尊きもの

@kinutatanuki

第1話


【1・須築の災難】

 「さすが梅田」

 「いやぁ、凄い人を見たな」

 同僚たちが騒いでいる。会社の近所で凄い美女を見たという。

 「須築さんも見ましたか」

 「いや、見てない。そんなに凄いの?」

 騒ぎ立てるほどの美女というのはどんなものか興味が湧いたが、残念ながら実物にまだ会えていない。

 須築が大学を卒業してから十年勤めている会社が梅田に移転した。従来から大阪で一番上等の場所ということで、「十年以内に梅田へ」が社内の合い言葉になっていたので社長は大喜びだか、社員の方は少しばかり醒めていた。梅田が変わってしまったからだ。

 大阪は湾岸に広い埋め立て地を作ったのだが、そこに移転したいという企業がほとんど無かった。オリンピックを誘致して盛り上げようとしたのだが、埋め立て地に特有のダイオキシン汚染のせいで失敗した。大量の土砂を被せたがどうしても漏れ出てくる。そんな危険な場所に公営住宅地を作るわけにもいかず空き地のまま放置されていたのだが、カジノを作ろうという話になった。どうせ老人しか来ないだろうし短時間滞在するだけなので、ダイオキシンの影響は少ないだろうというわけだ。とにかく人が集まれば経済が活性化すると思ったのだが奇妙なことになった。

 カジノへは梅田から十二キロほどあるのだが、その道沿いが大きく変貌した。従来はガス会社の広大な工場と、バス会社の車庫、色々な企業の倉庫といった地味な灰色が目立つ長い塀と四角い建物だけの地域だったのだ。カジノは入場するのに正装であることを求めたので、沿道にまず更衣室つきのレンタルスーツ、ドレス、靴の店が建ち始めた。金が無いのに賭けたい人のためにお手軽ローンの店が並んだ。カジノは儲けるよりも持ち金を失うことの方が圧倒的に多く、その損害をいくらかでも挽回できると考える人たちのためにパチンコ・スロットマシン・麻雀の類の店も来た。

 大人の娯楽は「呑む・打つ・買う」というのが昔からの常識で、非日常の世界に身を置くと性欲を刺激するものも欲しくなる。風俗営業の店も集まってきた。金色やピンク色の外壁が目立つ通りになった。カジノの集客力は絶大で、近畿圏では有名だった神戸の福原、琵琶湖岸の雄琴の売春街が消えてしまった。もちろんカジノへの沿道に移転したのだ。カジノで儲けたり残った持ち金の多かったりした者はソープランド、乏しい者は風呂も酒もなくただ性交するだけのスピードセックスという店に行くわけだ。レストラン・定食屋・たこ焼き屋・ラーメン屋なども来た。子どもの目には触れさせたくないのでファミリーレストランは来ない。風俗営業の従業員のためだろう、ところどころに産婦人科や性病科のクリニックが来た。沿道には高校があるのだが、PTAや同窓会が問題視して間もなく移転することになっている。それでこういう店ばかりの道が十二キロ続くことになった。〈カジノストリート〉が大阪の代名詞になった。別名〈セックスストリート〉とも呼ばれている。二つを混ぜてカジックスという言葉も生まれている。

 日本人も来るが、外国人が多い。これは期待された通りだ。日本人は外国人というものはみんな英語を話すものと思っていたのだが、どこの言葉か分からない、顔も見慣れない人種がたくさん梅田に流れ込んできた。外国旅行をする日本人は旅行ガイドに「スリに気を付けよう」「一人二人で歩かないように」「裏通りには行かないこと」と注意書きがあるのを読んで緊張したものだが、その注意が梅田の地下街でも必要になった。すり、置き引き、かっぱらいが頻発したので、外資系のブティックや高級ホテルは京都や神戸に移転する計画を次々発表し、梅田に残るのは梅田発着の路線を抱えており、開発に力を入れてきた電鉄系の施設だけという有様だ。代わりにラブホテルや椅子の背が高い喫茶店がストリートに並んだ。当然、地価が大幅に下落する。大阪は稼げるということか不良外国人が次々乗り込んでくる。玄関口は関西空港で、鉄道は難波(ミナミの中核駅)と天王寺(アベノの中核駅)に接続しているので、梅田と同様のことがこの地域でも危惧されている。大阪の人は設置したカジノの利益の八十パーセントぐらいが大阪府の収入になると思っていたのだが、たった四パーセントしか入らないということも分かってきたので、みんな怒っている。カジノで潤ったのは暴力団とカジノ運営会社だけだったらしいのだ。ラスベガスやモナコにするつもりだったのに、砂漠の真ん中にカジノしかないとか、元々繁華な町中にカジノがあるとかいうのが良いのかも知れない。中途半端に荒れ地と繁華街がつながったのが間違いの元と言われている。町作りの基本計画が杜撰だったということなのだろう。

 ともかくこういう情勢のお陰で、須築の会社のような三流企業が梅田に本社を構えることが出来たのだ。

 その程度になり下がった梅田と思っていたのだが、近所に美女が現れたというので、社員の男たちは梅田という場所を見直した。

 「矢未、あいつらに、次、いつ会えるかな」

 尋ねられた矢未という社員は苦笑する。

 「何でも予想できるわけではないもんですから」

 矢未には不思議な才能があり、営業に出動する時に曇っていて、傘を持つべきかどうか分からなくても彼に聞くと的確に答えてくれた。だから邪魔な折り畳み傘を持たなくてよかったし降られることも無かった。

 地価が下がったのはストリートに近い西側だけでなく、反対の東側や北側も落ちたので、矢未は退職してこんな店を開業した。「霊能相談所 感霊舎」というものだ。商業ビルの三階で細々と営業している。


 ダークブラウンの低いテーブルを挟んで、矢未ともう一人三十代ぐらいの男と初老の男女とが黙って向かい合っていた。小ぶりの会議室のような大きさの部屋だが、椅子はソファだ。矢未の隣にいた少し若い方が首をひねった。それを見て矢未が瞑目した。しばらくして目を開くと、

 「申し訳ありません。私たちでは全体を見渡すことが出来ませんでした」

と言って頭を下げ、先ほど受け取った「相談料」と書かれた封筒をテーブルに載せ、返そうとした。

 「関西で最高の霊能者ということを聞いたので来たんですけど」

 女性が低い声で言う。

 「道は極めて明るく鮮明ですからお嬢さんたちは間違いなく幸せに過ごして行かれると思いますが、そこに至る途中経過がはっきり見えないんです。力不足で本当に申し訳ありません。わざわざここまでお越しいただきましたのに」

 また男性が頭を下げ、若い方もそれに倣った。

 「矢未先生、幸せに過ごせると言っていただけたので、これは宜しいですわ」

 女性と並んでいた男性が相談料を押し返した。

 「いいえ。全貌をきちんと御説明出来なかったので、これはお返しします。もう少し試みて、もしきちんと見通すことが出来ましたら御連絡を差し上げましょうか」

 「あぁ、それがええわ」

 女性が言う。

 「しかし、それでは幸せになると言うてもらえた分は」

 男性が言いかけたのに対して矢未が、

 「全部見通せた時に、全額頂戴しましょう」

と返した。

 「先生、潔癖なんですな」

 「うーん、不完全な商品は販売出来ないといったところでしょうか」

 男女はゆっくりと立ち上がり、玄関を出ていった。それを見送ってから少し若い方の男性が、

 「先生、見えなかった訳ではないんです」

と言った。

 「君の言うことは分かるよ。見えたものが納得出来なかったんだろ?」

 「そうなんです」

 「僕も見て、納得出来なかった。しかしそれを正直に伝えたら、相談者を不安にさせるだけだね。霊能者の所に来るのは、みんな安心したいからなんだからな。とにかく誤魔化しはしないことが長続きの元だよ」

 矢未は「CLOSED」の札を下げると、半年前まで勤めていた会社の忘年会に出掛けた。当時プロジェクトのチーフをしていた須築が、お出でよと呼んでくれたからだ。矢未が退職して霊能者として暮らしていくことが分かった時、プロジェクトの同僚の反応は二手に分かれた。すごいなと感心してくれるメンバーと、言わないけれど薄気味悪がっているメンバーとだ。天気を正確に予報していたのだが、何でも見通せそうだというのとは印象が違うようだ。須築さんは感心もしないが嫌うこともなかった。

 「大泥棒で有名な人物の名前はよく聞くけど、霊能者で名前が聞こえてくる人はいないね。やはり本物はなかなかいないということかなぁ」

と言っただけだ。


 会社の社長が息子に替わった。新社長は意欲満々で社員は大変だ。忙しくなって、須築の同期入社の仲間、プロジェクトで彼を支えてくれるサブリーダーの里生が倒れてしまった。三日間だけだが入院したのだ。ストレスのせいで身体が緊張し血の巡りが悪くなって酸欠で、と里生は皆に病状を説明した。

 「体をほぐせばいいのは分かってたんだけど」

 チームリーダーとしては申し訳ない限りだ。忙しくてマッサージを受けに行く時間が取れないのだった。施療院に行くとそれなりに金もかかるし大変だ。「控え気味にな」とあまり意味のない言葉を掛けたのだがどうなるだろうか。会社に顔を出している限りは大きな戦力なので、里生が早く復調することを祈る。

 須築にはなぜ自分がリーダーで里生がサブなのかが分からない。自分にはリーダーは向いていない。与えられた条件の下で黙々と仕事をこなすのが得意なのだ。チームメンバーの髪型はなぜかスポーツ刈りが多かったが、彼はツーブロックの刈り上げタイプで平凡だ。会社全体では須築の髪型と同じ者の方が多い。そうして多数派の中に埋没していたい。チームの皆からはリーダーらしくもう少し偉そうにした方が良いなどと言われるが、他のプロジェクトを率いる先輩社員たちを見るととても真似できないと思う。里生が「無理しなくていい」と言ってくれる。それが頼りだ。絶対彼の方がリーダーらしい。上司はどこを見て人員配置をしているのだろう。

 里生が休んでいる上に一年後輩の花灯が出社しなくなった。花灯は大がかりな機械を設計するのが得意な人物で、彼がいると思うと心強かったのに。二日後、須築は課長に命じられて彼のマンションに出向いたのだが、郵便物や新聞が貯まっている。大家さんに会うと、何も聞いていないということだ。入社時の書類で保証人である親に連絡を取ると、驚いた。黙って会社を辞めたり、勝手に休む子ではないと言う。それは須築の受けていた感じでもそうだった。さっそく捜索願を出すということだ。大変なことになったと思ったが、会社の方で出来ることはない。課長も考え込んでいるようだ。

 翌日営業次長に呼ばれて、花灯の欠けた分の補充は無いと通告された。花灯の机はしばらくそのまま置いておく、パソコンはデータを確かめて不要のものは消すということになった。

 その頃から社内で急速に「近親憎悪」という言葉がはやり出した。営業一課と営業二課とが互いに知らぬ間に同じ相手に売り込みをかけていたからだ。元々法人は一課が扱う、個人は二課という割り振りになっていたのだが、企業で事業部制が広まりその中のプロジェクトがリーダーの名を取って「鈴木PJ」とか「山田T(チーム)」と名乗って契約書を作るようになると、相手が法人か個人か区別がつかなくなってしまったのだ。原因が判明してからも、互いに業績を競う間柄である以上引き下がるわけにはいかず、同じ会社の従業員とも思えないにらみ合いになっている。それを総務部や企画部などのお気楽部門の連中がからかったのだ。

 近親憎悪という感覚は元々は兄弟姉妹やいとことの関係が悪くなり、死なせたいという思いにまで達することを指すのだろう。高貴な家柄では相続が大問題で、それが原因で戦争したりしている。政党や企業などの大組織でも粛清される幹部がいたりするが、それも近親憎悪の一種と言える。嫁と姑が揉めるのもきっとそうだろう。男は母親に似た女だと付き合いやすい。そうして結婚すると嫁と姑はよく似た人間ということになり、二人は些細な違いにイライラすることになるわけだ。

 ひょっとすると、第二課に棚賀がいなければ、殴り合いの喧嘩になっていたかも知れない。棚賀という男は入社したばかりの最年少で体が大きい。四角い顔にぎょろっとした眼、大きめの鼻や口が目立つ人間だ。性格が明るく爽やかという表現をそのまま形にしたような人物で、みんな彼と口を利くと落ち着いた気分になるらしく、喧嘩せずに帰って行く。他の誰かが出て行ったらただでは済まないところを、「お元気そうですね」「そのネクタイ、どこで買ってこられたんですか」などと少しずれた発言で逸らしてしまうのだ。わざとそうしているわけではないらしく自然にそういう発言をしてしまうと本人は言う。珍しい能力と思う。

ともかく今は他企業に対してはもちろん、社内でも熾烈な競争の最中で実に忙しい。花灯の失踪は須築のプロジェクトにとっては大打撃だ。その上、会社の所在地が変わったわけだ。業績が伸びて、元の場所では手狭になったということもある。場所は新社長が見付けてきたところだった。所在地は「梅田」なのだ。梅田に近いというのではなく正真正銘の梅田だ。一丁目ではないが、そんなことはどうでも良い。

 「繁盛はうれしいけど、これはかなわん」

 新しいオフィスの壁際や通路にはまだ解かれてない段ボール箱が山積みになっている。前の場所からひどく遠いわけではないが引っ越しは引っ越しだ。

 「旭区のファイルはどこかな」

 営業地域名を書いた資料が探される。

 「あの箱じゃないの」

 必要に迫られた人が地域別の箱を開ける。そうして怒鳴る。

 「備品請求の書類冊子が入ってるぞ。総務、聞こえてるか」

 元々大繁盛で忙しい時に移転したので、元の仕事の上に荷造り・荷ほどきが付け加わり疲れてしまっている。仕事が終わるとみんなよれよれで、一人、二人とポロポロと帰っていた。

 「疲れた」

 「肩凝った」

 あちこちからぼやきがもれてきた。

 運動不足にもなる。心の緊張の一方で何だか体が緩んでいるのが感じられる。ちょっと長めに歩くと、体の中で内臓が下の方に垂れてくるような気分だ。

 商圏が広がるとクライアントも多くなり、予想もしないことを言ってくる人に遭遇することも起こった。新しい要望を聞くと、経費の計算も更新しなければならない。そのたびに新しい書類が必要になる。


 その頃須築は毎週一度休日に絵画教室に通い始めた。そこは三ヶ月ほど前にバスに乗っていて気が付いたのだ。広告があったわけでもないし、誰かが習っていると聞いたわけでもない。気付いてからもしばらく関心が無かったのだが、少し前に急に思い立って習い始めた。仕事が肉体的にきついものだから休んでいれば良いのだろうが、何となく絵を描きたくなった。仕事から離れて気分転換したかったからかも知れない。

 須築もよく欠席するので他人のことはとやかく言えないのだが、毎回きちんと出席するのは二十人ほどのようだ。全部で六十人ほど習いに来ているそうなのだが、アトリエは二十人がちょうどいい広さのような感じである。男性が多い。年齢はバラバラで、あまり口にしないからよく分からないが職業も当然のことながらまちまちのようだ。絵の腕前にもかなり差がある。そういうことは習い始めたばかりの彼にも分かった。でもそんなことはいちいち気にならない。争わないのが芸術の心地よいところなのだ。ここに来ると本当に緊張を解くことが出来た。

初めて、筆・絵の具・油・パレットなどを入れた箱を抱えてやって来た日は、肖像画を練習する日だった。二人一組で向かい合い、デッサンをした。須築の相手をしてくれたのは四十歳前後のショートヘアで色白の女性だった。小柄で小肥りで、甲高くかわいい声で話す人なので年配の男性たちから結構可愛がられているように見える。年上だが須築にとっても好みのタイプだった。その人から、

 「須築さんて、眉毛がチャームポイントですね」

と言われた。形が良いそうなのだ。それまで特に褒められた経験が無かったので、ちょっと嬉しいと思った。家に帰ってから、自分の眉毛をしげしげ見たのはもちろんだ。そうなのかなぁと思ったけれど。相手を変えて別の人と組んだ時は須築が、耳の形が可愛いと言って上げた。それ以来ひとの眉や耳の形には敏感になった。

 人が集まるから、世間で話題になるようなニュースがここでも口に上りはするけれど、

 「怖いねぇ」

 「凄いねぇ」

といった単純な感想だけで、

 「~でなければならないのにね」

といった、相手に何か押しつける類の言説は聞かれない。そういう言い方がたまに出てきたとしても、テーマは「鍋料理をおいしくする方法」とか「プロ野球の作戦の特徴」とかいった争っても大して害にならないようなことについてのものばかりだ。それも徹底的に主張するといった話し方は誰もしない。話題も世代がバラバラなのを反映してか、予想もつかない方向に動くのが楽しい。

 油絵などの美術、あるいは芸術といったものは他人とよく似たものを作っていては評価されない世界だから、自然、てんでんばらばらな作品が並び、

 「面白い描き方してるね」

といった褒め合いになってしまう。実に平和な空間といって良い。のんびり出来る。これがうれしくて足を運ぶのだった。

 よく晴れた日だった。みんな爽やかな顔でアトリエに入って来る。須築は、今日はガラス鉢の向こうにある林檎を描くことにしていた。ガラス鉢は教室にあるが、林檎は無い。持ってきた画材入れから取り出した時、

 「蛇がいたのよ」

と震えながら飛び込んできた人がいたので教室は一気に恐慌状態になった。習い始めた初めての日に須築と組んだ椋さんだった。

 バス停からこのアトリエまで細い小道沿いにツツジやツバキの木が茂っていて、甘い香りを漂わせている。生徒たちはそこをしばらく歩いてやってくるのだが、彼女が言うには、その途中に鎌首をもたげた黒っぽい蛇がいたというのだ。大きさはよく見る余裕がなかったけれど、一メートルぐらいはあったと思うと言った。ずいぶん大きい。

 「今日はもう止めて帰ろうかと思ったんだけど、バス停に戻る時にまた別のが出てきたらたまらないでしょ。こっちなら、皆さんがいるから」

 その小道は須築が幼い頃に住んでいたところに似ている。小学生の時、灰色の蛇が大きなネズミかモグラを捕らえて締め付けているのを見たことがあった。年上の子たちが、あのまま骨も折ってしまうんだと言ったのを覚えている。

 当てにしてもらっても困るなぁといった表情になった人が多かったようだが、それはほんの一瞬で、何とかなるんじゃないのといった風の気分がうかがえる顔になった。

 「椋さん、帰る時にまたいたらどうするんよ」

 少し年上の女性が低い声で、尋ねた。この人は髪が長く、服も青系統の色の濃いものを着ていることが多いので一層痩せて見えた。

 「だから、皆さんがいるから、あとからそっとついて帰ろうかと思ったのよ」

 彼女の返答に、みんな和やかに笑い声を上げた。

 「椋さんを歓迎するつもりでおったのなら、あなたが相手してやらんと、我々、当てにされても困りまっせ」

 やんわりと他人を頼るなと注意が飛んだ。

 「蛇が歓迎なんかするもんですか」

 からかわれたと気づいた椋さんが怒る。

 「そやけど、そういう時は誰が先頭に立って帰るんかいな」

 これは確かに大問題だ。女性はか弱いから男性が歩いて下さい、なんて言われても嫌いなものは何ともしようがないだろう。蛇の姿を思い出すのか椋さんが何度も震えている。帰る時に先頭になるなんて考えられないといった様子だ。話を聞いているだけの須築たちでも、心地の良いものではない。そのうちにそれほどまで嫌う理由は何かが問題になった。

 「我々は、どうして蛇が嫌いなんでしょうね」

 そんなことを誰かが言い出した。そう言えば、確かに不思議だと思われる。

 「だって蛇なんですよ。理由なんか有るわけないでしょ」

 ヒステリックな声が聞こえた。蛇だからというだけが理由だというのだ。それに賛成する人が多い。ところがそれは安易すぎると言う人が出て来る。どうして追究しようと思わないのか不思議だと言うのだ。この人たちは客観的、冷静に考えられるようだ。須築はそういう話をボンヤリ聞き流しながら、キャンバスの中で次にどんな線を引けばよいかと考えていた。そうやってこの話題から逃げていた。

 小学校にも上がる前ぐらいだった。近所の子がハムスターを飼っていた。須築は自宅で何も飼ってもらえないのでたびたび遊びに行って、一緒に撫で回したりして可愛がっていた。ある日、たくさんの子たちと共にそのピクちゃんを順番に撫でていた。さらに数人がやって来た時に、ピクちゃんがひょいと飛び出して、なんと庭に飛び出してしまった。たくさんの人間がいて息苦しいので誰かがガラス戸を開けていたのだ。みんな急いで玄関で靴を履き、庭に出てみるとピクちゃんは黒い蛇と向かい合っていた。飼い主の子を含めてみんな動けなくなった。その一瞬の間に蛇がピクちゃんを襲った。とぐろで絞められた時ピクちゃんはチーと一声鳴いた。蛇は大きな口を開けてそのピクちゃんをぐんぐん飲み込んだ。飼い主の子を初めみんなが大声で悲鳴を上げた。お母さんが出てきたが蛇に驚いてどうすることも出来なかった。

 何分そうしていたか覚えていないが、すぐ後だったと思う。お父さんが帰ってきた。子供たちが固まっているのに気付き、そうして蛇に気付いた。お父さんは庭掃除の箒をつかんで蛇を叩き殺してくれた。ピクちゃんが中にいるというので、鎌を持ってきて蛇を裂いたが、もうピクちゃんは動かなかった。ほんの少し前までふっくらしていたピクちゃんは伸し烏賊のように平べったくなり、しかも薄く白い幕に包まれたような姿になってしまっていた。

 須築は無残な姿になったピクちゃんを見てとても恐ろしく思った。一方、箒で蛇を退治してしまえる人がいるということにも驚いていた。その後も何度か蛇を見かけたが、いつもその情景を思い出して震える。

 「とにかく本能に忌避するように仕込まれてると聞いたことがあったような」

 画塾に来ていたみんなの話題が一歩進んだようだった。解明のための決定的な理由が出てくるだろうか。

 「何でそういう風に仕込まれたのかが知りたいなぁ」

 「知って、どないしますの」

 「いや、単なる好奇心」

 皆が笑った。しかしこういう単なる気持ちが色々な物事を解決し、新しい世の中を作ってきたのだろうと言う人も出てくる。なかなか凄いことだと思った。

 「見ただけでゾッとするのは間違いないけどな」

 結局、誰も決定的な理由が無いまま嫌っているのが分かった。そんなものだろう。須築のように小動物が食われる現場に遭遇するのは珍しいようだ。

 避けてさえいれば、大問題ではないだろう。ところが、そこまで来ると今日は理由をはっきりさせてみたいという人がどんどん出て来た。誰かが話題を引っ張らないと何も進まないようだ。年輩の人たちが熱心に言葉を交わすのが良いらしい。絵を描く時には口が暇なので、手を動かしながら話すことができる。それでみんなどんどん議論に参加するようだ。まず、見かけ。

 「毛が生えてないのはいかん」

 「あんたも生えてませんで」

 頭がツルツルで血色の良い男性はもう年金暮らしと言って何が本職だったのかは知らない。いつも相手をしている同じぐらいの年齢に見える白いひげの男性はまだ大学で何かを教えているそうだ。野毛さんという名前だそうだ。小難しいことは何も言わないし、卑猥な話にもしっかりついていくのであまり大学教授らしくない。

 「いや、生えてるとこもあるんやで。それはどうでもえぇけど、パッと見てツルツルしてて、それが鉱物でないというのはどうもふさわしくない」

 「何がふさわしくないのや」

 「存在の仕方がや」

 「なんか難しいことを言いそうやな。まあ、豚や狸やリスがええわ」

 「筆になるしな」

 油絵塾での話題らしい冗談だ。油絵で使う主な筆三種のうち硬いのは豚の毛、軟らかいのは狸の毛、縁を隈取る面相筆にはリスの毛が使われているということは全員が知っている。

 椋さんの反論に応えるわけではないだろうが、他にも意見が出る。

 「蛇の皮は財布に入れてたらお金が増えると聞いたで」

 「皮だけなら、私は平気よ」

 「湿ってたらいややなぁ」

 須築は皮も厭だなと思った。成長しきったものと違う形のものが、中から出て来るというのは全て避けたい。毛虫の背中が割れて蝶々が生まれ出てくるのは美しいという人がいるようだが、須築は勘弁して欲しいと思う。蝶々になりきったものが飛ぶのを見るのは好きなのだが、途中経過は見たくない。しかし、蛇は生まれた時から蛇の形らしい。それでもやはり蛇は嫌いだ。

 「蛇、長すぎると言った人もいる」

 フランスの作家ルナールだったか。『にんじん』という物語を書いた人物だ。

 「確かに。太さの割にもっと短かったらここまで嫌われてないやろね」

 「何で、あないに長いのやろ」

 「ミミズも長いけどな」

 「ミミズは噛み付かんからな」

 ミミズは我慢出来ると言う人は多いようだ。いつまで経ってもミミズの形のままで変わらないし。そういうものばかりの世の中であって欲しいと思う。とは言っても、蛇がいきなり蛇の腹から蛇の形で溢れ出てくれば、やはり厭だろうと思うのだが。小さな蛇が割れた皮から大きくなって、色がはっきりして現れてくるとしたら、そういう情景は見るに耐え難い。

 「逆に、なぜあんなに細いのかを問うても良い」

 高校生らしい女の子が言った。赤い枠の眼鏡を掛けて、いつも何かをにらむような顔をしている。そちらを見ると、何を描いているのかはっきりしない。抽象画らしい。若いのに凄いことを言うと思って聞いていた。

 「何かお考えがありますか」

 当然のように、須築の近くで花瓶を描いていた五十才ぐらいの男性が尋ねた。彼女の発言が続かないので促したわけだ。この人も最近退職して悠々自適だと言っていた。小柄で痩せていて、髪が薄くなって少し貧相に見える。生徒さんの平均年齢はかなり高めで、須築のような三十前後は珍しい。まして高校生なんて貴重な存在だ。年齢は若いけれど一番上手なようだ。美大に進学するつもりで習いに来ているのかも知れない。

 「えーと」

 勢いよく言った割には言葉に詰まっている。誰か彼女の代わりに何かいってやればいいのにと須築が考えていると、何とその矛先が須築に向かってきた。

 「お宅は静かにしてはりますけど、何かお考えはありませんか」

 何を言わせるんだと思うけれど、黙り続けていると馬鹿に見えるらしい。何か言わなければならないようだ。

 ウーンと唸りながらどう返事しようかと考えていると、須築と同じぐらいの年齢の男性が、同じように促されて話し始めた。

 「人間が存在するのは、自分の生み出した宇宙のことを考察させる存在がほしくて神が用意したからだという説を聞いたことがあります」

 「聞いたことあるなぁ」

 「そのためには人間はそれを十分に行える程度に文明を発達させられるまで存在し続けなければならない」

 長く存在するには人間同士の協力が必要だったのではないか。細いせいで嫌われる物があると、みんな太くなろうと努力し、協力する。それで身につけよう、物をたくさん取り込もうとするようになった。そうして文明が進み、たくさんの物を作り、消費するようになった。結果、神の望み通り、人間は宇宙のことを知ろう、考えようとするようになった。

 「それで細いのはあかんのですか」

 「と違うかな。今、即席に考えただけですけどね」

「なかなか考えましたな」

 しかし問題が大きすぎたせいか、賛成も反対も言われないまますぐに、

 「目つきが怖いもんな」

と次の話題になってしまった。小難しい発言はしばしば無視されてしまう。だから自分が議論に加わらなかったというわけでもないのだが。

 蛇は体中どこでも気味悪いと思われているが、特に目付きを不気味と感じる人が多いようだった。ケルケイオンの杖といって一本の杖に二匹の蛇が巻き付いた形の紋章デザインがある。通商を象徴するものらしい。我が国でも経済学関係が主体の大学で校章にこの紋章を組み込んでいるところがたくさんある。それを初めて知った時、須築は真っ先に蛇の目付きを連想したのだった。抜け目なさを感じさせられたので、その点で通商にふさわしいものと感じたのだ。蛇が一匹でなく二匹というのも、手を携えて行う通商を象徴しているのだろう。ただその目で実際にものを見ているのではなく、相手を認識できるのは舌や、目と鼻の間にある蛇特有の器官が熱を含む情報を認識するからだとか、足音など地面に響いたものを認識する触覚によってであるとか聞かされたこともある。体熱や地面を踏む振動が数メートルも離れていて感じられるものか信じがたいことだけれど。

 「人間に無い器官がおますのか。それはまた念の入ったことで」

 「動きのテンポが犬や猫と違って、どうも遅すぎるのが気に入らんのやな」

 「いやぁ、シュシュシュッと動くと速いで。それが怖さの一番の元やで」

 「速いのもいるし遅いのもいる。結局、我々には動きの予測がつかんということですわな」

 動きの話から、現れ方も問題になった。

 「どこから現れるか知れんちゅう感じがするな」

 「どこからでも出てきそうですもんな」

 「そらぁ、まるで幽霊やがな」

 「頭だけ気にしてたら、尻尾に巻き付かれたりしそうで、それもいやですな」

 「細長いからな。そういうことが出来るんでしょうな。それが目的で長いのかなぁ」

 どこでも目配り出来て、いきなり出現出来て、相手の油断を見逃さない。これらのことも通商の象徴にふさわしい行動パターンだ。

 「飛びかかるのもいてるし」

 「牙も持ってるし」

 「そういう点では強いわけやな」

 「見るからに威圧感がある」

 「そう考えるとなかなか魅力的な存在やないか」

 花瓶を描いていた男性が言った。

 「あんた、蛇がまだいてたら先頭に立ってや」

 「魅力的やけど怖い」

 みんなが笑って、あまり褒めない方がいいみたいやと言い合った。

 「なんか他のものにもありそうな話やな」

 「何度も脱皮するから、生命力の象徴として崇められたということもあったようですよ」

 「象徴という話なら、男根の象徴というのもおまっせ」

 まだまだ話が続くのだが、先生はこういう話題には参加せず、生徒たちの作品を覗き込んでは講評して回っている。

 「うまいですねぇ。初心者じゃありませんね」

 須築の絵を見て褒めてくれた。

 「油絵は初心者です。水彩は我流で描いてました」

 「なるほど。ここのタッチがいいですね。独創的ですよ。水彩画的ではありませんよ。もともと油絵っぽい描き方をしてこられたのかも知れませんね」

 それは褒めすぎですよ先生、と心の中で呟く。絵筆の持ち方とキャンバスへの当て方を幾つか教えてくれた。あぁ、自分はこのパターンで絵筆を動かしてきたのか。

 最年長の野毛さんが、白いひげをしごきながら、

 「反攻のポイントがしっかり掴めんというのは、軍事的にはかなり優秀と言えるな」

と言いながら、自画像らしい自分の絵の中に白い線をグッと引いている。須築のとタッチが違うのはこの筆の当て方の差だと気が付いた。次の作品ではあのタッチを使ってみようか。

 「国境を侵しに来る外敵に対して、蛇による防衛部隊を設置するというのは出来んもんかいな」

 「蛇ではあかんで。敵にも蛇を扱える奴はいてるに違いないからな。やっぱり新兵器を開発するしかないで」

 「蛇を素手で掴めるという人がいてるらしいけど、あれ、信じ難いな」

 「テレビで見たことあるけどね、何であんなこと出来るのかねぇ」

 「首と尻尾の先とを素早く掴むらしいけどな」

 「どんな手触りがするんですか。写真だけではぬるぬるしてるのかと思いますけど、違うと聞いたこともあるし」

 「さらさらや、っちゅう話でっせ」

 そのうち、ギャッという悲鳴が上がった。七十センチほどの黒っぽい蛇がアトリエの隅に入ってきていたのだ。部屋中がまたパニックになった。どこに行くつもりなのか蛇行しながらゆっくりゆっくり前進している。余裕があるというか堂々としているのが憎らしい。

 直接触ったり掴んだりする度胸のある人は珍しい。震えているばかりのことが多い。でも何人か立ち向かえる人がいるようだ。それぐらいの寸法のものなら箒で追い出すぐらいなら出来ると思うのだろうか、立ち上がって箒の方に歩き始める人が動き始めたところで、先生がさっと箒を掴んで外に掃き出して、外で殴りつける音がした。やっつけたようだ。

 「退治しましたよ」

 先生の言葉に、パニックが一気に静まった。須築は自分の方に近付いてきたらどうしようと思っていたので、本当にほっとした。

 「結構、大きかったなあ」

 「山が近いから、時々特大のが降りてきます」

 「かないませんなぁ」

 古くからいるらしい人も、習い始めてから初めてだと言っている。皆が静かになった後も椋さんは思い出すのだろう、時々震えていた。


 会社では、仕事が終わるとすぐに食事しないと家に帰るまでとても腹がもたない。今日はわざわざやってきた営業部長からお褒めの言葉をもらい金一封まで出たので、第二課のうち須築のプロジェクトでは揃って夕食をとりに出た。

 歩いているうちに、

 「この通りはいやだな」

という声が聞こえた。道というものはどこでも同じだと思っていたのだが、何だか違って見えたらしい。本社が憧れの一等地に移った高揚感の関係かと思い直した。なぜか前の会社の通りよりも若干照明が暗い。地下鉄の駅まで徒歩二十分以上かかっていたのが十分以内になったのが、以前との違いだとだけ思っていた。近所の道路を冷静に眺めてみると、意外なほどカーブしている。梅田の中心部は碁盤の目のように綺麗な道路になってないのだった。

 会社のすぐ近くの店まで行ったが今日は混んでいた。時間の関係かも知れないなどと言いながら、ぶらぶらと適当な店を探して歩く。地下鉄に向かう通路沿いの店を順番にのぞく。新しい社屋に面した通りは前の所よりも確かに少しばかり薄暗いと思ったが、口には出しにくい。何と言っても新社長が決めた場所なのだから。しかし里生は平気のようだ。

 「ここの通りは陰気くさい」

 「イタチが走るのを見たぞ。ここは田舎の野道か」

 本当だろうか。

 「梅田も落ち目だな」

 オフィスでも口に出す。新社長に聞こえたらどうするんだ、と気になることが多い。他の人たちも気になるのか、新社長がやって来そうな場合、

 「ボス」

とひと言低い声で次々に囁く。他の人は特に来られて困るわけではないので、これは里生のための情報だ。さすがに、その時だけは里生も口を閉ざしている。

 結局、前の社屋から近い通りまで来た。引っ越し騒ぎで行かない内に新しい店が出来ていた。

 「そう言えば」

と言う人がいる。

 「総務の東開さんから聞きましたよ。花灯さんが、この通りを綺麗な人と歩いてたって」

 花灯は仕事の出来る男だったが、女にだらしなさそうな奴だった。

 「なにぃ、それ」

 「いつの事よ」

 「二ヶ月ほど前かな」

 「あー、あほらし」

 聞いた者はみんな呆れた。須築も彼がどうかなったのではないかと心配していたので、少し腹が立った。でももう退職扱いになっている。済んだことだ。

 須築は仕事について責任感を持ってきちんとしてくれていれば、文句は言わないことにしている。花灯もやるべきことは済ませていたので、他の人たちのように非難しようとは思わない。基本的に他人の悪口は言わないことにしているので黙っていた。

 「今頃、どっかで新所帯か」

 「もう言うな。聞くと腹が立つ」

 みんな気分を変えたいと、いつも以上に大きな声を出している。

 「ここにするか」

 そんな声が聞こえたのでみんな足を止めた。

 「良さそうか」

 「うまそうじゃないか」

と言い合った。立ち止まったこの店のショーウィンドウの見本はなかなか良くできている。見本の蝋細工自体はどこの店のも同じようなものだが、よく見るとうっすらと埃の積もった店があるものだ。この店のは美しく光を反射している。きっと丁寧に掃除しているのだろう。行き届いた店だと思った。店の中まで入り込んで何かしらチェックする者がいる。その上で、

 「ここにしよう」

というので、誰も逆らわずそのままそこに入った。何の変哲もない焼き肉屋だが、フロアには囲炉裏があり大きな梁が見えているといった昔の田舎家を真似た造りだ。この店では、時間が早いせいか普段の店と変わったせいか、いつも食べたいと思いながら売り切れていた鰯の刺身が食べられた。些細なことだがうれしかった。いつもは残業のない幸運な連中に食われていたらしい。

食べ始めてしばらくすると、棚賀が、

 「この通りって、なかなかいいですね」

と言った。

 「そうかい。……どうして」

 「いえ、もの凄い美人が二人歩いてましたよ」

 ちらっと花灯のことが頭に浮かびいやな感じがしたが、二人連れというので全く別の話のようだ。須築も女性に無関心なわけではない。忙しい時期はなかなか出かけられないが、実は大好きなのだ。皆には黙っているので、女嫌いと思っている人も多いらしいが、全く違う。

 通りを歩いているとそこそこ綺麗な子を見ないこともないのだが、棚賀のいう〈もの凄い〉というのはどんな程度なのか、心が惹かれた。新社屋の通りから旧社屋の通りに向かう道で見かけたそうだ。そんな所で見たのならまた会えそうで、期待が持てるなと思った。棚賀以外にも見かけたと言っている。みんな独身なので興味津々のようだ。

 そして、ついに須築も目撃した。凄い美貌の二人連れだ。二人とも目鼻立ちがくっきりしていて髪型がよく調和している。彼の隣には里生がいたので、そっと袖を引っ張って、

 「おい、そっち」

と、そっと女性たちの方を示した。

 「すごい美人だな」

とすぐに答えたのは、須築より先に気が付いていたかららしい。女のことで他人に先んじられるのはちょっと悔しい。小遣いが増えてからは須築は女郎買いに走っている。性欲は強いのだが女性を口説くのが苦手で手近の女性と交際出来ない。ましてセックスまで漕ぎつけるのは不可能である。ソープランドには会社から少し歩けば着いてしまう。店の数も凄いので選び放題だ。使った金ならプロジェクトのメンバーの中では多分自分が一番だと思う。

