーザーのような種に再び遭遇する機会はあるんだろうか。海は人間の想像の及ばないほど広大だから、それは天文学的な確率に思える。

 ……いや、たとえあったとしても、それはシーザーじゃない。また別の個体だ。


 所長他の人間は調査研究のためにシーザーを標本にするべきだと言った。

 研究者としては僕もそう思うし、普段だったらそうしていただろう。

 けれど、その時の僕はシーザーを海に還すことに決めた。

 夜、シーザーの体が入った百数十ポンドはあるプラスチックケースを汗だくになりながら車に載せ、近くの海岸まで走らせた。

 波が彼の体を徐々に沖へ引き去っていくのを、僕はしばらく眺めていた。


 恋に落ちるのに、理由はいらない。

 頭足類八腕形上目がこんなにも表情ゆたかな生き物だと知るまで、僕にとっての海は、ジュール・ヴェルヌ『海底二万哩』の19世紀モノクロ銅版画の挿絵に描かれた暗く不気味なものか、よくてせいぜい16インチモニターに閉じ込められた平坦な風景にすぎなかった。

 でも実際の海は――シーザーを生むほど――広く、深かった。


 ……ああ、僕の中の海が、シーザーを収めておけるくらい大きかったらよかったのに。

 恋愛感情と呼ばれるものがどうして起こるのか――どのニューロンが発火するためなのかわかっていないなら、海と混じり合った僕の涙からも、僕が恋に落ちているのか、あるいは強迫神経症を患っているのか区別はつかないはずだ。僕が今何を考え、何を想っているのか、彼にはっきり伝えることができたらいいのに。


 それとも、とっくの昔に彼はわかっていたのだろうか? それを知るすべはもうないけれど。



 Fin.

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DE PROFUNDIS 〜深き淵より〜 吉村杏 @a-yoshimura

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