第6話 宵闇の森の不思議なお城 ②

「どうしたのです」

 ひとりだけ状況が呑み込めないディートリントだったが、いくらもせず、この空気の元凶がやってきたのを視界に捉えた。

 銀色の髪に白磁の肌。

 恐ろしく綺麗な人間にしか見えない青年と、白狼の魔物がやってきたのだ。

「なんだ。賑やかに食事をしていると聞いたのに、お前ひとりか」

 魔物の王は入ってくるなりぶっきらぼうな口調で言った。

 護衛の騎士二人の表情がぴしりと引き攣って若干青くなる。振り返ってみると、鳥の魔物は可哀相なぐらいガタガタと体を震わせていた。

 ことり、とマカロニグラタンのカップを置いて、ディートリントはにっこりと微笑んだ。

「いけませんでしたか?」

「何がだ。ひとりで食事をすることか」

「いいえ。彼らと一緒に食事をしたことです」

 思いがけず強い口調に、食堂に居合わせた魔物達がぎょっとするのがわかった。

 視線の先に立っている魔物の王も、彼の背後に控える白狼の魔物も、ディートリントの態度に特に思うところはないらしい。というよりも、白狼の魔物はどちらかと言えば興味深そうに二人を見比べたりしている。

「…………………いや?」

 何を言われているのかわからない、とでもいうように魔物の王は首を傾げた。長い銀髪がさらりと揺れて煌めく様子が美しい。

「ダメではないのですか?」

「お前の好きなように過ごせと言ったのだから、お前が誰かと一緒に飯を食いたければそうすれば良い」

 お前達も、と魔物の王は食堂の壁に同化するように気配を消して控えた騎士達をチラリと見る。

「これの命に係わることでなければ、言うことを聞いてやれ」

 脊髄反射の如き速さで二人の騎士が膝をつき、声を揃えて「王命とあらば」と頭を垂れる。

「ラドミール、お前もだ」

 ラドミール、と呼ばれた白狼の魔物はくつくつと喉を鳴らしながら頷く。

 ピンと張りつめた空気の中、魔物の王を見つめているのはディートリントひとりだけだ。

 そのまま、沈黙だけが場を支配していた。誰もかれもが膝をついたまま動かない。魔物の王の傍に控えたラドミールは涼しい顔で髭をそよがせながら立っているが、王本人はほんの少し疲れたような顔をしている……ように見えた。

「……邪魔をしたな」

 小さく言って踵を返そうとする魔物の王を、ディートリントは反射的に呼び止めた。

「お待ちください。何かご用がおありだったのではないのですか?」

「あるにはあるが…。大した用件ではない。食事が終わったらで構わん」

 放っておけばそのまま帰ろうとする魔物の王をどうして放っておけなかったのか。淑女らしくなくガタリと音を立ててまで立ち上がってディートリントが口にした言葉に、今度こそ食堂の空気は凍り付いた。

「では、朝食をご一緒しましょう!」

 半歩足を出しかけて停止した魔物の王は天変地異でも見るかのような顔でディートリントを凝視し、壁際で膝をついたままの姿勢で顔だけあげた二人の騎士は口から魂が出かかっている。ぱたり、と背後で音がしたのは鳥の魔物が気絶した音らしい。

(これは…失敗しましたかね?)

 仮にも相手は魔物の王、魔物の中では最高位に位置する貴族中の貴族である。これ以上ない身分の方を気軽に食事にお誘いするのは物理的に首が飛んでもおかしくない非礼に当たるかもしれない、とここへ来て思い当たったが、既に口に出してしまったものは今更戻る訳でもない。こうなれば魔物の常識など知らぬ存ぜぬを貫こう。いや、実際知らなかったのだが。

(今は非礼云々よりも、美味しい朝ごはんです)

 ふんす、と気合を入れた頃、いまだ固まっている魔物の王の代わりに、涼しい顔をした白狼の魔物から思いもよらない助け船が出された。

「麗しの姫、主と共に我ら侍従もご相伴に預かってよろしいですかな」

「ええ、もちろんですわ!」

 にっこりとディートリントが笑うと、白狼の魔物は軽い身のこなしで椅子を引いて、まだ固まったままの魔物の王をそこに座らせてから自分も隣の席に着く。壁際で魂を出しかけていた騎士と、気絶から戻った鳥の魔物に「お前達も皿を持ってこい」と促す。