 一昨日もソープランドでセックスした。会社からすぐ近くなので帰りに立ち寄れるのだ。ソープ嬢にしては珍しくそこそこ美人だし気持ちよくて、二回させてくれた二回目の終了直後にまた勃起して三回目をしようとしたらひどく怒られた。見かけた美女はその女の子にどこかよく似ていた。その子が休日に歩いているのかと思ったほどだった。須築はセックスが好きで好きで、三回OKという店に行ったことがある。延長してもらって六回して帰ったのが最高記録だ。相手の女の子には驚かれた。実際、朝一回、昼一回は抜いておかないと仕事で会う顧客の女性にまで興奮してしまいそうになる。下着が湿るのは我慢しても匂いが漂うと困る。

 「あいつらの言うてた女かな」

「そうなんやないかな。あれほどの美貌は滅多に見られんで」

 「化粧がうまいんかな」

 「いや、あれは地やな。整形したのかも知れんけどな」

 「整形でも、あの顔に仕上げられたら値打ちやな」

 物凄い美人だ。まず左右の目と鼻の位置のバランスがよい。頬の膨らみも顎の先から耳にかけてのカーブも弛みがない。肌の色は白く雪の女王という者がいるならこんな感じだろうと思わせる。つややかな長い黒髪は腰近くまで伸び、先端はスパッと切ってある。棚賀の言う通りだった。生まれつきの美貌なのだろうか。こんな容貌の人は初めて見た。

 キャバレーかナイトクラブの売れっ子なのだろう。

 会社の女性たちを思い浮かべた。はっきり言ってみんなブスだ。垂れ目だったり、頬が膨らみ過ぎていたり、鼻先が団子だったり。耳たぶが大きい、顎が膨らんでいる、唇が貧弱、乱杭で出っ歯気味。差を挙げていけばきりがないほどだ。

 「匂い立つ美しさ」

という言葉を聞いたことがあるが、こういうのを指すのだろう。それに二人ともというのが凄い。女の二人連れというのは、一人が美人でも大抵もう一人はブスということが多い。この二人については普通に考えると美容整形の手術を受けたと考えるべきなのだろう。でもそれにしても美しいと感心した。相当腕の良い医師が施術したということだろうか。どこのクリニックだろう。分かったら会社の女性たちに教えてやらないといけない。

 数日後、またプロジェクトで夕食を摂りに行った。今度はまとめて四人の美女たちを見かけた。この前見た二人もその中にいた。初めて見た二人の美貌も凄いと言うしかない。なんという集団だろう。四人が四人、全員美しいのだ。映画やテレビに出てくる女性芸能人も美しい人が多いのだが、この彼女らと並んだらきっと平凡に見えるだろう。須築たちと同じ方向に向かうのかと思ったが、すぐに別の方に向かっていくようだった。残念だ。

 全員で振り返った。

 「何でや」

 「なぁ」

 「女優か?」

 「知らんなぁ」

 みんなが頷く。誰も知らないと言うので、芸能人ではないのだろう。やはり高級風俗店の看板たちなのだろう。前は顔だけに気を取られてしまっていたが、全身のスタイルも抜群だった。手足が長い。美女も全身のスタイルと響き合っての美女だと思ったのだった。

 みんな言葉も出ずに料理を食べて頷き合っただけで別れた。人間と思えないほどの美人に会ったのだから、ある意味、ショックだったのだ。その帰りの電車で、さっき何を食べたのか思い出せなかったほどだ。

 またまたあの店に行った。料理の味は他の店と変わらないように思う。須築には味のことはあまりよく分からないから、いよいよここでいいなと思っていた。

 プロジェクトメンバーの話題は最初明るいものだった。最近のスポーツのランキングとか、タレントの恋愛とか、見に行った映画の内容とか。ところが、いつのまにかまた一課との争いが槍玉に挙がっている。そんなことを会社の外で言うなよと思ったのだが、みんな憤懣がたまると言わずにおれないらしい。部長の金一封もそういうもののガス抜き用なのだからこれでいいということなのだろうか。須築は端の席で無言で箸を動かしていた。

 そのうち、ふとみんなが口を閉じた。どうして、と顔を上げると美女たちが二人いた。静かに料理を食べている。

 須築たちのグループは、それまでこの頃流行っているアーティストの話に盛り上がっていた。アーティストの話題といっても彼の歌のことではなく、彼の出るステージで使われる背景・大道具のデザインが一風変わっているのでそれを批評していたのだ。無彩色と青系統の有彩色の組み合わせがとても良い。雪舟が現代に現れて鮮やかな色彩を使い始めたという声もあった。気が付くと彼女らのテーブルでも同じアーティストの名前が出ていた。

 向こうでもそれに気が付いたようだ。互いの視線が交差した瞬間しんと静まりかえったので、それまで美貌をチラッチラッと盗み見していたのを咎められたのかと思った。しかし静寂は一瞬で終わり、再び何ごとも無かったようなざわめきが満ちた。特に意識はしていなかったし、そのまま何ごとも無く終わった。当然のことだろう。普通の人間である須築たちがあんな美女と関わりを持てるはずがないのだ。須築たちにとって彼女らは見るだけの女でしかないと思っていた。

 話題の高尚さから考えて、風俗店の女ではなさそうだ。どういう仕事をしている人たちだろう。自分の勤務先がどんな会社と軒を並べているのか考えたことがなかった。沿道にビルがぎっしり詰まって建っているのだから、幾つか風変わりな会社が混ざっていてもおかしくはない。

 棚賀が、

 「あの人たちですよ」

と囁いた。商店街を歩いていた時にもの凄い美人と会ったという話だ。確かにもの凄い美人だ。この頃なぜか時々見かけるようになった。今までに出会ったことがないレベルの美貌だ。あんなに目立つ二人が地下街を散歩したりしている時にトラブルに遭わなければよいのだが。

 ガツガツ食べて満腹感を覚えた頃、彼女らが立ち上がるのに気付いた。立ち上がって引き揚げていく彼女らをついついじっと見送った。素晴らしいのは顔だけではないとまた思った。身体全体のバランスも美しいのだ。歩いていく姿も颯爽としている。オリンピックで優勝を争う優れた運動選手のようだった。

 あまりに素晴らしいので、須築はやはり生まれつきなのだろうと思い直した。人間の手術で作り出せるようなものではないと思った。それに顔は整形しても脚の先まで気を配る人がいるだろうか。

 引き揚げる時に、とっくに帰ってしまっている彼女らのことをまた口々に話題にした。見れば見るほど美しかった。整った顔をしていた。勿論互いに似た顔というわけではない。それぞれが特有の優雅さと華麗さを湛えているのだ。驚いたのは須築一人ではなかった。

 「やっぱり整形なんかな」

 「化け物かもな」

 そう、化け物と考えるのが一番適当かも知れない。美貌の化身というのも、やはり化け物だろう。

 「化け物でも、今日の顔なら惹き付けられるな」

 「食われるとしてもええなぁ」

 女に関しては、須築以外のメンバーも皆心が惹かれるようだ。今回も、何だか彼女らを女として見る余裕が持てなかった。女を女として見られないというのは異例のことだ。

 一週間ばかり間が空いた。また皆で同じ店に入った。美女の二人連れが食べていた。その隣のテーブルが空いていて、案内された。

 「あの隣の女の人たち、よく来るの?」

 通りかかった接客の女の子に里生が小さな声で尋ねた。里生はこういうことを衒いなく聞くのが実にうまい。時々羨ましくなる。うちのプロジェクトが好成績なのは、彼の力が大きい。彼女はちらっと視線を走らせると、

 「つい最近ですね。ご贔屓になったのは」

と言った。カジノの従業員なのだろうか。須築はストリートの店にはよく行くが、カジノには行ったことが無い。女の子はそれから、

 「他のグループでも綺麗な人がたくさんいますよ」

と無難な返事を付け加えててきぱきと先付けを並べたが、店の人たちにとっても、きっとその美しさが印象に残っているはずだ。

 プロジェクトのメンバーがなぜかバラバラに帰るようになっていた。小学生の通学ではないからどうでも良いのだが、つい最近まで誰彼なしに群れて帰っていたのだから少し寂しい。これもカジノの効果なのだろうか。ちなみにセックスストリートに行った話はよく聞くが、カジノに行ったという話は誰からも聞こえて来ない。賭博はやはり怖い感じがするのだろう。

 棚賀は割に須築にくっついてくることが多いのだが、とうとう彼までが、

 「すみません」

と会釈して一人で立ち去るようになった。ひょっとしてあの美女たちとのデートだろうか。花灯のようにならなければよいのだが。

 里生も美女一人と飲み屋で出くわした時に、

 「お一人ですか」

と声を掛けられて並んで食事したそうだ。何ということだろう。彼とは気が合うし、何でも同じと思っていたのだ。羨ましい。里生が、

 「そいつ、ほとんど野菜を食わなんだわ」

と言った。飲み屋を出た後お好み焼きに誘うと、焼き肉屋が良いと言ったそうだ。焼き肉屋でも野菜が出る。でもそれを食べたのは里生だけだったとか。その里生が、

 「あの子たち、何だか臭いな。何の匂いかな」

と言った。須築には彼女らの美しさしか分かってなかったのだが、彼は違うものにも気付くようだ。

 里生は普通に性欲を覚えないぐらい美しいものには異様な印象を受けてしまうのかも知れない。美女に誘われた時に歩いていた通りも何だか陰気だったと言う。辺りを見回してみたが並んでいる店の種類が他の盛り場と変わっている訳では無さそうだ。特に違いのある通りは無いだろう。なぜそんなことを言うのかと思った。

 プロジェクトのメンバーたちに尋ねると、そう言えばという者がパラパラといた。

 「いやぁ、あいつらに近付くと何だかむずむずする時がありますわ。心が寂しくて、空しい気分になるというか」

 美しく高尚だが、それで素晴らしいという印象に直結しないらしい。ちょっと須築とは感性が異なるようだ。美貌は美貌、好き嫌いは好き嫌いと区分するのが里生の思考パターンだ。須築もそうなっていると思っていたが、彼の方が徹底しているのだった。里生はもう彼女らの存在が耐えきれないと言って、とうとう地方の出張所に希望して転勤してしまった。彼女らの体臭が耐えられないと言うのだ。そう言われて意識すると、かすかにカメムシとムカデの匂いを混ぜて薄くしたような感じと言えそうだった。ほんの僅かなので、珍しい化粧品の匂いだと思っていた。里生はあの通りを歩くのも気に入らなかったようだし。実情を知らない人たちには左遷のように受け止められている。そこまで嫌う彼の気持ちが、須築にはまだ理解出来ずにいる。

 あの美貌はきっと美容整形の成果なのだろうけれど、話して分かった教養や品格は手術で作り出せるものではないはずだ。だから本当はブスだったということでも構わないのではないかと思っているのだが。

 お陰でまたプロジェクトのスタッフが減った。花灯の時よりも遙かに打撃が大きい。引き止めたのだが、気持ちが良いとか悪いとかは我慢出来るものではないようだ。メンバーは補充された。

 また金一封が出たので、今度は会社の近所ではなく珍しく難波に繰り出した。この周辺も大阪で突出した繁華街だ。この頃は異様な外国人がまだまだ少ないミナミやアベノの人気が高まっている。いつもより上等のものを食べようと皆が意気込んで入った店で、何とあの美女たちとまた会った。たくさんいる。

 彼女らはやはり見れば見るほど美しかった。店の照明が少し暗いせいなのか陰影が強調されて顔の造りがくっきりと見えた。目や口元の形、鼻筋の通り具合、頬のカーブ、顎や耳の形などどこを取ってもよく整った容貌なのがよく分かる。髪型もロングやショート、ストレートやパーマとそれぞれの顔の形にぴったり合うように選び抜いたように似合っている。美容師も選んでいるのだろうか。肌がつややかで、照明で光っている。そして服装も何とも上品で垢抜けた感じだ。コーディネーターも腕利きなのだろう。色の組み合わせが特に良かった。古典文学の世界に現れる姫君たちの服装を思い浮かべてしまう。着物を着る時に特有の色の組み合わせがあってそれに似ているのだ。柔らかそうな服の生地や切れ味の良いカットも見たことのないようなもので、デザイナーは誰なのか興味が湧いた。

 服の方は普通に赤い色と淡い赤とを重ねた紅梅襲(かさね)・紫と萌黄(薄緑色)の杜若(かきつばた)襲・濃い朽ち葉色(赤みを帯びた黄色)と黄色を組み合わせた橘襲と同じだなどと見ていく。別にここに挙げた襲が特に好きというのではないのだが、彼女らの趣味の上品さがよく分かって心地よかったのだ。十二単も着せてみたい。きっと姫君というものに似つかわしい姿になるだろう。

 須築が驚いたことにプロジェクトの連中が親しげに挨拶した。そして隣り合ったテーブルを寄せることになった。テーブルを移動させて、一緒に盛り上がろうというのだ。いやがる者はいない。彼女らは須築たち男性の一人一人の間に一人ずつ座りに来た。ちょうど同じ八人ずつのグループだった。

 須築たちの方は、挨拶するほどの関係が出来ているはずなのに恥ずかしそうにうつむき勝ちに話す者ばかりだったけれど、向こうは活発にそれぞれの男に話しかけている。

 須築の隣に座った人を見ると、色白で透けるような肌をしているのが分かる。何だかプラスチックを組み合わせた模型のようで人間離れしている。二十代後半か三十を僅かに越えたぐらいに見える。女性の一番美しい年代と言えるだろう。

 「皆さんとお知り合いになれて嬉しいわ。どの方も素晴らしいです」

 古風な挨拶をした。両手を合わせて拝むような仕草と似合っている。この人はどうもリーダー格のようだ。他の連中は既にデートしたことがあるような感じだったが、須築と彼女の二人だけは初対面の組み合わせだった。

 話題は好みのアーティストの歌が中心になったが、男たちはすぐにまた舞台背景の特徴の分析になってしまう。彼女たちはすぐそれに対応して、それだけでなく、演奏する音楽ホールやそこにたどり着くまでのアプローチの雰囲気がどうこうと話し出した。照明効果から連想される美術家の批評や聞き込んだ裏話も出し合って時間があっという間に過ぎた。二人だけで話していたのが四人六人での話になり、全員で一つの話題に盛り上がることが出来た。

 彼女らは須築たちの話題が一般のと違っているからと言って、見事に職業を当てた。彼女らの勤務先は見当がつかなかった。彼女らの話題の豊かさが驚異的だったからだ。専門のこと以外では、スポーツや芸能人のことばかりの須築たちと違って、音楽や舞踏、美術や工芸、植物や動物をモチーフにしたデザイン、最近近くに建ったビルの外観の批評、新しく開店した衣料品や装飾品の店やレストランの評価などとどまるところを知らぬ広さだ。ひょっとしたら商売敵かとも思ったほどだ。結局彼女らの仕事は分からなかった。次に会う時までに考えておいて下さいと言われた。

 うちの連中は、彼女らに釣り合うのかなと思ってしまう。ぼんやりと眺め回していると、

 「服装、凄くおしゃれですね」

と褒められた。

 「そんなこと言われたん初めてやな」

 須築は思わず呟いた。その直後、

 「でも、これ何なんですか」

と尋ねられてハッとした。ずっと褒め言葉が続いていたので、一瞬ギクッとする。指さされたものを見ると、腰に吊しているステンレスの鎖だった。

 「別に。何となく付けてるんやけど」

 「重くないですか」

 そう言って、摘み上げて、

 「わぁ、重い」

と言った。

 「疲れませんかぁ」

 「ずっと吊してるから、何とも」

 「何だか危ない感じ」

 心配そうな顔をした。女性たちはみんな色が白いのだが、この人は特に抜きん出ている。

 「なんで」

 「どこかに引っかけたりしませんか」

 「そんな失敗をするぐらいなら、初めから付けてへんよ」

 須築が笑うと、彼女もフフッと笑った。えくぼの可愛い子だと思った。見詰められるのには慣れているのか、こちらがしばらく見詰めていたのに全く気にしないようだった。

 「失敗しないでしょうけど、止めた方がいいと思いますよ」

 向かい側にいた女性に言われた。須築は力を込めて、

 「そやから、引っ掛けたりはせんって」

と言った。女性たちがみんなこちらを向いた。

 「そう思ってる人に限って引っ掛けるんですよ。機械に噛まれたりして」

 そら御覧と言わんばかりに突き放すような声を出す。

 「怖い」

 「でしょう」

 「いや、でも、それはない。僕は営業で、機械はいじらんから」

 営業も、打ち合わせの時は製造の担当者と機械のすぐ近くで話すことも多いのだが。

 「だと、いいですけど」

 こういう予言じみた話題はこういう場でよく出てくるが、須築は嫌いだ。五感で感じ取れるものこそが確かなもので、予兆とか占いとかは馬鹿馬鹿しい。

 「絶対的中せえへんわ」

 言うと笑われた。かえって本気にしたように見えたのだろう。

 少し向こうの席の女性が一人タバコをくわえた。美女でもタバコを吸うらしい。須築も吸いたくなってライターを胸から引き抜きざま火を付けた。

 「まぁ、ライターも持ってる」

とすぐに言われた。

 「持ってるよ。商売道具やもん。これで火をつけて上げると客をつかめるんやで」

 「火が出るじゃない」

 「そりゃそうや。出えへんかったら役に立たんわ」

 「火傷するわ」

 「おいおい、勘弁してくれや」

 席の前に置いていたスマホに酒がかかったせいか画面が光った。

 「あっ、何、これ」

 須築は慌てて隠した。上の方に彼の大失敗の記録を表示していたからだ。入れ墨のように見える印刷を頼まれて作った器械が大失敗で上司と一緒に謝りに行った。それを忘れないようにと課長が待ち受け画面に失敗印刷を残させたのだ。課長が代わってからも消すのが面倒なのでそのままにしていた。他人にはとても見せられない。印刷は須築にとっては鬼門で、それからは里生に任せていた。彼は理由を聞かずに引き受けてくれるので助かった。須築はそれからは化学合成系の仕事を主に受け持ってきたのだ。

 別れた後、メンバーの一人が、

 「あんな女たちに相手をしてもらえたら、どんな気分がするかなぁ」

と呟いた。隣にいた男が、

 「美女に囲まれて美味いもの食わされて夢心地になっているうちに、とんでもないことをさせられるんじゃないの」

と言った。

 「どんな」

 「行ったら絶対死ぬような危険な場所に送り込まれるんだ」

 「それかインクブスか」

 その向かいにいた男が言った。

 「なんだよ、それ」

 「コーマ神話だったかギリシャ神話だったかに出てくる悪魔。性交しまくって衰弱させるんだ」

 「美女なのか」

 「そう。思わずやりたくなるらしい。それで最後には殺される」

 須築の隣で棚賀が笑った。

 「怖いけど会ってみたいような」


 営業一課と二課の近親憎悪じみた争いが社長の耳に入ったようだ。それを打開するために、営業範囲を一気に拡大することになった。大阪でも中央区や西区、豊中市、吹田市といった北の方に限られていたのを、鶴橋や弁天町、寺田町まで足を伸ばすことになった。そのための事務所も用意されつつある。

 そのせいで、あの美人のグループが全員まとまって須築たちの会社のすぐ近くに勤めているわけではないらしいことが分かってきた。

 「天王寺で展子と会うた」

 「天王寺なら盛り場やから会うやろ」

 大阪で一番の盛り場はなんと言っても梅田界隈だったが、二番目と言えば大阪の人間は誰でもミナミ、難波を挙げる。この頃は一番になりそうだ。三番目は天王寺である。阿倍野と言ったりもする。その後は鶴橋、京橋の名前が出てくることが多い。でもカジノストリートのせいでランキングも大幅に変わりそうだ。

 「それが」

 いつもの洗練された姿ではなく事務服だったと言う。それならその近所の会社に勤めていると考えるのが普通だろう。梅田の会社に勤めている人間が業務として天王寺の通りに現れることは少ないはずだ。地下鉄で二十分ほどしか離れてないのだが、そうだとしてもである。逆に天王寺の会社に勤めている人間がわざわざ梅田の通りに現れて食事するだろうかというのが、疑問点になった。

 「西長堀で唯子と会うた」

という者も出てきた。事務服も展子と同じものではないようだ。

 結局、彼女ら八人の勤務先はバラバラだということだった。会社の名前を当て合った時に正解にたどり着けなかったのは当然だ。彼女らは全員同じような雰囲気を漂わせていたので、暗黙のうちに同じ会社に勤めていると思っていたのだから。意外だった。しかしその彼女たちがわざわざ集まって食事する理由が分からなかった。

 「学生時代の仲間やとしても集まる回数が多いよな」

 「そうやろ」

 そのうち、

 「新興宗教か」

 思いついたという様子で小さく叫んだ人がいる。超自然的なものには面白がることはあっても距離を置くのが、ほとんどの日本人の態度だ。何かに取り憑かれたように傾倒する人というのは、変としか言いようがない。この頃ちょっとした駅前で何を写したのか分からないポスターを何枚も立てて踊っている人たちを見かけることがあるけれど、はっきり言って気味が悪い。戸別訪問して話そうとしてくるのも煩わしいのだが。それとは違うやり方で布教のために美女を廻らせているのかもと思った。特異な食事の仕方も宗教の教義によるものかも知れない。それならあり得る話だと思う。嫌悪感のこもった「新興宗教」という言葉だが、須築は特に感じるものは無い。事実かそうでないかにしか興味はない。冷静と言えば冷静だが、無感動といえば無感動なのだ。

 「何か誘われたのか」

 「いや、別に」 

 デート中、性欲はセックスストリートで充足しているのですかと尋ねられて慌てたという者もいた。

 「男の人って、連続して何人の女性とセックス出来るのかしら」

と言うので、困ったらしい。須築は内心、魅力的な女性ばかりなら五、六人は相手出来るかなと思った。あの美女のグループなら八人全員と出来るだろうか。精液を搾り取られて死にそうになるかも知れない。でもやってみたいと思った。

 「俺も何も誘われてへんぞ」

 「何も買わされてないしな」

 新興宗教の一番怪しいのは、買い物の強要ないし勧誘だ。つまらない機関誌も買わされることだろう。献金すると幸福になれるというのが大抵の宗教団体の言い草らしい。

 「じゃあ、違うのか」

 みんなでしきりに首を捻っていると、企画課の女性が来て、

 「ひょっとしたら、みんな狙われてたりして」

と言う。

 「狙われる?」

 穏やかでない単語にゾクッとする。新興宗教のイメージが先行しているので、生け贄を連想した。生け贄ではなかったが、教団の実態を追究しようとした弁護士を家族ごと殺して燃やした団体がある。彼女らの思惑から外れると、それに類する危険が迫るのではないか。

 「みんな良い体格じゃない。自衛隊とか機動隊とかに勤めてますと言っても信じられるわよ。それが気に入られてつきまとわれてるんじゃないの?」

 結婚相手としてというのなら彼女らに狙われるのは大歓迎である。そういう風に言われて見回すと、プロジェクトの連中には確かに立派な体格の人間が多かった。須築一人だけが少し小柄で見劣りした。世間一般と比べると普通の体格なのだが、この中では貧弱に見えるだろう。高校、大学時代は格闘技のサークルに入って活動してきたので見かけほど柔弱ではない。残念ながら日に五、六回も食事させてもらえる家ではなかったので同期の連中よりも貧弱な筋力なのは仕方が無い。大学では監督が引退を決めて最後の学年になった。そのせいかクマ殺しの技を一人だけ教わった。教えても実際には使えないから安全だと思われたのではないだろうか。監督がキャンパスに生えている樫の木の枝を折ってみせたが、須築はその三分の一ほどの太さのものしか折れなかった。とにかく会社のこのメンバーは、確かに普通のサラリーマンで営業をやってますと説明する方が信じてもらいにくいような顔触れだった。黙っていれば、このメンバーでうちの会社の業務内容を想像するのは難しいだろう。しかし、彼女らはすぐに当てたのだった。業務内容に関わる話題が多かったのは確かだろうけれど、もしかしたら知っていたのかもと思った。そう思うと、狙われているという言い方は正しそうだ。

 考えてみると彼女らはしばしば両手の指を引っ張るような動作をしていた。ポキポキ鳴ることもあった。チンピラがいつでも喧嘩出来るように準備しているような感じもして、それだけが彼女らの上品な印象を傷つけていた。狙う? 彼女らはどんな風に襲ってくるのだろう。


 須築は久しぶりに母親の様子を見に実家に立ち寄った。須築や友人の家よりもくすんで見えた。どこか異なっている。なぜか老人の家は何となく分かる。老人が住むと家の構造や外壁が変わるという訳でもないと思うのだが。しばらくなぜだろうという話をした。どうでも良いことだが、何か話せば安心するようだ。その後、神経痛がこたえるから漢方薬局に連れて行ってほしいと言うので、近くの薬局に揃って出掛けた。薬剤師と経絡のことを話しているようだ。

「この頃さぁ、お灸を据えると気持ちがええのよ。代わりに揉んでも同じことらしいけど、力がいるからねぇ」

 経絡というのは鍼灸術の用語で、足の裏や耳の周辺などの特定の部分を針で刺したり、お灸をすえたり、指で押さえたりといった刺激を与えると、遠く離れた内臓の活動が活発になったり抑えられたりするといったものだそうだ。例えば、土踏まずの真ん中を青竹を踏んだりして刺激すると腎臓の調子が良くなるというのだが、その部分の僅かに外寄りを刺激すると、左足の場合は心臓、右足の場合は左右で対照的な場所のはずなのに肝臓を刺激したことになるという。左右でほとんど同じ臓器をコントロールするのだが、刺激先は上行結腸になったり下行結腸になったりという違いがある。それらは確かに不思議なのだが、それ以上に分からないのは、それをすることが遠く離れた臓器の刺激になるということだ。

 「なぁ、足の裏と目や耳とのつながりがあることになるけど、それはどういう仕掛けなのかなぁ」

 不思議に思って母親に尋ねたが分からないようだ。

 「神経がつないでいるということなんだろうけどね」

 家に帰ってきてからしばらくせっせと肩を叩き、揉んでやる。

 「あんた、お酒は程々にしときや」

 「分かってる」

 「付き合うてる人はいてないのん?」

 「おらへん」

 「結婚したいと思わへんの?」

 「うるさいなぁ」

 そんないつものやりとりをして帰った。

 結婚して性交したいという気持ちは十分以上にあるのだが、母親との話題にはふさわしくない。時々性欲を抑えられず、ソープランドで女を抱いていると打ち明けるわけにもいかない。結婚したらきっと毎日朝昼晩で三、四回以上は性交しそうだ。それに応えてくれる女性が理想である。

 自分のマンションに帰る道すがら、ふとあの美女たちはどんな家に住んでいるのだろうと考えた。実家のようなくすんだ家ではないだろう。芝生にバラ園のあるような家だろうか。それとも苔むした庭の真ん中に池があって大きな鯉が泳ぐような家だろうか。とにかく豪邸のイメージが離れない。彼女らと結婚したら、やはり連日性交渉を楽しむことになるのだろうか。それなのにどういうわけか、彼女らにはプラトニックな交際のイメージが浮かんでしまう。本当に美しいものに触れると、人間は清められてしまうのだろうかと、ふと思った。


 ここしばらく、須築の住んでいるマンションの近所で共同溝工事というものが大々的に行われている。水道管・電線・ガス管・電話線、それにテレビ放送のケーブル、情報コード、それに雨水・汚水を流す管も全部まとめて埋め込んでしまうと、電柱や電線が無くなり空も通りもすっきりして町が美しく見えるということで、それらをまとめる溝を作っているのだ。一種類の工事でも長期間やっていることが多いのに、これらを一緒に埋めるということだから時間がかかる。実際いつ始まったのか思い出せないぐらい前から重機が置かれているのに、いつまでも終わらない。何の影響もないのならそれでも良いのだが、バスの経路が遠回りになって時間がかかるようになった。完成すれば、確かに素晴らしいものになると思われるので須築も辛抱しているけれど、帰りが遅い日で、明日の出勤が早い日は焦ってしまう。

 そのうち近道があるらしいことに気付いた。

 自宅付近でバスを降りた時に、近所で見掛ける人が全く違う方角からすっと姿を現したのだ。いつもなら気が付かないところだったかも知れないが、母親と経絡を話題にし、意外なつながりというものに考えが向いていたせいで、あの人の歩いたルートもそんな意外な所ではないかと思ったのだ。

 経絡の話をあの美女グループと会った時に話題に載せると、

 「私たちもバラバラよ」

と言った。教養のある連中だと思っていたけれど、どうも経絡が何かよく理解出来てないみたいだ。物知りで賢いように思っていたのだが、こういうこともあるらしい。

 今日は駅前のバス停は人があふれていて、乗ってもギュウギュウ詰めになりそうだったし、共同溝工事の影響でよけい苦痛が長引きそうだった。タクシーは出払って、なお順番待ちに二十人ほど並んでいる。

 自宅まで待ち時間込みで考えると、あの道を試してみる価値があると思われた。

 路地に向かって歩き始めた。近所のあの人と駅で顔を合わせた時にこの路地のことを話題にすると、いつも必ず通行できるわけではないのだと言った。

 「路地に入る手前に解体業者の大きなトラックが止まってたらアウトですよ」

大きな車体なのに見事に幅寄せしていて、人が脇をすり抜ける余裕がないのだそうだ。きちんと止めないと他の車の通行に支障が出るということなのだろう。話を聞くうちに下を潜る手も無いではないかと思ったが、誰も同じことを考えるらしい。一度帰りの遅かった時に試みて失敗したという。車体の下に人や物が入り込むのを防ぐために鉄の枠を左右に設置してあったのだ。だからトラックが止まっていたら終わりだそうだ。あまり遅い時間でなければ絶対大丈夫だが、今の時刻では遅いかも知れないようだ。

 駅の改札からバス停に向かうのと反対方向に数分歩くと、解体業者の資材置き場になる。その端に路地があって、通り抜けるとバスに乗るのと大して変わらない、むしろ僅かばかり早く家に帰れると聞いた。これは有り難いことだと思った。須築はバスの定期券を持っていない。しばしば最終バスに乗り遅れるからだ。歩いて帰れるのなら、時間もお金も節約できる。

 寒さがどんどん厳しくなっている頃だったが、須築はトラックがいるかいないかが気になって、あまり温度のことを感じる余裕がなかった。

 ゆったりとしたカーブを過ぎて、路地の手前に何も止まってないのを確認してホッとした。家に帰り着いてからの歯磨きや風呂の段取りが浮かんだ。明日の朝食の準備まで考えることが出来た。モクセイの甘い香りが漂っている。

 路地は廃材置き場の端になる。廃材の山の反対側は金網で、そのすぐ下の段は交通量の多い車の専用道で車が絶え間無く走っている。しかもカーブなのに結構スピードを出したままだ。車の排気ガスは高く吹き上がるというので、ちょうどこの路地の辺りが一番濃厚になりそうだ。あまり息をしないようにして一気に通過しようと思う。三分ほどのことだ。大したことはない。

 あまり早足で歩いて、突き出した廃材にぶつかってケガをしたりしてもつまらないので、歩くスピードはゆっくりだ。別に遅くもないけれど。

 廃材の山に出来た最後の小さな出っ張りを過ぎると出口だ。

 と思ったら、なんとトラックが止まっていた。出口近くまで来ていたのでガッカリした。駅前まで戻るならおとなしくバスの行列に並んでいたのと同じか、それよりも遅く家に着くことになってしまう。クソッとか馬鹿野郎とかコンチクショウとか、知っている限りの悪態を吐いて戻る。今日は特別、下の道からの排気ガスが濃いように感じられる。いつまでも息を止めているわけにはいかないのだが、あまり息をしないようにして一気に通過しようと思う。

 突然空が真っ白に光った。ガガガガガンと雷鳴が響いた。大粒の雨がバラバラッと落ちてきた。足を速めながらカバンから傘を出そうとしたら傘がない。職場に置いてきてしまったようだ。おとなしくバスに乗らなければならないようだ。イヤだなと思いながらさっきの路地の入り口に戻ってきて驚いた。こちらにもトラックが止まっていたのだ。出口のトラックと同じような巨体だ。

 ダメと聞いていても、トラックと壁との隙間をすり抜けられないか試みようとした。やはり通れない。夜間なので誰も通らないと思っているのだろう。オレ様が居るのに。

 そうだ。どうせ試みるなら出口の方でやろう。通り抜けられたら、すぐに帰れるのだから。自分はまだ頭が働いていると思った。酔っぱらってもいないし、眠りかけてもいない。

 ところが先ほど落胆した辺りまで戻って来て、ギョッとした。

 蛇だ。

 蛇が道を塞いでいる。蛇が怖いと思った。イヤだと思った。体がブルッと震えずにいられない。触るどころか見るだけでも震えが来てしまう。蛇ってどうして気味悪いのだろう。椋さんのように震えてしまう。

 そのうち須築は無意識のうちに跳躍していたらしい。四十センチほどしか跳べないのだが。両手を高く挙げて廃材の山に何かつかめる物がないかを探っていたらしい。

 痛いっ、と思った。しまった。右手で何か鋭利な物をつかんでしまったようだ。慌てて手を離すが、下には蛇がいるのだった。

 足を突っ張って、どこかで体を止めたい。

 体を捻った拍子に腰のチェーンが一本強く振れて、どこかに引っ掛かったようだ。須築は宙吊りになった。落下した瞬間チェーンが一本腹に食い込んだ。二本まとめて引っ掛かっていればまだ良かったのだろうが、そうはならなかった。ウッと瞬間的に吐き気がした。が、蛇の上に落ちるよりはましだ。

 さっき痛いっと思った部分を調べようとしたが、暗いのでよく見えない。一瞬手を引きつけて舐めてみる。どうも鉄気臭い。血が出ているようだ。やっぱり切ってしまったのだろう。汚い物をつかんで切り傷を負ったのなら破傷風が心配だ。ブラーンブラーンと体が揺れる。どこかにつかまって体を引き上げてチェーンを外そうと思うのだが、そのつかまりどころが見つからない。

 宙吊りのままでは家に帰ることが出来ないので早く何とかしたい。金網の小さな編み目の穴に足を突っ込んで踏ん張らないといけないのに、金網のちょうど都合の良いところに何か張り紙のようなものがあり、それが邪魔で突っ込むところが見付けられない。ひらひら動いて気に障るばかりだ。そのうち下のカーブのさらにずっと下の方から車のライトが届いてきて、その張り紙の文字が裏返しに読めた。

 「私道につき、通行は御遠慮下さい」

 あっ、そうか。この路地は通行禁止だったのだ。知らなかったな。今頃気が付いても仕方のないことだが。道理で狭く曲がりくねっていたはずだ。狭い割に、宙吊りの体を支える足場を探り当てられないのが残念だ。下に体を引っ張られ、腰が痛い。少しずれると腹が痛くなる。腰の痛い方がまだ耐えられるので、当たり所がずれるように体を振って動かしてみる。少しだけずれたがまだ痛む。

 体重でさっきより少し下に下がった。このまま足が下に着いてくれたら助かると思いかけて、下に蛇がいるのを思い出す。おぉ、イヤだ。

 暗いのであまりよく見えないのだが、さっきと全く同じ形で動かない。どっちを向いているのだろう。自分の方を向いていないのなら、何か落として驚かせばどこかに行ってしまうのではないだろうか。小ぶりに見えるし。かろうじて動かせる方の手でポケットを探ると財布が手に当たった。マンションの鍵もあった。しかしどちらも蛇の近くに落とすのは避けたいと思った。他には何だかよく覚えてない紙切れだけだ。この紙切れでは驚かすのは無理だろう。

 廃材の山から何か引き出せれば良いのだが、またケガしても困るい。迷っているうちに高さがどんどん低くなってきていて、とうとう足先が地面に着いた。

 ヘビっ!

