第2話 涙の巨大湖

 輝かんばかりの太陽に照らされ、静かな風が吹く花畑。青い花畑の真ん中で、黒衣を纏った男、魔王は考えていた。

 旅をするにはある程度の装備を整えなければならない。そのためには一度丘を下り、人間の市に行かなくては。

 だが、それには目の前に広がる巨大湖を越えなくてはならなかった。


 向こう岸が見えない程広い湖。夜にはうっすらと光り輝く、精霊たちの住処。豊富な地下水と時折降る大雨がこの湖を育てた。または水の女神が失恋して流した涙という神話が存在する。滝壺からまたほんのりと光る水が流れ、精霊の地を潤していく。


 上から覗き込むと、小魚と小さく発光する水の精がよく見える。岩の影から覗く細長い魚。色とりどりの藻。遠くの浮島で、花嫁ニンフ達が水浴びをしながら談笑している。この丘には随分と精霊が多いな、と魔王は思いながら、湖に足を踏み入れる。足が水に浸かる前に、湖面が凍りついた。


「凍らせて渡るか」


 魔王は魔王になるべくしてなったような性格かつ思考だったので、下級の精霊や魚や他の生き物のことはどうでもよかった。湖を回り道して時間を浪費し、余計に疲れる方がよっぽど問題だった。


 暫く湖を凍らせて移動し、ニンフの陰口も無視し、湖を四分の一ほど渡った時。水面がいきなり盛り上がり、激しい音を立てて何かが飛び出してきた。

 水でできた身体。立派な尾と立て髪がヒレになった水上を駆ける馬__


「水中に住む馬……水棲馬ケルピーか」


 応えるようにケルピーが大きくいななく。途端に水面が激しく揺れ、突然に大きな波が魔王の方へ倒れてきた。


氷河グラシア


 魔王の目の前に白く輝く巨大な魔法陣が現れ、そこに触れた水が端から凍っていく。魔法陣が受け止めきれなかった水が湖に落下し、水柱が吹き出て男に降り注いだ。


「あー、クソ!昔は湖全部凍らせるぐらい簡単だったんだが」


 小さな池をひっくり返したような量の水を被り、ずぶ濡れの肩までに切った髪を掻き上げて自分を奮い立たせる。

 ケルピーは人間を誘って背中に乗らせ、水の中に引き摺り込む水魔。なのに襲ってくるということは、湖を荒らす存在が余程気に食わなかったのだろう。

 気配を感じて素早く振り向くと、水柱の中に、馬の影が見えた。


氷塊グレース!」


 湖面に手を付き、半径1メートル程の魔法陣を展開。円に囲まれた水がみるみる凍り、人の顔程の氷の弾丸として次々ケルピーへ撃ち出される。

 その内の数発が当たり、水の身体は飛び散って湖と同化した。


「水と同化するのか。厄介だな……」


 この魔王グラネージュがこんな水魔ごときに、あの頃なら湖ごと凍らせて終わったのに、と思いながら、魔王は100年前の戦いの日々を思い出した。何人もの人間が、亜人が、時に魔物が彼に挑んだ。

 あの頃感じていた闘争心、戦闘を愛する気持ちに100年ぶりに炎が宿った。


「厄介な相手の方が楽しいぞ!あの頃よりも、俺より強い存在が大勢いる……戦うのがこうも面白い!」


 再び巨大な水柱が何本も上がる。水飛沫で空に虹がかかる。右手に輝く魔法陣を纏い、その内の一本__光の屈折が馬の形に歪んだ水柱に手を翳した。


氷結コンジェラシオン!」


 右手が触った水柱は立ち所に凍りつき、その中の水の馬もその形に凍った。そして魔力を使い過ぎてしまったのか、彼はその場で膝から崩れ落ちた。溢れ出た冷気によって氷になった水飛沫が舞い散る下で、魔王は座り込んだまま笑った。


「ハッハッハッァー!俺の勝ちだな!やはり争い程愉快なものはない!」


 暫く楽しそうにクツクツと笑い、呼吸を整えた後少し魔力が戻ったのか、ふらりと立ち上がった。


「お前はここで一生凍っていろ!と言いたいのだがな、余は今足が欲しいのだよ。旅の間、水の上を移動する時……お前の力があれば、海や湖を荒らさずに済む」


 これは余の本意ではなかったのだ、と思わせぶりに言ってみると、ケルピーは目だけを動かして、魔王の凍結した足元を見た。


「足元……魚か?しかも大きい、これは登魚じゃないか。高級品の……週に2匹でどうだ」


 ケルピーは明らかに不満そうな目をした。


「じゃあ、4匹」


 ケルピーが目を伏せたのを受けて、ずぶ濡れの魔王は魔法陣を消して氷を溶かした。

 水柱がバシャリと湖に落ち、その中から光を透過させ透明に輝く馬が出てきた。魔王の前で首をもたげ、チラリと見た。


「乗れってことで良いのか?」


 首が僅かに縦に振られたのを見て、魔王はその背に跨る。粘体スライムのようなひんやりとした妙な感覚だったが、確かに乗った。その瞬間、ケルピーは湖の向こう側へ水飛沫を立てて走り出す。ドラゴンに引けを取らない程の速度で、走った後には長い虹が掛かった。


 そういえば、ケルピーをおとなしくする方法として鞍と手綱を付けてどうという話があったのをふと思い出した。だからここまで自分勝手に走るのだろうか。半ば引きずられるように水上を移動しながら、ほんの少しだけ「失敗したかな」と思う魔王だった。


世界を知る旅は、仲間を増やして続く……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る