 かなりぎこちなく再開された朝食だが、食べ始めてしまえば食欲が勝るらしい。

 騎士という体力仕事は魔物であっても空腹になりやすく、元々食事が必要ない種族であっても気が付けばしっかり食べるようになるのだとか。追加で肉料理を頼んで頬張る騎士達を見ながら、ディートリントはオムレツを口に運んだ。挽肉をたっぷり使ったオムレツは朝食にしては重いほうだが、宵闇の森へ来てからというもの、特に体を動かした訳でもないのによくお腹が空く。

 対面に座る魔物の王とラドミールを見れば、ラドミールは無花果とリンゴのサラダを優雅に口へと運び、魔物の王はアップルパイを口に運んでは凝視し、不思議そうに首を傾げてはまたパイを口に運ぶ、を繰り返している。手元のパイを食べ終わってしまうと、しばらく怪訝そうな顔つきで何やら考え込んでいたが、控えた給仕に再びアップルパイを配膳してもらって食べ始める。

(初めて食べたのかしら)

 小さい子が初めて食べた料理の素材を考えているかのようで、何となく微笑ましい。

 肉類の大半は虎と狼の騎士が平らげ、お昼の軽食用にアップルパイを包んでもらってから、すっかり片付いた食堂ではデザートが出されていた。万年氷を薄く削って砂糖をまぶした氷菓子は王宮の晩餐会で出される定番のデザートで、それがほんの少し郷愁を誘う。

「本日は何処へいらっしゃいますか」

 尋ねたのは虎の騎士。彼女は氷菓子をぺろりとふたくちで平らげてしまって、既に綺麗さっぱり片付いたテーブルには紙包みが置かれている。おそらく、おやつ代わりにとサンドイッチか何かを包んでもらったものだろう。ディートリントが来てからというもの、出せば出すだけ皆がそれを平らげるものだから、魔物の料理人は感極まっているらしい。

 朝食の後は散歩と見聞を兼ねて城内を見て回るのだ。

 見て回ると言っても騎士に付き添われて庭園や練武場などへ足を運び、特に何をするでもなく時間を過ごすだけなのだが。

「そうですね、どうしましょうか」

 できるだけ居てもご迷惑にならない場所となると限られてくる。

 宵闇の城は広大で、ディートリントが暮らしていた王宮よりも遥かに広い。敷地面積だけでなく、規模自体が異なるのだということはすぐに察した。

 毎日交代で付き添ってくれる護衛騎士は王直轄の近衛騎士団であったし、便宜上、客間と呼んではいるものの、ディートリントに与えられた『一室』は実際には『一宮』であり、王の私的な住まいである内宮の中でもかなり奥まった場所にある。本来ならば後宮として妃に与えられるであろう場所だ。それもおそらく、かなり上位の。

 好きに過ごして良いとは言われているものの、何もせずにいるのはありていに言えば退屈である。かといってあちこちにお邪魔すれば、それだけ迷惑がかかってしまう。

 部屋でおとなしく過ごしていれば良いようにも思うのだが、それはそれで何となくもったいないような気がするのだ。

 考え込んでしまったディートリントに「なら外宮へ行ってみろ」と魔物の王は言った。

「出ても良いのですか?」

「……監禁した覚えはない」

「ですが、あまり外へ出るなとおっしゃいました」

「瘴気の耐性がわからなかったからだ。外宮はここより濃い。それに、身分のわからないお前がうろうろすると面倒くさかっただけだ」

 そう言って魔物の王はぽいと何かを放り投げる。

 すとんと手の中に飛び込んできたそれは、小さな宝石を魔法の糸で編み上げたブレスレットのように見えた。

「これは?」

「つけておけ。身分の保証になる」

 ぱああああっと笑顔になったディートリントがさっそく左手にブレスレットをつけると、魔法の糸がくるくると手首の周囲を回って、瞬く間にぴったりと吸い付いた。大きすぎてすっぽ抜けてしまいそうだと思ったが、さすがは魔物の工芸品である。