と思って飛び退こうとして、蛇が蛇でないのに気が付いた。体を長く伸ばした蛇がちょうど鎌首をもたげたばかりのように見える形になった自転車のタイヤフレームのようだった。暗いので、触ってみてやっぱり蛇だったということになってはいやなので、また車のライトが照らしてくれるのを辛抱強く待った。さっきは心地よかったはずの夜風は止んでいるが、気温が下がってきて寒さを感じ始めた。

 やはりタイヤフレームだった。須築が往復している間に廃材の山から転げ落ちてきたのだろう。

 腰のチェーンを外して、ようやく出口を塞いだトラックの車体に近づいた。何度見ても下を潜るのは無理のようだ。押し曲げられないかと力を込めてはみたが全く駄目だ。運転席に入れるならそこを通るのが足場としては一番確かなので、登ってみようと思った。やってみると一番下のステップに足を掛けるのも大変な高さだ。運転手はこれに苦もなく足を掛けて扉を開くのだ。そう思うとそれだけで感心してしまう。

 運転席は当然のことながら施錠されていて開かない。ここで運転席より後方にさらに運転席の天井に上がる足場を見付けた。やった。これで帰れる。疲れたが、よく耐えられたものだ。自分の体力に自信が持てそうだ。

 暗闇の中だし、雨で濡れた体が冷えている。手袋をはめておけば良かった。天井で足を滑らさないように気をつけるのが難しそうだが、慌てずにやれば何とかなるだろう。第一段目は大変だったがゆっくりとよじ登って、天井の上に立った。並んだ家々の明かりが明るく、早く自分も帰り着きたいと思った。

今度は反対側へ降りる。飛び降りるには高すぎるが、ゆっくりとでも降りることが出来れば家まで五分とかからない。やれやれやっと家に帰り着ける。這うようにして反対側へ移動した時、何かが首に引っ掛かった。ひんやりして細長い。これは一体何だと思った瞬間、足を滑らせた。そして首吊りになった。下の道路が見下ろせる。

 須築はロープが首に巻き付いたまま宙吊りになっても、すぐには首が締まらないことを初めて知った。さっきの宙吊りの時は腰が痛かったのだが、今度は顎が痛い。顎が痛いけれど、首が絞まって窒息するよりはましだ。と思ったのだが、顎の痛みに耐えかねて少しずらそうとした。するとロープの当たりが少しきつくなった。首の締まりがひどくなってしまった。須築はロープに爪を立てた。左右の一本ずつ独特の切り方・研ぎ方をしてあるので、うまくやれば切れるかも知れない。商品の梱包材を刃物無しで開けられれば便利なので、そうしてあった。これは総合格闘技の技術の一つだ。しかし、雨風に打たれることを前提としている配線には通用しなかった。そもそもぶら下がっているという状態では力が入らず困難なのだ。

 自分はここで死ぬのだろうか。汚い資材置き場の出入り口であと一歩というところまで来て、どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。

 今までの人生で危ない目に遭ったことがないとは言えないけれど、これほど直接的に死の可能性を感じたことは無かったと思う。なんといっても首吊りなのだ。自殺の方法について書かれた本を読んだことがある。鉄道や火山火口への飛び込み、崖やビルからの落下、毒物や毒草の服用などを並べた揚げ句、一番「確かな」自殺法は首吊りです、と書いてあった。別に自殺しようと思って読んだわけではなく、単なる好奇心で手に取っただけなのでその知識を利用しようとは思っていないのだが、鉄道への飛び込みとか服用して毒になる物質をうまく飲み込むとか色々考えられる確実そうな方法の中で、特に二重丸だったか花丸か、マークしてあった。まるで誂えたような死に方ではないか。自分は一番「楽な」お勧めの方法で、しかも「確実に」世を去ることになるのかも知れない。あと僅かの時間でこの世を去るのだろうか。しかし全然死ぬ予感が無い。矢未ほどではないが、須築にも予感を覚えることがある。今日は雨が降りそうだといった程度のものだが、そういう予感はいくらかは当たる。今は死ぬという予感が全く無い。自分は死なないと思う。この状況は必ず乗り越えられると思っている。

 トラックの上にどうしてこんなものが架かっていたのだろう。こんな不満を覚える余裕があった。どうして少しばかり足が滑っただけでこんなロープに捕らえられたのだろう。こんな事を考えている自分が不思議だ。

 また少しずつ体が沈むのを感じながら、自分の動きを振り返った。なぜかトラックの上にロープが渡してあったのだ。自分はそれに気付かず引っ掛かったまま下りのステップの方に行こうとして引っ張ってしまったところで、ロープに引き留められる形で首は止まり、体だけが雨に滑って落下したのだ。両手でロープをつかんで締まるのを防ごうとするのだが、うまく力が入らない。そんな腕力はない。首を胴体からスポッと抜いてもう一度嵌め込み直せるものなら簡単なのだが。

 何とかするには、手足をケガする危険があるにしてもここの資材の山を頼るしかないと思った。それでわけもなく、体を揺すって廃材の山に近づこうとした。思い切り手を伸ばしだのだが届かない。

 また一段と首が締まる。そんなに激しく動いたわけではないのに、ガクンと一段ロープが引き絞られたようだ。息が切れてきて辛い。深呼吸したい。しようとしてもしきれず息が足らない。酸欠というのはこういう状態なのかと思う。少しずつ気が遠くなってくる。

 こんな場所で、こんな形で死にたくないなとまた思った。自分はもっとずっと平凡な場所、自宅か病院で、病気か老衰で死ぬのだと思い込んでいたのに。

 ふとあの美女たちのことが浮かんだ。死が迫っているから、運命がああいう楽しい語らいを用意してくれたのかも知れないと思った。彼女らと交わした言葉の一つ一つが浮かんでくる。

 「チェーンが引っ掛かったりしないの?」

 「下手に手を出すとケガするわ」

 あれっ。自分の運命を予告していたのか? 予告していたとして、そんなことがどうして出来るのだ?

 どうしてそんなことをするのだ?

 でも、なぜそんな予測が当たるのだ?

 「魔女か」

 自分の未来を他人に当てられてたまるものかと思った。

 予測が当たるとしたら、次はライターのトラブルだ。ライターは恐らくポケットの中にとどまっていて、それ以上何か危険な状況を起こすとは思えない。ただライターが問題だとしたら、この首が締まるのを乗り越えることは可能なはずだと思った。それが今はかすかな希望の拠り所だ。

 と思ったのだが、突然ロープがガクンガクンとさらに締まった。誰か来てほしい。助けて……。

 ?!

 下の道路でガツンと音がしたような気がした。頭が朦朧として、目の前が白いような黒いような感じで何も見えない。見てやろうという意欲ももう湧かなくなった。車がぶつかったのだろうかと思っているうちに、急に辺りが明るくなった。金網の下から炎が上がってきたようだ。ほんのり暖かくなったので分かる。車が衝突して火事を起こしたのだろうか。危なそうな道ではあるけれど本当に事故が起こるとは思わなかった。でなければいよいよ自分は幻覚に取り憑かれようとしているのかも知れない。炎は自分のライターのではない。良かった。そうだ、予測は外れた。それはそうだ。予言なんかが当たるはずない。彼女らは無実だったということか。

 酸欠で気が遠くなる中で、遠くからカンカンカンカンと鉄棒で鉄管を叩くような音が聞こえる。

 いきなり意識がはっきりした。足元の火がゆっくりと広がってきていて、須築のズボンに火がついたのだ。下では消防車が集まってきて消火し始めた。須築はズボンの火がゆっくり上がってきて、顔に炎を感じた。足が変に暖かくなってきた。火傷するなぁ、いやだなぁ。ポケットのライターが爆発した。

 「熱っ」


【2・須築の請負】

 須築は長い間、気を失っていたようだ。

……名前を呼ばれて気が付いた。病院のベッドだった。長らく昏睡状態だったということだ。

 下の道路で衝突した車が燃え上がったのは幻覚ではなく事実だったそうだ。近所の人が消防を呼んだ。消防署員たちがガソリンによる大きな火と格闘してようやく消し止めたと思った頃、路面の一段上の方から、「熱いっ」という悲鳴が聞こえて、男が一人宙吊りになっているのに気が付いた。それで消防車の梯子を伸ばして助けてくれたのだそうだ。消防署員が抱えて抱き上げようとして声を掛けた時は気を失っていたらしい。

 自分の足は焼けただれているということだが、包帯でぐるぐる巻きにされていて自分でもどんな状態か掴めない。じんじんして自分の足ではないような気がしている。何とか一命は取り留めてもらったらしいのだが、重傷の火傷だそうだ。

 「治ってもケロイドは残りますよ。再手術で少しはましになりますがね。ただ、こっちの毛は生えてきませんなぁ。毛を生やす方法というのはまだ無いんですよ」

 中年の医者が表情だけは気の毒そうに、しかし声は何とも思ってないのが丸わかりの調子で言った。

 「命があったんだから良かったわよね」

 看護師さんたちから祝福の言葉をもらった。

 「あと五センチずれてたら、睾丸が焼けて死んでいたはずですって。良かったわね。五センチで運命が変わったのね」

 そんなことも聞かされた。意外に幸運に恵まれた人間なのだろうか。あまり実感しないが。

 退院して自宅に帰ったあとは当分退屈するだろうと思っていた。面会謝絶が解かれるとすぐに見舞いの同僚たちが次々に現れた。あの日の晩一緒に帰った連中も来てくれた。あの美人女性のグループもばらばらとやって来た。驚いた。居酒屋で同席しただけなのに。結局八人全員がやって来た。

 彼女らは須築が普通なら死んでいてもおかしくないほどの危険な目に遭いながら無事に切り抜けてきたことを異口同音に称えてくれた。

「あなたが一番。他の人に負けないわ」

 「大丈夫。どんなことでも切り抜けられるわ」

といった意味不明の褒め言葉ももらった。須築としてはただ必死にもがいただけだと思っているので恥ずかしいばかりだ。会社のいつものチームの中ではおそらく一番貧弱に見えるはずの自分が、大きな危機を切り抜けたのが意外に思われたかも知れない。火事場の馬鹿力というやつだなと自分でも思う。母親も、「運が良かっただけよね」とはっきり言った。

 看護師さんから、

 「女性にもてるんですね」

と冷やかされた。面会室まで足慣らしに歩いて自動販売機のジュースを飲んでいると、全く見知らない他の患者さんから、

 「お宅は芸能プロダクションにお勤めですか」

などと真顔で尋ねられたこともある。須築が美人たちの来訪を導くようなことをしていれば、こういう問いかけに何か答えられることが出来たかも知れない。しかし予想もしてないことが起きているという点では、あの事故と同じ状態が続いているだけだ。

 この事故は新聞にも載っていると会社の人が持ってきてくれた。社会面トップに、首吊り、そして大火傷になりながらも生き延びたと書いてある。意識が戻るとすぐに消防署と警察の人がやって来て、事情を聞かれたのがそのまま載っているわけだ。恥ずかしい出来事だった。須築が首吊り状態になった原因も書かれていた。電話線と情報線とを個人の家に引き込むための配線があのトラックの真上で交差しており、そこに引っ掛かってしまったのだそうだ。普通なら何かに影響するはずのない高さなのだが、トラックの高さのせいで届いてしまったのだ。もっと早く共同溝工事が済んでいたら免れたはずの事故だったのだ。悔しい話だ。

 美女たちが心配してくれていたことはよく分かった。彼女らの様子をたびたび見かけた看護師さんにもそう見えたそうだ。

 「あなたの御姉妹かと思うぐらい心配しておられましたよ。命は絶対大丈夫ですよって言ってあげたら、本当にうれしそうな顔をなさって」

と言われた。そういうことを聞かされるうちに、彼女らが須築の持ち物が危ないとさかんに心配していたことをまた思い出した。彼女らには何か特殊な能力でもあるのかと思ったのだが、ただ心配するしかできなかったということは予知能力のようなものを持ってないことを表しているのだろう。

 退院の日が決まると職場復帰を意識した。

 復帰する前にどこに行くとも決めず、どこかの駅でふと足の止まった階段を上り、そこに止まっていた電車に行き先を確かめずに乗り込み、一番退屈そうな駅で降りて、うろうろしてみようと思った。

 というのは、整えられた観光地なら半ば病人のままでも時間を過ごせるかも知れないが、辺鄙な場所ならかなり自分を奮い立たせなければやり過ごすことが出来ないはずだからだ。そうするとリハビリが順調かどうかはっきり判断出来ると思ったのだ。丸一年近い入院で手足の筋肉もすっかり弛んでいるということもある。それで普通に暮らせるか確かめないといけない。こんなことを考える自分自身に驚いた。以前なら、病み上がりなんだから、脚が不自由だからと言い訳しつつありふれた観光地を散歩しようとしていただろうと思う。

 営業部長が直々に見舞いに来たので驚いた。ベッドを起こして新聞を読んでいるところだった。何だか一瞬、変なものが吹き込んできたような気がした。この感覚は何だろう。

 「俺が来て吃驚してやがるな。何か下心があると思ったんだろ。そうよ。用があるから来たんだ」

 にやりと笑った。黒縁の眼鏡の奥からこの目で睨まれると、本当に怖い。五十歳ぐらいの働き盛りというかエネルギーが有り余っている感じだ。こちらは病み上がりでもあるせいかギュウギュウとのしかかられる気分だ。部長からの用事は大抵課長を通じて受け取るのだが、直接顔を合わすのはまずいことがあった時だけなのだから、余計そう思うのかも知れない。

 アタッシェケースから名刺大の透明ビニールのようなものを出してきて握らされた。一見人工の皮膚かと思ったのだが、何だかそれよりは軟らかい素材だ。しかし千切れるかと思って引っ張ってみるとびくともしない。何に使うものだろうか。

 「素材は何です?」

 「何だと思う?」

 部長がニヤニヤします。

 「新しい人工皮膚ですか」

 「皮膚だ」

 「皮膚? 人間の?」

 「そうよ。人工じゃない。本物の皮膚だ。これに印刷する」

 「はぁ?」

 「これに印刷をしてくれと言うんだ。中身が透けて見えないようにな。色は人間の皮膚の色と同じに見えるようにという条件で」

 印刷! いやだなと思った。復帰の初仕事が、選りに選って印刷! これまでは里生がいてくれたので何とかやってこれたのだが、今はいない。

 「私が担当しないといけませんか」

 「そうよ。だから来たんだ」

 部長は須築の昔の失敗を知らないようだ。当時の上司であったチーフが上手く庇ってくれたのだろう。

 「時間的に手が空いているのはお前だけなんだ。やってくれ」

 そこまで言われたら、仕方ない。印刷に関する苦手意識も払拭しておかないといけないわけだ。

 「分かりました」

 この印刷は何が目的なのだろうと思った。意味が分からない。

 「どこの皮膚の色ですか」

 「全身」

 「全身!」

 吃驚した。腕だけでも大変だったのに、全身とは。それぞれの場所の皮膚の色に。ドキドキする。自分に出来るのだろうかとも思った。どうしてそんな広い範囲を望むのだろう。

 「そうよ。マンコにもケツの穴にもそれらしく印刷するのよ」

 「何のために」

 「それは言えないのだそうだ。俺たちは注文に応えるのみ」

 確かに現代は目的や原因を深く考えなくても物事は進むようになっている。会社の仕事はもっとそうなっている。

 依頼元の所在地はR県S郡緋杜村。商事会社だそうだ。注文をくれた客が支払い能力をきちんと持っているかどうかを掴むのは難しい。特に遠方の相手は難しい。専門の調査業者もあるけれど、うちの会社では利用していない。信用度というのが本当に掴みにくいからだ。業者に調べてもらうよりも自分で調べる方が失敗しても納得しやすいのだ。しかし顧客会社の誤魔化しを探り出すのは難しい。専門知識のない自分たちにとってはこれが仕事の九割に達するものと須築は思っている。

 「はぁ」

 溜息が出た。

 「そんな遠いところから、どうしてウチの会社に来たんでしょう?」

 「ウチの会社と言うよりも、須築、お前さんが指名されたんだ」

 えっ! 

 「まさか」

 こんな遠い所の人が自分のことを知っている? いやな感じだ。こちらは何の情報も持っていないのに向こうが自分を知っているらしいのが気持ち悪い。緋杜村というのはどんなところなのだろうか。

 部長がニヤニヤした。

 「どうして、自分ですか?」

 「知らん。俺も変だなと思ったがな。出来るだけ社内でも関与する人間を絞って欲しいという御要望よ」

 「怪しいですね」

 「近隣に知られないように加工したいらしい」

 時計を見ると、病院の規則でパソコンやスマホなど電子機器を使って良い時間になっていたので、ベッド脇のパソコンでインターネットの地図を開いた。なんと、遠い上に鉄道駅から辿り着く道が無いようだ。最大限拡大したが、獣道しか無いようだ。バスで近付けるのだろうか。どうして暮らしを立てているのだろう。自給自足の原始生活のはずはないだろう。

 印刷の目的を考えてしまう。顧客の目的を知らされない仕事というのは多いのだが、大抵は見当が付くから説明しないのであって、全くの手探りの状態で請け負うのは珍しい。遠方から指名されたというのも気になる。何とか目的をつかみたいと思った。反射を上手く誤魔化すというのは軍事的な技術として特許申請か利用の段階で請け負えなくなるかも知れない。しかしそうなると契約違反で訴えられかねない。トラブルになる前にこのクライアントの正体をつかんでおかないといけないわけだ。発注元の信用などの調査は須築の仕事ではないけれど、気にしておく必要はある。

 発注元のことを考えるのがいやになり、仕事の進め方のほうに頭を切り換える。

 人間の体色は全体が同じ色ではない。腹部と背中では色が違う。手の甲と手の平でも質感が違うので、それを印刷でどう表すか。少しずつ違う色で印刷しなければならないのだ。ただ印刷だけ考えれば簡単なことだ。大抵の素材に印刷できる。印刷そのものは割に簡単に克服出来ると思う。

 技術面での問題は、平面ではなく、立体に、そして伸縮する素材に印刷しなければならないということになる。それをどう克服するか。皮膚呼吸にも配慮する必要があるだろうし、新陳代謝で垢として剥がれ落ちるということも考慮しないといけないだろう。

 「一週間維持出来ればいいそうだ」

 「たった一週間ですか」

 何か肉体に問題を抱えている人もいるから、そういう人のためになるのかも知れない、そういう仕事であってほしいと思ったのだが。例えば皮膚の色素が欠ける白子の人のためのもの。しかし違ったようだ。そういう人なら印刷が長く維持出来れば出来るほど良いはずだ。どういう人のためなのだろう。ただ期間が短いというのは朗報と言える。あまり健康の問題を考えなくて良いからだ。簡単なようだが、しかし細かな問題はこれからいろいろと出てくるだろう。

 「本当は年に三日間ぐらいなんだけど、余裕を取って一週間と言ってるんだそうだ」

 何かの行事があるのか。顧客が一週間と言うなら一ヶ月維持出来る物を作ればいいのだなと思いながら聞いていた。

 真っ先に考えたのはヤクザのことだった。三日と聞く前は入れ墨しているのを隠すのではと思ったのだ。三日と聞いてから考えたのはヤクザが暴行死させた被害者の遺体からその事実を隠蔽すること。三日間隠せれば大抵火葬されてしまう。しかし何だか奥深い田舎のようだ。こんなところにヤクザがいるか? 麻薬や覚醒剤を売り、売春業を取り仕切り、水商売の店からピンハネするのがヤクザのイメージだ。どうも都会でなければ成り立たないことのような気がする。

 何もない田舎にあって特殊なことをする組織か。しばらく考える。美容のための印刷かも。入れ墨のように特殊な装飾をしに来るのならあり得るか。でも三日間というのが引っ掛かる。

 では新興宗教か。変なことを言い出すのは全てそういう団体だと思っているのだ。いろんな教団があって、変わったことを教義にしているところがよくある。聞いたことがあるのは、左手の指二本で右手を摘みながら食事をせよとか、どんな重傷のケガでもメスを入れて手術させてはならないとかいう例だ。毎日縄跳びを二千回しなければ天国にいけないという良いことを教えている所もあるらしいのだが。そういうところなら体に経文などを印刷させることもありそうな気がする。祭の三日間だけ必要な装飾か。とにかく宗教がらみの仕事は須築たちの想像を超えることが多いのだ。儲けにはなるのだが、須築としてはあまり請け負いたくないなと改めて思った。

 新興宗教ではないとして考えを進めていくことにする。

 会社も、ケガが治ったばかりだから、この程度の仕事から始めよということなのだろう。

 「まぁ、リハビリのつもりでやってくれ。担当はお前一人だ」

と言われたのだが。どうしてわざわざ遠隔地の会社に話を持ってきたのか分からない。とても病み上がりのリハビリ仕事ではないことになりそうだ。

 「棚賀たちは?」

 「あいつ等には他の仕事がある」

 そう言われると、会社にまだ自分の机があるのが異常なことのような気がしてくる。顧客からの指名ということもあるが、本当は先輩の植多さんにこっそり担当させたかったそうだ。急性肝炎でダメになったから、やはり須築の方に回ってきたということだった。

 何を目的とする注文なんだろうとまた思うが、すぐに頭から消した。クライアントが何に使うかはどうでも良いのだ。ただ黙々と注文に応じるのが須築たちの仕事なのだ。明らかに犯罪に使うのが確実な場合はさすがに断るけれど、犯罪にも使えるぐらいのことでは拒否出来ない。

 部長から渡されたサンプルは人体の皮膚とその下の脂肪層というものだった。不思議なことに腐敗したりミイラ化したりしていない。どう加工したのか分からない。どんな人から採取した皮膚なのだろう。向こうは田舎の会社と心の中で馬鹿にしたが、意外に高度な技術のある場所なのかも知れない。しかし、もしそうなら全身に印刷を施すぐらいの技術もありそうだと思うのだが、そこはどうなのだろう。

 ともかく人間の皮膚に、実際の姿のように印刷すればよいのだ。皮膚に触れるのでやはり毒性の無い素材でないといけない。顔にも印刷するので皮膚を刺激してかぶれたりするものもダメだ。擦ってすぐ取れるものでもいけない。もちろん僅かでも印刷位置がずれては話にならない。そして目的を果たした後、すぐに洗い流せるものでないといけないのだが、目的を果たすまでは入浴しても落ちないことが必要だ。この矛盾する幾つもの条件をどう乗り越えようか。

 インクの素材は何とかなりそうだと思った。メーカーの名前がいくつか浮かぶ。一方、印刷される人の身体の動きに敏感に反応して位置を変更する機能も持つ何かが必要だ。麻酔をかけて印刷すると、覚醒時には想定外だった様相になっている可能性もある。

 皮膚だから材質はタンパク質だ。元の色のままては困ることがあって、それを防ぐというのが狙いということなのだろう。自分たちはこの素材を作るのではなく印刷するだけなので、インクがこれにしっかりくっつけば良いだけなのだ。それに浸透は簡単でも、洗浄のことも考慮する必要がある。三日経てば、その後は邪魔になる可能性もあり得る。

 様々な条件を考え併せて製造部に説明しなければならない。細部は彼らが考えてくれるはずだが、大枠はうちでは営業の仕事なのだ。説明の文言をメモ用紙に書いていく。 納品の希望日は「一年以内」という異例の緩い条件で助かったが、センサーに即座に反応するアームがなかなか出来ない。若手を一人何とか他のプロジェクトから引き抜いてきて助手にした。物の動きを扱うのが得意なので助かる。インクを身体に吹き付けるのにもたもたしていては色がずれてしまう。インクの素材も思ったより揃わず、どんどん日が過ぎていく。塗布したインクを素早く固化して皮膚組織に引っ掛けることにした。印刷の仕上がりのレベルを見てもらえそうになったのは割に早かったのだが、それを全身に施すのが大変だ。ともかく印刷の具合をクライアントに見せなければならない。それでOKをもらえれば、アームの方に注力出来そうだ。

 信用調査の結果を聞いた。新興宗教関連ではなく、実質的に緋杜村なのだそうだ。取引金融機関は農業振興金融株式会社一社だけ。資本金は全額、所在地の緋杜村からという公営企業だ。この村は地方交付税交付金をもらっていないそうだ。金持ちらしい。人口は八年前の統計で男一六三一人、女一六八五人、面積は……。中核になる産業は農林業ではなく、金融業と情報産業。何だかスイスのようだ。景色の美しい所なのだろうか。そういう村が企画した仕事というので、好奇心を刺激された。

 村の中央部の地図を拡大してびっくりした。見た覚えのある地図なのだ。今まで行ったこともないし、行こうと思ったこともない地域なので、初めて見た地図のはずなのに。どこで見たのだろう。家族旅行をしない家に育ったので、学校行事か会社の出張でしか旅行していない。要するに他人の企画で動いただけで、須築は自分で地図を見る習慣がついてないのだ。

 「どっかで見た地図なんやけどなぁ」

 考え込んでいると、画像を覗き込んだ人が「分かった」と言った。

 「花灯さんのパソコンに残ってた地図やないですか」

 そうか。そうだ。行方不明になった花灯が見ていた地図。どうしてこんな辺鄙なところの地図を見る必要があったのだろうか。この仕事は、彼がこっそり掴んでいた案件だったのだろうか。いなくなったから仕方なくチーフの自分を指名してきたのではないか。

出来上がりが向こうの希望通りかどうかを確かめる出張に行かなければならない。何度も行くのは面倒そうなので契約書も取り交わしてしまいたいが。

 またあの美女グループと一緒に夕食を摂ることがあった。須築は今は単独で仕事をしているが、二課の連中が呼んでくれたのだ。久しぶりに彼らと集えるので喜んで参加すると、彼女らとも会えたのだ。誰かが須築は緋杜に行くという話をしたようで、女性たちが騒いだ。

 「緋杜村は良い所よ」

 「緋杜村は何も無いからイヤ」

 「緋杜村には帰りたくない」

 「緋杜村に帰るしかない」

 「緋杜村のために頑張らないと」

と口々に言う。初めて自分たちの互いの共通点を明かしたのだった。営業部長の話やインターネットの情報では凄い田舎ということだったのだが、そこの出身者なのだそうだ。彼女らが集っていた理由がようやくはっきりした。同じ村の出身者同士ということだ。今までは巧みに話を逸らし続けてきたのに、緋杜村という具体的な地名が出た途端、日頃の思いが噴出したようだ。村を愛する気持ちと逃げ出したい気持ちとがせめぎ合っているようだ。この破格の美女たちが全員緋杜村の出身ということで、俄然緋杜村についての興味が湧いた。都会人にとっては、何も無いところというのは憧れの地だし。しかも出身者たちが全員絶世の美女たちばかりなのだ。謎の桃源郷ではないだろうか。

 「絶対来てね」

「須築さん、頑張ってね」

 「大丈夫、うまくいくから」

 「そうそう、これを付けておいて」

 お守りのようなものを取り出して、須築の腰の鎖に括り付けた。何だかぷんとムカデやカメムシを混ぜたような匂いがした。弱い匂いだから我慢出来るが、これが強くなったらたまらない。彼女らの僅かな、しかし無視し難い欠点だ。

 「何だよ、これ」

 「緋杜村で楽しく過ごせるようにというお守り」

 別に邪魔にならないので、そのままにしておいた。鼻を近付けたが、これが匂いの元ではないようだ。

 緋杜村は凄い美人の産地、というのが頭に残った。秋田美人など雪国に美貌の女性が多いということはよく聞いている。緋杜は雪が多いのだろうか。そのことを会社で話すと、営業一課のメンバーに、

 「そんなはずない」

と言った者がいる。R県S郡にある緋杜の隣町の出身だそうで、

 「あそこは思いっ切り気持ち悪い顔の地域だ」

というのだった。

 「顔はまずいし、足が短い。太股と脛の長さの比率が他の地域と違うみたいでスタイルというか全身のバランスが悪い。醜悪の見本だ。近隣の町ではどこでもあそこに近付くと醜悪が感染すると言ってた」

 さんざんな表現をするので、二課のメンバーは首を捻った。我々は彼女らに実際に接したのだ。驚くほどの美貌の女性たちだ。そういう人もいるというのではなく、全員が揃って美女だった。その彼女らが、自分たちは緋杜の人間だと言ったのだ。緋杜イコール美女であって、イコール気持ち悪い顔という意見は納得出来ない。

 「一課の連中は会ったことがないから羨んでるんだ」

 「あれはデタラメだな」

と言い合った。

 ところがその男はやはり本当にS郡の出身者と分かった。彼の主張の方が正しいらしいのだ。

 ということは美容整形をしたということしか考えられない。

 単なる美容整形の人だったのかと思うとつまらない。何だか熱中していた我々の方が馬鹿みたいだ。

 その後も彼女たちに会うことがあって、みんなしげしげ観察してきた。しかし不思議なことにどこにも嘘くさい雰囲気は見出せなかった。


 須築は出張した日、朝から長い長い時間列車に揺られた。乗り換えで何回も数時間、ポツンと駅の待合室に一人で座り続けた。降りた無人駅のホームには駅名表示板と日に焼けて文字も絵もはっきり見えなくなったポスターが何枚も貼られた掲示板が立っていた。そに、一枚だけ新しい「選ばれた土地 緋杜」というポスターが混ざっていたが他には何もない。ホームを下りていくと駅前には何も無かった。案内所はもちろん、売店も食堂も倉庫すら見当たらない。見回すと、人工物は続いていく線路と小さなコンクリートのホームだけだった。そのわりに、駅前は学校の教室四つ五つほどもありそうな広場になっている。どこかに出る道が見当たらない。最初は降り間違えたのかと思った。ここの何が選ばれたのかと思ってホームに戻って近付いたが、ポスターには大きな文字があるだけで詳しい説明は書かれていなかった。

 その駅から二時間歩くしかないと言われていた。道に迷わないかが不安だった。駅前広場に迫った山の傾斜がきつい。密に生えた木が日の光を受けて美しい。山襞をかわして裏側に回ると、砂利すら撒かれていない道らしきものが一本あった。大きな石と石の間に木の根が這っていて、そこが階段として使えるようだ。子どもの頃の遠足で歩いた山道を思い出した。最近刈ったばかりなのか、草の匂いが強い。立てたばかりと思われる案内札が所々にあって、それでこのまま進めばいいのだと安心出来るのだった。ただその立て札も仮に置いただけといった感じで長く設置されるものではなさそうだ。ひどい道だがこの鉄道駅からのルートが一番近いということだった。車で行けるのかどうかは分からない。商品の搬入にはヘリコプターが必要かも知れない。山道そのものは別に嫌う理由がないし、営業のためという目的がはっきりしているのでさっさと歩けばよいのだが、かすかな不安に襲われる。その上なぜか一瞬重苦しい雰囲気に包まれた。里生が、「これは絶対に売れる、と自信があるのに、なぜか急に弱気になることがある」とぼやいて驚いたことがあったが、それに似ているのかも知れない。いやな感じはすぐに消えた。道の草は刈ったばかりのようで人の手が入ったのは分かるけれど、時々踏み越える石を積んだ階段はほとんど崩れたままだ。何だかちぐはぐな印象を受ける。歩き出した時、何か鉄道の音が聞こえた気がした。今降りた鉄道は六時間後まで便が無いはずなのだが。須築が近付くのを見て道がザワザワと切り開かれる感じがした。風は無かった。なのに山林の枝が揺れたようだ。立ち止まると静寂に包まれるが通り過ぎると後方で道が閉じられるような気がした。道だからそんなはずはない。曲がりくねった道だからだろうが、どうも変な気分だ。久しぶりに遠出したので自分の感覚がどこか狂っているのかも知れない。半時間ほど歩いたが、まだ一軒の家も見えてこない。見回しても、国立公園の中でさえ見られる電線や鉄塔が全く見当たらないのだ。ある意味完璧な自然状態ですがすがしい。グーグルやヤフーの地図で見るとただの山の扱いで、道など無いことになっていたし。都会の常識では、郵便で問い合わせをし郵便で答えてもらうというのは数十年前の出来事ということになるのだろう。電話も満足に通じない僻地が今も存在しているのだ。辛うじて電報が使えるというのがおかしい。制度の恩恵から完全に洩れている。こんなことが現代の世の中にあるのが信じられない。住民たちはどう考えているのだろう。どうやって暮らしているのだろう。見回しても木々の密生した山が広がるばかりで、田畑が見えなかった。珍しい光景だ。踏みしめているのがたまに砂利が撒かれただけのものながら一応舗装のつもりであると分かる道路だから良いのだが、そうでなければ自分がどこにいるのか分からなくなりそうだ。あの駅がどういう事情であんな場所に建っているのかも不思議だと思った。道の上には木々の枝が張り出して屋根のようになっている。周りの景色が見えにくい。ただ、山深いところと思ってきたのに、見える岩壁に貝殻のようなものが混じっているのに気が付いた。以前取り組んだ仕事で覚えた知識ではそうなるのだ。海の中で出来た地層が隆起して高い山になったということなのだろうか。ひっそり住むのには良い場所かも知れない。

 首筋が一瞬冷たくなった。何だろうと思って触ってみると、手が真っ赤になった。ハンカチを出して拭くと赤くなり、小さな褐色の塊が付いている。蛭だ。上の枝から落ちてきたようだ。その後も三回ほど落ちてきた。落ちるとすぐに血を吸うらしい。

二時間歩けば村の中心部というところに出られるらしいのだが、長々歩いたにもかかわらず、それらしい所に出ない。時々、見回しているうちにようやく少し腰の曲がったお爺さんを一人見付けたので、近付いて尋ねる。老齢で皺が寄っているせいか容貌がかなり醜悪だった。頭が大きめに見えて全身のバランスが宜しくない。顔も黒っぽく皺が多いせいか何だか気味悪い。一課の男が言ったことは正しいのかも知れない。恐る恐る彼に尋ねると、すぐそこが村の中心部だと言った。何だか変ないやな匂いが漂っている。礼を言って離れる時、彼の顔が何だかグラリと動いたような感じがした。何が動いたのかと思ったがじっと見詰めるのも失礼なので向きを変えて歩き出した。

 「あの顔は何だろう」

 異様な印象だったという記憶が残った。普通動かないどこかが動いたようだった。

 その次にすれ違った比較的若い男性は顔の一部がキラキラしていた。顎に何かを塗ったのかも知れない。左右対称に塗ればよいのに片側だけなのでプラスチックの模型が歩いているように見えた。あの美女たちのことを少し思い浮かべる。

 また見回すと、細い道の奥に普通の民家を大きくしたような建物が見えた。学校だそうだ。テレビや映画の時代劇に出てくる建物のようなものだった。学校というのはコンクリートの四角い建物と思っていたのだが、別にどんな建物でもよかったわけだ。少し奥に学校ほどではないが、やはり個人の家よりも少し大きめの建物も見えたので近付くと、日替わり定食とかコーヒーとか書かれた札が下がっでいた。この札が無ければ物置小屋と思ってしまいそうだ。こんな産業の痕跡の見当たらない場所に食堂があるというのが意外だったが、気分転換には必要なのかも知れない。その裏側に雑貨店があった。もちろん同じような古めかしい建物だ。入ってみると中は意外に広々として明るく美しい壁に囲まれて、テレビやパソコンが並べられている。子供用のノートやボールペンもあった。コンビニみたいなものでもあるらしい。ただし、営業時間は昼の前後だけのようだ。とにかく人間の生活が確かに感じられてホッとした。ふと、陳列されている商品はどうやって納品されてきたのだろうと思った。あの道を八ヶ岳や日本アルプスの山小屋のようにボッカが運んできたというのだろうか。

 そこで会った若い奥さんの容貌は驚くばかりの美しさだった。全身のバランスも良いので見栄えがする。老人の姿とかけ離れている。美女グループが年齢を重ねるとこんな姿になるのだろうか。信じ難い思いがする。こんな田舎に住んでいるのを気の毒に思った。彼女の話し方は少し変わっていた。目的の事業所について尋ねると、さらに一時間ほど歩く必要があると言う。出来るだけ小さくはしてきたが軽くはない荷物が恨めしい。夕方近くになってようやく目的の事務所にたどり着いた。疲れてくたくただが、頑張らなければならない。すれ違った女性は美しいが男性はごく普通で、しかし足を引きずったり片耳のキノコのような耳朶の無かったりする人が何人かいた。大阪でもそういう人はいるが、何だか比率が高い。かなり危険な作業を含む産業の地域なのだろうか。

 依頼主は六十歳ぐらいの年の女性だった。この人も容貌は美しいが、痩せていて白髪が多く何だか枯れ木のような感じだ。受付係のようにして立ってきたのだが、名刺を見ると社長だった。手を合わせて拝まれたので驚いた。こちらは慌てて深々とお辞儀をした。こんな挨拶が習わしのところらしい。従業員はいても二、三人ほどの規模のように見える。その人と面と向かっての打ち合わせだった。何だか仕事と思えない。まるで年老いた母親と雑談でもしているような気分だ。

 「遠かったでっしょう」

とねぎらって、社長自ら御茶を淹れてくれた。年がいって皺が目立つ顔だが、造作は良く整っているとまた思った。若い頃はかなり美しく、もてたのではなかろうか。

「あんまり遠いので吃驚しました」

 「っそうよねぇ。ここらでは二時間が一つの単位でっしてね。四時間ならちょっと歩きにくいな、六時間ではとても歩けない、でも二時間なら歩くのが普通、なんですね」

 驚いたという感想はここに来る人から何度も聞いているのか大した反応はなかった。淡々と話をする。

 「そんなもんですか」

 住むわけではないから、別にどうでもいいのだが。今日は本当に疲れたと思っていた。

 今日お伺いしました用件ですが、と始めると、銀縁の眼鏡を指で押し上げながら、

 「これは極秘の依頼とお考え下っさい」

と言った。

 「私どもは今までも全ての仕事について、極秘と思ってきております」

と返事すると、

 「結構でっす。が、今回は特に秘密を守っていただきたいんでっす。高貴なるものを包むものだからでっす。っ尊厳を傷つけたくないのでっす」

と言った。よく理解出来ないが、分かりましたと答えておく。どうやら宗教団体の本尊を包むものなのだろう。この会社は公営の商事会社というだけで、業務内容として何を扱っているのかがはっきりしなかった。会社の営業部長にも信用調査係にもどういう会社か分からなかったのだ。結局何も分からないまま仕事を進めてきた。会社は須築のリハビリと割り切っているのかも知れなかった。国や地方公共団体は特定の宗教に肩入れしてはいけないという規定があるはずなのだが。

 「印刷レベルについてどの程度が御希望か確かめたくて、こちらにお伺いしました」

 見本を見せると言うと、奥から男性が業務係長として出てきた。三十代半ばだろうか、須築よりも少し年上のようだ。立派な体格の人だった。胸板も厚い。名刺は切らしているということでもらえなかった。

 「人間の皮膚の色にという御要望だと理解しております」

 須築はワイシャツの左右の袖をたくし上げて、左腕を社長と業務係長に見せた。右腕とほとんど同じにしか見えないはずだ。それから溶剤でインクを溶かして、タオルで拭って見せた。中から墨汁で真っ黒にしてあった腕が現れる。印刷でその黒い色はさっきは全く見えなかったのだ。二人とも大きく頷いて満足を示してくれた。

 「このレベルではいくらになりますか」

と尋ねられた。価格が折り合えた。話は済んだ。

 「これは何が目的の印刷なんでしょうか」

 尋ねたが、やはり口を濁して説明されなかった。

 あとはアーム関係の機材開発ということになるが、これは出張に来る少し前に一部だけ完成しており、それを使って今日のための印刷をしたのだった。今日、印刷レベルが合格したので、全ての作業を始めてもらえる。ホッとした。早く帰りたいと思った。明日は美女たちの言った行事があるらしい。それに出たくて業務の手配を澄ませ、休暇を申請したら、二日待ってくれと言われて却下された。明日は帰らないといけない。今日はあの駅に戻っても列車は来ない。

 「宿のある町までタクシーで行きたいのですが」

 「ここにはタクシーは来ません」

 係長が言った。

 「えっ、どうしてですか」

 「道が悪っすぎるんでっすよ」

 社長が言った。 

それは納得出来た。でも他にルートは無いのだろうか。

 「無いんですよね」

 係長が言う。

 「ほんとに孤立しています、ここは」

 打ち合わせが終わると日没近かった。業務係長が壁の時計を見上げた。もう列車は無い。事務所の庭先にテントを立てさせてもらおうとしていると、業務係長が、

 「おんぼろですが宿を御紹介しましょう」

と言ってくれたのでホッとした。テントよりは快適なはずだ。社長が、この道を出るのよねと大雑把に方向を示してくれた。

 係長が宿まで案内してくれるという。女性と違い、男性たちはみんな老婆よりも更にみすぼらしく見えたのだが、この人は普通の姿に見えるとあらためて思った。

 須築の今回の出張目的は印刷見本を見せることだった。それが済めばすぐに帰らなければならなかった。契約書の作成まで進めることが出来れば少しゆとりが出来る。その時は美女たちに求められた通り祭に行こうと思っていたのだが無理のようだ。彼女たちのような美人が大勢集まるのを見たかったのだが。出張の目的を果たすことが出来ると、今日すれ違った老人の顔とスタイルがあまりにもひどく醜悪だったのをまた思い出した。失礼ながら気味の悪い地域だ。全ての老人がそういうことではなかったけれど、数人異常な人がいると他にもいるのではないかと思ってしまう。女性であのような凄まじいばかりの醜怪さを示す人は見かけなかった。しかし、梅田で見かけたほどの美女には巡り合わなかった。中年、老人ばかりで若い女性と会わなかったからかも知れない。それで、せめて宿までの往復時に何とか若い女性に会いたいと思った。あのグループのような人たちがここでどんな風に過ごしているのかに興味が湧いていた。

 期待した通り何人かの若い女性たちと擦れ違えた。しかしあの美女グループに匹敵する美女たちのはずなのに、何だか疲れたような感じで生彩がなかった。顔の造りはよく整っているし、服装のセンスも彼女らと同じく素晴らしいのが見て取れた。しかし何だか怒っているような表情だったり、むくれているようだったりしてがっかりした。見苦しいというほどではないが、期待が大き過ぎたのだろう。あの美女グループの出身地なのだが、本当に彼女らの故郷に間違いないのかと思った。随分差がある。

 珍しいのは集落の中心部でも女なら年配者も若い人もみんなが揃ってよく似たブーツを履いていることだった。しばしば雨が降る土地のようなので当然と言えば当然だろうが、そのデザインがプロジェクト全員で美女たちと会っていた時に履いていたブーツとよく似ている。そろそろ寒さが厳しくなる頃だからそういう靴を履くのは自然だ。しかし異常なほど鄙びた田舎で、一応砂利を撒いて舗装してはあるのだがでこぼこの道なのに、お洒落な履き物で歩き回っているのが変わっていると思った。作業用の無骨な長靴の人はいないかと思ったが、みんなお洒落な感じのするデザインのものばかりだ。靴の描くカーブが独特なのだろう、とても美しい。が、色が黒か白に限られていた。白か黒の無地で模様はない。何か意味があるのだろうか。それともこの辺で販売されている物がそれだけということなのだろうか。梅田で会った時は何も思わなかったので、その時は焦げ茶やベージュなど多彩な色だったのだろう。もっといろいろ売ればよいのに。表面は滑らかで光を反射している。ボタンや紐といった飾りは一切付いていない。それを履いて女性たちは水溜まりがあるわけでもない道を歩いているのだった。どういうわけか男性の履き物の方はバラバラだ。サンダル、スニーカー、革靴。須築のマンションの近所と同じような履き物で歩いている。男性の長靴姿はとうとう一人も見かけなかった。

 「あの人たち、どうしてブーツを履いているんでしょうか」

 さっき用件を終えた時、書類をまとめながら尋ねると、

 「あれは私の提案です」

と業務係長が胸を張った。ブーツの提案? 

