第2話

 やー、不運ですねえ、お兄さん。担当者である楕円形のメガネをかけた中年男性──タロウが、へらへらとわらった。

「確認できる限りではさんにんめですねえ。政府のデータベースからの消去と、それから私たちの記憶からの消去」

「復旧はできますか」

「それはちょぉっと難しいです。ひとりひとりの脳内チップに電気ショックを与えて働きかけているようなのでねえ」

 ちょぉっと難しい。おれが途方にくれてその言葉を繰り返すと、タロウは困っているみたいな顔をした。上手だ。まるでそこが定位置かのように、眉が一瞬で八の字になる。

 タロウと目を合わせるのがなんとなく嫌で右の方に視線を逸らすと、アリがよだれを垂らして寝ていた。

「おねがいしますよ、なんとかできませんか」

「うーん、私たちも頑張っているんですがねえ。なにせ彼にとっては全てが思い通りですから」

「彼? おれに関する記憶を消したハッカーが誰なのかわかっているんですか」

 タロウはまさか、と左手をゆっくり振った。それと同時に、廊下から何かが崩れるような音と「すみません!」。

「あー、ごめんなさいねえ。重要人物の中に行方不明者が出たのと、それから本日新しい入居者がいらっしゃるということで職員たち、バタバタしておりまして」

 またわざとらしい八の字。それから、ゆっくりと腰を浮かせた。

「まあ、とりあえず私どもにもどうしようもできないということで、申し訳ないですが今日はこのへんで失礼します」

「いや、困りますよ」

「そう言われましても忙しいのでねえ。新たな情報での登録だったら対応できると思いますから、また今度にでも」

「だから、それじゃあ困るんですって! おれは消えたままは嫌だ!」

 なんとか引き止めようと手を伸ばしたが、空振りであった。大声を出し慣れておらず声が裏返る。

 タロウは振り返らなかった。お先に失礼しますねえ、と音ひとつ立てずに閉じられた扉を前に呆然とたちつくす。役所に行けばきっと解決の糸口がみつかると信じていただけに、ショックは大きかった。

「アリ、起きろ。帰るぞ」

 我ながら力のない声だった。後ろを見ると、おれの大声が目覚ましになったのかアリはすでに起きていて、違和感を覚えるほどにおとなしく椅子にすわっている。

「嫌だわ、もう嫌。あたしはだってあの人と結ばれたのよ、そんなことってないわ、いいえ、え、あの人って誰なの私知らないのにけれどだけども何が嫌なの」

 近づくと、アリが熱に浮かされたかのように肩をわななかせながら、小声でつぶやいていることに気づいた。もともと異常な喋り方をする女ではあるが、今のそれは普段のものとも違っているように感じられて恐怖を覚える。

「アリ?」

「ねえ、あ、どうしよう消えちゃうわ私だけどリリは全部忘れちゃう幸せだと思わないわ」

 アリは強く頭をかきむしった。血が出るほどの強さ。おれは慌ててその両腕をつかんだ。アリはかすれた悲鳴をあげ、身を捩るようにしてばたばたと暴れる。瞳の焦点があっていない。どうやらパニックを起こしているらしい。

「落ち着け、アリ。わるい夢でも見たか?」

 極力刺激を与えないよう、ささやき声で尋ねたそれはアリに届かなかったようで、顔をひっかかれてしまった。じくじくと頬が痛む。

 落ち着け、落ち着け、大丈夫だ。それでも、おれはあやすようにそう繰り返す。大丈夫だ、落ち着け、安心しろ。そうしているうちに、アリのからだの力が徐々に抜けていくのがわかった。

「帰ろうか」

 おれの言葉に、アリはこくりと頷いた。


 長い廊下を、アリと手を繋いで歩いているときだった。

 やっと見つけた。そう声をかけられ、後ろを振り向くとタロウがいた。先ほどの無気力な男と同一人物とは思えないほどに目を爛々と輝かせている。

「探しましたよ『リリ』さん、どうやらバグが起きてしまったみたいでねえ、こちらから位置を確認できなくなっていたんですよ。まさかこんなところにいらしたとは気づきませんでした! 新たな入居者さんが来ますから急いで私についてきてください」

 タロウは早口でそうまくしたて、アリににじりよった。アリは怯えた様子で、おれにすがりつく。落ち着いていた呼吸が、再び荒くなってきているのが感じとれる。

「さあ『リリ』さん、いきましょうねえ」

「私リリじゃないし、あたし、嫌だわ、それに」

「もう時間がありませんから、さあ」

 この男は本当に困ったときには眉をつり上げるらしい。アリの腕が乱暴に掴まれ、おれから引きはがされる。

「嫌、あ! 私嫌だKと一緒にいるわ!」

 K。K、K、K、K、K!

 知らないはずのおれの名前を叫んで、アリは泣いた。


 おれは目を見開いた。

 脳に電流が走って、唐突に理解したのだ。記憶を失っていたのはおれも一緒だったのだ、と。おれは額をおさえてうめいた。

「時間がないというのは、おれの代わりの新しい主人公が誕生したということですか?」

「ああ。思い出したのですね」

 タロウはアリを掴んでいた手をはなし、苦笑した。よろめいたアリを、おれは慌てて支える。おれのこいびとを守ってくれた人格を。

「おれのデータはいつ?」

「昨日午後四時三十分五秒ですねえ。プレイヤーデータマルイチ・『K』は完全に消去されましたよ。だから、『リリ』さんのこれはただのバグです」

 八の字の眉は、けれど今度は自然に形づくられたようだった。こんなことは初めてで、今までは、データ消去と同時に『リリ』の記憶も消えていたのだと付け加えられる。

「申し訳ありませんが、そろそろ本当に時間がない。新たな入居者は名前を得ました。『リリ』さんがいなければこの世界は成立しませんから」

 焦りを滲ませたタロウの声に、おれは覚悟を決めるしかなかった。記憶を取り戻した時点で、もうどうしようもないのだということには気づいてしまっていた。

 大粒の涙をこぼしながらおれを見つめる顔を目に焼き付けて、優しい声で言う。

「アリ。リリと代わってくれないか?」

「だめ、私代わったらKを忘れてしまう」

「……大丈夫だよ。安心していい、君はリリを守り切ったから」

 アリは目を細めた。眩しいものを見るように。それから掠れた声でつぶやく。

「そうなのね。おにいさんが言うからそれなら安心だわ」

 しあわせそうな、安心したような声。アリのまぶたがゆっくりと落ちた。

 

 再びまぶたがひらかれたとき、その女は、アリでなくなっていた。

 女は、新たな主人公に笑いかける。

「初めまして、お兄さん。あたしは『リリ』よ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『リリ』 心沢 みうら @01_MIURA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