「ありがとうございます」

 にこにこと機嫌の良いディートリントに、魔物の王は小さく溜息をつく。

「それよりも、お前本当に良いんだな?」

 今度はディートリントが小さく首を傾げた。

 何がでしょうか? と言いたげな視線を受けた魔物の王はどことなく諦めに似た表情をしている。

「お前はここで飯も食ってる。この上に名乗りを済ませれば、人の世界の縁が切れる」

「ああ、そんなことでしたか」

「そんな……」

 ぐっと言葉を飲み込んだらしい。

「お話しましたでしょう。人の世界でのわたくしはもう死んでいるのです。今更帰るつもりなどございませんし、あちらも、帰ってこられてもきっとお困りです」

「元居た場所でなくても良いのだぞ。他にも国はあるだろう」

「わたくし生まれた時から王族でそれはそれは大切に育てていただきましたの。ですから、自慢できることではございませんが、人の助けを借りずに生活するなど不可能に近いのです。知らない国でひとりで生きるなど、きっと、一日もできません」

 それに、箱入りのディートリントにとって、知らない人間の国も、知らない魔物の国も、同じ『知らない国』である。権力を巡って、領地を巡って、領土を巡って、陰謀渦巻き他者の命を踏みにじる人間の国よりも魔物の国が恐ろしいとどうして言い切ることができるだろうか。

 元より十八で死ぬとわかって生きてきた。

 黒の咎人としての運命を、優しく、そして身勝手な陛下達は何とか変えようと奮闘していたのを知っている。魔力の質を変えれば髪色も変わるかもしれない、成長したなら髪色が薄くなるかもしれない、何人もの王宮魔術師が禁術とされる研究を繰り返したのも知っている。この国はこれまで千年以上に渡って五十年に一度生まれる黒の咎人を宵闇の国へ送ってきた。平民だから、出立の日まで王宮で暮らせる栄光に浴せと、問答無用で犠牲を強いてきた。

 たまたま王女に生まれたからとその運命を拒むのは、これまで犠牲になってきた全てに対しての裏切りだ―――ディートリントは、自分を救おうとする家族をどこかで嘲笑していたのかもしれない。

 にこにこと微笑むディートリントに、魔物の王は何度目かの溜息をついた。

「わかった、わかったから睨むな」

「睨んではおりませんが…」

「表面上にこにこと微笑んでいるように見えても、お前の殺気と怒気が駄々洩れだ」

「まあ…」

 怒気、と言い当てられてディートリントは微笑むしかない。

「今後はディーと名乗れ。いいな」

「まあ!ありがとうございます、陛下」

「……はいはい、良かったな。陛下はやめろ。スヴェンでいい」

 溜息に交じりに言って魔物の王、恐ろしく美しい人間にしか見えないスヴェンは氷菓子の最後のひとくちを匙で掬って口へと運ぼうとした。が、その試みはディートリント改めディーのとんでもないひと言で失敗に終わった。

「それで、せっかく名前をいただいたのに、魔王陛下は呼んでくださらないのですか?」

「おま…ぇ……」

 するりと銀製の匙が手元から落ちていく。

 自分の手から匙が離れたことにも気が付かない程の、あまりの衝撃らしい。幸い、毛足の長い絨毯に吸い込まれるようにして落ちた為、音はしなかった。給仕の魔物がすばやく拾い上げて下がっていく、その素早さはまるで暗部の暗殺者のようだ。

 絶句したまま固まるスヴェンを見やり、ふと横を見れば、ラドミールは左手で顔を覆って笑いを…噛み殺しつつ耐えているようだ。その隣ではなぜか顔を真っ赤にした虎の騎士が焦げ茶の狼の騎士と両手をがっつり繋いで満面の笑みでディーを見ている。鳥の魔物はというと同じく顔を真っ赤にしながら、こちらは胸の前で可愛らしく両手を握りしめていた。

 スヴェンに視線を戻すと、今度はがっくりと項垂れている。

「お前に教育係を付けてやる」

 魂が抜け出てしまうのではないかと心配になる程の虚無感を漂わせ、スヴェンはやっとのことでそれだけを告げて食堂を後にした。

 ラドミールは最後まで笑いを噛み殺しつつ、時折耐え切れずぶふっと噴き出していたが、食堂を出る際は紳士らしく優雅な一礼を見せた。

「わたくし、何かおかしなことを申し上げましたか?」

 傍らで両手を握りしめた鳥の魔物にそう尋ねてみたが、彼女はふるふると首を左右に振って「何も…おかしく…ない。素敵」と、いつものはにかんだ声で答えただけであった。

 名付けと、名乗りと、名呼びについて、ディーが教育係からみっちり教わるのはまだ先の話である。

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【不定期更新】宵闇の王と月明かりの姫君 なごみ游 @nagomi-YU

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