 どういう提案か尋ねようとしたのだが、社長が、

 「あれでっ昇格っしたんでっすよね」

と言ったので、続けるタイミングを失った。社長の物言いが変だ。病気でも患っているのだろうか。男性の方は普通と変わりないようだ。

 「その前は落し物が多かったんです」

「どんな落し物ですか」

と尋ねると二人が何も答えずに笑ったのだった。

 係長が須築の荷物を抱えて先導してくれる。地図をもらえれば一人で行けると言ったのだが、黙ったままどんどん歩いて行く。

 緩やかな坂道。人の背丈よりも高く伸びた雑草が両方に茂った道だ。晴れているので寒くはなかった。所々丸太を積み上げた小屋だとか大きな石を積み上げた砂防ダムのようなものが見えた。どこにつながるのか細道の入口もある。細道には斜めに細い木を挿してあるので間違えて進むことはなさそうだ。

 ふっと係長が何かを避けるように体を動かした。蛭が地面に落ちていた。踏みつけて殺した係長に、

 「緋杜の御出身なんですか」

と尋ねると、違うと言う。やっぱりと思った。

 「業務係長さんの御名前を伺っておりませんが」

 蛭を避けた時の体の動かし方が、何だか武道の達人のように見えたので興味が湧いた。

 「名乗るほどの者ではありませんから」

 そう言われたけれど、そう言われてなお尋ねなければ失礼だと思ったので、そう仰らずにと質問を重ねた。

 「フツウと申します」

 ハッとした。極めて珍しい名前だ。

 「どんな漢字ですか」

 教わった文字に驚いた。この人は高校のクラブの先輩ではないのか。年齢も合いそうだ。数年上の期で武道のクラブを設立した人がいる。一周二キロほどの学校の外周を十周ランニングしてから鉄の下駄を履いたまま蹴り上げる。縄跳び、スクワット、ランジ、腕立て伏せ、道場の梯子につかまっての懸垂。そういった一連の筋力トレーニングのメニューが数百回の単位で決められていたが、それは斧通さんが決めたと聞いている伝説の先輩だ。入部したのは良いが、指定のメニューをこなせるまでに須築は丸一年以上かかった。

 「あの、日之出高校で総合格闘技のクラブにいらっしゃいませんでしたか」

 係長はなぜか納得したような顔をした。

 「私もそこにいました。斧通さんという凄い先輩がおられたと聞いていました」

 「実は自分もね、連絡の文書をいただいた時あなたが後輩ではないかと思いました。漢字の当て方が珍しいでしょ」

 「はい」

 先輩後輩の関係だと分かったが、業務で会った相手だからだろう斧通さんの丁寧な言葉遣いがなかなか崩れない。須築は無理に先輩として持ち上げるのはやめることにした。しばらく学校の思い出を話し合った。四、五年ほどのずれなので母校についての知識は同じようなものだった。

 「駅前の掲示板に選ばれた土地、緋杜と書いてありました」

 「あぁ、特殊な宇宙線が遠い星から飛んでくるのが、我が国でこの緋杜だけだと言うんです」

 「宇宙線ですか」

 「えぇ、それがここらの人の容貌やスタイルに関わってるらしいんです」

 「えっ、宇宙線のせいで?」

 それで、あれほどの醜悪さになるのかと思った。

 「おかしいでしょ。宇宙線で美人になるなんて」

 想像と逆だった。

 田畑も見えないような場所なのだが、どこかにはあるのだろう。歩いても歩いても両側が見えない山道で、建物というものが見当たらない場所だった。人工のものといえば、地滑りを防ぐための石組みがたまに見えるだけだ。道は、左右に出ていく箇所もほとんど無い一本道だった。ずっと大きな木や背の高い草が続いて何も見えなかった。町中では藁の腐ったような匂いがかすかにしていたが、この辺りになるとそういう不快な匂いはあまり無いようだ。業務の話を終えた頃には薄暗くもなっていた。夜間照明灯もついていないので、夜中はとても歩けそうにない。雨が降り出した。雨足が白く見えるほどの激しい雨になった。靴がいつまで水を防いでくれるか心配だ。斧通さんは黒っぽい登山靴のようなものを履いていた。列車の駅を出てから今まで雨に降られなかったのは運が良かっただけということらしい。 

 斧通さんは道の途中で少し開けた広場のような場所に差し掛かった時、足を止めた。草むらの向こうに、小学校の校庭ほどの広い空き地があった。今まで通ってきた山道と比べると意外なものがあると思った。

 「この広場は何をするところなんですか」

 「ここが宇宙線を浴びる場所なんです」 

 「へぇ」

 「何だかここでデートしていた人たちが、その効果に気付いたという話で」

 「目の前で美しくなったんですか」

 「まさかとは思いますがね。ただそれでも年に三日ほどは妙なことになるので、お宅に依頼した印刷が必要になるんです」

 「と言いますと?」

 「それを具体的に口にすると、大変なことになるらしいので言いません。もしかしたらそのうち分かることがあるかも知れません」

と沈黙した。須築はそれが聞きたかったのにと思った。がっかりしてしばらく沈黙していた。すると斧通さんが、

 「明日はその祭がありますが、祭に行くんですか」

と言った。

 「いえ、契約書が出来たらゆっくりしたいなと思ったんですけど。それに何かイベントがあるそうだからついでにと期待していたんですが仕事が入ってダメになりました」

 ここまでやって来るのは大変だった。一泊ぐらい遊んで帰っても罰は当たらないだろうと思ったのだが、そうはいかない。

 斧通さんは、

 「そうですか」

と言っただけで、また歩き出した。

 「あなたがこの村に来ると知っている人はどのぐらいいますか」

 「会社の人はみんな知っています。それと緋杜村出身という女性八人のグループの人たち」

 「女性たち? 美人でしたか」

 「えぇ、物凄い美人ばかり」

 「そうですか。彼女らに参加を勧められたんじゃないですか」

 「えぇ、勧められました」

 斧通さんは一人で頷くような動作をした。住民たちにはよく知られているということなのだろう。

 「臭いと思いませんでした?」

 「女性たちがですか」

 「そうです」

 予想外の話題に驚いた。しかし、里生がそんな話をしていた。

 「私は思わなかったんですけど、同僚でそう言う人はいましたね」

 「そうか。やっぱり消せませんか」

 「気になるほどではないと思うんですけど」

 斧通さんが落胆しないように慌てて言い添えた。

 「いや、いいんです。事実は事実ですから」

 「何の匂いなんですか」

 この村に来た時に感じて、今もかすかに感じている悪臭だ。

 「体臭なんですよね」

 「時期によって強まったり弱まったりするんですか」

 「どうだろう。自分は慣れてしまって分からなくなってるから」

 それはそうだろう。人間は匂いに慣れる。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないけれど。

 「住み慣れると、変わるでしょうね」

 「そうですよね」

 ふと事務所に着く前に出会った男性たちのことを思い出した。

 「何だかプラスチックの模型のような顔をした人がいましたね」

 斧通さんがハッとしたような顔をした。

 「若い人ですよね」

 「そうですね。老人で、何だかすごい雰囲気の人もいましたが」

 斧通さんは立ち止まると、上着を脱ごうとした。須築は慌てて荷物を預かる。ワイシャツの左の袖をたくし上げた。その時何だか変な印象を受けた。腕というものは小さな丸太のようなものと思って暮らしている。当然そのようなものが現れると予期した。ところがそういう形でないものが現れたのだ。細長い板を見せられたような気がした。その板は一枚の板を直角に曲げたように二つに折れて凹みを作っていた。同じようなものがもう一枚あって包み隠していそうなのに、赤黒い筋や紫の筋、白っぽい筋などがもやもやと網を作って見えている。光の反射の具合によっては、それがプラスチックに見えた。あの若い男性のあごと同じだ。そのプラスチックのようなものとで本来の太さを保っているように見えなくはない。

 「凄い腕でしょ」

 須築は頷いた。確かに普通の腕ではない。気持ち悪いと思った。大ケガでもしたのだろうか。しかしこんな形のまま放置する治療があるだろうか。少なくとも皮膚で覆って骨が見えないようにはするはずだ。一体どこの病院で治療してもらったのだろう。斧通さんはじっと見詰めている須築に強い視線を向けた。もっと驚き、うろたえると思ったのかも知れない。冷静に受け止めているように見えたかも知れない。須築にはこういう無感動なところがある。

 「何が良いのか分からないけど、太くなりました」

 太く? その言葉に驚く。

 「ここに来た時、女たちに捕まりましてね」

 「……」

 「一対一の勝負に負けました」

 「来たばかりの時ですか」

 「そう」

 「大学でも武道を続けてたんですよね」

 「いや、映画同好会に入ってました」

 斧通さんが笑った。

 「気分を変えたくてね」

 「ここに来たのは卒業してから何年もたってからですか」

 「いや、四回生。だから武道から離れて三年と少しかな」

 高校時代に猛烈な練習をしていたのが、三年ばかりで女性相手に負けるほど衰えるものだろうか。 

 「まだ強いつもりだったんですけど」

 「でも負けた」

 「そう。服の上から見たら女傑には見えないんですけど」

 「でも女傑だった」

 「それがね、ここらの女性はみんなそれぐらい強いんですよ」

 「どうしてですか」

 「食べ物かなぁ。肉食なんだ、ここらの人は」

 あの美女たちも確かに肉ばかり食べていた。

 「男はもっと凄い?」

 「いやぁ、それがそうでもない。同僚と腕相撲をするとみんな弱い」

 「女ばっかり強くなってるんですか」

 「そう。そのせいか何事も女が決める土地柄だわ」

 あの美女たちが総合格闘技をやってきた自分たちに勝つのだろうか。なかなか信じ難い。

 「でも、自分もこの通り逞しくはなった」

 何を言ってる? 思わず斧通さんの顔を見返した。正気か?

 「格闘技を続けてる時ほどではないにしてもね」

 太くなっていると思っているようだ。事実を指摘して良いものだろうか。話題をずらしてみた。

 「どうして太くなったと思うんですか」

 「いやぁ、見れば分かるじゃないですか」

 見ても分からなくなっているらしい。なぜだろう。

 「他に変わったことは何があるんですか」

 「あるかなぁ。これしか気付いてない」

 なぜそんな錯覚にとらわれたのだろう。

 服装を整え直す斧通さんを手伝いながら、不思議でならなかった。

 「斧通さん、祭には行ってるんですよね」

 その質問に、どう答えるべきか考えるような顔をした。

 「行ったと言えるかどうか」

 「……」

 「女たちが解散してバラバラ帰っていき、役員らしい連中がバスに乗るのを見た記憶はあるから行ったんでしょうねぇ」

 「その前後の記憶は無いんですか」

 「そうなんですよ。同僚たちもそういう人が多くて」

 何か記憶を曖昧にさせることが行われたということだろうか。虚弱になった腕を逞しくなったと錯覚させている何かと繋がることがあったということではないのだろうか。

 祭に行ってもいいなという気分も少しあったが、何だか気味悪い話だ。

 須築は美女たちから祭に行けと言われた時、夜店の並ぶ参道をゆっくり歩き、何かゲームのようなことをして勝ち抜くといったことをイメージしていた。あまり落ち着いて歩ける季節ではないのだが、それでものんびり過ごせるものと信じていたのだ。荒っぽい行事があるということか。巨大な山車を引き回す祭、巨大な物体を運ぶ祭、そんなものが浮かぶ。荒っぽい祭では場所によっては時に死亡者が出るといった話も聞いている。そういう祭なのか。そういう危険とは違うようだと思った。

 「家に、というか宿にいた方が良いのかも知れないね」

 この言葉を強くは意識しなかった。

 「一歩でも出ると、連れていかれてしまうと言ってた人がいたなぁ」

 斧通さんはそう言うと黙り込んだ。誰が連れて行くのだろう? また狭い道をたどる。ゆっくり歩くうちに気味悪いという思いが徐々に強くなってきた。骨が見えるケガというのは重傷ではないか。そんな状態にさせられるというのは普通ではない。あのもやもやとして見えた網のようなものは動脈や静脈、神経といったものではないのか。あるいは繊維状の脂肪層かも知れない。筋肉があればその表面を這うように包んでいたはずのものが、筋肉が抜かれているために宙に浮くように走っているのではないのか。そういう状態になっているのに自覚出来なくなっているというのが気味悪い。ここの祭には近づかない方が良いという気持ちがどんどん強まってきた。無理に田舎の祭を見るよりも、どこか有名な観光地に立ち寄って帰った方が楽しめるような気もした。大阪に帰りつくまでの経路は長いのだから、そういう楽しみ方はいくらでも考えられる。仕事が入ったのは天の恵んでくれた恩恵かも知れない。

 再び広場の前のように道幅が広くなって、森の中に物置のような大きめの建物を見付けた。丈の高い草に囲まれ、雨風にさらされて色褪せた板が、灰色のトタンのように見える。素材が木なのか石なのか判別がつかないほど傷んでいる。そこが宿屋だった。宿に着いてしまって話が途切れた。少し残念だ。

 結局宿まで会社の事務所から一時間ほど歩いたことになった。この地域の感覚では大雨が降っても歩いて出向くのが当たり前の場所ということになるのだろう。

 平屋建てなので、色々な草が無秩序に生えている中に埋まっているように見えた。屋根らしい所に瓦は見えず、草が生え大きな石が幾つも載っていて、屋根がどこから始まってどこで終わっているのかさえはっきりしない。すぐ近くで何かを燃やしたようで、煙がまだくすぶっていた。その匂いでようやく人が住んでいるのが分かるのだった。そんな建物だが、雨がしのげるだけでも有り難いと思った。

 建物の扉を開けた時に、何だかのっぺりした板で出来ていると思った。よく見ると鍵が付いていない。こんな所なので確かに必要とも思えないが、大胆なことだ。

 戸を開く音が聞こえたのだろう、五十歳ほどで須築より少し背の高い体の細い男性が奥から出てきた。案内してくれた斧通さんは須築を引き渡すと、すぐに帰ってしまった。主人らしい男は卵形の優しそうな顔をしていた。色は日焼けして黒い。髪はかなり白髪がまざっており一応梳いてはいるが、ホテルマンのようにきちっとした髪型にはなっていない。服装はグレーのポロシャツと少し色の濃いグレーの綿パンだった。古くなってそういう色に見えているのかも知れない。

 建物はとても宿には見えないのだが、やはり宿なのだった。物置小屋でももう少し建築物らしいだろう。庭も建物そのものも、ひなびた民宿と呼ぶのを躊躇うレベルだ。これは大変な所に泊まらなければならない。かろうじて雨風を凌ぐだけの場所、友人と出かけた山の小屋を思い出すが、それよりももっと粗末だ。安いのが取り柄ですと言われたが、安くしてもらわなければたまらない。微かに玉葱でも炒めているような美味しそうな良い香りがした。さっきの事務所ではカメムシとムカデのような匂いがしていた。最近、香料合成の仕事ばかりやってきたので、鼻が変になっているのだろうか。

  宿の仕事はたった一人でやっているようだ。予約などのシステムはなく誰かが来たら泊める、という山小屋のようなところかなと思った。

 電気は来ていませんと言って、所々に石油ランプが灯し始めた。

 「何も無いので驚いたでしょう」

 「えぇ、道も、かなりね。ここはあそこの契約旅館なんですか」

 「旅館なんて言ったら、普通の旅館から叱られますよ」

と笑う。須築も一緒に笑ってしまった。

 「宿泊客はかなりいるんですか」

 「全然」

 「じゃあ、どうして生活しているんですか」

 少しばかり言葉に詰まった後、まぁ、何となくと言った。

「どこに泊まろうかと思いましたよ」

 「うちが無ければどうするつもりだったんですか」

 「いや、何もなくて不便だと聞かされていましたからテントは用意してました」

 線路敷きを歩いて次の駅まで歩くことも考えたと言うと、

 「それは大変ですよ。四時間はかかります」

と言われた。こんな所でも、泊まるところがあって本当に助かった。ふと気付いて、手帳を取り出し、

 【この宿で、うかつなことをしゃべるとまずいですか】

と書いて主人に見せる。

 「あぁ、ここは大丈夫です」

と答えた。


【3・斧通の就職】

 二十年近く前になる。斧通は高校時代に総合格闘技のクラブを作った。しかし入部してきた後輩たちが運動部特有の先輩後輩の窮屈な人間関係を作るのがいやになって、大学では映画研究部に入った。映研は自由だった。映画の知識が豊富な者が素朴に尊敬される。入学したばかりの者でも大きな顔ができる。しかし実際に偉そうに振舞う者は誰もいなかった。礼節をわきまえた対等の関係が心地よかった。自分で体を動かすだけで激しい運動はしなくなった。

 こんなクラブに入りながらも自分が映画を撮るというのは憧れてはいても全くあり得ない夢物語と思っていたのだが、

 「フツさんの描くイメージを見てみたいです」

という後輩たちの声に励まされて、卒業学年になる時、都会的なものが何一つない田舎を舞台にした映画を撮ることにした。

 その頃はインターネットがなく、ましてグーグルアースも無かったのでデタラメに地図を開いて、交通が不便で十分な産業もなさそうなところを狙ってロケハンしようと考えた。そのうち廃線が噂される路線に沿って歩き回ることにした。空っぽの人生、それこそが本当の本来の人間の姿ではないかと考えたからだ。なぜそんなことを考えたのかは忘れた。なぜか虚無的になっていたのだ。

 三回目のロケハンに向かった列車内で、それまで見たこともない美しい女性を見かけた。少し離れた席の人だが、顔が見えた時にドキッとした。こんな美人に会うこともあるのが人生だと思った。丸顔に切れ長の目、引き締まった口元。人生は決して空っぽではなかった。斧通は自分の人生観が変わったと思った。密かに窺っていると流れていく景色をただぼんやり見ているようだ。こちらから見る角度が良いのか悠然とした姿に風格がある。列車に乗っていた時刻と服装から考えると、自宅に帰るつもりではないかと思われた。彼女を口説いて主人公にした映画にしたいなと思う。ストーリーが全く浮かばないのに、とにかく彼女を主人公に制作したいと思った。どんな言葉で説得すれば応じてくれるだろうか。

 彼女が降りる支度を始めたので斧通も急いで荷物を取って降りた。簡易テントもあるが荷物は小さくしてある。まともな駅舎もないところで、彼女と斧通しか降りなかった。この路線はほとんど貨物用で、列車の編成も貨物車が十数両、あるいはもっと長く連なって最後に客車が一両だけ申し訳のように繋がれているのだった。緋杜という駅だった。読み仮名は見落とした。列車を降りてホームを歩き出した瞬間、

 見られている

と思った。人の姿を探したが見当たらなかった。勘違いしたらしい。しかし人の姿もないのに、見られているといった気分になったのは初めてだった。格闘技をしなくなって数年になるので勘が鈍ったか、勘違いするようになったのだろうと思い直した。

 駅は切り立った山に挟まれていて、駅を出ても最初はどちらに歩けばよいかも分からないような場所だった。駅前は広く開けていたがまともな道はつながってなかった。早足の彼女の後について懸命に歩いた。辺りにはかすかに嗅いだことのない不快で奇妙な匂いがしていたが、すぐに気にならなくなった。大きな石、小さな石、その間は赤黒い土。雑草が生えて所々はげている。山襞を五つほどかわすと一メートル弱の幅の道らしきものが向こうの方にずっと続いていた。大ぶりの石が多く歩きにくい。その上急な下り坂だ。両側は太い木々が茂ってその枝が空を覆いつくすせいで、道は薄暗かった。時間がかかったがそれでも家々の立ち並んだ場所に出てきていた。家の外見は都会の住宅街にあるものと変わらない。なのに家々の間をつなぐ道路がどこも狭く山道のようなのが奇妙だ。彼女がスピードを緩めたので、周りを見回す余裕が出来た。五、六人擦れ違った男性を見て驚いた。そのうちの一人が人間とも思えない醜悪な姿だったのだ。顔も体のバランスも無茶苦茶だ。他の男性は東京で見かける人たちと変わらなかった。女性たちは概して美しかった。東京で見かける人たちより数段上だ。しかし追いかけている彼女はやはり抜きんでていた。何人かの女性は厚く化粧しているのか人工的な顔に見えて少し不気味だった。全身のスタイルが僅かながら冴えない。あの彼女が角を曲がったので足を速めた。自分もすぐに追いついて角を曲がったが姿が見えなくなっていた。どこかの家に入ったのだろう。彼女を捕まえ損ねたのが、ひどく残念だった。どの家だろうと見回して変な気分がした。

 他の女性たちも美しいが、あの彼女と比べると少し平凡に見えてきており、その上近付いたり擦れ違ったりする時、何だか一瞬妙な気分に襲われるのだった。何かが激しい勢いで通り過ぎた後に感じる置き去りにでもされたような空虚な気分に似たものが、ふっと浮かんですぐに消えた。何だか不幸なことが起こりそうな予感とも言えそうないやな気分だった。

  ズリッ

 ものを引きずるような微かな音。見回すがどこから出ているのかが分からない。

  ギーッ

 物音かも知れないし、人の声にも聞こえる不思議な音響。単なる予感なのか、現実の響きなのか。

 それを意識し始めると、誰にも会わないうちから人間が現れるのが分かるようになった。なぜそんな予感に捕らえられるのかは分からない。

 あの時彼女は角を曲がった。自分は少し小走りになって続いた、つもりだった。けれどいなかった。角の家に入ったのだろうと思ったが、思い返してみるとその家は出入り口がこちらに向いてないのだった。出入り口のない場所で姿が消えた。斧通の足が遅すぎたのか。自分は特にゆっくりと歩いたわけではない。むしろ見失うことを恐れて急いでいたと思う。なのに見失った。どこに行ったのだろう。

 目をつけていた女性が消えてしまったので、しばらくは呆然と立っていた。そのうち仕方なくゆるゆると歩き出す。どうして見失ったのだろうと何度も考えるがどうしても分からない。

 「君はボンヤリしていることが多いから、時々気持ちを集中する習慣をつけなさいよ」

と小学校の時に担任の先生に何度か注意されたことがあった。何を言ってるんだと内心反発していた。大学生になった今、先生の観察が正しかったということになるのだろうか。他の女性の醜悪さに気を取られているうちに肝心の女性を見失ったということか。いちいち覚えていないが、こういうことは何度も経験してきたと思う。

 さて、行く先の当てはないのだが、ともかく誰か同じような美人を探し出して出演の交渉をしたい。他に美女はいないのか。逆に醜怪な女性を主人公にするしかないのか。しかし醜怪と評するような容貌の女性は見当たらないようだ。

 普通の民家しかないのが珍しい土地だということが、鈍い斧通にもすぐに分かってきた。事業所とか店とからしいものが一つも見当たらない。ここは住宅街ということかも知れないと思い直す。建物は古くないが、大昔からの道をそのまま使い続けているのだろう。

 通行人に話しかけようとしたが、みんな恐ろしいほど素早く通り過ぎてなかなか捕まえることが出来ない。声を掛けようとしたがみんな逃げるように遠ざかる。男性は老人ばかりを見かけた。見苦しい姿の人間が多いわけでもないのだが、中に時々ひどく醜い姿の人がいるので気になって仕方ない。東京にもそんな見かけの人はいるが数が少ない。ここでは目立つ。声を掛けたが耳が遠いのか誰も足を止めてくれなかった。よく見ると片方の耳のでっぱりが無い。役場の位置を尋ねたい。近辺の地図があればもらいたい。早足で歩き回ったが見つからない。田畑も無いようだ。普通の住居と山林ばかりというのは珍しい。それ以外は丈の高い草むらである。びっしり生えて向こうが見えない。白っぽいものが目に入ったので見に行くと、砂防ダムのようだった。そういうものはあるのかと思った。

 諦めて引き揚げた。また来て絶対にあの美人を捜し出したい。そして口説き落とそう。そう思っていた。

 大学で誰彼無しに美女の話をした。みんな見に行きたいと言った。学部の授業でよく顔を合わせる男が、

 「緋杜? 美女? 嘘だろ。そんなことあり得ない」

と言った。聞けば、緋杜のすぐ近くの出身者だった。

 「見ていると気分が悪くなるような容貌とスタイルの人間しかいないぜ、あそこ」

と言うのだった。では自分が見た美女は何だったのだ。ゴミ溜のツル一羽か。何時間も白昼夢を見続けるはずはないのに。

 また出向くことにした。もう一度美女の存在を確認したいという気持ちもあったが、自分の映画には、あの美女が絶対に必要なのだ。

 斧通は緋杜に出直した。また何かに見られている気分になった。

 集落らしい場所が見えてきて間もなく三人連れの女性たちに会った。みんな四十歳ぐらいだ。両手を合わせて拝むような挨拶をした。斧通も慌てて同じようにした。まるでタイかミャンマーのようだ。なかなか優雅な仕草だ。それに見合う容貌だった。しかし僅かながら緊張を覚えさせるものでもあった。空手の達人と向かい合ったような気分だ。

 「あなた、見かけない人ね。何しに来たの?」

と声を掛けられる。その時、

  ピンッ

と音が聞こえた。何の音だろうと不思議になって見回した。分からない。

 「驚くほど美しい女性を見かけたので、その人に映画出演を頼みに来ました」

と説明している。女性たちが頷く。やはり美女の存在は間違いないと信じたようだ。そして映画を撮る場所も選びたいと告げている。女性たちに顔をしかめられたのが不思議なようだ。

 女性たちに役場に連れていかれる。到着して何となくホッとした様子だ。村役場が普通の民家にしか見えない建物と思っただろう。昔の庄屋の建物だ、大きさは民家らしくないのだが。こんな建物では外来者が探して見つかるわけがない。

 「ここに外部の人が来ることはないんですか」

 役場に連れてきた女性たちが引き揚げるのをつかまえて尋ねている。

 「去年、突かれても切られても治るとかいう薬を売りに来た人はいたなぁ」

 まるで蝦蟇の脂売りだ。わざわざ来るのはそういう行商人ぐらいなのだ。

 役場の受付でまた優雅な挨拶をされて感心している。何か納得するようである。

 「腰を据えて映画を制作したいんです」

と改めて説明している。受付の係が映画の撮影は困ると言った。「許可しない」という文言にカチンと来たような顔をしたが、おとなしく引き下がるようだ。せめて記念に地図がほしいと言った。誰も渡さない。そんなものは作ってない。しかし役場の入口近くに大きな地図が掲示されているのに気がついたらしい。この村の全体図と思って眺めるようだ。それをノートに書き写した。もう少し歩き回るつもりなのだろう。こんなに美人と醜怪な老人との落差の激しい土地は珍しいと思っているのだろう。何らかの形で世の中に広く紹介したい。それこそが映画研究会の使命だと言っていた。役場のロビーにあった椅子に座ってしばらく考え込む。書き写した地図を開くが寺社仏閣ぐらいしかないので、ドラマの構想がなかなか浮かばないのだろう。

 旅館はもちろん民宿もない田舎だったので、役場の庭にテントを張った。あちこち見て回っている。村の産業は農業と林業だとどこかで聞かされたらしい。

 村全体を撮影の舞台に出来ればいいなと思う。ポイントを絞れないでいる。 あちこち見て回る内に、学校の運動場ぐらいの広場を見付けた。校舎らしいものがないので学校ではなさそうだ。何の場所だろうと不思議そうだ。地場産業に関わる作業場だろうか。踏み込んでいく。ひどくデコボコだ。ただの荒れ地か。ところどころに丈の低い雑草が生えている。

 道から見て一番奥に百葉箱のような小さな祠があった。目を細めてみると鳥居や狛犬、賽銭箱は見えないが、一応神社の基本的な体裁になっているようだ。そこに向かってゆっくり歩き出すと、足元に白っぽい芋虫のようなものが一つ転がっていた。よく見ると人の指に見える。まずいな。掃除の必要がある。精巧なロボットの部品か。もう少し歩いて、髪の毛の小さな束を拾い上げた。人形遊びをしていた子どもの落とし物だろうと思う。それとも誰かが付け毛を落として行ったのだろう。可哀想に、困っているだろう。ベージュ色のものが落ちていた。これも指のようだ。さっき見たのと同じくなかなか精巧だと思う。マネキンの部品だろうか。立ち止まって見回している。広場の周囲はさらに山に上がる斜面か、谷に向かって落ち込む急な絶壁かで囲まれていた。広場の端に杭を打った跡のような穴がいくつか見えた。

 役場に戻って、カウンターの女性に広場の話をした。

 「指みたいな落し物がありましたよ」

 すると何だか険しい目つきで見返された。怯えるようだ。何かまずいことを言っただろうかと思う。他には道や広場の路面がデコボコしているねといったことを話しただけなのだが。

 斧通は醜悪な老人に目の覚めるような美女が混在する不思議な土地柄が気になってならなかった。それで映画にするつもりだった。ところが女性たちに拘束されて、どこかに連れて行かれようとしていた時、

 「いい男じゃない」

という声がした。振り向くと容貌はさほど良くはないが品の良さそうな老女だった。

 「役場で働かない?」

 斧通は名案だなと思った。どこかに連れて行かれるのも不安を覚えてイヤだった。それで、一年単位の嘱託職員に採用されて振興室というところに配属された。村おこしの企画を立てるのだ。親にはこちらで就職できたからとハガキを送った。

 当然村おこしのことを考えるばかりだったが、ある日突然オフィスに村長という人がやってきて室長と深刻そうな顔で話し込んでいた。斧通が女性たちに拘束された時に、いい男だ、役場で働かないかといった女性だった。村長だったのだ。職員採用の辞令には書いてあったはずだが、男のか女のか分からないような名前が書かれていた。

 後で聞くと、村の出身の美しい女性が周囲の人たちが引き止めるのを押し切って都会に出て、恋人が出来たのだが問題が起きたという。その解決が振興室に委ねられるということだった。

 この課題は村長も直接噛んでいるので、うまくいけば振興室から振興課に出来るかもしれないと室長が張り切っている。他の部署の人たちも、

 「課になるんだってな」

と言う。美しい女性を救う。そう言われると何とか実現したい。アイデアの絞りどころだろう。

 もう一つ問題がある。仕事に落ち度が無いようにしておかないといけない。映画が出来る前に解雇されたら困る。室長に命じられて洗い直しをした。歴史の浅い部署なので、時間は掛からない。

 村の中を歩き回って売り物になる場所を探す。新しい産業を興したり、観光地にしたりするためだ。その工夫をするために僅かながら予算執行の権限を与えられていた。渓谷美を感じられる場所があったので、小さなゴムボートを買って浮かべてみた。漕ぎだしてみると流れが速く無理だと分かったので、ボートは役場の倉庫に放り込んだ。そういうことをしていると、時々、誰にも見られていないといった開放感を覚える場所があった。ということはその場所以外ではずっと誰かに見られているということだ。しかし住んで二か月もすると気にならなくなっていた。ともかく役場を出て村の中を歩くのは心が晴れることだった。今日歩いていて気になった場所があった。周囲から非常に傾斜のきつい小さな池だ。近付いてはまり込むとはい上がれそうにない。

 「あのボート」

 そうだ。倉庫に入れたボートをあの池に浮かべておけば、誰か落ちた時に役立つのではないか。無駄な買い物をしていたという非難もかわせそうだ。これは名案。さっそく池に出向いて、投げ込んでおく。夜中に落ちる人がいてはいけないのでボートには懐中電灯も入れておいた。ボートに乗り込んだ後、岸にどうやってよじ登るかという課題があるのだが、斧通はそこまで考えなかった。前回とは違って今日は少し異様な匂いを覚えた。こんな匂いのする池なら誰も近づかないだろう。ボートは不要だったかもしれない。よく気が付く一方で大切な問題点に気が付かないことが時々ある。そんな仕事ぶりのせいか、振興室長の後任に斧通を考える人はまだいない。

 役場に戻って室長に「池に行ってきました」と報告する。何をしたかを言い忘れた。この頃斧通にはこういうことが多い。格闘技をしなくなって体中に緊張感を漲らせることが無くなったからかも知れない。

 「振り分け池ね」

 室長が池の謂われを話してくれた。それを聞いて困ったなと思った。

 昔、大蛇が二匹争って溶かし合った。そんな特別な場所なので、村では霊力があると考え、困ったことを仕でかす者が現れると、皆で捕らえてこの池に投げ込んだ。処罰するほどでないと池が判断したら、浮き上がってくるので放免したが、三日経っても浮いてこない場合はどこか遠くに飛ばされてしまって二度と現れてこないのだという。

 「どこか遠くへ、ですか」

 「そうなの。遠くの土地で投げ込んだはずの人を見かけた人がいたらしいの。それで飛ばされると分かったって」

 「一応、聖域ということになるんですか」

 「そりゃそうよ」

 困った。今更、ボートを投げ込んで来たとは言えない。池が使われることがないのを祈るばかりだ。

 緋杜に交番が無いのを不思議に思っていたのだが、その事情も教わった。昔から大した作物が取れない場所だったので税金は免除の土地だった。雑草が生えるばかりの荒れ地しかない。使い道が無く、不便な場所なので、流刑地にされていた。満足な食物が無いので土地の食物を拒んで餓死するか、絶望感で自殺するかで、犯罪者を上手く片付けることが出来たのだ。それだけの場所なので村人にもうるさいことを言う必要もなく、自然に治外法権の土地になったらしい。それがそのまま近代になっても引き継がれて警察組織が置かれないことになってきた。それでもやはり揉めることがあって、それを村の人たちは振り分け池に託したのだ。

 日々些末な問題を片付けながら、村長から直々に指示された課題をどう処理するかを考え続けていた。


【4・祭主の須築】

 今晩は祭がある。美女グループに会った時、

 「行くなら今年は×月×日が良い日よ」

と言われたのだった。

 「どうして」

 「緋杜村の一番大切な日なの」

 「どんな風に」

 「行けば分かるわ」

 「新月の日よ」

 「それがどうした?」

 皆が笑った

 「でも、頑張ってね」

 「でも」というのは、何についての「でも」なのだろうと思っている内に、食事は終わっていた。一番大切な日というのが気になるのだが、誰も教えてくれなかった。ただ祭があることだけは聞き出せた。大切な日と祭とが同じかどうかは分からない。ともかく出張日をそれに合わせたのだった。

 美女グループの向こう側で喋っていた人たちは、ベッドを買い換える話をしていた。

 「あと少ししか使わないんだから無駄よ」

 「そうよ、我慢しなきゃ」

 彼女たちは結婚でもするのだろうか。確かにみんなそういう年齢だ。相手になる男はどんな奴らだろうと思って聞いていた。それもあって印刷をベッドでさせることにしたのだった。

 だから祭を見に行くつもりだったのだが、気持ち悪いことになりそうだし、実際すぐに帰らなければならない。うっかり出向いて先輩のようになってはたまらない。

 夜が明けるとすぐに宿泊料の清算を済ませた。出された料理の割には安いと思った。二、三歩歩き始めてからふと思い付いて、宿の前の道をそのまま進んだらどこに行くのだろうと思って歩いてみた。踏み跡はあったが藪が茂っていてかなり歩きにくい。腰をかがめてしばらく歩いたが諦めて、昨日斧通さんと歩いてきた道を戻った。広場では十人ばかり人が見えた。祭の準備だろうか。どんどん歩いてあの商事会社があるところを過ぎ小学校と食堂を見かけた場所を通って、駅まで戻る獣道のような山道をたどり始めた。少し前を年老いた女性三人が歩いている。後ろから男性二人が来る。

 須築は何だか急にめまいがした。珍しい。と思っている目の前で、大きな、直径三メートルほどありそうな岩が山からゆっくり転げ落ちて道を塞いだ。地震だったようだ。道の左側はきつい傾斜の山、右側は鋭く切れ落ちた崖だ。通過できるのか?

