第3話 隣人たちの村

 夕方。日差しが傾き、西の空が朱に染まっていく。反対の空からは月が覗き、藍のインクを溶かしたような夜がやってくる。

 凶暴な水魔である水棲馬ケルピーを何とか手懐け、数時間巨大な湖を横断した魔王。湖からは穏やかな川が流れ、その先には小さな家が並んでいるのが見えた。


「農村か。ここまでご苦労だったな。この近くで休んでいてくれ」


 ケルピーはブルルッと鳴き、湖の中に首を入れて食事を始めた。透明な身体の中に魚が放り込まれ、少しずつ分解される。

 魔王は角を隠すために雪隠れの衣のフードを深く被り、村に向かって川沿いを歩き出す。精霊の住む水のお陰か、村全体もほんのりと光って見えた。



……



「どうもどうもじゃ旅人さん!こんにゃ場所に来る方なんて中々居ませんからに、大したもてなしも出来ずに申し訳ないですじゃ」


「いや、気にしないでくれ。俺は夜になったから、少し宿を借りて、少しここで話を聞こうと思っただけだ」


 いえいえ、せめて何か食事をしていきんさいと勧める村代表という老婆の誘いを何とか躱しつつ、この村の景観を観察する。

 村に引かれた水路が光っているのは精霊の仕業だが、この村を照らしているのはそれだけではないらしい。


「光苔か」


「そうですじゃ。火を灯し続けることはできません。火を嫌う精霊もおります。光苔は決して彼らの気を損ねません」


  村の地面や家の外壁に、薄ぼんやりと光る苔が生えていた。光苔は精霊が多く魔力が充満した場所に生える苔だ。

 太陽の恵みを浴び、澄んだ泉水と水の精が流れ込むこの地だからこそ、この貴重な苔と生きていけるのだろう。彼らは正に精霊、自然の隣人なのだろう。


「ここの角を曲がって左……そう、そこが旅人さんに泊まっていただく宿屋ですじゃ」


 老婆に案内された先には、小さいが雰囲気の良い、苔に覆われた木造の一軒家。知った家の造りだ。この村はずっと前からあって、ここで精と生きてきたのだろう。


「感謝する、婆様。ついでのようで悪いが、この村から一番近い、大きな市をやる街はどこだろうか?」


「ここからなら、この地一帯の領主様の城下町、商売の街アファルでございましょ。食料から魔法の粉まで何でもござれでしゅよ。そこで儂の息子と孫夫婦が商売しております。薬草の店でしてなぁ、どうかご贔屓に」


 突然妙に強い力で手を握られ、困惑して驚いている間に何か小さな紙を握らせられた。カードのようで、表には人根草マンドレイクのモチーフが描かれている。


「そのカードで一つ商品が半額になりますのじゃ。儂は中々移動が叶わんでの。貰ってやってくだされ。あとついでにこれも」


 再び手に何かを握りこまされた。小さな飴玉のようだが、何故かほんのりと暖かい。


「身体の温まる植物の根と虫の巣から採れる糖蜜に火蜥蜴サラマンダーの涙を加え、冷やし固めた飴ですじゃ。旅人さんの手が、随分と冷たく感じたのじゃでな。身体が温まりますから」


「ありがとう……受け取っておく」


「どうぞどうぞ。お身体を大切にの」


 他に数回言葉を交わし、老婆は「ではごゆっくり」と帰っていった。

 サラマンダーの涙。氷の魔王にとっては、小さな飴玉でも充分毒となり得る。エレメントの力というのは、それだけ強い。

 だから早く手放すべきだったのだが、魔王は何故だかそれを捨てる気になれず、衣のポケットに入れた。


「人間というのも、捨てたものではないかもしれんな」


 老婆の純粋な好意が、孤独で暴虐な戦闘狂であった魔王には新鮮に思えた。食事を勧められたのも初めてだ。

 部屋の中を見渡すと、大きな窓が幾つか。そこから木と花々が植えられた広い庭が見える。旅人と名乗ったとはいえ、どこから来たともしれない余所者にこのような家を貸すのは何故だろう。ぼんやりと考えながら窓から顔を出そうとし、


「痛ッ!は!?何だ、透明な板……?」


 硝子板に角を思い切りぶつけた。100年前は煉瓦造りの壁に穴を開けて採光するのが一般的で、硝子自体は存在したのだが、価格や治安の関係から広く使われるものではなかったのだ。


「硝子か……人は豊かになったものだな。少しひびが入った。悪いことをしたな……」


 いや悪いことをしたってなんだ。余は魔王だぞ。あの老婆に絆されたな。

 もう日が落ちて、空の橙に青紫が染み込んでいく。光苔の薄緑と水の精霊の力で村は輝きに満ち、そこに妖精がやってきて内緒話をする。光に導かれた虫が来る。庭の白い花が青緑に照らされる。


「明日出るのが惜しくなってきた」



静かな光の中、村の夜が過ぎてゆく……

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古魔王と花竜奇譚 硝子の深海 @SeaGlass

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