『リリ』
心沢 みうら
第1話
稀代のハッカーによる犯行の、三番目の被害者になったらしかった。おれは一瞬にして、この世界にいない人間になった。
おれは生まれて初めて雨を見ていた。いたって健康的な生活を送ってきたから、計画降雨が行われる真夜中まで起きるという経験がなかったのだ。
シャワーよりも細かい、霧のような水が全身を濡らすことを「雨が降る」と表現する。
度数の高いアルコールが入ったときみたいな歩き方で、おれは街を彷徨う。三毛猫の形をしたロボットが、不審そうな顔をしてミャオウとなく。君もおれを忘れているのかと悲しくなる。どうやら個人情報を集めたデータベースごとイカれてしまったらしい。
「そこの、あ、おにいさん、どうしたの」
後ろから投げかけられた音程の狂った声に咄嗟に身を引きながらふりかえると、十代後半ぐらいの、薄汚れた女が座っていた。影に紛れていたのか、気づかず通り過ぎていたようだ。
いつもの癖でその女の名前を確認しようとし、目の前がエラー通知で真っ赤になる。そうだ、おれは今アクセス権限を持っていないんだった。
「私の名前はね、ね、アリっていうんだよおにいさんデータベース載ってないのなら私と同じだね」
乱高下する声に不快感を催して、おれは眉を顰める。
「おれがデータベースに載っていないのを知っているということは、アクセスができているということだろ」
「できているから、けれども、あ、それはリリのおかげなのよアリは違うの載っていないのよ」
支離滅裂な言動をし、女は夢見心地でうたう。
普段であれば不気味に思い近づきもしなかっただろう。けれどその時のおれはやはり気が滅入っていて、くるっていたらしい。
「アリも忘れられたのか」
「私は覚えられていないの初めから」
しゃがんで目線を合わせてみると、アリは意外なほどに端正な顔だちをしていた。
アリは二重人格者であり、『リリ』という人物から生み出されたのだとおれが察するまでには大した時間を要さなかった。とにかく都市の役所で相談しよう、と朝一番に乗り込んだバスのなかで、アリが身の上話をしはじめたからである。
『リリ』は十六歳の女性だそうだ。なにか大きなショックを感じる出来事があって、記憶のほとんどを失った。アリはその時にうみ出された人格。
「リリはね、ね、素敵な人よ。今は出てこないので見せれないので残念だわ、とても素敵なのにねー私がうまれてから出てきてくれないの」
アリが飛び跳ねるのに合わせて車体が激しく揺れる。幸いにも他の乗客はいないが、そのうち墜落しそうでおそろしい。
「アリ、そろそろ寝たらどうだ? 徹夜をするとパフォーマンスが落ちるらしいぞ」
「そうな、の、そうねえ、おにいさんの確かにそうかもしれないわ言うとおり」
アリはおれに素直に従って床に寝転ぶと、すぐに寝息をたて始めた。
おれはその寝顔を見ながら、きっと「アリ」の年齢はひとけたなのだろうと考える。親から受けた指示をけなげに守る子供。そんなふうに見えた。
目的地に到着してもまだ寝ているので、おれはアリをおぶって外に出た。軋んだような音とともに、バスが飛び去っていく。
このバス停の一本先には大通りがあって、そこを抜けたら目的地。おれに比べたらずいぶん小柄だとはいえ、それでも完全に脱力している人間をおぶって歩くというのはかなりの重労働である。地面に吸い付きそうになる足を、無理やり一歩前にすすめた。
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