 老婆たちが、何てことと騒いでいる。追いついた男性二人が岩を見上げている。一人が、

 「あぁ、一週間は無理だなぁ」

と言った。もう一人が岩に登ろうとして取り付いたがずるっと滑り落ちた。

 「無理だな」

 須築もやってみたがどこにも足を掛けられない。小さな窪みがあるのでつま先を掛けようとしたが、ケガの後遺症で曲がるべき足が十分曲がらないので無理だった。こんな所に影響が出るとは思わなかった。

 「ダメですね」

 老婆たちがさっさと引き返していった。この時、須築の顔を物凄い形相で睨んでいった。

 俺が何をしたというのだ、と憤りを覚えた。

 「こういうことはよくあるんですか」

 怒りを鎮めながら、男性二人に尋ねた。

 「そうね。年に二、三回」

 そう答えてから、

 「お前、カンサツに引っ掛かったんじゃないのか」

と連れに向かって言った。

 「俺は、覚えが無いぞ。お前こそ」

 カンサツとは何かと思って尋ねようとしたが、二人とも老婆たちと同じように足早に引き揚げてしまった。

 須築はもう一度試みたが、やはり通過できなかった。太陽が動いて日差しが道を照らした。暖かくなったが、戻るしかない。会社に帰れなくなったと連絡しようとしたが、電話は圏外表示が出た。

 村の中央部に差し掛かると通りに提灯が吊され始めていた。祭の当日に吊るすのかよと思った。もう少し早くからやれば盛り上がるのにと思いながらあの宿に戻った。

 「おや、どうしました」

 宿の主人が言った。

 「地震らしくて道を塞がれました。気付きませんでしたか」

 あんな巨大な岩が転げる地震だったのだ。しかし気付かなかったらしい。

 「まぁ、珍しくないもんですから。巻き添えかな」

 「何の巻き添えですか」

 主人は答えるのを忘れたのか向こうに行ってしまった。

 列車は夜明けに一便、昼前と夕方に二便ずつ、それでおしまいの場所だ。明日まで時間を潰さないといけない。大きな荷物は置いて、また町中に出た。会社に連絡を取らなければならない。役場で電話を借りようとしたが外線は不通だった。仕方なく郵便コーナーで道が塞がって帰れない旨の電報を打った。電報の無線は使えるということだった。何だか不思議な気分だ。

 ちょうど昼休みの時刻になっていた。食堂に人が来る。その中に予想もしない人物を見つけた。花灯だ。しかし、顔は花灯なのだが異様な感じがした。片方の耳があのプラスチックのように見えた。

 「こんなところで会うなんて」

 「何でこんな所におられるんですか」

 向こうも驚いている。

 「いやぁ、仕事よ。全身印刷機というのを売りに来たんだ。もうじき設置するぞ」

 「あぁ、そうでしたか。いやぁ、お元気そうで何より」

 「お前は何でこんな所にいるんだ」

 「へへ、すっごい美人を追いかけてきたら、帰れないことになりまして」

 「どうして」

 「いや、秘密を一つ、知ってしまいましてね」

 「秘密!」

 「そうなんですよ。知るつもりなんて無かったんですけど」

 「何の秘密よ」

 「チーフ、蛇って何種類あるか知ってますか」

 花灯が話題を変えた。問題にしたくないのだろうか。その頃になって花灯が異様に見えた理由に気付いた。片方の耳がえぐれていて、それを透明なプラスチックで埋めたような状態だ。顔全体のバランスはそれで修復されているのだが、光の反射によってはバランスが狂って見える。事故に遭って大ケガでもしたのだろうか。

 「知らんよ、そんなこと」

 「三つなんですよ。僕はここで秘密を知るまでは知らなかったんです」

 「ふーん」

 「それがね、変わったものがありましてね」

 「どんな風に?」

 「蛇っておとなしい生き物らしいんですよ、普通は」

 おとなしくてもそうでなくても嫌いだ。

 「凶暴になるのか」

 「そうなんですよ」

 ただいるだけでも気持ち悪いのに、それが凶暴になるなんて。

 「何という名前?」

 「えっとですね、おっと言っちゃいけない」

 そう言って辺りを見回した。誰かに聞かれるとまずいのだろうか。

 「チーフ、妙なことを聞いてしまうと帰れなくなりますからね」

 「名前を知ったぐらいでか」

 「名前を知ったら全貌が見えやすくなりますからね」

 「そんなものかな。でも、どうして帰れないんだ」

 「村を出られないんです」

 「出られない? 駅に出ればどこにでも行けるだろう」

 「それがブラックリストに載せられてしまって。載せられると出口を通過できないんです」

 さっきの動きはそれを警戒したもののようだ。それで帰れなくなったために同情されたのか、役場の職員に採用されて暮らしているそうだ。

 「監禁じゃないか。一一〇番して助けてもらえ」

 「それがね、この村には警察が来ないんです。役場の上役さんは、必要なほどの事件が無いからと言うんですけど」

 「そんなはずないだろ」

 「いえ、ここは国の法律が及んでないんです。凄く山深いところだし。同僚の男連中がこっそり教えてくれたのは、意外に収入の多い村だから他から介入されると困ることが色々あると言うんです。そっちの方が納得出来ます」

 花灯が、「交通困難地」という単語を教えてくれた。日本郵便株式会社が「郵便物を配達することができない地域として当社が別に定めるもの」としている場所である。これに指定されている場所に郵便物を送った場合、その地域にあてた郵便物の交付事務を取り扱う郵便局に一定期間留め置きとされ、受取人が郵便局で受け取ることになる。普通は高い山にある山小屋などが該当するのだが、ここは村ごとそれに指定されている。村役場にはそうして鉄道駅に届いた郵便物を受け取りに行き、村民に配達する部署があるとか。

 「そんな阿呆な」

 言いながらも、まだただの冗談だと思っていた。花灯は真面目な顔をして言う。

 「いえ、事実です。でもね、いいんです。美女がいますから、ははは」

 やはり冗談なのか、本気で言ってるのか分からない。

 「でもよぉ、その女房と旅行するのはもっと楽しいぞ」

 須築は経験が無いのだが、多分そうだろうと思って言った。

 「そうなんですけど、まぁとにかくお元気で」

 「ありがとう。しかし、お前も早く帰って来いよ」

 「ははは、出来ましたらね」

 「ひょっとして、ここに骨を埋めるつもりなのか」

 「どうなりますかねぇ。今は特殊な電子線発振器を作るプロジェクトに組み込まれてましてね。それでちょっと大事にされてる感じですね。でもそれが完成したら、外人部隊は粛清されるという噂もあるんですがね」

 「粛清? 恐いじゃないか」

 「だから並行して逃げるための器械も作っておこうと思ってますよ。この体にされてますからね」

 そっと耳の部分を撫でた。

 「……」

 事故ではなくわざとこのようにされたということなのか?

 「あっ、そうそう、全身印刷機、あれ早く売り切ってしまわないとダメですよ」

 いろいろと変なことを言った。全身印刷機は花灯がいなくなってからの受注だ。どうして知っているのだろう。

 「棚賀に聞きました」

 時々メールの交換をしていたそうだ。そんな関係だとは知らなかった。

 「実は、俺は作ったけど使い道を知らないんだ。クライアントが教えてくれない。どうして早く売らないとダメなんだ」

 「必要なくなるんです」

 「もしかしてお前の作る器械でか」

 「そういうことになりますかね。チーフ、ここらの女と十回もやったら大変なことになりますよ」

 「どういうことだ」

 「あっ、でもチーフは大丈夫ですね」

 「どうして」

 「女嫌いですから」

 大変な予想外れだ。

 「そういう訳でもないんだけど。で、どう大変なんだ」

 「と言うのはですね、おっと、それを言うと、チーフも帰れなくなってしまいますから」

 「まさか。それよりお前、脚の長さが」

と言いかけたのだが、ちょうどその時同僚たちに呼ばれて、花灯は向こうに行ってしまった。その同僚たちだが、ひどくスタイルの悪い体型の者が多い。鼻が曲がっていたり、片頬がひどくくぼんでいたり。斧通さんの教えてくれたことを思い出す。花灯は足が極端に短くなったことでこの男たちの姿に溶け込んでいた。もしかしたらそのために彼自身がそうしたのかも知れない。

 食堂の外見はみすぼらしいのだが、中はなかなかすっきりして居心地の良さそうな店だった。

 壁際にたくさんの酒瓶が並んでいる。中年にさしかかったような女性が三人、一つのテーブルに向かっていた。須築の顔を見たせいか、一斉に向こうを向いてしまった。どうしてだろう。その内の一人の子供らしい小さな男の子が隣のテーブルで袋菓子をバリバリ言わせて食べている。テーブルは四人掛けで四つだけだ。女性たちの前には食べ終わった食器が置かれている。カレーライスのようなものだったようだ。店の従業員らしい同じ年代の女性が空いたテーブルに寄りかかって立ったまま彼女らとおしゃべりしていたが、須築が現れたのを見て、これも向こうを向いた。客の女性たちはこちらを気にしないようだ。見知らぬ人間が来るのは滅多にないからだろうか。

「早く満月になって欲っしい」

 比較的若そうな後ろ姿の女が言っている。

 「あんたは若いからね」

 「あんたはどうよ」

 年上の女が言うと、間の年齢の女が尋ねる。

 「うっちは男なんかいらんよ。もう祭を止めて欲っしいぐらいっさい」

 男の子は袋菓子の陰に置いてあったゲーム機に熱中し始めてこちらに関心がない様子だ。子どもの体型は普通に見える。その音以外は何もなくしんと静まり返った店内で、花灯たちは一つのテーブルに座り、須築はもう一つだけあるテーブルに近付いて腰を下ろし、ラーメンを注文した。厨房には接客係の女性の夫らしい男性がいた。この男もあまりバランスの良い体形ではない。しかし、奇怪というほどではなかった。

 「今日は大事な日なんだそうですね」

と立っている女性に話し掛けると、彼女は向こうを向いたまま手を振って、

 「祭があるからでっす」

と言った。やはり、祭だ。美女グループが言っていた。地域をまとめる行事だろうから、確かに大事な日なのだろう。なのにそこに来た男を奇妙な形にしていて大丈夫なのか。

 「どんな祭なんですか」

と須築が尋ねると、

 「つまらない祭でっす」

と答えた。

 「つまらないことはねぇだろ。大事なんだろ。行かなきゃ揉めるじゃねぇか」

と厨房から男の声がした。女性たちは黙ってしまい、何となく居心地が悪い。花灯たちの方を見ると、みな視線を外してしまった。間もなく厨房から出てきた男が前に置いたラーメンは随分白っぽい。ラーメンは淡い黄色の麺だと思っていたので、メニューを間違えられたのかと思った。でもラーメンなのだそうだ。一口食べるとスープは塩辛いし、メンマはパサパサしておいしくない。こんな場所でおいしいものが食べられるとは元々期待してなかったが、それにしても予想以上にひどい。これで店がもつ理由が分からない。花灯たちはさっさと出て行ってしまった。

 食事を終えて引き揚げる時に尿意を催して、店の裏で立ち小便をした。その最中に食堂の親爺も出て来て並んだ。

 「どんな祭なんですか」

と話しかけると、あぁ、と頷いた。しかし、

 「いやぁ、普通の祭よ」

と言う。会社の近所で会った美女たちが大事な日と言い、今日は祭があるからと言ったのだから、大事な祭に違いないのだ。たった今、「行かなきゃ揉める」と聞いたばかりだし。

 「みんなが行くと揉めないんですよね」

 「そうよ、互いに敵意の無いのを見せとかないとまずい」

 敵意か。

 「歴史的に揉めてきたんですか」

 「いや、どうでもいいじゃねえか」

 話を打ち切ろうとする。

 「女の人たちが向こうむきで喋ってましたよ」

 「そりゃあそうだろ。あんたが外から来た人と分かったんだ」

 「どうして向こうむき?」

 「そりゃあ向き合ったら、大概厭がられるわなぁ」

 「どうして」

 「どうでもいいじゃねぇか。厭がるのに理屈は無いさ」

 もっともな話だ。仕方なく話題を変える。この親爺さんの発音は普通だなと思った。花灯もそうだった。男はみんなそうらしい。

 「どんな神さんを祀ってるんですか」

 「いやぁ、大したもんじゃねぇ」

 追及すると、親爺はとぼける。

 「この辺の祭でしょ」

 地元民が知らないのはおかしい。さっき大事な祭だと言ったばかりだ。

 「いやぁ、行くとまずいんでな。男は行っちゃあいかんそうだで」

 ふと、想像していた内容が口から洩れた。

 「行ったらおかしな体になるからですか」

 親爺はぎょっとしたような顔をした。なぜ知ってるかと問われると思ったが何も言わなかった。歩いているうちに変な形の人を見ることが多いので、自然に気付いたと思ったのだろう。

 女人禁制の逆パターン。

 親爺さんは自分の小用に集中するふりなのかやたらにものを振り続けた後、小さな声で、

「あんまり話が広まって、この辺の評判が落ちると困るからな」

 そう言って引き返していった。男が行ってはいけないのに無理に行くと、おかしくなる? どうしておかしくなったかを誰も言わないのだろうか。それは斧通さんのように何らかの力で錯覚させられているからなのだろうか。その祭のことが周囲に伝わるとこの土地の評判が落ちる? それはそうだろう。真実を話してはいけないことになっているのだろうか。花灯のように。火灯は斧通さんと違って錯覚していないのではないか。女たちは肉体の一部を失いそうになる危険を冒してまで祭に参加するのだろうか。事情が分からない。親爺が扉を開閉する時に、女性たちの笑う声がまた聞こえた。ぼやきの声も混じった。

 「私は履き慣れないで」

 「面倒くっさいよね」

 「美人になれっから、っ仕方ねぇよ」

 「っすぐに傷むっしさ」

 「傷まなきゃ、来年っ新品が売れないよ」

夕食までかなり間があるが、時間を潰す場所にも困る田舎だ。駅までの道をまた見に行ったが、通行不能という表示が出ているばかりだった。

 須築はどこへともなく歩き始めた。川縁に出た。川幅は十メートルぐらいはありそうだ。谷は恐ろしく深いようだ。川の上には両岸から広葉樹が枝を伸ばして屋根のようになっている。鮮やかな緑だが、格別珍しい景色でもない。仕事上の習慣で持ち歩いているスケッチブックを広げて描いておきたいような景色も見えない。険しい谷にのしかかるような山があるばかりだ。

 誰に聞けば、祭のことを話してくれるだろう。祭の内容が広まると具合が悪いらしいということは理解出来る。

 斧通さんのおかしくなった腕は、一体どこに行ったのだろうか。平凡に見える女が屈強な男をねじ伏せる腕を持っていることと何かつながりがあるのではないのか。例えば、斧通さんの腕を女に移せば強くなれる……。そんな手術はあり得ない。何を考えているのだろう。でももし女の欠損を祭に行った男の体で補修するとしたら、色々な話が理解できそうな気がする。もちろん、いつどこで誰がするのか分からないのだが。何か見てくれの悪いことをするのかも知れない。具体的にどんなことが行われる祭なのだろう。それが猛烈に気になった。

 先輩の腕が思い出される。同じように欠損のある人たちに事情を尋ねたいと思って、見かけては近付こうとした。しかし誰一人捕まえることは出来なかった。袖をつかむところまで行っても振り払われた。彼らは欠損を抱えた肉体を恥じているのだろうか。彼らは自分の知り合いのうちの幼い人たちには、絶対に危険を回避するように教えているだろうか。

 歩き疲れた。大きな石を見付けて腰を下ろす。抱えていたスケッチブックを何となく開いた。そして、景色を描こうと思い立ったがあまり描きたいポイントが無いので、祭らしい情景というものは何かなと思いながら描き始めた。

 七十才近いか、もしかしたら越えているかといった年代の男性二人連れに覗き込まれているのに気付くまで、夢中で描いていたようだ。輪になった女たち、そして中央に立つ天女のような身なりの女を描いたところだった。我ながら、祭の雰囲気がよく描けたと思った。

 「何を描いているんだや」

いきなり話し掛けられて驚いた。穏やかな表情の人たちだったから良かったのだが。二人ともよく似た顔だ。違いは少し太っているか痩せているかぐらいのことだけである。

 「いや、見掛けた祭ですよ」

 ふーんと言った。

 「どこから来なさったの」

 「大阪です」

 「まぁ、遠いところから。ご苦労なことですなぁ」

 「何しに」

 「いや、仕事で」

 「そうですか。ご苦労なことで」

 「随分遠かったでしょ」

 「確かに」

 三人で顔を見合わせて笑った。彼らの物言いはおかしくない。男女で違うようだ。

 「これは何なんかな」

 小太りの方の人が尋ねた。全然分からないようだ。ここの祭の様子を尋ねるきっかけにしたいと思ったのだが全く駄目なようだ。行ったことが無いと言った。

 ふと思い付いて、こちらから尋ねてみた。

 「この辺では、何か変わった祭があるそうですね」

 二人が警戒心を抱いたような感じがした。それでも、

 「今晩、女しか行かねえ祭があるな」

と言った。

 「何という祭なんですか?」

 「ぴっび様と言うんだ」

 「どんな祭なんですか」

 「知らんのよな。男は行かんのよ」

 聞いた通りだ。

 「どうしてですか」

 「夜店も出ないらしいし、花火が上がるわけでねぇ。行ったところでつまらんしな」

 祭というのは民衆のエネルギーを発散させて、権力者に向かってこないようにさせるものでもあると聞いたことがあるのだが、それをさせるための魅力に欠けるようだ。純粋に何かを祀る敬虔な儀式なのかも知れない。だから余計な男に来てもらっては困るということだろうか。それなら少し分かるような気がする。もしも行った男から体の一部を奪い取ることになるとしても、そこまでして強くなりたい女性が何人いるというのだろう。女性側の事情が分からない。

 「女だけしか行かないと聞きました」

 「そうよ。男は行くと困るらしい。始まりは若いもんのデートだったっちゅうのにね」

 「でも男はダメということになったんですか」

 「そう。何か具合の悪いことが分かったとかでな」

 祭の催し方が変わるというのは珍しいと思った。

 「どんな風に悪いんですか」

 「そこがもう一つよく分からんな」

 何だか周りを気にするように見回してから、答えるのだった。須築も見回すが特に珍しいものは何一つ見当たらなかった。何を見ようとしたのだろう。

 二人とも気の弱そうな感じだ。強い好奇心に駆られて祭に潜入するといったことをせず、言われるままおとなしく行かずに過ごしてきたのだろう。

 「そうですか」

 がっかりした。話しかけて相手してもらえないことが多かった場所だ。せっかく向こうから話しかけてきてくれたのに。

 「で、女ならみんな行く?」

 「そう」

 「婆ぁもチビも」

 「いや月のものが無いのは行かねぇよ」

 「どうしてですか」

 「知らん」

 そう言って、二人は立ち去った。この二人は来るなと言われて従っているのだ。面白いイベントも含まないらしい。よその祭とはかなり違っているということだろう。妙齢の女だけの祭! というのに。新しい知識が一つ増えた。

 須築はまた、描き続けた。今度覗きに来た人は中年のおばさんのようだった。白髪で皺くちゃの顔だが腰は曲がっていない。しゃきっとしている。ちらっと見えただけだがわりに顔の造作の美しい人だった。背後にもう少し若い人が二人いた。

 三人とも通りすぎてから立ち止まり、向こう向きで話す。食堂のおばさんと同じだ。どうしてそんな立ち方、座り方をするのかまた不思議に思った。

 「あんた、見なっさったのかな」

と言った。驚いた。でたらめに描いた情景がいくらかここの祭と一致するらしい。

 「いえ、この間、見た祭の情景を思い出して、記憶が薄れないうちに描いておこうと思いまして」

 「どこの祭」

 須築はデタラメに他県の地名を口にした。すると、ホッとしたような声が出た。

 「ここでも、祭があるんでしょ」

 「それはまぁ、ありまっすけど」

 「今日の晩にあるとか聞きましたけど。見たいですね」

 「いや、あなた、男でっしょ。男の人は駄目なのよ」

 「どうしてですか」

 「祟ると言われてまっしてね」

 「女だけなら良い?」

 「そうね。女の清めの祭りなの。悪いところを集めてっ捨てるんでね」

 食堂で聞いた履き慣れない物というのも気になるのだが、立ち去るおばさんたちを呼び止めるほどの問題ではないだろう。昨日見たロングブーツではないだろうか。あれで長々と歩けば、いくら山道に慣れている人でも疲れることだろう。年長のおばさんはロングブーツではなく、突っかけサンダルを履いていた。若い二人はスニーカーのようなものを履いているようだった。

何人か口をきけた人に駅までの道について尋ねたが、みんな地震のことを知らないようだ。変だなと思った。結構大きな揺れだったのに。明日は絶対帰ろう。もう一度道の入り口まで行ったが、通行不能の表示は外されてなかった。宿に戻ると、もう一人泊まりに来た人がいた。中年の男性だ。四十代ぐらいの年齢に見える。四角い顔でどこかで会ったような気がしたが、思い出せない。

 主人と話していると、その人が、

 「須築さん?」

と言ったので驚いた。

 「やっぱり須築さんですね。この前にほら」

と三年ほど前に請け負った仕事の話をされた。クライアント側の窓口だった人だった。名前はたしか吉多とかいう人だった。

 「あぁ、その節は御世話になりました」

 こんな田舎で知った人に会うとは思わなかった。宿の主人も珍しいことですねと言っている。吉多さんが、

 「今日の晩はね、祭ですよ」

と言う。昼の食堂の話題を思い出した。

 「わざわざ見に来られたんですか」

 「いや、男子禁制の祭だから見には行けないんだな」

 「そうですよ。行ってはいけません」

 宿の主人が、厨房から言った。

 やはり表だってはダメのようだ。吉多さんもそれは十分わかっているようだ。

 「毎年やってるんですよね」

 主人に尋ねる。

 「まぁね。ただ女たちに参加しろとうるさく言うようになったのはここ十年かな」

 「そんな新しい祭なんですか」

 「そう」

 どうして催し方が変わったのだろうか。

 「町おこしか何かですか」

 「かなぁ。男は来るなと言うから、あまり人を呼び込めるものではありませんよ」

 吉多さんが、

 「何という祭って言ったかなぁ」

と呟いた。

 「ぴっび様と聞きましたけど」

 須築が言う。

 「そうそう、それ。どういう御利益があるんですか」

 「美しくしてくれると言うんです」

 醜悪な人と美しい人の対比が浮かんだ。

 「何か仕掛けがあるんですか」

 「そんな。ただの気休めでしょ」

 宿の主人はそっけない。

 「男が行くとまずい、と言ってましたね」

 「そう言ってますね。来ないでくれ、家に籠もっててくれ、って」

 「誰が言うんですか」

 「祭の実行委員会が。まぁ、役場も噛んでますが」

 「面倒臭いと行かない女性もいるでしょうね」

 「いや、そういう人は多分いないと思います。美しくなれると言うんですから。それに御存知と思いますが、本当に何も無い所だし、狭いし。互いに顔も見知っているので、行かないとすぐにばれますからね。今後もここに住み続けるのに行かないわけにはいきません」

そのうち、またお客が来た。

 雨が降り出した。台風が来ているような雨だ。屋根に当たる音は聞こえないが、窓の外を滝が落ちるように水が流れ落ちている。

 「凄い雨になりましたね」

 「ほんとに」

 「途中で降りだしてたら死んでたかも」

 そこまでひどい雨ではないと思ったら、早朝須築が見に行った道を辿ってきたようだ。会社で緋杜の人間は気持ち悪いと言った男がいた。そう言った男自身の出身地の地名があげられて、そっちから入ってくる道だと言った。あちこちに通じる道はやはりあるのだと思って聞いていたら、こんな道だという。

 「道幅が三十センチ無いんですよ。道の両側は右も左も四十メートルか五十メートル切れ落ちていて屏風のてっぺんみたいなんですが、そこを十メートルほど歩かないといけない。荷物もあるから恐ろしかった。風が無かったから良かったけど」

 北アルプスの劔岳や穂高にもそんな場所があると聞いている。一歩間違えれば、確かに死ぬだろう。雨が降りだしていたら通過は不可能だ。

 「いやぁ、ひどい雨だねぇ」

 また客が来た。他にも来る人がいるのだった。今日の雨は昨日のより強烈だ。運の悪い人だと思った。一人だけだと思っていたら、その後も途切れ途切れに男性が来た。宿泊客は須築を入れて結局六人になった。意外に宿泊者があるのだと感心した。昨日は「全然来ない」と言ったような気がしたのだが、謙遜だったのだろう。

 みんな履き物がずぶ濡れになったと言ってこぼしている。宿にはスキー宿のような乾燥室があってストーブが点火された。みんな濡れた衣類を吊し、履き物をストーブの近くに並べている。

 聞くと三人は仕事のために来たという。

 「えらく遠いところからの発注で、ウソじゃないのかと思ったなぁ」

と言う。須築のケースと同じだ。統計のプログラム設計とか農作物の品種改良とか内容は区々だった。

 「ここに来たのは、今晩の祭のためでもあるんだけどな」

と言った人もいるが、仕事が込んでいるから急いで帰らなければならないのに地震で帰れなくなったという須築と同じ状態の人もいた。

 「何とか通ってやろうと思って、山林に分け入ろうとしたけどだめだった。密に枝が張っててどこも通れなかった」

 祭が目当てで来た人たちもみんな互いに知らないようだ。笹季さんという人だけ自分の都合で来たと言った。どんな祭か調べに来たそうだ。笹季さんはT県、山源君はG県、中群さんはH県、綿鍋君はK県と居住地がみんなバラバラだ。吉多さんはS県。そんなにあちこちから集まるほど有名な祭ということなのだろうか。

 「見に行くようにと言われたからね」

 「女の人たちは行かないと揉め事が起きると聞きましたよ」

 須築が言うと、

 「地域の融和が目的だろうからな」

 笹季さんが呟く。地形から見て、この村は八つほどの地域から成っている所なのだそうだ。水の確保などで争った歴史があるのかも知れない。

 「ここらの女が一年で一番美しくなる日やって言いますよ」

 吉多さんがまた言った。

 「それ、僕も聞いた」

 そう言った人もいる一方、

 「へぇ、どうしでですか」

と尋ねる人もいた。

 「そこは分からないんですよね」

 さっきも聞いてきたことだが、女が清められる・女が美しくなるという話にはみんな好奇心を刺激されるようだ。どういうことが行われるのだろうか。元々若い女性に美人が多い土地のようなのに、その上更に清められて美しくなるというのだ。しかも老人や幼児はいないというのだから、いわば女盛りの人しか来ないというわけだ。余計なものを見なくて済む。体中の悪いところを清められるので、病気にも罹らないのだそうだ。医者が商売に困りそうだ。

 須築はつい祭を見に行く意欲が湧きそうになる。みんな勧められてきているのだ。先輩は勧められないのに潜り込んだのがまずかったのではないのか。危険をうまくかわせば何とかなるのではないか。

 「始まるまでに雨が止むかな」

 「こういう降り方の雨は長く続きませんよ」

 みんな自信満々だ。

 ところが、

「祭はダメですよ」

と主人がまた水を差した。須築は雨のことだと思っていた。降り止んでも地表がぐじゅぐじゅではまずいだろう。

 「どうしてですけえ」

 笹季さんが尋ねた。言葉遣いは幼稚だが、漂わせている雰囲気は学者かなと思わせた。物静かなのでそんな感じだ。割に新しい祭なのに全貌が掴めないのが不思議だとも聞いたから関心を抱いて見に来たのだと言う。ルポライターだと自己紹介した。文筆業の人というのは押しの強い人がなるものだと思っていたので、こんな人もいるのかと感心した。

 「男が行くと、女が美しくなるのを妨げるらしいんです」

 主人が答えた。雨のことではなかった。

 「えぇ、そうなの? そりゃあ、女にはいやがられるな」

 山源君がボソッと言う。ここにいる人間の中で一番若いように見えた。服装や髪型に気を配っているのが分かるタレントのような雰囲気だ。山登りが好きで、町中でトレーニングしていた時、とてつもない美人集団に誘われ、仕事のこともあってやって来たという。須築は自分とよく似ていると思った。そう言えば、自分は祭がどんなものなのか聞かされなかったなと思った。美人たちが誘うからついでに行こうかと思っただけで、中身は何も知らない。どうでも良かった。

 「えぇ、女はみんな祭が済むと美貌が冴え渡るというか、とにかく物凄く綺麗な女を見られますけどね。でもそれは祭が済んだ後のことで、祭そのものがどんなのかははっきりしません。美しくなる秘密が隠されているから男に隠すのかも知れませんけど」

 あの美女グループが更に美しくなる! 一体どんな状態になるのだろう。色々考えるが想像がつかない。

 吉多さんが、

 「特殊な宇宙線を見付けて、それを利用していると聞きましたよ。ここでしか受けられない宇宙線だと」

と言いかけると、山源君がまた、

 「あぁ、それは僕も聞いたわ。それも年中受けられるわけじゃなくて、極く一時期だけで、そのために祭を設定したとかって」

とボソッと言った。

 「でもその星があと数年で消えてしまうらしいから、同じ周波数のものを機械で作り出そうと研究しているらしいね」

 吉多さんが補足した。中群さんが、

 「僕は腕力が強いから『勝ち抜ける』と言われましたよ。祭とどう関わるのかな。お守りを渡されて、見に行ってくれと言われたんだけど」

と言って、皆にお守りを見せた。須築は自分がもらったのとよく似ていると思った。

 「男が行くと妨げになるんでしょ。見に行けって言われたの?」

 「そう」

 「腕力がいるんですけぇ?」

 笹季さんが須築に向かって尋ねる。

 「それはこの土地の男性全員に周知されているわけですか」

 これは主人に向けての質問。

 「周知というか、そう噂しています。でも、行くぞと力んでいたのに翌日から現れないというケースも何回か見てきました」

 「美人さんたちは『大丈夫、あなたが一番』と言ったけど、男が行っちゃあいけないんですよね」

 みんなで不思議がった。分からないことが多い。宿の主人にも分からないようだ。

 「あんなにたくさんの美人が町中を歩いているのに、マスコミで報道されなかったなぁ。どうしてかな」

 須築が話題にする。

 「東京じゃないからでしょう」

 「東京なら報道されますか」

 「マスコミ関係者がうじゃうじゃいますけぇ」

 「ふーん、そんなもんですか」

 「あんた達の住んでる場所は、失礼ながら地方都市ばっかりじゃないですけぇ。男の人数は凄いけど、報道する者がいないところなんですよ」

 「なるほど」

 納得している人もいるが、自分のいる大阪も地方都市なのだろうかと思う。

 「落胆しますかぁ。でも、大阪も田舎ですよ」

 車窓の風景を山手線と大阪環状線で比べてみると、確かに高層ビルの数が比較にならない。大阪はそれを何とかしたいわけだが、どうも地方都市のイメージを拭えないままだ。

 他県の住人であるみんなが揃って頷くので、そんなものかと思った。須築は別にどうでも良いことなので反論もしない。とにかく報道されない理由も、それなら納得出来るかと思う。

 「セックス産業ばっかりの痴呆都市ですな」

 皆がワハハと笑った。さすがにこれには腹が立つ。

 「ほんの一部ですよ。面積で言えば、十万分の一にもならない」

 僅か一本の道路のせいで、まともな仕事をしている企業の事業所・工場・商店街や住宅街が笑い物にされるなんて。

 「人は目立つ一部で判断しますけぇ仕方ねえしょ」

 こんな風評の立つ大阪にしたのは、カジノを誘致するという一点だけを政策にする賭博の会という政党だった。目的を果たしたという理由で解散し、市長も知事も辞任してしまった。今は別の政党の人がやっている。だから文句の持っていく先が無い。須築自身は仕事に追われて投票に行かなかったので、直接の責任は無いようなものだが、選挙公報をじっくり読んだことがないので、やっぱり先の見通しの悪かった人に投票していた可能性がある。カジノで地価が下がったのだから、そんな党は解散してしまって良かった。

 「大阪でだけでも問題になりそうなんですけどね」

 ようやく美女グループ出没の話に戻った。

 「確かにあの美貌だからなぁ」

 「実は僕の知人が九州でそれらしい連中を追ったみたいだけぇ、逃げられたって」

 「なかなか巧妙にすり抜けるんでしょうね」

 「そう。行き止まりの場所に追い込んだのに逃げられたって」

 「それ、行き止まりになってないじゃない」

 「いや本当に行き止まりなんだよ。自分の会社のビルだったんだけぇ、間違うはずがない」

 みんな顔を見合わせた。

 「機械室なんかは、自分のビルでもテナントの人間は知りませんからね」

 「そいつは知ってたんだ。元々建築工学が専門で記者になった奴だけぇ」

 「へぇ、煙のように消え失せましたか」

 「そうよ。忍者みたい」

 「忍術なんか、普通誰も知りませんよ」

 「でも忍術だって合理的な説明が付くはずでしょ」

 「変だよ。変だとしか言いようがない」

 「ともかくそれでマスコミから逃れてる」

 「追跡も不慣れな人では無理でしょう」

 「不慣れじゃないよ。俺と同じぐらいの年だけぇ」

 改めて顔を見ると、うちの営業部長よりも上に見える。ということは五十代か六十代だろうか。

 「実年齢はそうでも、記者の経歴が浅かったら」

 「いや、もう三十年近い。政治家を追い回してスクープをとったこともあるんだ」

 「そんな人がただの美女なんか追います?」

 「政治家でも美女でも普通と違えば、報道の対象になるけぇ」

 「それで捕まえ損ねた……」

 「そう、それが奇妙で」

 「でも写真ぐらいすぐ撮れるでしょ」

 「写真だけじゃ記事にはならないね」

 「そうですか」

 「そうよ。新聞で首相の写真だけ載ってるのを見たことぐらいあるだろ」

 「えぇ」

 「でも、そこには必ずカメルーンの首相と会談したとか、アルゼンチンで日本企業の工場起工式で挨拶したとかキャプションが,ちょっと説明が付いてたはずだ」

 「確かに」

 「それがないと写真も意味が無い」

 「本人を捕まえないといけないわけですか」

 「そうなんだよ」

 それで報道されなかったのか。報道がありそうなのに無かったことの理由がようやく分かった。まともなマスコミなら確かに報道することにならないだろう。

 「俺たちみんな幻覚を見せられてたのかも知れないよ」

 そんなことを言う人もいる。

 「幻覚だから、あんなに美人だったってか」

 「そう、そう」

 「これだけの人間が、別々の場所で見てきてるのに」

 「そこが、ここの特殊技術なのかも知れんぜ」

 みんなで笑った。

 「あっという間に催眠術をかけられてたのかもな」

 「その方が信じられるなぁ」

 須築は先輩の奇怪な腕を見せられたが、その前に催眠術をかけられていたのかもと思った。それで奇怪な腕に見えたのかも。しかし、そのように見せる目的は何か。先輩が術をかけたのなら須築を危険から遠ざけるためだったということかも知れない。やはり、行かない方が良いということだなと思った。

 祭は真夜中に行われるということなので、待ち時間が長い。緋杜村について知っていたことや調べたこと、気付いたことなどが話題に上った。

 須築は斧通さんに見せられたもののことを皆に話さないでおくのは良くないと思ったので、

 「祭に行くと、体の一部分を紛失したりするみたいですよ。それで何人かの男はひどく醜怪になるらしい」

と言った。みんなギョッとしたような顔をしたが、

 「それは運が悪かっただけじゃないの」

という人がいた。

 「そうやって脅かすと男どもは来なくなるよな」

 自分は見たんだ、と言うのは言い過ぎのような気がした。

 「幻覚かも知れないよ」

という声がした。

 「催眠術かもね」

 考えてみれば、先輩一人、元同僚一人のことかも知れないのだ。すれ違った男性がどういう事情であんな顔をしていたのか分からない。老人が何人かひどいスタイルだったのは他に理由があるのかも知れない。例えば、地場産業で危険な作業をしていての負傷かも知れないのだ。この人たちは町中を歩いてきただろうか。大雨に降られたからろくに観察しないで宿に来てしまったのかも知れない。

 「みんな眠らされてたりして。だからすごい美人だと思っちゃったんだ」

 そんな発言にみんなが笑う。確かに普通では考えられない美貌だ。特殊な術をかけられてそう思ったのかも知れない。とすれば、先輩の腕もそういう風に見えるかも。

 ただ、そのように見せる理由が分からない。

 「それでどうするの。行かないわけ?」

 考え込んでいると尋ねられた。

 「えぇ、止めておこうかと」

 しばらく考えて返事した。好奇心は働くが、行こうという気にはならなくなっていた。大阪であの美女たちの顔を見ただけで十分だと思った。それ以上美しくなるといっても限界があるだろうし。

 しかし誰も行くのをやめるとは言わなかった。先輩の腕を見たのは自分だけなのだ。

 「見たんですよ」

と言えば、皆も止める気になるかも知れないが、何だか先輩を晒し者にするような気がした。言いたいのだが、言い切れないもどかしさを覚えた。祭で失くしたのだろうか。そこのことは十分聞かなかった。

 笹季さんが沈んだ気分を払うように、

 「女の人の発音の仕方が変わってるんだよな。摩擦音が耳に触る。他の地域でこんなの聞いたことがないね」

と別の話題に触れた。そう言えば確かに変わっている。美人顔で顎がとがっているからかも知れない。

 須築はもう体の形がおかしくなることについては言わないことにした。一度は言ったのだから、この人たちを裏切ったわけではない。心の痛みを覚えなくてもよいだろう。

 男の体から一部分を取り出すとすれば、いつどこで誰がするのかがまた気になった。あの広場に仮設の手術室を設けるのだろうか。かなり杜撰な場所での手術だからあんな体になるということだろうか。

