第24話
戻ると宮殿内は大騒ぎになっていた。
人がそこかしこで慌ただしく行き交っているが、果たして、それは意味のある行動なのかどうなのか。
もっとも人界のことは
「兄貴、俺王の所行ってくっから」
「ああ。頼む」
ひらりと手を振った
――離宮は、静かだった。
現世の騒動など関わりもないとでも言うように、ひっそりと静まり返っている。
耳の痛い静寂の中で、
と、奥に進むにつれ不安なざわめきが耳を打つようになってきた。
その正体は離宮に使える女官たち。足音に気が付いた彼女たちは振り返り、急いた様子で駆け寄って来た。
「ああ、逢鈴様。良かった」
「いずこにおられたのですか。貴晶様がずっとお探しに……」
「公主様は、どちらに?」
狗侯の腕の中の逢鈴が疲弊した様子を隠せないままそう問うと、女官たちもようやく、逢鈴が酷く消耗していることに気が付いた。恥じるように口ごもり、ためらいを交えて訴える。
「その、公主様が……」
「分かっています。だから、公主様はどちらに?」
もう一度逢鈴が問えば、女官はほっとした様子で奥の居室を示した。そのとき。
ぁあああぁぁ……!
その部屋から女の金切り声が発され、響き渡る。
何も知らなければ狂人のものと信じて疑わないだろう。それ程に常軌を逸した、切羽詰まった声だった。
いや。狂人のものであることには違いがないのかもしれない。
逢鈴を抱えたまま、狗侯は迷わず声の持ち主の元へと向かう。
「あぁ……。ああ、あぁ……っ」
「――貴晶様」
部屋の扉を開き、逢鈴がその名を呼ぶ。最も頼みにする親しい相手の声に反応し、貴晶は勢いよく振り返った。
艶やかな黒髪は乱れて顔に張りつき、可憐な造形に浮かぶ表情はひきつった鬼女そのもの。何とも労しい有様だった。
「ああ、逢鈴! 待っていたのよ。足りないの、足りないのよ! わたくしの美貌が足りないわ!!」
「貴晶様、どうぞご安心ください」
「ええ、分かっているわ。大丈夫よ。だって逢鈴が帰ってきたもの」
「貴女は十分にお美しい。もうそれ以上を求める必要などありません」
「…………何を言っているの?」
貴晶はきょと、として逢鈴を見上げた。そして見る見る、先程と同様の鬼女の形相になる。
「足りないのよ、分かるでしょう!? だってさっきからわたくしを怖がらせる大きな音がして、町で災いが起こっていると聞いたわ! 災いなんて嫌、消えてって言ったのに、届かないのよ! わたくしの美貌が足りないから!」
顔の造形でどうにかなるような事象ではない。誰もがそう言うだろうが――貴晶は本気で信じているのだ。美という力が、何にでも通じるのだと。
そう逢鈴に育てられてきたから。
「貴女の美が、足りない訳ではありません。人外の美を磨いてきたわけでもないのですから、当然のことです」
激昂する貴晶と正反対に、逢鈴は静かに真実を伝える。
(やはり、分かってはいたのか)
その言葉は、犬寿が邪法を施していないと知っているものだった。
貴晶に美を追い求めさせるという、目的が達成していたからというのもあるだろう。
だが同時に、心を歪ませた上に罪業を増やすような非道を行わなかったのも事実だ。
逢鈴はもっと悪辣に、犬寿や貴晶を巻き込むことができた。しかししなかった。
「え……?」
「人以外のものに働きかける力のある美は、人外のもの。けれど貴晶様、貴女は人です。人のまま、人として、貴女は十分にお美しいのです」
「……」
逢鈴の言葉が飲み込めないようで――貴晶はまたしばらく、きょとん、とした。
そしてややあって、ぽつりと呟く。
「……それでは困るわ」
「なぜです?」
「だってわたくしには、美貌しかないのに」
「人の美で、貴晶様は十分に多くの殿方を惹きつけられました。ご存知でしょう」
人を超えた美ではないけれど、彼女の美貌が力を持っていることは事実だった。それはこれまでが証明している。
「待ってちょうだい。でも」
「そして貴女の武器は、何も、年で衰える容色などではございません」
「え……?」
それは貴晶が逢鈴から初めて聴く言葉だった。
お前にはその美貌しかないのだと、暗示のように刷り込まれてきた日々。終わりを告げたその瞬間を、貴晶はただ、ぽかんとして迎えた。
「刺繍も、奏楽も、舞踊も、すべて一流と呼んで差し支えありません」
「……何を言っているの?」
「貴女は公主として、すでに力を持っていらっしゃる」
父親の寵愛も、多くの男性からの思慕も。これからも変わらず存在し続けるだろう。
なぜならそれらは、貴晶が努力によって、現実に得てきたものだからだ。
「だって……足りないのよ。仙薬がないと」
「貴女に施されていたのは、仙薬ではありません」
事態が飲み込めずに、しかし今後の変化を察して不安に怯える貴晶へと、犬寿はきっぱりとそう告げた。
「え……?」
「ご安心ください。貴女は人です」
人道から外れた行いは何もしていないのだと、犬寿は言った。
「やはりそうか」
「はい」
都には邪念が溢れていたが、逆に言うならば邪念しかなかったのだ。本体となるはずの、人の贄は存在していなかった。
都は巨大だ。あえて贄など用意しなくとも、無念を抱いて死した人間は毎日いる。
残った念は強い。邪念を生むためにわざと負を膨らませ、凝らせはしたが、それだけとも言えた。
貴晶の周囲に漂う死臭の正体は、逢鈴が留めていた邪念だ。
翠蓮同様、貴晶は人でしかない。
「わたくし、は……」
「姫。わたしは姫に、暇を告げねばなりません」
「え!?」
次々と告げられる予想外の内容に、貴晶はずっとうろたえっぱなしだった。中でも今逢鈴が口にしたことへの反応は、特に大きい。見る見る顔色を青ざめさせていく。
「そんな、逢鈴。貴女がいないと、わたくし……」
「すぐに、わたしがいなくなったことに安堵なさるでしょう」
逢鈴が残した言葉の数々を冷静に受け止められるようになれば。
逢鈴は狗侯の肩を押し、己を離すように求めた。応じて狗侯が床にその身を降ろすと、起き上がることもできない弱った体のまま、逢鈴は伏した。
「申し訳ございませんでした」
「逢鈴……」
「いずれ改めて、姫の罰をいただきに参ります」
逢鈴が貴晶に行ったことは、法によって裁かれる類のものではない。だからこそ、貴晶の裁きを受ける必要があった。
「――いいえ。いいえ、逢鈴。わたくし――貴女に、とても助けられていたのよ。貴女がいなければ、わたくしはきっと、とっくに気が触れているか、自害をしていたはずだもの」
貴晶はとても気の弱い子供だった。
だからこそ逢鈴に目を付けられた。だが逢鈴に目を付けられたから、自分を肯定する術を見つけた。
「だから、罰などと言わず、戻って――いえ」
ぴくりと逢鈴の肩が震えたのを見て、貴晶は寂しげに首を横に振る。それは無理なのだ、と分かってしまったのだ。
「感謝しているわ」
「姫様……」
「今まで、良く仕えてくれました」
「……勿体ないお言葉にございます」
伏した逢鈴は絞り出すようにそう言って――その目尻から、つ、と後悔の涙を零した。
誠心誠意、主に仕えなかった己を恥じて。
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