古魔王と花竜奇譚

硝子の深海

第1話 復活と花畑

 青い小さな花が無数に広がり、まるで海のようだ。清泉が木の根から湧き出し湖を作る。その湖に輝かんばかりの快晴が映る。柔らかな光が満ちる春の丘に、その長閑さに見合わない黒い衣を纏った男が立っていた。

 全身を覆うローブ、整っているが死人のような顔、生気のない金の目、そして額から伸びた山羊の角。

 長すぎる銀糸の髪を引き摺りながら歩く裸足の足元で、花々が凍り、ペキペキと割れていく。男は角が突き出た額を押さえて小さな声で呻いた。


「酷い頭痛だ……眠り過ぎた」


 男はこの地に封印されていた100年前の魔王。つい数時間前に聖なる老大樹「世界樹ユグドラシル」の木の根本から這い出てきた。あらゆる力を奪われ、酷く弱ってしまった彼だが、100年の永劫とも思える時の流れが彼に回復の余地を与え、封印を解くに至ったのだ。

 いかに魔力が弱ろうとも、何百年も人の世に君臨し続けた男__『凍死ノ城主』グラネージュにとって、狭い地下での一人暮らしは許し難きことだった。

 だが、魔王には人間共の世に再臨しようだとか、恐怖に陥れようだという気は更々なかった。ただ今は自分を切り捨て、焼き払ったあの男に、もう一度挑まんとしていた。今度こそ奴の皮膚を凍結させ、全身を真っ赤に染め上げ、紅蓮地獄を味合わせてやるのだと。

 憎しみに思考を巡らせていると、視点が横転した。封印の解除に魔力を使い果たした男にこれ以上歩く体力はなく、花の海に倒れ込んだのだ。

 

「冷たい……痛い……熱い」


  青白い手をぼんやりと青空へ伸ばす。


「……勇者、ラウル・ナターク」


 快晴の青は、奴の燃える目とよく似ている。



……



「うぅ……ん?ここは……」


『おきた?』『おきたね』『おきたよ』


雪精ジャックフロスト……?」


『せいかーい!』


 小さな雪玉を2つ縦に重ねたような姿の霜の精霊、ジャックフロスト。そういえばここはどこだ。石の洞窟の中で、ひんやりとした空気に満ちている。洞窟の天井からは透明なつららが垂れ、頬に水滴が落ちた。


『なんであんなところでねてたの?』


「……ちょっと、疲れて」


『へんなの!』『ゆきのせいれいだよね?』『ちょっとちがう?』『つよそう』『どうぞく?どうぞく?』


『皆のもの、少し静かに』


 厳かな声が石に反響した。ジャックフロストよりも背が高く、雪玉の数も多い精霊。口と思わしき場所には枯葉が口髭のように飾られている。


霜将軍ジェネラルフロストか」


『その通りでございます。凍死ノ城主・グラネージュ様』


 『まおうさまなの?』とジャックフロストがざわざわと騒ぎ出す。

 懐かしい呼び名だった。かつて世界に魔王として君臨していた時名乗った異名。


「久しぶりに呼ばれたな」


『そうでしょうな。勇者ラウルが貴方様を封印してから100年ですから』


「……100年?」


『ええ。100年。貴方に使えていたのも儂の祖父ですよ』


 そういえばジェネラルフロストが城の管理をしてくれていたな、とぼんやり思い出す。記憶が遠い。確かに随分経ったようだ。


「余の体感では30年ほどなのだが……まて、ならばラウル・ナタークは今生きていないのではないか!?」


『当然死亡しておりますな』


「は!?まさか!人間の生は短いと聞いたが、まさかこれほどとは……信じられん。余の『氷床大豪波アイシクルグランド』をも凌いだあの男が」


『寿命には勝てますまい。とにかく、かの勇者は死んのです』


「そうか……」


 大変なことになった。これから何をしよう。魔王はかつての好敵手との再戦のみを望んで誘引を解いたというのに。ただでさえ冷たい体温が、みるみる氷点下に近づくのを感じた。それだけでなく洞窟内には吹雪が吹き荒れ、温度が急速に下がっていく。


『わー!』『とばされるー!』


 尻目にジャックフロストたちが洞窟内を吹き飛ぶのが見えた。

 気持ちが落ち着かない。奴がいない?なら、余は一体何のために?こんな気分になるなら、一生木の根に篭っていた方が良かったのではないか!


「ラ、ラウル……!我が因縁……!」


『落ち着いてくだされ!近々また勇者が転生しましょう!それまで、力を取り戻していけば良いのでは!』


「……転生」


 勇者の転生。古代、始祖の魔王が始まりの勇者にかけた呪い。勇者の魂は永劫輪廻の中で、何度も勇者として生まれ、この呪いから逃れることはできない。

 勿論、勇者ラウル・ナタークの魂も。

 嵐がピタリと止み、ジャックフロストたちが地面にぺしゃっと落ちる。


『わー!』『いたーい!』


「……よし。決めたぞ。余は力を取り戻し、100年後の今を知るためにも……新たな勇者が生まれるまで旅をする」


 嵐が止んだことに安堵しつつ、ジェネラルフロストは配下たちに白く輝く衣を持って来させた。


『雪隠れの衣です。日光の熱から貴方を守るでしょう』


「うむ。感謝するぞ」


 魔王がそれを羽織ると、その魔力に応じて衣は黒く染まった。邪魔ったらしくなった銀髪を手刀で切断する。髪は雪と同化し、煌めきを放って落ちる。


「世話になった。思い立ったら吉日と言う。余はもう出る」


『ご武運をお祈りしております』

『じゃあねー』『がんばって!』『またね』



『いっちゃったね』


 洞窟を出たら、すぐにあの青い花が広がっていた。高い丘から山羊角の男がゆっくり降りていく。


無限の青の中で、魔王の旅が始まった。

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