 雨が止んだようだ。須築は吉多さんに誘われて、また町の中心部まで散歩に出た。通行止めのことも気になっていた。よく歩く日になったと思う。

 四十代ぐらいに見える女たち十人ばかりの集団が近付いてきた。みんな大きなマスクをしている。その上凄い厚化粧をしている。日の光を受けてテカテカと光っている。顔がよく見えないのなら化粧なんかしなくても良いのではと思うのだが。

 「祭になりまっすよ、もう御自宅に引き揚げて下っさい。男性の方は絶対にいらっしゃらないようにお願い致っしまっす」

と言っている。会場に向かうルートを全部塞ぐつもりのようだ。

 須築たちも早く戻らないと宿に向かう道が通れなくなってしまう。

 「須築さん、やっぱり来てくれたのね。うれっしいわ」

 宿に向かう道だった。振り返ると、あの美女グループの人たちだ。爽やかで洗練された雰囲気をまとっていたはずの彼女たちなのだが、なぜか今日に限って生彩がない。話しかけてきておきながら顔をこちらに向けないようにしている。これからあの広場に向かうようだ。

 内心、わざわざ祭を見に来たわけではないのだけどと思う。それに男は来てはいけないというではないか。そこに「来てくれてうれしい」とはどういうことなのだろう。

 今も声を潜めながらだが、

 「祭に来て下っさいね」

とはっきり言った。

 「でも男は行くなとあちこちで言ってるぞ」

 「表向きはね。でもっ須築っさんは特別。大丈夫。一番だから」

 何の一番だろう。しかし、そう言われると少し良い気分がする。祭には行かないと決めていたが、行ってみようかという気にもさせる言葉だ。

 「あの子たちは来て下さいと言い、世話人らしい人たちは来るなと言う。どういうことなんだか」

 ぼやくと、吉多さんが、

 「見てくれの悪いここの男には来てもらいたくないけど、そうでない男には来てほしいということでしょう」

と言った。

 この地域の若い女性たちはみんな色が白い。透き通るような美しさだ。造作が少々まずくても、確かに色の白いは七難隠すという言葉通りだと思った。町中で見た限りでは造作がひどい人などいなかった。交通の便がひどく悪い田舎の割に洗練された服装や化粧だし。若い人たちの姿が多い。中年の人は何だか少しばかり疲れたような精気の乏しい感じだ。小中学生などの子供の様子はよく分からない。昨日今日はほとんど見ていない。

 宿に戻る途中に広場の前を通る。前後をあるいていた女性たちが流れ込んでいく。薄暗くなってきているが、奥に神社の祠のようなものが見えた。とても小さなものだが、あれが今晩の中心になるのかと思う。どんなものを祀っているのだろう。手術室らしいものはやはり無いようだ。今日は変な補修はしないということだろうか。それとも落とすことの対策が立って、必要が無くなったのかも知れない。それなら見に来ても危なくないかも知れない。

 「祭、やっぱりここでやるんだね」

 「ここだと思いますよ。他にたくさん集まれそうな場所は見当たりませんからね」

 吉多さんが言った。現に女たちが来ている。

 「見て回ったんですか」

 「えぇ。みんな教えてくれないから、自分で探すしかないんですよね」

 熱心な人だ。こういう人が民俗学というものの研究をするのだろうと思う。工作機械の会社の人なのに。

 「何だか変な土ですね」

 須築が言うと、吉多さんはしゃがんで土をつかんだ。須築の言葉で、しげしげ見つめている。

 「ここは山奥なのに、海の生き物みたいなのが散らばってますね」

 辺りを見回した。山ばかりで海の雰囲気なんかない。 

 「隆起したんですかね」

 「かも知れませんね」

 かつて海の底だった場所だから発生した過ごし方、そして変わった祭があるのかも知れない。

 宿に戻ると、お客がまた二人増えていた。

 夕食後、須築が手洗いに外に出ると新月で月の形をした赤黒い円形が見えた。月光は無いが、星のきらめきが美しい。なんとか歩き回れる明るさだろうなと思った。やっぱり祭に行くのは止めておこうと思った。斧通さんの腕を思い出したからだ。体の一部を奪われる危険を冒そうとは思わない。先輩がせっかく教えてくれたことなのだから。吉多さんたちはさっき教えて上げたことを覚えているだろうか。

 須築は早めに寝た。疲れていたこともあるし、他の人たちが何人か危険を冒そうとするのを見送るのも嫌だったのだ。止められれば良いのだが、おそらく止めたところで喧嘩になるだけだろうと思った。皆の熱意をひしひしと感じていたのだ。そこまでの関心があるのなら、腕の筋肉や脚の筋の二、三本を犠牲にしても平気なのではないか。それを止める義理は無い。布団の中でみんなどうするかなと考えたりしているうちに眠っていたようだ。何かに触られるような感じがして目が覚めた。暗くて何に触られたのかは分からなかった。目が慣れてきたので起き上がってみると玄関の下足の棚には須築の靴しか残ってなかった。みんなもう行ったらしい。

 また布団にもぐろうとしたのだが、非常に嫌な匂いがした。カメムシとムカデの匂いが混ざったような強烈な匂いだ。耐えきれずに立ち上がった。宿の主人はどうしているのだろうと思ったが、様子を見に行く前にどうしても我慢できず玄関から外に出ることにした。乾燥室から下駄箱の上に移して掛けてあるハンガーから上着を取った。扉を開けようとした。その時、何だかいやな気分がした。良くないことが迫っているような気分。悪い予感。傘を持たずに出れば必ず降られるということ以上の、いやな予感。ゆきずりのならず者に因縁をつけられることがありそうな不穏な感じ。

 何かがいる。

 会ってはいけない何かが。

 斧通さんが、家を一歩でも出たら連れていかれると言っていた。

 何かが来ているのか? 我慢してとどまらなければならないのか。しかし臭いは我慢できなかった。ハンカチを取り出して鼻を抑えたが、そんなぐらいでは防ぎきれないようだ。

 これは生理的に我慢できない。吐きそうになっているのに吐かずに済ませようと辛抱しているような気分。もう無理だ。

 須築は扉を開いた。やはり施錠してない。扉自体に重みがあるので、強い風が吹いても開くことはさすがになさそうだった。こんな扉なら、家から出たことになるのかならないのか区別されないのではないか。

 一歩外に出て見上げると月の出てない晩だ。星も見えない。深呼吸をした。かなり寒いけれど外は臭いが無かった。ほっとした。いやな気分、悪い予感は消えていた。もう大丈夫だ。しばらく突っ立っていたが、また寝ようと思って扉を開こうとした。そしてギョッとして、しばらく動けなくなった。玄関の扉に大きな何かが張り付いていたのだ。鍵が無いはずなのに扉にでっぱりがあるのだ。その時、空の雲が動いたのかかすかな星明かりを反射してやはり何かがあるのが分かった。いや、何かがいる。特に須築の方に向いている訳ではないようだが、気味悪くて戻れなくなった。どんどん暗闇に目が慣れてくると、さらにゾッとした。足元の周囲一面を何かが埋めていたのだ。ゴミや雑草ではない。生き物だ。

 何も無いと思っていた場所に、何かがいる。虫か。いやそんな小さなものではない。

 思い切って、蛇かと考えてみた。どうも蛇ではないようだ。ずっとずっと細い何かだ。

 生き物ではないのか? いや、生き物だ。かすかに動いている。時々星の光を反射してキラッと光った。地面のあちこちで何かが光る。気味悪い。玄関扉までほんの一メートル足らずの距離だが扉には大きな何かが張り付いているし、それがいなかったとしても足元は埋まっていて、とても戻ることが出来そうにない。やがてすぐ近くの細長い何かが端を蛇が鎌首をもたげるように垂直に立てた。同じように垂直に伸び上がるものがあちこちに見えた。それが徐々に増えてくる。困った。形は細すぎて蛇らしくないが動きは蛇そのものだ。巻き付かれたくない。今大声で叫んだら宿の主人が助けに来てくれるかとも思った。しかし、震えてしまって声が出ない。

 見回すと後ろの足元が少し空いている。一歩退くとその先にいた細長い何かが道の両側方に分かれた。玄関に戻ろうとしたがその細長い糸のようなものは場所を空けない。後方に踏み出せと強いられているようだ。踏み潰せばよいのだろうか。しかし踏みつけても潰れずにかえって足を這い上られでもしたらと思うと、踏みつける気持ちになれない。須築は空いた方に一歩踏み出すしかなかった。映画『十戒』でモーゼの目の前で海が割れて道が出来た場面を見たことがある。それと同じように何かの群がりが割れて道が少し延びた。宿の玄関へは戻れないままだ。須築は仕方なくそれらが退いた隙間をそっと進んだ。それらの群れは何者かの意思に従っているのだろうか。

 道は一本で、迷う心配はなさそうだった。だいたい気味悪いものを避けて歩くしかないのだ。新月なので辺りは真っ暗だ。とても暗い、という表現では間に合わない。大阪の空は真夜中でも薄白いのだが、ここの夜空は完全な闇だった。星は空を埋め尽くしているのに光量としてはほとんど零のようだ。しかしその得体の知れない生き物の姿だけかすかに見える。ほんの僅かな光を反射している。それに暗くはあるが、草の匂いが濃いので道を外れるとすぐに気が付きそうだ。細いものを踏まないようにそれらが空けた隙間にそっと足を下す。かすかにそいつらのいない空間が見えている。足首を捻らないように気を付けさえしたら何とかなりそうだ。ふと、このまま細道に突っ立って夜明けを待とうかと思って足を止めた。しかしすぐに足に何かが触った。その何かだった。先に進めと促すようだ。仕方なく歩く。そして立ち止まる。そいつらが迫ってくる。仕方なくまた歩く。広場のざわめきが聞こえてきた。このままあの広場を横目に見ながら通り過ぎて町の方に下りようと思った。まさかそいつらが広場の方に道を曲げるとは思えない。こんな生き物に人の進む方向を誘導するほどの知性は無いだろう。ともかくそっと足を進める。

 ふと、「須築さんは一番」と言われたのを思い出した。祭で一番、というのは何のことだろう。走らされるのか。自分は平均よりは速いはずだが、残念ながらクラスで一番になれたことは無い。体育大会でリレーに出ろと言われたら、出た。しかし他の選手を追い越して勝てたことは無い。何のことか分からないが、一番と言われてこれまで何となく良いことのような気がしていた。

 しかし、一番になれなかったら、筋肉を抜き取られるのだろうか。斧通さんの脚は速かったのだろうか。そういうことはクラブ活動の中で話題になったことが無かった。斧通さんは強かった。それだけだった。

 須築は突然頭に何かが降りかかってきたのを感じた。蛭ではないと思う。それからすぐに体が動かしにくくなって座り込んでしまった。そいつらの上に乗らないようにと思いながら。

 足音は聞こえないが、何人もの人が走ってくるのは感じた。そして服をつかまれた。振り払って逃げようとした。が、腰に抱きついた人がいる。ラグビーでタックルされたように須築は倒れた。幸いそこに細い何かはいないようだった。その須築の上に何人もがのりかかってきた。体が柔らかい。女のようだ。そしてあちこちを掴まれた。それからたくさんの人に抱えられて立たせられ、引っ張られ、持ち上げられ、運ばれた。そうか、祭を見に来たのと同じことになってしまったのだ。腕の太い筋肉を一本奪われるかも知れない。

 須築は大きな袋に入れられたようだ。袋は柵に吊るされていた。袋に入れられて気が付いたが、身体を締め付ける特殊な編み方のようだ。脚は前後に、つまり水平方向には幾らでも伸ばせるようだが、上の方に引き上げようとすると、要するに抜こうとすると動けなかった。これはまずい。自力ではこの袋から出られないようだ。美女グループの人たちは大丈夫と言っていたが、彼女らが少しばかり弁明してくれるだけで解放されるといった雰囲気ではないと思った。これからどうなるのだろう。女たちが失った部分を補充するためにどこかを引き抜かれるのだろうか。その時、どんな痛みを覚えるのだろう。血は出なかったと聞いたような気がするが、痛みのことも尋ねておけばよかった。

 そのうち須築は袋から引き出されるような気がした。そしてまた運ばれて引き上げられ、大きな椅子に座らされていた。何ものの力でそうされたのか分からなかった。どういうわけかと見回したが真っ暗闇だし突然扱いが変わった事情が分からない。椅子には左右に肘掛けがあるようだ。背もたれが高く後ろにゆったりともたれることが出来る。手首を縛られたりして拘束されているわけでもなかった。暗さに目が慣れてくる。逃げられるだろうか。

 椅子は辺りを見下ろせるようになっていた。まるで玉座のようだ。普通の祭なら、さしずめ神が降臨する場所とでも言えそうな場所だった。何だか畏れ多い。背もたれは頭よりも高い。素材は藺草か麻を編んだように見える。手触りで確かめてみる。須築は学生時代に日常生活で使われる物品の素材について勉強したことがあるのだが、そうして見渡した知識の範囲には入っていない材料のようだった。気になるけれど正体不明だ。ただ黙って座っているしかない。椅子は奥に見えていた祠と並ぶように置かれているようだ。祠は宿まで送られる時と、吉多さんと歩いた時とで二回見た。その時は大きさがよく分からなかったが、今は近くに人がいるので見当が付いた。幅や奥行きは畳一畳分ほどぐらいだ。恐らくここに降臨する神に何かを捧げるという場所なのだろうと思った。非常に狭いけれど、そこが手術室かも知れない。

 会場には照明設備が無いようだ。新月だし、真っ暗闇の中での祭だ。祭の常識からかなり外れたもののようだと思った。

 目が暗闇に慣れて気が付いたが、広場には七、八百人ぐらいの女性たちが輪を作っていた。そんなたくさんの人の気配がこの時まで全く感じられなかったのが不思議だ。物凄く静かだ。彼女らは明かりを持っているわけでもないのに歩き回るのがスムーズだった。もう目が闇に慣れたからだろうか。

 会場の隅から笑い声が聞こえた。その辺りに、人の背丈ほどの大きさで木組みが三つばかり置かれていた。そこに人の姿が見えた。三人いて、なんと全員が四角く組まれた材木から吊された袋に入れられて、顔だけ出している。その様子は蓑虫のようでもあるし、百舌の早贄のようでもある。ちょっと可愛らしい。でも捕まえられているわけだ。もしかしたら吉多さんたちがつかまっているのではないかと目を凝らしたが知らない人ばかりのようだ。あの人たちはどこかに隠れているのだろう。もう少し見に来る者がいると思っていたのか、十個ほど袋を吊してある。

 薄く透きとおった物体が外周にたくさんあるのに気が付いた。ユリの花かラッパスイセンかやや筒形で、上方が開いた花のようなものがゆるゆると動いている。それが時々素早く動く。そうして、見付かったらしい男がそれに囲まれて連れてこられる。人間のように見えたりただの植物に見えたりする。人間なら、あの形にどんな意味が込められているのだろうか。自分は女たちに捕えられたように思っていたのだが、そういうものに拘束されたらしい。どうしてこんな闇の中で見付けられるのかが不思議だったが、人間でないものなら可能なのかも知れない。男たちは動けなくなったところを囲まれるようだ。中群さんが捕まった。自分もあのようにして捕らえられたのだと思った。そうして袋にいる男の数が五人になった。綿鍋、笹季、猪上、紀斑、山源の五人はまだいない。帰ったのだろうか。いや道を塞がれていたから通れないはずだ。うまく隠れているのだろうか。それとも細い蛇のようなものに囲まれてどこか別の場所に行かされているのだろうか。

 時間になったのか、女たちが中央に大きな輪を作っていく。みんな無言のままだ。真ん中に五、六人ほどの女がいて、薄い衣の服装に見える。いかにも祭らしく、日常的な服装ではない。あちこちが膨らんでたくさんの袋を身にまとわせたような姿だ。皆に向かって何か説明しているようだ。説明している人以外の人たちが何度もあちこちを見渡して警戒しているように見えるのが気になる。何かの秘密集会のようにも見える。ここの住人全員が特殊な集団のメンバーということかも知れないと思った。

 そのうち人々の足元が見えてきた。みんな長靴を履いている。色は暗いせいで全く分からないのだがおそらく白か黒で、丈はほとんど皆同じで、例外なくピカピカのレインシューズ姿なのだろう。それがチラチラ光を反射する。サンダルや運動靴などの人が混じってないかと思ったが、そんな人はいないようだ。全員が同じ履き物というのは珍しい光景だ。軍隊だとすれば、色が揃ってないのがおかしいが。

 祠のある場所が正面なのだろう。ラッパスイセンが一本その脇にぬるっと出ていき、何かしている。まるで代表者である人間が指揮を執るかのようだ。耳を澄ませるが内容がよく聞こえない。いちいち祠に向かって拝礼している姿も人間に見える。なぜか十人ほど、並べられた椅子に腰掛けている人たちが見えた。こちらは真ん中で輪を作っている女たちと同様、人間らしい。彼女らも垢抜けたデザインの長靴を履いているようだ。なぜ彼女たちだけが座っているのか分からない。

 「ここらの女が一年で一番美しくなる日だって言いますよ」

という言葉を思い出す。見に行かない方が良いと思う一方で、その一言だけは気になっていたのだった。

 輪になった女たちがようやく動き始めた。やがてその輪が縛り付けられた男たちの方に膨らんだ。何をしているのか詳しくは見えない。しかしギャッという小さな悲鳴が聞こえた。

  ポキッ

  ポキッ

 かすかな音が聞こえたような気がした。まさか骨を無理矢理外したのではないだろうな。それとも何かで殴った音か。

 女たちがどんどん動いていくのは順番に殴ったり蹴ったりしているということだろうか。集まっている何百人もの女たち全員に暴行されたら、きっと身体がぼろぼろになってしまうだろう。しばらくそのまま回り続けた輪の位置はまた元の所に戻ったが、袋が一つ潰れている。中にいた人はどこに行ったのだろう。体から何か抜き取られたとしても一部分ではないのか。丸ごと無くなる人もいるのか? 

 捕まっている者はさっきまで笑っていたのにぐったりしているようだ。枠に縋り付いているというべきか引っ掛かっているというべきか、じっと動かない。姿勢を直す元気も無いのか、縛られてその自由が無いのか。そこにまた三人男が連れられてきた。みんな元気で笑っている。花灯がその一人だった。他の二人と同じような服装をしている。胸に番号が振られていてサッカーかラグビーのジャージのようだ。三人でやってきて、そしてみんな揃ってつかまったのだろう。逃げた人はいないのだろうか。

 女たちの方を見ると輪の速度が上がっていた。そのうち女たち一人一人の姿が意識から消えて、大きな輪だけが速く回っているように見えてきた。風がビュービュー吹き出している。輪の中央、女たちの頭の上が少し明るくなってきた。何の光か分からないけれど、ぼんやりと明るくなっている。女たちは緊張した表情で走っているようだ。近くから見ているわけではないので確実ではないが、どの人も何か思い詰めたような顔に見えた。

 輪の動きはさらに速くなり、そのうち前に向かって飛び出しては地面すれすれに身体を投げ出すという動作が付け加わった。どんどん速度を上げていたが、合図があったのか急に速度を落とし始めた。そして止まった。女たちが息を弾ませているのが見える。再び身体を前に投げ出す動作が始まって、延々と続く。みんなよく体力が続くものだなと感心した。腰掛けていた女性たちはお腹が大きいらしい。走ったりしないで見ているだけだったのだが、今は立ち上がって体をくねらせ揺すっている。何だか高いところに上っていこうとでもするかのような動きだ。輪は、音楽が鳴ったり、拍子木が打たれたりするわけではないのだが歩調を揃えて動いている。

 輪の女たちの動きに奇妙な動作が加わった。小刻みに左右に揺れながら前進したのだ。見たことのあるような動きだと思った。何に似ているのだろう。最初は酔っ払いの動きに似ていると思った。体を揺すってゴリラの動きを激しくした感じとも言えそうだった。これまで全く見たことのない動き方というわけでは無いのだが、よく見るものでもない。何の動きか思い出せない。女たち全員が、体がむず痒くてそれから逃れようとしているとも言えそうだ。それから一旦停止した。何だか上の方に身体が膨れていっているように見える。それが段々早くなった。皆は慣れているのか、動きがかなり速い。これではついて行くのが大変だなと思った。女たちの足元がかすかな星の光を反射して、大きな光の輪を描いているように見えて来た。女たちの履き物の色が白か黒しかないので、長い列全体が何だか編み上げた一本の紐のように見える。

 「あぁ、蛇だ」

と思った。言葉になって漏れたかも知れない。須築を宿から引き剥がしてこの広場まで歩かせたのも、きっと蛇の一種。ここは蛇の村だ。

 見ている内に人の流れがいきなり細くなった。ある一点で絞られるように人間の大きさが小さくなったように見える。その点を通過すると再び普通の大きさに戻って流れていくようだ。その一点をじっと見詰めたが、小さな箱のようなものでも置いてあるのだろうか。そこを通過する瞬間だけ人間が一寸法師のように小さく縮んだように見えるのだった。

 どういう仕掛けだろう。光が屈折するとかして誤魔化されているのだろうと思ったけれど、珍しい光景だ。人の輪の脇に高さ三メートルほどもあるように見える塀が立てられていたのだが、輪がずれていってその上を女たちが流れるように通過した。人の流れを妨害する物をよいしょと力を込めてよじ登るという感じではない。滝の流れが逆流して塀を越し、その向こう側で普通に滝が落ちるといった形だ。これもどういう仕掛けか分からなかった。一生懸命に見詰めているうちに、彼女らが強く跳ねているのに気が付いた。腕のいい奇術師の工夫した芸のようだ。

 あぁ、蛇だ。蛇だから、あんなことが出来るのだ。しばらく睨み合った相手に、一瞬の跳躍で襲い掛かり捕えるのだ。これは蛇の祭だ。みんな蛇の真似をしている。

 そのうち女たちの表情はいつの間にか和らいで、みんな嬉しそうな表情になったようだった。生き生きと輝いて見える。女たち全員が光を発するように輝いてもいる。光の輪がゆっくりと動いている。

 輪が乱れたと思ったら、男性が一人捕まっていた。その人もさっきの連中と同じように袋に入れられてしまった。須築は暴行を受けていないが、やはり囚われ人のような気がしていた。何と言っても一旦袋に入れられた後ここに座らされたのだ。これからあの暴行に匹敵するような目に遭わされるのではないか。玉座のような椅子に座らされていても不安だ。いつ下ろされることになるか分からないし。自分では玉座と思っているが、生け贄の単なる陳列台かも知れないのだ。

 女たちの中に、あの美女グループがいるのに気が付いた。彼女たちも今日は他の女性たちと同じくピカピカ光るレインシューズを履いている。細身のそれはなぜかとても須築の性欲を刺激するものだった。しばらくうっとりして眺めていた。

 そう思っていたら、椅子から下ろされた。どういうことかと思っていると、またさっきのように袋に入れて吊された。えっ、自分も消されるの? 代わりに別の男が椅子に座らされている。なぜ入れ替えられたのか分からない。今まで座らされていた理由も分からないのだが。花灯がいたはずだが、消えていた。

  ポキッ

  ポキッ

という小さな音と、

  ギイェー

という呻き声とが間断なく聞こえる。斧通さんもあんな恐ろしい呻き声を発しながら骨を抜き取られたのだろうか。小さな音はもしかしたら腱を外すか、ちぎる音ではないのか。 

 須築が椅子から下ろされた時に同時にまた三人が捕らえられてきて、さっきと同様に暴行されたのか消えた。

 彼らを拘束しようとして大いに乱れた女たちの輪は再び整って動き始めた。もう一点で絞られたり、高い所を流れるように通過したりはせずに、普通の盆踊りのような流れ方だ。

 女たちの輪がまた動いて、それが男たちの木枠に近付いてきた。さっきは何をしていたのだろうか。悲鳴を聞いていたのでイヤな感じだと思っていたが。端にいた男の顔に輪の女たちがニヤニヤ笑いかけている。男の顔に向かって女達が顔を突き出していく。どういう意味の動作か分からない。それから男の身体を数人の女で取り囲んだ。先頭の女が男の頭に黒っぽい頭陀袋を被せた。男はぐーっと唸った。一瞬のことで静かになった。女が通り過ぎると次の女が男の身体を囲む。バキッといった音が響いた。何の音だろうか。ギイェーという悲鳴が上がった。当人だけでなく見ている者の方からも。悲鳴が上がるのだが、女たちは動じる様子もなく順々に動いていく。男の身体の様子が変だ。頭陀袋が外されると、頭の位置が低くなっていた。背骨を抜かれて低くなったのだろうか。

 何が何だか分からなかった須築にも、だんだん情景がはっきり見えてきた。輪の女たちは次々この男に近付いては、唾を吐きかけていたのだ。その度に頭が白くなっていく。汚いなあと思った。しばらくすると男がギャーッと叫んで頭の位置が更に下がった。この時、ゴポゴポという音も聞こえた。何の音だろうか。その音は聞きようによってはポキポキと聞こえそうに思われた。何が起きたのかまだよく見えない。しばらくして頭陀袋が裂かれると、黒く縮まった物体が見えた。それが女たちに触られるたびに、クレヨンや口紅が使われるに従い摩耗するように少しずつ丈が縮んでいく。ギャアという恐ろしいばかりの絶叫が聞こえた。ここは町から離れているのだが、そちらまで聞こえたのではないかと思うような大きな叫びだった。グシェーという異様な叫びと共に首が無くなった。何のどういう痛みによる悲鳴なのだろうか。何だか物が腐ったような厭な匂いがムワーッと漂ってきた。それからまた凄い絶叫と共に両腕、胸がすり減っていき、腹や脚もすり減ったのだろう。袋が風に煽られて僅かに揺れた。血が流れたりしているかどうかまでは分からないが、不穏な感じだ。それが一区切りつくと、輪になった女たちが前に飛び出すと身体を低くして滑らせるような動きをした。神を崇める仕草なのだろうか。

 椅子の男がラッパスイセンに囲まれた後入れ替えられていた。下ろされた男はがっかりした様子で須築たちのいるところに並んでいた。

 次の男が同じように暴行され絶叫と共に消滅し、三人、四人と消えていく。どうして摩滅するのか分からないが、とにかく消えていく。祭に行った人間が戻ってこないようなことを言った人もいたが消えるとはこういうことを指しているのだろうか。頭に袋を被らされた瞬間が一番苦しそうだが、その時に彼らの意識がどうなっているのか分からない。すり減る瞬間も叫び声がひどいので苦しいのだろうが、それ以上の苦しみがあるように見える。

 すぐ隣にいた男が袋を被せられた。そして摩滅していく。次は須築だ。とうとうダメらしい。宿で異様な匂いに外に出てしまったが、鼻を覆って我慢し続ければ良かったのかもしれない。この時身体が強張って心臓もどうかなりそうなぐらい硬く縮んでいる感じがしたはずだが、この時はただひたすら情景を見ていただけだった。逃げようとか、この後どうなるのかと考えたりは全くしなかった。ほんの少しの間だけと思われるが、気絶していたようだ。

 気が付くと頭陀袋を持った女が正面で笑いかけていた。列の先頭の二人の身体が何か生き物の上顎と下顎に見える。横に並んでいるのに上下に見えるのが不思議だ。そうしてこれから頭陀袋を被らされるのだと思った。中でどんなことが起きているのか知らないが、みんな苦しそうだった。こんな所で、こんな風に自分は人生を閉じるのかと思った。ガタガタ震えていたはずだが、意識は飛ばずにそんなことを考えていた。袋の先が素早く動いたはずなのに、ゆっくりと動いたような見え方だと思った。いよいよ自分。笑いかけてくる女も美しいが、恐ろしい女は一層美しい。美女たちの中でもとびきりの美人だった。

 さっと袋を翻した。女の体からは細い糸のようなものが伸びてきて、それが須築の体がその袋から逃げないように抑えつけてきた。真っ赤に焼けた焼け火箸を両方の肩に押し付けられたような感じだった。呼吸が出来なかった。袋の中に何があるのかは見えなかったが、真っ暗な闇の中で何か獰猛なものがうごめいており、それが須築の体を切り刻もうとしているのか粉々に砕いて潰そうとしているのか、とにかく自分の体をぼろぼろにしようとしていることを感じた。そしてこの土地に来てから初めて性欲を覚えた。数日分の性欲がまとまって噴出したような気分がした。事故の時でも死ぬことをあまりはっきりと意識しなかったのだが、この瞬間だけはなぜか物凄い冷気のようなものがあった。強い臭気を感じた。あの美女グループにあったかすかなムカデとカメムシの混ざったような匂い。それが棒で殴りつけでもされたような圧力で顔に吹き付けられたのだ。そして、須築は絶叫していたと思う。だが、自分の体を押し包みに来たものがふわっと須築を飛ばして、なぜか次の男を、襲った。緊張で圧縮された体がいきなり猛烈な圧力を解かれて、自分の体が爆発的に砕け散っていくような気がした。それから強烈な匂いを感じた。例のカメムシとムカデの匂いを混ぜた奴だ。今まで嗅いで来たのと違い、強烈だった。一瞬意識が無くなった。

 ふと気が付いて何とか首を回して隣を見ると、その男が、なぜ順番を飛ばして自分が襲われたのか不可解だと言いたそうな顔でこちらを見た。その直後、袋を被せられた。ぐったりした男の向こう側に吉多さんがいるのに気が付いた。彼と一緒に騒ぎ立てれば何か変化を起こせるかも知れないという考えが浮かび、須築は合図を送ろうとした。しかし吉多さんは硬直して呆然としたままだった。須築に気付いているのかどうか分からない。自分がそうだったように気絶しているのかも知れない。

 吉多さんも更にその後の男たちも、合計十数人の男たちが消滅していった。本当に消えたのだろうか。消えている間に体から必要とされるものを抜き取られるのだろうか。でも女たちにはまだ体の一部を失うような状況が到来していないように思う。それともぐるぐる回るうちに落としたのか。それからようやく木枠の周りを暗い闇が満たしているのに気が付いた。

 十人ぐらいの女たちが天女の衣のような着物をひらひらさせながら近付いてきた。一瞬ラッパスイセンかと思ったが、人間のようだ。見えている動きではザクザクと響くはずなのに、大勢の女たちの歩く足音が発するのはズルズルといった物を引きずるような感じのかすかな音だった。

 気が付くと玉座は空席になっていて、この場にいる男は須築一人が残されているだけだった。また他の連中がひょっこり現れないかと思った。須築は誰もいない木枠を眺めた。最後に残されて、他の連中よりももっと惨い目に遭わされるのかも知れないと思った。なぜだ? 悪いことをした覚えはないぞ、と思った。頼る者の無い孤独感が身に染みた。歯は気付いた時にはガチガチ鳴っていたし、足元には小便の、そして精液の水溜まりが出来ていたことだろう。

 袋を外された後すぐは、やはり力任せに引き摺って行くといった感じの扱いだった。ところが途中で急にみんな立ち止まり、取り囲んでいた女性たちが須築の身体に付いた埃を払ってくれた。それから丁寧に案内でもするかのように招いて。

 玉座に着いて見ていると、今度は女たちの輪が徐々に小さく縮んでいく。捕まったはずの男は消えていた。輪は遠近法の教科書の例示のように小さくなっていく。飲み物が出された。匂いを嗅ぐと初めて経験するものだった。しかし不快ではない。一口飲むと何だか辺りの景色が変わったような気がした。なぜだろう。すぐに分かった。周囲に漂っていた悪臭が消えたのだ。カメムシとムカデの匂いを混ぜたようなものが消えて、バラか何か美しい花の香りに似た芳香が辺りに満ちていたのだ。もう一度空気の匂いを嗅ぎ直したが、もう悪臭は感じられなくなっていた。こんなものを飲んでいれば、悪臭に耐えやすいはずだ。

 霧が出てきた。頭から大きなフードのようなものを被せられた。透明なので、辺りは見渡せたが少し息苦しい。

 やがて轟音が聞こえた。

  メキメキメキ

 生木を裂くような音。

 辺りが白くなりどんどん見通しが悪くなってくる。

 女たちの声。

  グゥエー ギャー

 呻き、叫ぶ苦悶の声。

 そして人の高さが段々低くなり、とうとう地面からの出っ張りが無くなってしまった。全員が倒れて地面に伏せたかのようだ。女たちの着ていた衣類やレインシューズだけが散らばっているのだ。辺りは白くなり、何も見えなくなった。自分の顔や手足を触っても濡れるわけではないようだった。普通の霧ではないのだろう。

霧だと思ったものが光り始めた。光はどんどん強くなって眩い。それがどうやら上昇していくようだ。まるで太陽の光のようだと思った瞬間、バッと空全体が光って上方に赤い大きな塊が一つ現れた。たらこかウィンナソーセージのような形だ。ぶるぶると激しくうごめいている。それは東西南北のあちこちを眺め渡すように動き回った。辺りはしんと静まり返っている。星も光が消えていた。その赤い物しか見えない。それにしても今見ているものが実際に存在しているものと思えない。自分は夢か幻覚を見ているのだと思った。両手で、太股を思い切り叩いてみた。痛い。これは現実なのだろうか。頬も叩いてみる。太股も頬も自分で叩くとあまり力が入らないのだが、痛いと思うのでやはり本当に見ているのだろう。

 子供の頃、近所の年上の子に恐ろしい話を聞かされたことがある。真夜中の十二時を過ぎてトイレに行くと、便所の大きな穴から赤い手が出てきて、お尻を撫でられるというのだ。当時は水洗便所ではなく、大便所にはポッカリと大きな穴が開いていた。穴の底は暗く、見ていると落ち込んでしまいそうな不安を覚えた。その真っ暗な穴からヌーッと出てくる赤い手が裸の尻を撫でること以外に何をするということも言われなかったのだが、気味悪さは心に刻みつけられた。寝床の中で時計の音を聞くたびに数をかぞえ、十二時を過ぎていたら死んでもトイレには行かないぞと思っていた。その結果、何度か寝小便をしてしまったことがあった。

 その赤い手を思い出した。今は何時だろう。場所は違っていても本当にあったのかと思った。中学生の頃から、あれは誰かの作った怪談話に過ぎないと思っていたのに。その巨大な赤いものは幾度となく身をくねらせた末に、一方を少し上に持ち上げると、男たちの縛り上げられていた木枠の上に覆い被さりにきた。そして雲のようになった赤いものの中で絶叫する声、つんざくような悲鳴が聞こえた。誰もいなくなっていたはずの所で聞こえた声に、須築は緊張でまた体が強張った。彼らは一体どこに潜んでいたのだろう。

 赤いものは一つの塊ではなく、何本もの赤い紐が絡み合ったもののようだ。須築は自分の心臓の鼓動が激しくそのままどこかに吹っ飛んでいくのではないかという気がした。しばらく異様な音と呻きや叫びが耳を聾した。しばらくして雲の色が薄らぐと、辺りには男たちを縛った木枠も惨殺した跡も無くなっていた。小さな祠と自分が座らされた玉座があるだけだ。吉多さんたちはどうなったのだろう。

 赤いものから何かが降ってきた。雨のように見えるが、雨ではないようだ。須築の体は濡れない。気が付くと地面に散らばっていた衣類や履き物がゆっくりと持ち上がり女たちの姿になってきた。

 赤いものがいなくなり、満天の星がきらめくのに気が付いた。ずっとこんな空だったはずだが、今見上げてその明るさに心を奪われた。しばらく辺りがしんと静まり返っていた。そしてそれから大きな拍手が湧き起こった。拍手しながら女たちの輪があちこちで崩れ、お互い誰彼無く抱き合い、握手し合っている。どこがどうめでたいのか分からないけれど、須築も何だかほっと息をついた。女たちに何かが起きたのは分かった。何が起きたのかは分からないが。そしてあの二十人近い男たちはどうなったのだろうと思った。

 須築は叩かれたりしたわけでもないのに尻が少し火照るのを感じた。もし叩かれていても、意識が遠のくほどには痛みを感じることはなかったのではないだろうか。捕まっていたとしても、自分は何とか暴行に耐えきれたと思われる。でも頭陀袋の中には何があったのだろうか。刃物を仕込んであったのだろうか。それで斬られたら終わりということではないのか。こんな出来事についての話は全く聞かないで来た。自分が初めて体験したのだろうか。頭から被っていたフードが外された。新鮮な空気にホッとした。

 女たちの表情は星の光に照らされているのを見た限りでは、どの人も優しそうに見える。うれしそうに見えた表情は見間違いではなかったようだ。

 女たちは解散すると輪の周囲に散って、荷物を拾い上げている。知り合いと呼び合って細い道に出て三々五々帰って行く。美女グループもどこに行ったのか、祭の参加者のほとんどがいなくなる時まで、目で探し続けたが見つからなかった。

 夜が更けてどんどん気温が下がっていく。寒いので、飛び跳ねて体を動かした。辺りには、ビニール袋のようなものが多数散乱している。どこから出てきた物だろう。どこか身に付けていたのだろうが、何を入れていたのだろう。持ち物のことは気がつかなかった。みんなが一斉に捨てて帰るのも奇妙な話だ。風に吹かれて飛んできた物を、反射的に掴もうとしたら、

 「触るな」

と怒鳴られた。しかし怒鳴った女はすぐに表情を改めて、

 「触るものじゃないのよ」

と言い直した。この人の服装が遠目にはラッパスイセンが立っているように見えた。世話人のユニフォームか。

 自分はこれからどうなるのだろう。体が冷えるのを覚えた。須築は椅子の上で軽くぴょんぴょん飛び跳ねた。

 「お元気ですね」

 世話人らしい女性の一人に声を掛けられた。華奢な体で、細い銀縁の眼鏡を掛けている。学校の先生か、学者かといった雰囲気だ。事務職といった感じの人もいる。何の仕事に携わっているのか小柄でも逞しく見える人もいる。仕事は違うのだろうが、みんな揃って美人だ。あの美人グループと並んでも引けを取らないと思った。色の白いのが美人と思わせるのではないか。居残っていた女性たちも色が白い。抜けるような白さと言って良い。

