第5話 宵闇の森の不思議なお城 ①

 ことり、と置かれたカップは美しい不思議な銀。

 銀色の上に煌めく七色の光はまるで真珠を溶かしたようで、そこにはめ込まれた小さな宝石はどんなに素晴らしい職人の手によるものか、日差しを受けてキラキラと輝いている。

 窓の外に見える風景はいつも夜だが、今は天井から柔らかな日差しが降り注いでいるのだ。

 日差しだけではない。

 見上げればそこには、柔らかく澄んだ青空が広がっている。

 恐ろしく凝った造りの天蓋付き寝台で目を覚ましたディートリントは、たっぷり数分、この常識外な光景の中でぼんやりとしていた。

「お目覚め……ですか…?」

 そう声をかけたのは美しい羽毛を持つ魔物だ。

 ゆるく巻いた髪は紺、零れる程に大きな目と、桜貝のような可愛らしい唇は人に見えるが、顔の横には小さな羽根が見える。それがまた、髪を彩る羽根飾りのように見えて美しい。それが人間でないとわかるのは、ふわりとよく膨らんだスカートから伸びた足は獣形で、三叉となった蹴爪がしっかりと体を支えているからだ。

 ええ、とディートリントが答えて体を起こすと、魔物は表情に乏しいながらふんわりと大きな目を和ませ、起こした上体をそっと支えてくれる。肩のあたりに添えられた手とは別に、魔物の背中から柔らかく包み込むようにして羽毛に覆われた翼が伸びた。

 そうして、ひょいとディートリントを担ぎ上げる。

 それはもう庭の小石でも拾い上げるような手軽さで、この可憐で華奢な魔物は顔色ひとつ変えずに成人女性を持ち上げている。

 宵闇の城に来てから既に五日。自分の仕事が『魔物達に世話をされ倒すこと』だと理解したディートリントは心を無にしながらされるが儘になっていた。自分で歩けるからと抵抗を試みた初日が遥か昔のことのように感じてしまう。

 ふかふかの長椅子に降ろされ、身支度をすべて魔物の手によって施される。

 王宮に居た頃も不憫がった侍従達は大変に甘やかし世話をしてくれたものだが、魔物のそれは人の常識の範疇を軽々と飛び越えてもはや異常値だ。何しろ、この美しい鳥の魔物は最初、ディートリントが長椅子に座ることすら嫌がって、一日中、自分が抱えようとしていた。美しい羽毛で覆われた翼は柔らかく温かで、包み込まれるように支えられると幸福感でいっぱいになることは確かである。だがいくら何でも魔物を椅子扱いにはできないと断れば、表情に乏しいはずの鳥の魔物は大きな目から大粒の真珠の涙をぽろぽろと零して、顔面蒼白とはこのことかと言わんばかりの酷い顔色で項垂れてしまった。

 真珠の小山でも作る気か、と様子を見に来た狼の魔物にこっぴどく叱られ、世話をされるのが嫌なのでも、鳥の魔物が嫌いな訳でもないのだと随分言葉を選んで伝えた結果、ディートリントはようやく普通に長椅子に腰かけるという人間らしい権利を行使するに至ったのである。

 魔物の裁縫師が仕立ててくれたワンピースに着替え、髪を結いあげて髪飾りを挿せば、鳥の魔物が大きな目を和ませて小さく頷く。今朝も出来栄えに満足しているようだ。

「とても…お綺麗…」

 はにかむ様子に、ディートリントのほうが何だか照れてしまう。

「いつもありがとうございます。さあ、では朝食に向かいましょう」

 ディートリントが言うと、鳥の魔物はこくこくと嬉しそうに頷いた。

 瞬きの少ない大きな真円に近い目が和む。

 あてがわれた部屋のドアを開ければ、騎士姿の魔物が二人、扉の左右に立っていた。人に見えるが片方は頭の上から虎の耳が見えており、もう片方は頭の上から狼の耳が見えている。

「おはようございます、お目覚めですか」

「おはようございます、よく眠れましたか」

 爽やかな笑顔と共に長くしなやかな虎の尾がしゅるりと振られる。その様子を「はしたないぞ」とたしなめて、焦げ茶色の狼が礼儀正しく一礼した。本来剣を持つ右手を胸の前にあてた礼は王宮の騎士達を思い起こさせる。

「二人ともおはようございます。寝ずの番、ご苦労様でした。これから朝食に向かいますが、よろしければご一緒にいかがですか?」

 ディートリントの問いかけに、虎の魔物はぴょこんと耳を立てて小さく飛び跳ね、焦げ茶の狼の魔物は「失礼でなければ」と苦笑する。後ろから、どうしてお前はそうも恥じらいがないのだ、と苦言を呈する焦げ茶の狼の声がして、歩き出したディートリントはふふっと小さく笑った。

 食堂に入れば、今朝も最高の出来栄えの料理達が並んでいた。

 甘くホイップされたシュガーバターに、焼き立てのパンとクロワッサン。温室から手摘みされたオレンジを絞ったジュースに、たっぷりと蜂蜜を使ったレモネード。無花果とリンゴの入ったサラダ、厚切りにして焼いたハムと香ばしいソーセージ、手の中にすっぽり収まるくらいのカップで焼かれたマカロニグラタン、挽肉のたくさん入ったオムレツに、ミートパイとアップルパイが並んでいる。どれも大変なボリュームなのだが、温室で採れる果物や花をふんだんに使った料理は華やかで美しい。

 ただ、全部は食べられない。というだけである。

 魔物は偏食家が多い。おおまかな好みは種族で推察できるものの、個人の好みとなると千差万別で測りがたい。食べるどころか匂いだけでも、否、目にしただけでも気分が悪くなるといった出来事も珍しくないため、魔物は基本的に食事を共にしないものだ。

 その中でも魔族と呼ばれる高位貴族達にとっては、そもそも食事という行為が必要ないことも多い。食べるということが元から嗜好であり贅沢な戯れの一種と言って良い。

 だからこそ、料理人は初めて料理を出す際、ありとあらゆる食材を調理して膨大な料理を出す。

 気に入ったものがあれば口をつけ、気に入らなければ捨てられる。百種の料理をひと晩で出したとして、そのうち三つも食べられれば大成功―――それが魔物にとっての常識だった。

 当然、宵闇の城に長く務める料理人はディートリントに対しても、食堂の大きなテーブルを埋め尽くさんばかりに料理を出した。今朝のこの量は、だから随分とディートリントに譲歩した料理数なのである。

(何だか随分と昔のことのように思えますわね)

 小さなカップで焼かれたマカロニグラタンを口に運びながら、ディートリントはそんなことを思った。

 やいのやいのと賑やかに食事を楽しむ魔物達を眺めながら淑女らしくマカロニグラタンを食べていると、ふいに彼らの手が止まる。虎と狼の騎士は手早く皿を片付けて壁際へ、鳥の魔物は見るからにおろおろと挙動不審になり、こちらもディートリントが座っている後方の壁際へ引き下がる。

「どうしたのです」

 ひとりだけ状況が呑み込めないディートリントだったが、いくらもせず、この空気の元凶がやってきたのを視界に捉えた。

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