第25話
事件のあらましを報告し、
そして己の住み家である、犬の宮の庭で寛ぐ。
(やはり、仙界の方が落ち着く)
生まれは地上だったというのに、居場所だと感じるのはすでに仙界になってしまった。
無理もないと言えよう。地上で生きた時間よりも、仙界で過ごした時間の方がはるかに長くなっているのだから。
「――狗侯」
「!」
そんな安らぎに満ちた一時の中で静かに響いた主の声に、狗侯は木に寄りかけていた体を慌てて起こし、立ち上がった。
「煌様!」
「よい、楽にしろ。仕事中ではない」
言った通り
「は……っ」
しかしそう言われても、狗侯にとって煌天君とはどこまで行っても主人なのである。畏まる気持ちを完全に消せるわけがなかった。
煌天君の方でもそれは分かっていて、強く要求はせずに苦笑し、狗侯の隣に腰を下ろす。
「座れ」
「はい」
上げてしまった腰を再び下ろすと、煌天君の手が伸びてきて頭に触れた。二、三往復髪を撫でてから手を放し、己の手のひらをまじまじと見詰め――少しばかり、残念な気配の滲む息をつく。
「こ、煌様?」
「やはり、毛質が違うな」
言われて、煌天君が自分の毛並みを好んでいたことを狗侯は思い出した。同時にふと、とある可能性が頭を過る。
(まさか、俺の獣神将入りを認めて下さらなかったのは……いや、まさか)
訊ねる勇気はなくて、ただ自分で否定するに留めて疑問は打ち切った。
その間に煌天君はもう一度手を伸ばしてきて、狗侯の獣耳を弄う。
「!」
「うむ。こちらは変わらんな」
「煌様……」
主が見せた満足気な様子に、頬を引きつらせずにいられようか。
しかしそれも抗議する勇気はなく、狗侯が黙って耐えていると、く、と顎を持ち上げられた。煌天君の紫の瞳が、安堵の色を浮かべて微笑む。
「こちらも変わりないようだ」
「目の色が変わる事態は、早々起こらないかと思いますが」
「ははッ」
先程からの扱いに不満を覚えたそのままで、狗候の言い様はやや雑なものとなる。それに煌天君は声を上げて笑い、手を離す。
「――そうでもないぞ」
それから、少しばかり冷ややかな声音になって、告げてきた。
「同じ色でも、濁ってしまえば別物だ」
「濁る、ですか」
「そうだ。濁った物を見ても、心は洗われん」
「はあ……」
ここに至って狗侯も何かの比喩なのだろうと思い付いたが、煌天君が何を言っているかはよく分からなかった。
武の道に一辺倒で生きてきた狗侯は、こういった言葉遊びが苦手だ。もっと飾らずに語ってほしいと思うが、それも言えない。
「ただ純粋なままでも構わないと思っているのだ。しかしまあ、当人が望むのならば研磨の機会ぐらいは与えても良かろう。……濁りが見えれば、すぐさま忘れさせてやるがな」
最後、不穏な呟きも耳に入った気がするが、それもともかく――
(俺の望み……。獣神将入りのこと、だろうが……)
「今回は、大丈夫そうだな」
「無論です。俺はそんなに柔ではありません」
「そうかな。――あぁ、しかし」
ふと思いついたかのような声を上げ、煌天君は少しばかり種類を変えた笑みを浮かべる。表情を裏切る怒気が、僅かに狗候の肌を刺した。
「煌様?」
「まさか
「……なぜそれを?」
「思うところがあったからな。様子は度々見ていた」
抜き打ちで探られようと、狗候に疚しい所はない。何かしら意図はあるのだろうとも思っていたから、視られていたと言われても驚きはしなかった。
しかし、あんまりな場面を視られたのだという羞恥はある。
「あいつは臆病であり、慎重だ。ゆえに、勝機の見えない戦に臨む性質ではない」
美点でもあるだろう。煌天君の口調も、その性質は才覚として認めているものだった。
「人としての時間の中で、あいつは負けることが許されなかった。その経験を引きずって、今でも負け戦を嫌う。だから私の意図を知っていてなお、お前に手を出すとは思っていなかった」
「煌様は、俺に何を教えようとしていたのですか」
仙界の有り様についてかと、とりあえずの答えは出した。だがそれだけではないと目の前の人物から言われている。
「私はお前を愛している」
「!」
「だが私がそうと言えば、お前は私に従ってしまうとも分かっていた」
「……それは」
(否定できん)
忠誠心を持って、愛に応えようとしただろう。何も考えることなく。
それが煌天君を傷付けることも自覚せぬままに。
「腹立たしさはあるが、だからこそ上手く働いた部分もある。愛なくして受け入れられた側も、嬉しくはないのは分かっただろう」
「はい」
隆虎が狗候へ向けていた感情に偽りはない。欲望も含めて。
だが実際に狗候が許したとき。感情からではないその許しに隆虎が抱いたのは、罪悪感だけだった。
「これでも努力はしてきたつもりだが。お前の忠誠の前では、好意の形を変えるのも難しい」
自身の気持ちを悟らせないようにしなくてはならない、という条件が余計に煌天君の取れる手段を狭めてくれた。
「だから、私以外で実感させようと思ったのだ」
(確かに)
同志としての好意を持ち、しかしそれ以上ではない隆虎だったからこそ知ったと言える。
「行き過ぎたが、あれも多少は吹っ切ったということか。もしくは私への反発か。――お前への想いゆえか」
思案するように煌天君は呟くが、それを知るのは当人である隆虎のみだ。
「では俺は、こう言うべきなのですね。――口説いてみせてください、と」
「ああ。その通りだ」
狗候の答えに満足して、煌天君は目を細める。
「狗候。我が半身よ。その身も心も、すべて私と共に在らせてみせる」
情欲を隠さず熱を秘めた瞳も、笑んだ唇から紡がれる艶を帯びた声も、自分だけに特別に向けられたものだと理解すれば、背筋にぞくりとした何かが走った。
歓喜か、怯えか。狗候自身にもまだ判断がつかない。
「臣下としての俺は、すでに貴方と共に。ですが愛しているかは分かりません」
(だが。俺は)
――煌天君によって教えられるのを望んでいる、気がした。
そう思うのもまた、忠義心ゆえに応えたいというだけなのか。
「今は、よい」
「……はい」
(これから俺は、知らねばならんのだろう)
愛されることを、愛することを。
その先に待つものは不明だ。だが確かなこともある。
(どのような形になろうと、俺の忠誠に変わりはない)
命果てる、その時まで。
獣神将演義 長月遥 @nagatukiharuka
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