 そして須築の方にまっすぐ体の正面を向けてものを言う。食堂などで女たちが向こう向きになって言葉を発していたのはどうしてだったのか。

 「さぁ、行きましょうね」

 世話人たちが声を掛け合っている。そして十人ほどの女性が集まってきた。ミントのような香りがしている。少し前までは藁の腐ったような、厭な匂いがしていたような気がする。祭のために用意されていた香料だろうか。小型のバスが近付いてきた。異様に幅の狭い珍しい形のバスだった。座席が十ほど並んでいるのが見えた。その車内灯の明かりに照らされて彼女たちの白く美しい顔が一層美しく見えた。

 停車してもしばらく、バスの扉は閉まったままだった。誰も乗せないつもりか。何のために置いてあるのだろうと思う。世話人の一人が、

 「あっ、開けないと。乗せられないわよ」

と言って扉をノックすると、開かれた。かなり迂闊な運転手だ。祭だから興奮して忘れるということもないだろうに。

 順番に全員乗り込んだ。須築は後方の座席に座らされた。彼の前に女たちが座る。何となく護送されるみたいだと思った。手錠を掛けられたりするわけではないが。丁寧にもてなされているのか粗雑に扱われているのか、さっきはあの捕らえられた男たちとは違って玉座にでも据えられたような気でいたが、自分も虜という点では同じなのだろう。汚れた服を脱がされ、新しいのが分かる紺色の抽象的な絵柄が入った浴衣に着替えさせられた。しかしまだ自分にとって,それはくつろぎの衣類ではなく、帷子のようなあの世への旅立ちの服装に思われた。バスの運転手は女性のようだ。男子禁制が徹底されているのだろう。扉が閉められ出発しようとエンジンがかかった時、乗り遅れたのか、一人走ってきた。運転手がまた扉を開け忘れているようだ。プロの運転手ではないのだろう。ひどく細い道なのに、そんな人の運転で大丈夫だろうか。走ってきた人がいつの間にか前の方に座っていた。あれっ、いつ扉を開閉したのだろう。

 広場にはまだ数人の女が集まって話しているようだ。

 カーテンが閉じられた。前の方でも運転席と隔てる布が張られ、外の様子が全く見えなくなった。暗いし、道も全く分かっていないので、隠す必要もないように思うのだが。やはり護送のようだ。この後一体どうなるのだろう。まだまだ死にたくないのだが。バスが動き始めた時、前方の女性が何か叫んだのですぐに止まった。五、六人下りていき、すぐに戻ってきたが、人を抱えて来た。よいしょっと前方の席に乗せた。

 服装に見覚えがあった。笹季さんだ。ぐったりしている。みんな消えたと思ったのが現れたのでホッとした。

 「全部で何人?」

という声が聞こえた。

 「三人」

 「どこ?」

 「延髄を抜かれたんだね」

という囁きがかすかに聞こえた。その時、シーッという声。須築を指す身振りが見えた。一体何のことだろう。

 延髄を抜かれた人がいるのだろうか? 延髄は呼吸中枢があったりして、人間が生物として生き続けるのに必要な機能を担っていると聞いた覚えがある。そんなものが抜き取られたのか。そんなことになれば即死するのではないか。女性の紛失したものを祭に潜り込んできた男から補充すると聞いて、それについて手足の筋肉や目や鼻をイメージしていたが大脳を抜き取られることもあるのか。生きていられないのではないのか。笹季さんは全く動かない。おしゃべりし始めていた女性たちがみんな揃って一言もものを言わずに黙っているのが不気味だ。蘇生できるのだろうか。広場で抜き取られてそのまま抱えてきたのだから、どこか病院に連れて行くのだろう。

 そう思っていたが、車はゆっくりと走って急ぐ様子が無い。両側の雑草にこすられてパサパサカサカサと音が止まない。細い道だったが幅の狭い小型バスなら通行出来るのかと思った。

 やがてバスは真っ暗な場所に止まった。病院なら出入り口付近は照明が灯っているだろう。しかし真っ暗な場所で止まったバスからまた五、六人の女性たちが笹季さんを抱え下ろした。病院も夜間は暗くしているのだろうか。すぐに明かりが点くと思ったのだが暗いままで、間もなくかすかに水音のようなものが聞こえた。生臭い嫌な臭いが入ってきた。

 まさか、死んだからと池かどこかに投げ込んだ? 笹季さんを抱え下ろした女性たちが戻ってきて席に着いた。バスはまた走り出した。今度はどこへ連れて行くのだろう。自分もどこかに投げ捨てられるのかもと思った時、

 「祭主様をお宿に御案内します」

と言われた。宿とは言ったがどんなところに行くのか少し不安だ。バスは何度も止まり、何度も曲がり、そして何度もバックした。速度も速くなったり遅くなったり複雑な動きだった。須築にはもともと土地鑑が無いし道を覚えるのが苦手なのだが、こんな走り方では地元の人間でもどう走っているのか分からなくなるだろう。それを狙っての運転なのだろう。あの美女グループの誰かが一人でもいればどんな所に向かうのか尋ねられるのにと思ったが、誰もいない。見回したが、誰もこちらを向いている人がいなかった。

 そのうちリーダーらしい人が、

 「お宿に着きましたら、後は全てゆったり為されるままにお過ごしになって下さい。困ったことが起きてはいけませんから。何事も、御自分で処理するのではなく、仲居に御連絡下さい。さもないと大変なことにもなりかねません。何事もされるがままにです。宜しいですか」

と須築の目を見ながら言った。年はあの美女グループよりも遥かに上だが、抜けるように美しい顔だ。

 「何事についても仲居に言いつけて下さい。さもないと大変なことになりかねません」

と、また繰り返した。声も素晴らしい。ずっと声を聞いていたいと思った。しかしどんな困ったことが起きる可能性を想定しているのかが気になった。尋ねようと思ったのだが、すぐに、

 「到着しました」

と声が掛かって、降りなければならなかった。直接建物の内部に入る仕掛けになっていた。着陸した飛行機から空港のビルに入る時のようだ。便利だなと思ったが、建物の周囲はどうなっているのかバスの車体に塞がれて見えない。どうせ夜の闇で、少し歩いたところで何も見えないだろうが。スリッパに履き替えた。雰囲気はまるで観光地の旅館のようだ。新しい木の香りがする広々したロビーだ。臭い虫の匂い、恐ろしい女の口から吐き出された臭い匂いはない。黄色っぽく明るい空間は好きだ。こんな立派な旅館があるのなら、あのみすぼらしい民宿には泊まらなかったのにと思った。あそこしか無いと言われたような気がするのだが。顔が映りそうなほど磨き込まれたベージュ色の廊下を通って部屋に入ると、やはり旅館の客室のような和室だった。十畳ほどの青々とした畳敷きの部屋の真ん中に黒い座敷机が置かれ、その上に御茶のセットが置いてある。

 世話人たちが出て行った。代わりに濃い色のサングラスをかけ紺色の着物を着た華奢な女性が入ってきて、御茶菓子を置いた。

 「ゆっくりして下さいませ。ここでは何事も私にお申し付け下さいませ」

 仲居なのだろう。かなりの年輩に見える。それで祭には行かずにここで待機していたと思われる。隣の部屋に布団を敷いた。そちらも同じぐらいの大きさの部屋だ。少し汗ばんだような気がして入浴したいと思った。それを察したように、

「お風呂も沸いておりますよ」

と言った。落ち着いた、少しねっとりしたような声で、しかし独特の発音で言う。祭が終わってから、女たちの発音から促音が減ったような気がした。自分の聴覚が狂ったということなのだろうか。それとも彼女らの発音が変わったということなのだろうか。祭に参加するかしないか発音に関係するのだろうか。トイレや風呂の場所を説明すると出て行った。須築は少し空腹を覚えたので御茶菓子を食べた。平凡な栗饅頭だと思った。それでも甘いものが口の中に広がるのを感じて、ようやく自分は助かったのだと思った。あまり甘いものを食べない暮らしをしていたので、栗饅頭というのがこんなに美味しいものだったかと感心した。部屋から少し歩くと大きな風呂があった。露天風呂もあって気持ちが良い。一人で使うのがもったいないような浴場だった。部屋に戻って、布団にもぐるとすぐに寝入ってしまったようだ。翌朝、味噌汁の香りで目が覚めた。座敷机に朝食の用意がされていた。御飯、麩と薄い蒲鉾、若布などの入った味噌汁、端噛み生姜の付いた焼き魚、玉子焼き、焼き海苔、香の物。日本旅館の典型的な普通の朝食だ。民宿で食べてきたのと変わらない、と思ったのだが違った。何か特別な材料を使ってあるのか素晴らしくおいしい。テレビやラジオは無かった。携帯電話は圏外表示が出て使えないようだ。新聞もない。食事をしたばかりだが何か飲みたいと思った。部屋に冷蔵庫なんかあったかなと思っていると、仲居に、

 「お飲物がご用意出来ました」

と言われた。何かの木の実から醸した酒なのだそうだ。僅かながら甘みが感じられた。祭の会場の玉座で飲んだものとは違っているが、これも美味かった。杯に注がれた時、仲居の手がチラッと見えた。何だか感じが普通と違うと思った。何が違うのかとじっと確かめようとしたが、すぐに手を引っ込められたので分からなかった。

 起きて間がないのに急にまた眠くなった。ゆっくり起きた後は、出歩くたびに仲居に会って飲み物やお菓子を勧められた。そのタイミングが絶妙なのに感心する。喉が渇いた、腹が減ったとほんの少し考えただけで持ってくるのだ。これが祭主というものなのかと思った。何でも察してもらえるというのはなかなか良いものだ。自分でも、よく食えるなぁと呆れるぐらい食べ、そして飲んだ。酒を誘われると断れないし。飲む物も食べる物も素晴らしい。なかなか素晴らしい待遇だと思った。

 須築の泊まった部屋と隣の部屋以外客室らしいものが無いようだ。個人の家よりは幅が広く長い廊下に沿ってゆっくり歩いてみるのも面白いことだった。部屋に戻って窓を見ると、空は晴れて白い雲が浮かんでいる。手前は洋風の庭園になっていて、美しい芝生が広がっている。庭の向こう側には杉か檜がぎっしり生えていて、遠くに山並みがあった。何という山脈なのだろう。庭に出る履き物が無い。玄関に取りに行くのが面倒なので、裸足で芝生におりた。ふかふかと気持ちが良い。しばらく横になってみた。そのまま眠ってしまいそうだった。玄関からも出てみようとしたが、扉はなく、大きな壁ごと開くらしい。バスが来た時だけ開かれるそうで出入り出来なかった。

 またおいしそうな香りが漂ってきて、仲居が座敷机に昼食を並べ始めた。エビフライやウナギの蒲焼きを含む豪華なものだった。

 「客は私一人ですか」

 「そうなんです。ここは祭主様を御接待申し上げるための特別な宿舎で御座いますから」

 彼女は台車を押して厨房に戻るようだ。厨房に入るドアが閉じられると、廊下はしんと静まりかえって不気味なほどだ。昨日は緊張した。今日、こうやってボンヤリしていると体がほぐれてきて実に心地良い。しかしこの後の予定を何も聞かされていない。祭でこんな立場になった人は、どんなことをするのだろう。普通の祭では神輿などを担いだ人はそれを神社に納めると同時に参拝するだろうが、それが済むと自宅に帰るだろう。この祭での神社参拝に相当する行事は何だったのだろうと思った。京都の祇園祭では先頭の長刀鉾に乗る稚児さんは張られた結界の綱を切ったり、八坂神社にお参りしたりするみたいだ。そういうことをするのが祭の核心だろう。自分は何をすれば良いのだろう。今のところ何の説明もない。昨日の恐ろしい経験は祭主の選抜会だったのだと思う。そろそろ誰かが来てこれからのことを説明する頃合いかなと思う。でも、と思った。八坂神社には豪華な社殿があるけれど、ここの祭壇はみすぼらしかったな。田舎だから仕方ないのかな。あそこに戻って拝むのだろうか。何だか二度手間という気がするし、社殿ももっと飾り立ててあるはずのものと思うのだが。拝んでから連れてくれば簡単だろう。新しい祭と聞いたような気もする。それなら洗練されてなくても仕方ないのかも知れない。昼食に箸を付けたが、食べながらあの恐ろしい祭で一人だけ生き残らされて、この後どうなるのだろうとまた思っていた。

 食器を片付けに来た仲居が、

 「しばらく宴会が続きます」

と言った。そう聞いた後、しばらくと言われても何日ぐらいかかるものかと思った。それを察したのか、

 「そんなにかかりません」

と言い、

 「でもまだ山道が塞がったままで御座います。開通までもうしばらく掛かると思います」

と、付け足した。須築が考えたことが分かりでもするように、反応が返ってくる。手間が省けて心地よい。

 「何日ぐらい掛かりますか」

 「さぁ、一週間はかかるかと思います」

 やっぱり。都会の近郊なら二日もあれば通行できるようになるものだが。ここは大変な奥地だ。道幅も工事の重機が入るのにどうするのかと思うようなところだった。仕方ないのかなと思った。

 「あの道は、どうやって修復するんですか。車が入りにくい道だったけど」

 仲居に尋ねると、内心予想した通り、私には分かりかねますという返事が返ってきた。

 「祭主様ですから、道の具合に関わりなくもう少しお付き合い下さいませ」

と言う。「祭主」か。なかなか良い語感だと思う。でもどういうことなのだろう。重要な行事が待ち構えているのだろうが、その見通しが示されない。また御馳走を食べ美味い酒を飲んで、肌触りの良い寝間着を着て心地よい布団に横たわった。

 「まだ開通しませんか」

 翌朝、早々に尋ねた。仲居が笑って、

 「重機が入る道を開き始めた頃かも知れません」

と言った。

 祭主って、何をするのか? 誰がいつ説明してくれるのかが気になった。すると仲居が言うのだった。

 「もう少しすれば、全てはっきり致します。まだその準備を進めているところと思います」

 「あなたは御存じでしょう」

 「いいえ、その」

と言葉を詰まらせる。

 「私はお食事などのお世話をするだけの係で御座いますから」

と言った。誤魔化された気がした。他に人がいないので、彼女にかわされるとどうしようもないのだ。ここに来て初めて思い通りにならないと思った。少しばかりイライラする。今までの察しの良さはどこへ行ってしまったのだろうか。この先のことだけは全く教えてくれない。仲居も知らされないほどの機密に関わることなのだろうか。祭主の大切な行事。

 ふと、良い行事と悪い行事があるのではないかと思った。そう考えると落ち着かなくなる。この宿舎の構造を考えると、気になる。到着した時に非常口の説明は無かった。うっかりしていた。それに玄関が閉じられていて出ていけない。露天風呂や芝生の庭からは、外に通じる道が見えた。しかし、そこに出ていくルートがよく分からない。万が一の時に、どう逃げるかを研究する必要がありそうだ。飲み食いに満足しきって、それで何も気にしていなかった。すっかり油断していた。

 女たちの動きが作り出した大きな蛇のようなイメージ、そしてウィンナーソーセージのような巨大な化け物を思い出す。

 あれは本当に見たものかな。そんなことも思った。あの時、両方の太股を思い切り叩いて痛かったことは覚えている。今、振り返ってあの痛みも現実には無かったのではないかと思った。叩くだけでなく、爪を立てるなりして傷を作っておけば、今、本当のことだったかと疑うこともなかったのに、と後悔した。振り返って、あれが事実だったと証明するものは何一つない。どうしても、あれが現実だったと思えなくなっている。

 厭な予感がしてきた。今、閉じ籠もって祭主としての行事を待っている。なぜか。準備に時間がいる? どんな準備か。村の準備なら、毎年のことなのだから予め出来ているはず。ならば祭主の側の準備。自分の準備? 何を準備する? 御馳走を食べてごろごろしているだけ。最後に殺すだけなら、あの料理は出されないだろう。なぜうまいものを食わせるのか。そこまで考えた時、一番最後の男としてやはり蛇が自分を食いに来るのではないかと思った。グリム童話だっただろうか。ヘンゼルとグレーテルのお話のように、痩せこけた子ども達を太らせてから食べようとした魔女! そうか。それなら分かる。宿舎にじっとさせておいて、御馳走を食べさせることが。問題は閉じ籠もっていることだ。出て行けば良いのだ。自分をこのように閉じ籠もった状態に置いているのは、やはり結局最後の最後に殺すつもりということではないのか。自分は何をすべきか。そう、逃げ出すこと、それしかない。何かひどいことになりそうだと思う。でなければ、自分を部屋に引き留める必要がないだろう。

 部屋に戻りながら、忘れない内に靴を手元に置いておかないといけないと思った。庭は柔らかい草が密に生えていて裸足で歩くのに心地が良いのだが、その先の道は靴が要るはずだ。列車に乗る時も裸足では具合が悪い。靴をどこに置いてあるか尋ねようと思って探したが、仲居がどこにいるのか居場所が分からない。何度も芳しい匂いをさせて料理を運んできたのはこちらの方だった。ならば、こちらに戸口があるはず。しかし、見付からない。廊下には平たい壁が面しているだけで扉らしいものがどこにも無いのだ。こんな建物は初めてだ。壁をノックして回った。

 「わっ」

 突然、壁に割れ目が出来たように扉が開いて、仲居が料理を載せた台車に手を掛けて立っていた。奥に見える厨房は普通のもののようだが、珍しい出入り口だ。リネン室が見当たらないのも、同じ構造ということだろうか。

 「お履き物はこちらで御座います」

 玄関脇の壁と見えたところがゆっくり割れて、下駄箱が現れた。こんなところに、と思う。部屋に戻ると、また美味しそうなお菓子が用意してあった。そういえば、少し空腹だった。饅頭や煎餅、ケーキ、クッキーはもちろんどう説明して良いか分からない新奇な菓子が次々出てくる。ろくに体を動かさないので太りそうだが、避難経路を確認したので穏やかな気分で食べられる。ここのお菓子は高タンパク高カロリーのものが多い。風邪をひいた時はそういうものを食べると治りやすいと聞いたことがある。山深く医院に通うのが大変なので病気予防のためなのだろうか。祭主だからなのだろうか。

「御夕食で御座います」

 客室の扉は普通の扉で、特に隠すようにはなっていない。構わないのだろうか。外部からの侵入者があれば、真っ先に襲われそうだ。襲わせるための仕掛けかとも思う。

 「お客様のお部屋は、御自身で分かりやすいようになっております」

 腹の虫は自分の住む肉体がどうなるか全く心配してないようだ。芳香に反応して大きな音を立てた。普通なら心配で食欲を失うはずなのに、自分は思いきり馬鹿だなと思う。しばらく影を潜めていた性欲も仲居の仕草に噴き出しそうになる。しかしさすがに、今後のことを考えずにいられない。考えるのだが、やはり切迫感がない。どこまでも無事に帰れると信じていた。今まで悩んで解決出来なかった問題はないのだ。元々悩まない人間なのだ。常に何とかなると思い、実際、何とかなってきたのだ。全身印刷も何とかなったし。あの事故の時も、結局は病院に担ぎ込まれて生き返った。

 仲居が厨房に戻る時について行った。彼女が近付くと勝手に扉が開くようだ。厨房の中を覗いた。普通の厨房だ。棚に食器が納められていて、大きな鍋が幾つか吊されている。奥は行き止まりのようだが、きっと壁が割れるように開いて食材を運び入れるのだろう。

 「どうして、扉が分からないような建て方になってるんですか」

と尋ねた。

 「変なものが入り込んできても、被害が少ないようにと聞いております」

と言った。お客の被害はどうでもいいのか、とまた思った。やはり、変なものが入り込んでくる? 泥棒? 盗まれるようなものは無いように見えるのだが。

 「それも含めて何か、どんなものでも困ります。お客様のおられます時に何かが入り込みましたら、客室も隠します」

 何かが入り込む可能性がある場所なのだろうか。それは困る。絶対に困る。昼の間は明るいので何とかなっても、夜に入り込まれたら逃げ惑うことだろう。須築は入浴後浴室の戸締まりを厳重にした。庭への出入り口もだ。部屋から椅子を運んできて、すぐには開けられないように扉の動く溝に置いてみた。これで戸締まりは万全のはずだ。夜になって仲居が引き揚げたら、自分の部屋を閉じようと思った。

 翌日もうまい酒と食事が出た。誰も来ない。一体どうするつもりなのだろうか。いつ帰れるかと思ってまた仲居に尋ねると、

 「そんなにお急ぎになっても、どうせまだ道は塞がっておりますよ。まず重機を入れる道を作っているのではないでしょうか」

とまた言う。長い山道や、大きな岩が転げ落ちた道を思い出した。とんでもない田舎だ。ここの駅に着くまでの乗り換えも思い出した。何だか手持ち無沙汰で一人でウイスキーを飲んでいると、仲居がやってきた。この人も頬や顎の線から考えてサングラスを外せばかなりの美女ではないかと思う。なぜか初めてこの村に踏み込んできた時は醜い人が目に付いたが、それは男性のことで、老女も若い人たちももの凄い美女ばかりだ。大阪の会社近くで出会ったあの美女たちも祭に出ていた以上この地域の出身者なのは間違いない。須築を送ってきた祭の世話係たち。そしてこの人。どの女も一人残らず美女ばかりだ。祭の前は思ったほどではなかったのだが、今は感心するばかりのレベルだ。自分の容貌評価の基準が狂ったのだろうか。いや間違いない。全員が美女だ。ひょっとすると人間ではないのかも。新生物なのでこんな出入りしにくい土地に隠れて住んでいるのかも知れない。それなら狂っていても当然。でも、そんなはずはない。彼女らの行動はどう考えても普通の人間なのだ。挨拶が東南アジアの仏教国風なのが珍しいだけだ。しばらく彼女らの顔を思い出しながら考えたが、やはりどう考えても整った顔立ちの人間としか言えない。でも実態は全て魔物ということなのだろうか。催眠術のことを考えた。詳しいことはは知らないがそれを掛けられていると、本人の自覚していないことをしたりするという。それをいつの間にか掛けられてしまっているのだろうか。自分は大丈夫か。考えれば考えるほど分からなくなってくる。仲居のサングラスも気になるし。何かこの事態を全て解明してみせる真相が隠れているような気がする。昼食を運んできた仲居に、

 「そのサングラス、外してみない?」

と言ってみた。サングラスの内側には何か異様なものがうごめいているのではないだろうか。日の明るい時間なら何か見られるのではないか。

 「いいえ、とんでもない」

 慌てたようだ。いつものような敬語が出なかった。

 「どうして? 野天じゃないから眩しくないでしょ」

 「そういう理由でしている訳では御座いません」

 「病気か何かということ?」

 「まぁ、それに似ております」

 髪がつややかで、口元の美しさ、妖艶さ、鼻筋のすがすがしさ、頬のシルエット、どれも申し分ない人だ。でも目だけは人に見せにくい特徴があるらしい。病気なら仕方ないが惜しいことだと思う。形成外科でほんの少しいじれば、煩わしい物を装着しなくても良くなるのではないか。

 「いいえ、そんなことではございません。私なんて、須築様のように秀でた眉が目立つ顔でもございませんし」

そして酒を注いだ。話を打ち切るつもりのようだ。その時、彼女の手に指が四本しかないのに気付いた。何だか変わって見えた原因はそのせいのようだ。また眉を褒められたが、そんな言葉で誤魔化そうとされるのが気に入らない。斧通さんの言葉を思い出した。きっとこの人は祭で落とし物をしてきたのだ。

 祭は始まって十二、三年と聞いた。この人が落とし物をして困ったから、解決策としてレインシューズを履かせるようになったのではないか。この人が初めて祭に参加するようになった頃にそういうトラブルがあったとしたら、……と考えた。あの広場には、今でもその頃に落とした指や目玉が転がっているかも知れない。そこまで考えてきて、あの消えてしまった男たちはどうなったのかとまた思った。斧通さんの話では体から何がしか奪い取られているはずだが、その後どうなったのだろう。広場ではもう誰も見当たらなかった。しかし斧通さんのように村の職員として普通に生活している人がいる。あの後のことが分からない。宿で語り合った人たちは今どうなっているのか。自分は何も取られずにこうして御馳走を食べているが、あの人たちのことが気になった。

 「祭に来ていた男がたくさんいたんだけど、あの連中はどうなってるの?」

 「皆さん、お帰りになったと聞いております」

 「無事に?」

 「特別な話は聞いておりませんから、多分」

斧通さんのことを考えると、無事に済んでいるとは思えない。しかしこの人に尋ねても答えてもらえそうにないと思った。ともかく、一刻も早くここから離れたいと思った。

 「そろそろ帰らないとまずいんですがね」

 「まぁ、ご不満でしょうか」

 「不満とかどうとかじゃなくて、仕事があるからね」

 「いつ頃までなら大丈夫なんですか」

 もうとっくに限界を過ぎている。

 「もう二、三日かな」

 会社ではどういうことになっているだろうか。花灯の失踪の時すぐには机が無くならなかったから、しばらくは待ってもらえると思うけれど、何の連絡もしていないし自分は事故で長く休んでいたので立場が悪い。警察が捜してくれているだろうか。吉多さんたちも今頃こんな場所で色々なものを引き抜かれた体を養生しているのだろうか。

 自分は恵まれ過ぎていると思う。

 「祭の主になられたのですから、もう少しお付き合い下さいませ」

 「主」という言葉に、大きな椅子を思い出した。確かに座り心地は良かったし、見栄えもしたはずだ。しかし、そうして祀ってくれたのは不思議な女たちだったのだ。我に返ると、仲居が正面に座っていた。

 「祭の主ですか」

 「そうですとも」

 「あの祭は一体何が目的なの? 男は来るな、見付けられたら本当にすり減ってしまって、みんなは奇妙な歩き方をして、赤い雲のような生き物が湧いて、よその祭とは随分違うけど」

 「人体は……で御座います」

 彼女の言葉が聞こえなかった。耳の聞こえは普通のはずなのだが。わざと誤魔化したのだろうか。何のために? 四音か五音の言葉のようだった。筋肉か、ただの筋なのか。

 「人間がそれだったら、どうなるのさ」

 須築が聞こえた振りをしてそう言うと、仲居は、

 「まぁ、勿体ないことを」

と言って着物の袖で自分の口を押さえた。その時、彼女の手の指が四本しかないのは片手だけではないのに気付いた。両手とも四本。彼女は須築がそういうことに気付いたことには気が回らないようで話を続けている。どうしてそんなことになったのだろう。母親が妊娠中に服用した薬が悪かったのだろうか。それともやはり祭で落としたのだろうか。赤く巨大なものに向かってバラバラになった女性たちの全身が飛んで行ったようだった。そうしてバラバラになったために体が緩んで落とし物をするのだろうか。斧通さんは出血しなかったと言った。あのバラバラ状態が原因で落とすならそういうこともありそうだ。男たちから補充するのなら、彼らも一旦バラバラにされていたのではないか。しかし叫び声などを聞いていると、そんな感じではなかった。無理やり力任せにむしり取ったようだった。須築はあれを経験せずに済んだことをどれほど有難いと思っていることか。

 「……は高貴なもので御座います。それで出来ているので、人間は万物の霊長となれたわけで御座います」

 どうやら口に出すと畏れ多いという理由ではっきりと発音しないらしい。万物の霊長の根源? どういうことか全然分からない。クライアントの事務所でもよく似たことを言っていたが。


 夕食後ボンヤリしていると、突然廊下が騒がしくなって若い美女たちが八人、部屋に来た。初めて見る顔ばかりだ。美女グループよりも年齢が若い分、凄みのある美しさといったものは感じられないが、やはり何とも言えない美貌だ。若い分可愛らしくもある。特別な人種の村なのかと思った。しかし、会社の同僚女性たちの顔とは本質的な違いはない。額、眉、目、鼻、唇、耳、頬、これらの組み立て方がもっと丁寧になされたということなのだと思う。会社の女性達は垂れ目で、鼻先は丸く、耳朶が大きすぎ、頬も顎も膨らみすぎているのだ。それだけの差だったのだと思う。その組み立ての良い彼女らは何をしに来たのだろう。宴会になるとは聞いた。祭主として楽しませてもらえるのは有難いが、宴会というものにはたいてい何か目的がある。職場の忘年会は日頃の支え合いに感謝し、今後もよろしくという願いを込めるものだ。友人たちとの会では日頃の無沙汰を詫び、今の状態を明かし合って互いに安心し、今後の交際を約束し合うのが目的だ。感謝と依頼が無い会合はあり得ない。美女グループのように単に楽しいおしゃべりをしに来たとは思えない。ここはキャバレーではないのだ。

 「今晩は。どうぞ宜しくお願い申し上げますぅ」

と声を揃えて丁寧に挨拶された。宴会が続くと言われている。彼女らと宴会するのだろうか。それにしては来るのが遅い。もう夕食は終わっているのだ。おしゃべりしに来た? あの美女グループのメンバーは話題が豊富で飽きさせなかったが、この八人を一人で相手するのは荷が重いと思った。ひょっとして性交? まさか。八人だ。おしゃべりする以上に大変だろう。八人を相手に、と考えるのは須築がひどく好色だからなのだろう。普通なら、八人来ても、そのうちの誰かを選べということだと理解するところなのだが。しかしそのうち、やはり彼女たちは全員が性交渉をするために来たというのが分かった。それなら確かに夕食後というのは理解出来る。誰からにしようと顔を見回した。順番によっては無駄足になる人が出るはずだ。それは諦めてもらうしかない。一人が、

 「私から」

と言った。他の七人も、

 「私が一番に」

と言って騒ぐ。そして、結局彼女らはくじを引いた。美人が相手だからこちらはやる気が出るけれど、回数が問題だ。会社近くのセックスストリートでも八回連続で性交して帰った人はいないだろう。頑張った所で三、四人が限界だなと思う。後半の順番になった人には明日出直してもらおうか。一番目の女が側にきて、他の七人がいるのに須築を裸にした。次は自分が脱ぐのだろう。明かりは灯ったままだ。普通の女だと思ったのだが売春婦だったのか。それにしては若い。他の七人が二人を囲むように座ったままだ。人に見られながらの性交は初めてだ。須築は初めて恥ずかしいと思った。部屋を出て行けと言った。しかし誰も動かない。

 「ひとのセックスを見てるのか」

 七人が顔を見合わせて笑った。そして、頷いた。相手している女は気にしないのか何も言わない。須築が仰向けに寝ての騎乗位だ。須築の胸に顔を擦りつけてきた。須築は目を瞑って周囲を気にしないことにした。女の体は須築の体にぺったりくっつくような感触だった。ソープランドの子とだが、初めて性交した時の心地よい感触を思い出した。ここ数日、こういう感触を味わってなかったなと思った。この子が若いからだろう。彼女は丁寧に愛撫してくれる。ソープランドの子よりも刺激的だと思った。とてもうまい。胸、下腹部、太股の内側、陰部のポイントを的確に刺激してくる。誰かに教えられてきたのだろうか。普通の娘ではないのだろうかと、また思う。段々興奮が高まってくる。あっ、射精すると思った。相手の子の顔を見ようとして目を開いた時、誰が切ったのか部屋の照明が落ち、そして頭に袋を被せられた。

 その瞬間あの祭で目撃した情景が蘇って、須築は心臓が止まりそうになった。

  ギャァ

 そして

  グシェー

 なんだかそんな声を上げて首の消えた男たち。正面から向かってくる凄絶な美貌の女たち……。

  ポキポキポキ

という得体の知れない音もした。あれか、あれが今、……。

 しかし、恐怖はすぐに快感に打ち消された。彼女のペッティングは絶妙だった。須築は体が空中に浮き上がるような気分がした。軽くなった肉体が触れるか触れないかの瀬戸際で彼女に触られる。思わず声が漏れた。女から声を聞くことはあったが、須築が声を上げたのは初めてだろう。全く経験したことのない感覚だった。

 しばらくドキドキして身動き出来なかった。いつの間にか射精していた。いま袋を被せられる意味が分からないし、鬱陶しいので外そうとしたが他の女たちに両手首を握られていて身動き出来なかった。両脚も腰も動かせない。七人がかりで抑えているのだ。射精が終わったのを確かめると袋が外された。肝心の瞬間に相手の顔を見られないなんてと思った。袋の意味が分からない。しかし彼女たちの愛撫は素晴らしかった。腕は二本しかないはずなのに須築は体中を同時に愛撫されているような気がするのだった。動けないように押さえつけている女たちが協力するのだろうけれど、そのタイミングと力の入れ加減が絶妙だった。すぐに二人目、三人目と代わる代わる抱きつきに来る。これ以上の快感は望めないだろうと思ったのだが、それぞれが素晴らしい愛撫をした。もう彼女らの感触を味わう余裕がない。魂が抜けそうだっとでも言おうか。

 自分がそれぞれの性交をリード出来ないのがもどかしい。彼女らがそれぞれ自分のペースで須築を迎え入れるのだ。射精する直前になるたびに袋を被せられた。女たちは交替して何度も陰茎を受け入れようとする。いわば女たちに強姦された訳だ。その後須築は全身硬直したままでじっとしていた。初めは周囲の気配を気にしていたのだったが、女性の柔らかい手による的確な刺激で快感に溺れた。奇妙なしかし絶妙な性交だった。男の精液を吸い尽くして殺そうとする妖美なインクブスとかいう魔物に接している気分はこんなのかなと思った。顔は見られなかったが須築は今まで経験したことのない陶酔感に浸った。袋を外されて最後の女が陰茎にキスした。そう言えば全員にキスされていたようだ。女が立ち上がって服を着た。他の七人も服を着る。性交の後、みんな服を着る間もなく須築の体を抑えていたのだった。須築はまだ裸のままだ。何だか疲れ果ててボンヤリしていた。その彼を囲んで、女たちは、

 「有り難うございました」

と揃って両手を突いて挨拶し、部屋を出ていった。須築は布団に寝転がったまま呆然としていた。八人全員に射精したというのが夢のように思われた。そんなことが可能だとは思わなかった。

 脱がされたものを着ようとしていたら、携帯電話の音がした。この村に来てから使えなくなっていたのだが、生き返ったようだ。部屋の隅に引っ掛けてあったズボンから取り出したが、画面を見てハッとした。タイトルとして「振興室の斧通です」と書いてあったのだ。恐る恐る受信スイッチを押した。

 「祭主になった方ですね」

と丁寧な物言いで話しかけられた。

 「はい、そうです。先輩、須築です」

 返事すると、驚く声が聞こえた。

 「須築君? どうして行ったの?」

 「教えられた通り、宿にこもってようと思ったんです」

 しかし悪臭に我慢できずに戸外に出たら戻れなくなったという話をした。斧通さんは呻き声を発した。

 「それで祭主になったということかぁ」

 「そうなんです。そのせいか、何も抜き取られてないようです」

 「あぁ、良かった。そうか。祭主か。……で、今、どうしているの」

 祭主に選ばれた人間だということが分かっても、現在の状況は分からないようだ。きれいな宿舎に送り込まれて、上等の料理や酒が出たと話す。若い美女と性交渉を持ったことは言わなかった。祭の内容がよく分かってないから教えてほしいと言われた。須築は別に隠すことでもないので、見聞したことを順番に全て話した。斧通さんは非常に驚き、そして感心している。途中までのことは彼にも分かっているはずなのだが。色々と質問してくるのにも全て答えた。普通なら信じてもらえそうにないようなことも斧通さんは真面目に聞いていた。

 行かないようにと、わざわざ奇怪な腕を見せてまでして止めてくれたのに、何をやっているんだと言われそうな気がしたが、斧通さんは何も言わなかった。

 「男性たちは恐ろしい叫び声を上げてました。恐ろしくて」

 斧通さんは、

 「そうかな」

と言う。

 「違うんですか」

 「あれは男の体をほぐすためのストレッチだ」

 意外な単語に驚いた。

 「いきなり股割をやられたら普通は誰でも呻くよ」

 「ほぐしたんですか」

 「そうだ。そうだったと思う。俺にとっては、あれはむしろ快感だった」

 自分の記憶をたどるようだ。ほぐしておいて引っこ抜くのだと気付いた。引っこ抜かれる場所の運不運はありそうだ。あれは斧通さんの言うように本当にストレッチなのだろうか。それなら良いが、大きな悲鳴を聞いていた限りではそんなものとはとても思えなかった。

 話が途切れた。須築は急いで一番気になっていることを尋ねた。

 「私は、これからどうなるのですか?」

 「多分若い女たちが何度か差し向けられるから、そいつらと性交してくれということになると思うけど。でも確かなことではない。今まで誰がその祭主になったのかも知らないし、ましてその後どうなったのかも」

と頼りないことを言った。今回は「祭主にインタビューして下さい」というメモが職場の机に置かれてあったので、室長の指示だと思って電話したのだという。

 「役に立てなくて御免」

と謝りながら、祭の全貌が分からなかったのがよく分かって今後の仕事に役立つと感謝の言葉を繰り返した。

 「明日も電話していいかな」

と言うので、「こちらこそ」と返事しかけたところで、突然「圏外」の表示が出て切れた。今、話せたのはどうしてなのか不思議だが、明日も掛かってくるだろうか。

 庭にさっと大きな鳥が来たので立っていったが、もう見えなかった。ガラス戸を開くと、冷たい風と共に人の話し声がかすかに聞こえた。女たちは風呂に入っているのかも知れない。

 須築は風呂に行く体力が残ってなかった。

 翌日は、女性たちは来なかった。仲居がおしゃべりの相手に来た。

 「さすが一番の方だと思いました」

 一番。あの美女グループにも言われた。彼女らと性交したことはなかったのだが、須築の絶倫をどうして知ったのだろうか。ソープランドに通うのを見張っていたとも思えないが。またあのような美女たちを抱きたいという気持ちと何だか危ないことになるという予感とで、落ち着いた思考が出来ない。

 昨日聞こえた声は露天風呂の方からだったかなと思いながら扉を開いて庭を眺めていた。その時、微かに人の悲鳴のようなものが聞こえた。一瞬のことだったが、悲鳴のようだと思った。何の悲鳴だろうか。どこかで映画でも上映しているのかと思った。昨日歩いただけでは見付けられていないけれど、どこかにそういうものがあるのではと思った。何か見てみたいと思った。仲居にシアターが欲しいですねと言ったが、まだ無いそうだ。せめてテレビを置いてビデオでも見られるようにして欲しい。

 その翌晩は別の、やはり若い女性が八人来た。この時はもう驚かなかった。八人全員を相手しきる自信もあった。一回出来たのだから同じことだ。抱き合う前に彼女らの顔をじっくり見る余裕があった。しっかり見ておいて、思い浮かべながら性交しようと思った。どうせまた袋を被らされるはずだ。そうしてあの美女グループの連中と同じような形の耳をしているのに気が付いた。この村は複数の地域から成っていて、その融和が必要らしい。耳の形が違うのは互いにほとんど交流が無かったことを表しているのかも知れない。今回も前と同じように袋を被せられ性交渉を持ちキスをされた。なぜそんなものを被せるのかを知りたいので、何とか外してやろうと思っていた。部屋のカーテンも開いて、月明かりが照らすようにしておいた。段々明るくなっている頃だ。暗闇に目が慣れるので、袋がずれてくれれば何を隠したいのかが見えるだろう。性交中須築は何とか袋を脱ごうと顔を動かしたが今回もダメだった。彼女らは須築の企みに気付いたのか、性交を始める前にカーテンをきちんと閉めてしまった。舌を突き出し、耳を動かし、頬を動かし、息を吐いて袋を吹き上げようとしたつもりだが、ほんの数ミリぐらい動いただけだったのだろう。 

 翌日晴れ渡った空の下に芝生が美しく見える庭を歩いた。昨日、人の悲鳴が聞こえたのはどの辺りからだったかと耳を澄ませてみた。何も聞こえない。

 間もなく茶菓子が運ばれる時間なので、部屋に戻った。少しおしゃべりすると仲居は引っ込む。台所にいるのだと思うが一人では退屈だろう。台所に行くと仲居の姿が無い。奥の壁を叩いて回ると、割れ目が出来て下に通じる階段が現れた。ここから料理や酒を運んでくるのだろう。次の茶菓子が出る頃なので部屋に戻った。

 女たちは毎日は来ないようだ。さすがに八人も相手すると、二日空けてもらわないと続けられない。三番目のグループが来た時、一人だけ膣の締め付けの緩い女がいた。こんなゆるゆるのヤツは初めてだと笑いそうになったが、物足らない気分だ。これまで女性の膣の直径を意識したことがなかったのだが、男性の陰茎に大小があるように膣にも大小があるということだろう。若く美しい女性たちだったが遊びまくって緩んだのかもと思う。しかしセックスストリートのソープ嬢でもこんなのはいないと思った。

 引き揚げた後、また庭の音に耳を澄ませようと扉を開いた。女性たちが露天風呂に入ったようでざわめきが聞こえた。少し寒いが庭の芝生を歩いてそっと覗きに行った。

 するとざわめきが聞こえるのに、風呂には誰もいない。頭が見えないのだ。不思議だと思ったが、寒さが堪えるのですぐに部屋に戻った。彼女らは屋内の風呂に浸かっていたのだろうと思った。

 第四グループを迎えて性交した時、二人緩い子がいた。どんどん緩いのが増えるのかと思った。仲居に性交の感覚が違ってきていると話すと、

 「お疲れで感触が変わって来られたのかも」

と言った。 翌日、仲居の来ない時間帯を見計らって台所の奥の階段を下りてみた。本当の調理場は下にあるのだろう。今晩の夕食は何だろう。

 階段を下りていくと、かすかに人の声のようなものが聞こえた。仲居が他の調理スタッフと話しているのだと思った。少し歩くと扉があって、その窓からそっと中を覗くと広いフロアーになっていた。ベッドのような台が五つバラバラに置かれ、その三つに、もつれたロープの塊のようなものが置かれている。それを囲むように二、三人ずつ醜怪な老女たちが白衣を着て立っており、長い手袋をはめた手でいじっているようだ。ウナギかドジョウを料理しているようだと思った。そう言えばウナギは初日と三日目に出たきりだなと思った。仲居には料理する時間が無さそうだったから、ここで調理したものを上げているのかも知れない。

 老女たちはロープの塊から短いものを抜き出している。何かの作業場のようだ。邪魔をするのも憚られて、じっと黙ったまま眺めていた。抜き出したものは足元のバケツに投げ込まれていく。捨てられたものもロープの塊もゆっくりと動いているようだ。

 奥の方では大きな白っぽい壁の部屋があって、そこからキャスターに載せられて引き出されたものが空いていたベッドのような台に運ばれた。もつれたロープの塊のようだ。そこにもまた白衣の人が群がって何か抜き始めた。どういう条件で選んでいるのか、丁寧に抜くものを選んでいるように見える。扉に付いた小さな窓からパッと光ったのが見えた。

 ここは台所ではないし、食品を搬入する場所でもなさそうだ。どういう場所なのだろうか。

 やがて、先ほどからいじられていたロープの塊が長く伸ばされると、別の人がやって来てそれに人の着るような服を着せ始めた。赤と黄と緑の鮮やかな模様の服だ。やがてそのロープの塊はむっくりと起き上がると人間のように起き上がってベッドを自分で下り、たかっていた老婆たちに会釈すると人間のように歩いて、向こうのドアから出ていった。ロープの塊はそうして人間の形になって出ていくのだった。ロボットを作っているのだろうか。旅館の調理場の下にそんな場所のあるのが奇妙だとは思った。

 勝手に覗いていたのが分かるとまずいような気がした。また一つ人間の形になったものが服を着せられて出ていった。

 須築はそっと扉から離れた。十メートルほど歩いて階段を上ろうと角を曲がった時に、扉が開かれる音がした。危うく見付かるところだ。

 次の瞬間、暗い通路の中を閃光が走った。須築もそれを受けたのか、一瞬目の前が真っ白になった。部屋の中は大騒ぎになっていた。

 「漏れた」「漏れた」「大丈夫ですか」

とお互いに叫び合っている。

 何が漏れたのだろうと思いながら、須築は階段を上がった。

 あの光は何だろう。受けてはいけない光線だったのだろうか。光は自分に当たったのか当たってないのかはっきりしない。

 あの部屋の向こう側にあるドアからロボットたちがどこに向かったのか興味が湧いたが、おとなしく部屋に戻った。

 その日の晩、やって来た女たちを見て、須築はアレッと思った。二人、あのもつれたようなロープの塊が着せられたのと同じ模様の服を着た女性がいたのだ。その二人も他の人と同じくとても美しい人だった。須築は次々と性交した。でも皆おかしい。既に何人か膣の締め付けの緩い人がいたが、今回は全員だったのだ。締め付けのきつい人から緩い人まで順番をつけて相手させてきたのだろうか。今日見かけた服装そのままなら、彼女たちはロボットということになるのだろう。しかし、人間のような感触だった。性交する前のおしゃべりでも普通に会話できていた。変なのは膣の締め付けだけだ。よく出来たロボットを須築を相手に試させたのだろうか。ロボットだとしたら非常に精巧だ。

 翌朝、朝食を運んできた仲居に、全員が緩かったという話をした。前回の分は省略した。笑うかと思ったのだが、一瞬何だか深刻そうな顔をした。

 昼食を出しに来た仲居が須築の顔を見て吃驚した。須築には驚かれる理由が分からない。

 「どうかしましたか」

 「もしかして」

 「どうしたんですか」

 彼女は何も言わずに廊下に走りだして、台所に行ってしまった。須築は地下室を見に行ったのがばれたかと思った。

 部屋に戻ってきた彼女に鏡を見せられて、ゾッとした。顔の中に蛇が詰まっていたのだ。

 仲居が須築の顔に化粧品らしいものをベタベタ塗りたくった。

 「もう大丈夫です。見えません」

 自分はどうなったのだろう。ここでうまい料理や酒を楽しんで、若い美女と思い切り性交するとこんな顔になるのだろうか。

 その晩、また女性たちが来た。彼女らが来る前に須築はまたカーテンを少し開けておいた。今日は六人だけだった。彼女らはカーテンを閉めないようだった。少し緻密さに欠ける間抜けが多いのかも知れない。しめたと思っていた。

 彼女らは須築の気味悪い顔を見ているはずだが、動揺する様子はない。仲居の化粧が巧かったからか。性交すると、今日の人たちはまた膣の締め付けがきつくなっていた。どんどん緩くなるのかと思っていたが、そうでもないようだ。

 須築はどの人と性交する時も、ずっと被せられる袋を外そうとしてきた。

 今回、最後の人との性交中に、袋をはじき飛ばすのに成功した。女性五人で押さえていた。それぐらいなら須築の腕力で女たちを退けて、邪魔な袋だけ動かすのは可能だったのだ。

 相手の女性の様子を見ようとしての行為だった。……細い隙間から射し込んだ月光で部屋の中が見えた。たった今相手していたはずの女性はなぜか姿が消えていた。

 自分の顔が痒くなって来たと思った。そう思って掻くと、須築の顔も弾けたような感じがして周囲に細い紐の塊が散らばった。

 体が分解してしまったと思った。また叫ぼうとしたのだが声が出なかったようだ。しばらく意識が飛んだ。それが戻ってくると、なぜかものの見え方が違うような気がした。

 人は目を開くと、自分の顔についている鼻が見える。見下ろせば自分の胸や腹、手足が見える。それが、……今、見えなかった。

 見えたのは、宿の廊下の壁や床、天井だった。とても低い位置から見ている。なぜこんな見え方なのだろうと思った。相手の女性が見えないのに、女性と抱き合って愛撫されている快感は続いている。どこで愛撫されているのだろうか。性的な快楽は続いているのだ。

 見回すと廊下や部屋の中に何かが散らばってもぞもぞと動いているようだ。たくさんの細い紐がもつれあっているように見える。たくさんの紐が須築の陰部、脇の下、首筋など須築の感じやすいところ全てに伸びて微妙な愛撫をしているのだと思った。互いの体がバラバラに分解して紐になり、それらがもつれあって愛撫、否摩擦し合っていたのだ。これまで二本の腕ではカバーしきれないはずの動きだとぼんやり思っていたのだが、それはこういう仕掛けだったらしい。紐の動きが蛇のように自立的だ。いや、蛇そのものに見える。蛇らしい頭は見当たらないが、左右に揺れながら前進していく。そして目的らしいものに近付くと、それに向かって飛び掛かるようにまつわりつく。須築は叫ぶこともできなかった。おそらく口を開けたまま固まっていたに違いない。頭にかぶせられる袋を外さなければ良かったと思った。なまじ外したばかりに気味悪いものを見なければならなくなった。被ったままなら知らぬが仏で、気楽に楽しんでいられたのではなかったか。

 やがて彼女からこぼれだした蛇と、須築からこぼれだした蛇とがあちこちで絡み合っていた。蛇はやがて肺や胃袋のような形になり、ぶるぶると震えている。二つに割れたものと割れてないものとがそれぞれ相手を求めてくねくねと動いていく。陰茎の形になった蛇が、素早い動きで別の蛇に突き進んだ。突進してぶつかられた蛇は長い筒状になって陰茎を受け入れ、ぐにゅぐにゅと悶えるように震えた。何とも知れない快感を覚えた。視覚の対象はおぞましく見えるが、触覚の対象は至上の快感を捕えているのだ。まるで須築と相手の女性とが性交している局部だけを取り出したような光景だった。

 自分は何と性交していたのか。

 勝手に動けないように手足などを抑えていた他の四人の女性たちは普通の人間の形だ。しかし、たった今愛撫してくれていたはずの女はバラバラの蛇だった。複数の女たちが抑えていたのは紐か蛇をたくさん収納していた袋だったのだ。

 それから須築と彼女たちが一斉に上げた叫び声が部屋中に響き、満ちた。須築の声がどこから発したのか分からない。しかし自分が発した声が響いたことは分かった。こんな感じを覚えたのは生まれて初めてだ。

 須築が弾き飛ばした袋をつかんでまた頭に被せようとする女もいたが、部屋を飛びだして廊下に走り出した者もいる。どうして良いか分からずにじっと動けないでいる女もいるようだった。

 「どうして」

 須築の声がうわずった。須築のバラバラの体にまつわっていた、相手の女のバラバラの紐か蛇のような体も叫び声に反応したのか、あちこちには跳ね散った。やがてそれぞれの蛇が鎌首をもたげた。それからゆっくりとあちこちでくねくねと動き始めると、鼻の形をしたものと繋がった蛇、耳の形のものと繋がった蛇、唇、赤黒い袋と繋がった蛇などになってきた。こんなことになるとは思わなかった。さらにその蛇のようなものは二つに割れた。割れて細胞分裂のように両方が膨らみ直すのかと思ったが、割れたままズリズリと動いている。

 赤黒い袋がビクビク動き始めた。何だか心臓の形に見える。肝臓のようなものと繋がった蛇も現れた。赤黒いものばかりではなくクリーム色のものもある。彼女の体の材料がバラバラになって紐の付いたままこぼれだしたかのようだ。内臓のようなものに繋がった細長い紐がどこに向かうつもりかあちこちに向かって這い出している。一人分の女がバラバラになってしまったのだ。やがて、中味が全部出たのだと思ったが、目のあるはずの位置にだけ蛇が残っている。唇から外れて歯茎が現れて、近くにあった赤黒いものに噛み付いた。彼女の体を構成するものが共食いをしているように見えた。

 「ダメだ。共食いだ。止めろ」

 須築が喚いた時、蛇たちが彼に気付いて注目したような動きをした。それからそれらは須築に向かって一斉に絡みついてきた。須築の視野に自分の鼻が出来、紐か蛇が集まって胸が出来てくる。その明らかに須築の肉体部分に一匹だけでも気持ちの悪い蛇が無数に絡みついてきて、それらが首筋を狙って絞めに来た。出来上がってきた腕で剥がそうとするとプラスチックの結束バンドのように丈夫だと分かった。勝手に動く結束バンド! 腕や足にどんどん巻き付いてくる。それが首に巻き付くと始末が悪い。ギュウッと絞めにきた。少し冷たい。急に息苦しくなる。そのまま絞め方がきつくなってくる。放置すると窒息する。呼吸がしにくい。須築は爪を立てて切りにかかった。自宅の近所で首吊りになった時は配線をどうすることも出来なかったが、ここでは切れた。気持ち悪いという気持ちを忘れて思い切り力を入れて一本切ると、また次のが巻き付いていた。次々に這い寄って来る。五本、六本と切っているうちに力が入らなくなってきた。爪も傷んでバンドに切り口を作れなくなってきたようだ。

 動き出さないし何の形とも決まらなかった蛇が、すぐ隣の他の蛇と絡み合って激しく揉み合っている。何だか噛み付き合い、飲み込み合いしているように見えた。彼女の分でも須築の分でも何だか共食いをしているように見える。

 じっと見詰めていたら、いきなり足が軽くなった。見ると右の足首から先がたくさんの蛇に運ばれて部屋の外に向かうようだ。分からない場所に移されたら元に戻れなくなりそうだ。慌てて追いかけると、今度は左の太ももが外れ、左の手から指が二本転がり落ちた。蛇たちはそれをベルトコンベヤーに載せた物品のように部屋の外に送り出す。

 「泥棒! 返せ!」

 大声で怒鳴る。両腕を振り回す。

 「どこにやるんだ。戻せ」

と怒鳴ると、部屋の外からこちらに向かって怒鳴られたように聞こえた。のどが運び出されていたのだ。見ると下腹も既に無くなっていた。須築の体のどの部分が怒鳴ろうと指示を出したのかも、それを聞き取ったのかも分からない。

 怒鳴り、両腕を振り回しながら須築は我々の体は蛇で出来ていたのかと思った。

 そう思った瞬間、性交を終えた蛇が須築に戻ってきた。顔の割れ目から体の袋に入ってくるような摩擦を感じた。それぞれに戻るんだと思いながら見ていると、彼女の分の蛇までやって来て須築に入ろうとするようだ。須築の蛇を連れて女の方に向かおうとする蛇もいる。持って行かれてはたまらない。須築は必死に追いかけて取り戻し、女の蛇を蹴飛ばした。その間にまた首を絞めに来るものがいる。

 ものの見え方が変わった。廊下から部屋の開いたままの扉を見ていたのが、今度は部屋の中から廊下を見ていた。目玉が部屋の中に入ってきたのだ。また首を絞められる。いや首を外そうとしているようだ。

 早く家に帰りたいと思った。元の姿になって帰りたい。バラバラの体では、この先どう生きて行けばよいのか分からない。

 絞めに来ていた蛇を叩き落として、この先どうなるんだとまた思った時、白衣の老婆たちが大勢部屋に飛び込んできた。部屋の照明が明るく灯った。女の蛇たちが動きを止め、須築の蛇も動かなくなった。老婆たちが動きを止めて須築の姿をしげしげ眺めるようだった。須築は彼女たちの様子を窺った。彼女たちはやがて、

 「この人もナイカマンホ光線を浴びてるんじゃないですか」

 「いつの間に」

と口々に騒ぎだした。

 「ぴっび様のお祭りの時にはきちんと防護フードを装着しましたよ」

 「私が確認しました。最後まで外れていません」

 「男性なのに、どうしてかしら」

 須築は目隠しをされて何処かに連れ出されるようだった。

 しばらくして目隠しを外されて見回すと、そこはどうもあの覗き見た地下室のようだった。あのベッドの一つに寝かされた。体が一応元の形に戻されているようだった。それらがきちんとつながっているのかどうかは分からない。白衣を着た女性たちが、そっと触りに来ると、体から何かが取り出される。それを見た須築は驚いた。シャーレに入れられたそれは肝臓のように見えたのだ。

 「それは?」

 「ええ、あなたの肝臓ですよ。ちょっと調べますね」

 しばらくすると、シャーレを運んできた人が、

 「やっぱり浴びておられました」

と言っている。肝臓は元に戻されずに隣のベッドに置かれた。

 「私は何を浴びたんですか」

 「宇宙線です。緋杜にしか届かない宇宙線です」

 あの祭で被せられた透明な袋は何とか光線と呼ばれる宇宙線を防ぐものだったようだ。それなのに受光しているということは、あの部屋にあった機械の閃光が同質のものだったということではないだろうか。でもそこに忍び込んでいたことは言わない方が良さそうだ。

 「浴びたらどうなるんですか」

 「体が弛みます。各部が抜け落ちる可能性があります」

 ベッドの脇を機材を載せた台車が通りかかって、その金属板が鏡のようになって自分の姿が見えたと思ったのだが、今言葉を発した口だけがあって、それに続くべき顔や頭部が見えなかった。口だけでしゃべった? ということは、今その情景を見ているつもりだが、目だけで見ている?

「ナイカマンホ宇宙線を合成出来たと思ったんですけど、まだ不完全だったみたいですね」

 「あの機械のじゃ、緩い子がいたみたいだもんね」

 「やっぱり、予定があっても熱が出ていても全部我慢して、みんな祭に出てもらわないと」

 白衣の女性たちがしゃべりながら、須築の体から出たと思っていた蛇の塊から何本も蛇を抜き出していく。隣のベッドにそれを置くと、もじゃもじゃ動いて女の胸の形になった。どうも相手女性の体の構成要素と須築の要素とがぐちゃぐちゃに絡み合っていたのをほぐして、取り分けているようだ。

 隣のベッドに須築の方からどんどん細い蛇が投げ出され、首や腹になり段々女性の形になっていく。自分の方の足元を見ると、こちらの方も須築らしい形が出来つつあるようだ。須築たちは絡み合って、もつれていたようだ。

 白衣でない人が、

 「助役に報告しないと」

と言っている。何を報告するのだろうか。また目隠しされて宿舎の部屋に戻された。

 静まり返った部屋にはもう蛇のようなものが這い回った形跡はなかった。寝具もきちんと片付けられている。

 自分は元通りになったのだろうかと思っている内に、十数人の女性たちがまた部屋にやってきた。土足のままだ。何事かと思った。体を引き起こされ立たされた。どうも捕まえる気でいるようだ。拘束されたくないので、逃げようとした。両手両足や首を滅茶苦茶に動かした。その弾みで、脇にいた仲居のサングラスが吹っ飛んだ。

 「……」

 須築も仲居も二人とも声を出さずに向かい合った。ほんの一瞬のはずだが長い時間向き合ったような気がした。サングラスの下から、どんな美貌が現れるかと思ったりしていたのだが、見当外れだった。一方で予想していたように彼女には片目が無かったのだ。目のあるべき所に臍のような、或いは肛門のような凹みがあるだけだった。そこを深く探っていけば何か出て来たかも知れない。もう一方の目はそれを補うわけでもないだろうが普通の目より二回りほども大きく、そこに色の異なる黒目が二つ(誰かのものを含むのだろうか)並んでいたのだ。彼女は斧通さんが話してくれた落とし物をした女性たちの一人だったのだろう。呻くような声を漏らしただけで引き下がった。彼女はサングラスを拾い上げると、何事もなかったようにまた掛け直した。ポツリと、

 「レインシューズを用意しなかったもんですから。次の年、無くした分が戻らないかと思っていたら妙な付け加わり方をして」

と呟いた。その頃から警告されていたのだろうか。

 須築は他の女性たちに布団で包まれた。さらに紐を掛けられたようだ。連れ出された。車のエンジン音が聞こえた。あの変わった形のバスに乗せられたようだ。この後、自分は何をされるのだろうか。気になって何度も仲居に尋ねたことが、いよいよ分かるのだと思った。しかし何だかどうでも良いような気もした。疑問点はまだまだあるはずだが、何だか全て解けたような気分になっていた。おそらく自分は最大の秘密を見てしまったのだ。もう、いい。殺すなら殺せよ。

 バスが動き出したようだ。ふと仲居が不自由なく動いていたのが不思議だと思った。あの人が不自由なく動き回れていたのはどうしてなのだろう。

 もう一つ不思議なのは、布団でぐるぐる巻きにされていながら、須築は女たちに感じたものがその凶暴な行為に似合わないことだった。が、バスに揺するられる内にようやく分かった。扱いがとても丁寧になっていたのだ。祭でこの人たちも邪悪さが引き抜かれて、優しくなったのではないだろうか。どういうわけか発音までしっかりとしたものに変わっているし。須築はやがて振動を心地よく感じながら揺すられていた。運命がどうなっても構わない、もう「見るべきものは全て見てしまった」と言って壇ノ浦に飛び込んだ平家物語に描かれた武将の気分だったのだ。バスから降ろされて運ばれたのは、会議室のような場所だった。役場か学校の粗末な会議室のような部屋だったが、奥に年輩の女性が三人座っていた。揃って同じような黒っぽい服装だ。照明が薄暗い。

 須築は粗末な折り畳み椅子に座らされて七、八メートル隔てて彼女らに向き合っていた。須築の脇にいた女性が立ち上がって、昨晩の出来事を説明するようだ。その後、向かい側の女性たちが額を寄せて何か話し合っていた。やがて、真っ直ぐ須築に向いて、真ん中の女性が言った。

 「須築さん、何が起きたのか私たちにも分かりません」

 「女性がバラバラになり、私もバラバラになりましたよ」

 「そうなんです。宇宙線はあと十年足らずで届かなくなるものですから人工的に合成しているんですが、まだ巧く出来ません。どうも弱すぎたり強すぎたりするようですね」

 脇の女性が、

 「須築さんについては御功績もありますので、手荒なことは致しません」

と言い、手近の湯飲みから何か飲んで、言葉を続けた。

 「振り分けの判断を仰ぐことに致します」

 須築には何のことか分からない。手荒なことは既にされているが、改めて言うのは殺さないということだろうと思っただけだ。しかしまた布団で厳重に巻かれた。周囲が見えなくなった。これで手荒でないつもりなのだろうか。またバスに乗って移動したようだ。

 バスから降ろされ、横たえられた。布団が外された。何だかムッと蒸気が立ち込めた場所にいるようだ。満月が見えた。明るいけれどどんな場所にいるのか見当が付かない。戸外であることだけは分かった。いやな匂いがする。

 「お疲れ様で御座いました。少々手荒なことで失礼致しました」

 リーダー格の女性に挨拶された。言葉だけは丁寧だ。返事しないでいると、囲んでいた女性たちが離れていこうとする。

 「殺さないんですか」

 「まさか」

 そう言って、ころころ笑った。皆が微笑んでいる。駅の近くなのだろうか、自分で帰れということかと思った。

 「またのお越しをお待ち申し上げます」

 その後で、変なことを言われた。

 「もう結婚なさらないようにね」

 この顔では無理だと思った。その瞬間、請け負った仕事の意味が分かった。向こう向きで話した理由も同じはずだ。こういう顔を隠したいのだ。ほんの数日のことでも、あんな顔を見せたら相手は怯えるだろう。

 「どうしてですか」

 あえて尋ねた。

 「おそらく、お相手の方が、困ったことになりましょうから」

 「どんな風に」

 「具体的には分かりません。外部からの人は須築さんが初めてでしたから」

 初めて? もう十数年になる祭ではなかったのだろうか。確かに会社の周辺に美女のグループが現れたのは初めてだった。会社が梅田に移ったから会えたのだと思っていたが、初めて美女たちを派遣してきたのかも知れない。

 「宇宙線の研究者が、うちの村の女性とデートしてまして気付いたんです。浴びると美しくなれることに」

 祭はどう関わるのか。

 「ぴっび様の祭は村では一部でしか知られていませんでした。ぴっび様が現れる時は宇宙線が一番強い時でもありました。祭をするとなれば、みんなを集められます。みんなを清く、美しく出来るんです」

 それで最近になってこの祭を始めたということか。 

 生暖かい風が吹いている。須築が頷くのを見て、女性たちも頷いた。さっき言葉を交わした女性が、

 「それでは、お送りします」

と言った。その直後、後ろから突き飛ばされて水の中に落ちた。何だかぬるぬるしたような気味の悪い水だった。須築は一旦水に潜って浮いてきたところで手足をばたばたさせて沈まないようにした。しかし、いつまで続けていられるか不安を覚えた。帰らせてくれるのではなかったのだ。お送りしますって、どこに送るつもりだったのだろう。御苦労様でしたとか、体裁の良いことばかり言って、何ということをするのだろう。笹季さんが亡くなって処理に困った女たちは死体をここに投げ込んだのではないか。しばらくもがいていた。岸にたどり着こうとするのだが、足が何かに引っ掛かってなかなか進めない。細い木の枝に引っ掛かるようだ。その間に丸いものがあって、足が当たるとペコッとへこむ。とにかく足場が頼りない。早くここから出てしまいたい。水の匂いに気が付いた時、背後からそっと肩を叩くものがあった。息を飲んだ。

 「もしもし、助けて差し上げます」

と囁かれた。男性の声だ。その声にハッとした。ゴムボートに乗っているようだ。助けを借りて、何とか乗り込んだ。

 「危ないところでした」

 やっぱり斧通さんだった。がっちりした体格はまだ維持しているようだ。

 「私です。須築です」

 「ありゃあ。祭主も投げ込まれるのか。俺もさっきここに投げ込まれたんだ。でも半年ほど前に誰かが落ちた時の用心にボートを浮かべて置いたんだ。自分が使うとは思わなかったけど」

「ここはどこですか」

 「緋杜村の振り分け池という池だ」

 「投げ込まれたんですか」

 「そう」

 「斧通さんは、どうして」

 「些細な失敗を咎められてね。ここでは裁判の代わりにこの池に投げ込むんだ。池に住む神が有罪か無罪かを審判して、無罪ならここからどこかに送り出すと信じられている」

 「私は失敗したことになるんですか」

 「心当たりは無いかな」

 須築の説明に、斧通さんはハッとしたようだった。

 辺りからは蛇の口から吐き出された毒の匂い、カメムシとムカデの匂いを思わせるものが強烈に感じられた。


【8・斧通の失点】

 性交中に袋が外れて、相手していた女性がバラバラになったと聞かされたのは昨日のことだった。

 須築を村に呼び込んだのが間違いだったのだろうか。全身の皮膚への印刷ぐらいこの緋杜村だけで出来る。しかし報道された内容から考えると極めて強靱な男のようだったから、どうしても呼び出したかったので発注したのだ。仕事でなければ誰もわざわざ祭のためだけにこの村まで来ないだろう。 男の名前を須築だと室長かきちんと教えてくれていれば諦めさせたのだが。彼ではないかと思ったのはかなり話が進んでからだった。

 しかも女たちが大勢で抑えつけているのにそれをはじき飛ばして袋を外したということだった。大した筋力がありそうには見えなかったが、やはりただ者ではなかったということだ。自分が発起人で作ったクラブでの鍛錬の成果ならうれしいけど。室長も自分も見誤っていた。会場に設置していたセンサーの数値でもっとも筋力・体力の優れた男を選抜したのだから、もっと数値の意味をしっかり考えれば良かった。

 しかし、この不始末はどういう扱いになるのだろう。この俺もようやく正規の公務員にまで上がったのに、どうなるか不安を覚える。

 今回の事態について、祭主の顔から外れてしまうデザインの袋が原因なのだということにされてしまうのだろうか。男に真の姿を見せないためには顔を隠せばよい。少し長い目の袋をかぶせれば大丈夫だと考えていたし、実際そう言ってこのプロジェクトの具体的な形を決めた。役場の男性達で試しておいたのに。その予測が外れたのだ。どうなるのだろう。俺一人の責任になるのか?

 「ここは滅びようとしている地域です」

 村長との懇談の後、室長が言った。

 「村としての生き残りに、何か具体的な行動が必要なのです」

 振興室は本当に必要とされているのだろうかと、室長に疑問をぶつけた時のことだった。

 「この土地で生きていかないといけない人間がいるんです。ここから離れられないんです」

 「ここを離れる訳にはいかない理由があるのですか」

 「見たことはないかも知れないけど、この辺の女たちは年に一回だけ二、三日、慣れてない人間にはとても見ていられない姿を現してしまうんです。特に性の交わりをする瞬間に。それが極めて鮮明になってしまいます」

 外部の男には絶対に見せないことになっていたのに。村中の力自慢の男で実験した結果では、若い女七人で抑え込めば、どんなに屈強な男でも完全に動かせないはずだったのに。何故だ。なぜ動けたのか。なぜ袋を外せたのか。

 この袋なら大丈夫だと太鼓判を押した女性達は責任を共に担ってくれるか? 

 それに宇宙線防護フードを付けさせておいた須築もバラバラになったということはどういうことか。あれでは宇宙線の影響を防ぐことができないということか。防護フードも厳重に検査したはずだ。須築はどこで宇宙線を受けたことになるのだろう。

 須築のことを考えると不安なことがどんどん出てくる。数日前、須築と電話中に通信が切れたのは、須築が切ったのかと思ったが違うかも知れない。役場に備えられた機械に特定の単語が捕らえられると、それを発した人物はブラックリストに載せられて、この村から出ていけなくなる。そんな機械を思い付いたのは、人体がたくさんの細い蛇で出来ていることに気付いた人たちだった。蛇は意外に聴覚が優れているのだ。その機械に二人、斧通自身と須築の会話が何か引っ掛かったのではないだろうか。注意してしゃべっていたつもりだったのだがなぁ。監察当番に察知されて切られた? もしそうなら、どうなる? 俺も消されるのか? そこまで考えてから斧通は震えた。

 数日前に花灯たち三人がどこかに連れ出されたそうだがどこに行ったのだろう。それも何か関係があるのだろうか。早く帰ってきてくれないと心配だ。振興室のメンバーではないが、電気技師として非凡なのだから。駅から村までの道を開いたり閉じたり出来るようになったのは彼のお陰なのだ。村に留め置いておきたい人を帰れなくするのが実に容易になったのは花灯の功績なのだ。そこを監察当番の幹部連中にはしっかり分かってもらいたい。

 祭は終わったばかりだから、もし捕まっても殺されることはないのではないか。もし処分されるとしたら……、あそこに投げ込まれる……か。池の構造を思い出して、思わず震えを覚える。どうやって岸によじ登るのだ?

 斧通は以前、花灯と村の話をした時のことを思い出す。その時に振り分け池が話題になった。

 「有罪か無罪か判断のつかない者を投げ込んで、振り分け池に判断してもらうって、本当はやっぱり有罪扱いなんじゃないの?」

 昔、我が国には「くがたち(盟神探湯)」という占いがあったそうだ。何か疑わしいことがあった時、熱湯に手を入れさせて火傷しなければ潔白だということになったらしい。

 「しかしね、そんなものに手を入れたら誰でも無事に済むはずがないでしょ。疑われたら終わりということですよ」

 花灯は、あの池も投げ込まれたら終わりだと言った。なるほど。ここでは妙な疑いを招かないようにしないとと思った。我々は外人部隊だから特に注意を払ってきたつもりなのだが、今はそれが現実の脅威になってきた。

 ビニールボートを投げ込んだ後、池に誰かが投げ込まれたという話は聞いていない。もしかするとまだボートで助かるかも知れない。あの須築が解放されて村から出る時までに、誰も呼びに来なければいいのだが。見つけにくい模様のボートだった。それが幸いするか、怪しいというわけで撤去されているか。いっそこの家に隠しておけばこんな際どい時に浮かべに行けたのになぁ、自分は計画性が足らないんだなぁ。小学校時代から何十年も経つのに、と笑ってしまう。


 昨日夕食を終えてくつろいでいた斧通の自宅に、突然十人ほどの女たちが押し掛けてきた。やっぱり来たか。そのまま小型のバスに乗せられた。しばらく走って着いたのは祭主の須築が接待されたという宿舎のようだが、違うような気もする。宿泊施設がこんなところにあったのかと思う。今頃気付いても多分何の役にも立たないが。須築の話に出た食事や布団よりかなり粗末なもののようだ。やはり違うか。謹慎処分を受けるのかと思った。江戸時代風に言えば閉門蟄居で、死罪や鞭打ちといった体刑にはならないのではないか。私一人だと思っていたのだが、連れてこられる男が少しずつ増えて五人になった。年齢はまちまちだが、聞けばやはりみんな役場勤務の失敗組だ。これが問題だったのかもと話したのは準備不足と勘違い。本人はもちろん、話を聞いた私も大した問題と思わないのだが、きちんとしたい女たちには我慢が出来ないことなのかもしれない。或いは本人が隠しているだけで本当はもっと重大な過失があったのかも知れないが、私自身のことから考えて、そしてこの宿舎に待機させられていることから考えて、大した問題では無いと思う。ただ何といってもここは女の支配する村なのだ。

 この後どうなるのだろう。他の連中はみんな楽天的だ。きっと最悪でも振り分け池に投げ込まれるだけだろうと言う。泳いで逃げたら良いのだと言っている。どんな構造の池か分かっているのかと思って聞いていたら、何も分かってない。よくある池のように緩やかな傾斜で囲まれていて、数人の女が監視するのだと思っているらしい。誰も投げ込まれる時が来ると思ってないから調べたことがないのだろう。人間のすることだから必ず隙が生じる。その時を狙って逃げたらよいという。黙って聞いていたが、この連中は実際はきっと溺れて死ぬのだ。俺が池の形を説明すると、みんな表情が暗くなった。あのボート一艘では五人助かるには心許ないが、みんながみんな泳げないわけではないだろう。ボートがあると分かれば、みんなきっと大喜びするはずだ。今は黙っておこう。それで何とかなるかな。とにかくこの宿舎から直接解放されることはないだろうとは思う。

 別の女たちがやってきて、一人だけ別室に連れて行かれた。村長が真ん中で三人の女が座っていた。そこで斧通は、これまでの自分の業績を数え上げるのを聞かされた。その後、今回、祭主と八つの地域の若い娘たちとの婚礼で、不都合のあったことを指摘された。業績は立派だが、不都合は重大でそれを埋め合わせられるほどのものではない、よって、振り分けの審判を仰ぐということを宣告された。

 斧通がここに来たのは映画を撮るつもりでだった。あれから何年も経ち、とうとう撮らずに終わりそうだ。女性たちの不思議なまでの美貌が他の地域に知らされれば注目を集めるのは間違いない。それが思いもしない不幸を招くと考えているのは段々分かってきた。ひっそり暮らしていきたいという考えなのだということはよく分かったので、今はもう撮影しようとは考えなくなっていたが、自分が何も残さずに人生を閉じるのは残念だ。頭の中にだけあるシナリオが流れていく。

 他の者も一人ずつ呼び出された後、赤黒い色の服に着替えさせられた。全員同じデザインだが、スポーツ選手のユニフォームのように背中に大きな数字が書かれている。須築の話によれば、これは祭で消される者の服装だ。口に出来ないので黙っていたら、次の祭の手伝いを命じられたという。その内容は過酷だが頑張れということだったようだ。俺一人真っ黒の服だった。他の連中がしきりに憐れんでくれる。色は確かに彼らのより不吉だが、斧通は心の中で安心した。あのボートが自分自身の役に立つとは思わなかった。計画性というものは本当のところ人生に役立つのだろうか。

 斧通だけ連れ出されてバスに乗せられた。たくさんの女たちの中にポツンと自分一人が座らせられる。いかにも罪人の護送のようだと思った。別に縛られたりするわけではないが、逃げ出そうとしても無駄なのは分かっている。目を瞑ってじっとしていた。方向を変えたり、バックしたりするが、バスの動きで方向が全て分かる。須築のような来たばかりの外来者とは違って何年も住んでおり、しかも歩き回ってきたのだから。目的地はやはりあの池だ。速度を変えて誤魔化そうとしても、自分には分かる。

 「さぁ」

と言われて降りた。満月で周囲の人たちの顔がよく見える。けれど真っ暗であっても彼女らには関係ない。新月でも曇っていても斧通の顔がくっきり見えるはずだ。今も表情を詳しく読まれているに違いない。彼女らは斧通や須築などには無い器官を備えているのだ。しかし一つ良いことに気が付いた。この池には夜になってから来ることになっていて、実際今は真夜中のはずだ。うす暗くなってからここに来ているし、これまでに来ていたとしても、誰もあのボートに気が付かないでいるのではないか。ボートには体温が無いから特殊な器官でも気付かないはずだ。今も取り除かれずに浮かんでいる可能性が高い。

 少し年かさの女性が言った。

 「斧通さん、お知りになり過ぎましたね。地霊が呼ぶというから続いてきましたが、本当はしたくもないお祭ですよ。私たち、恥ずかしい姿をさらしていると思います。そんなものを他の地域の方々にお見せしようなんて考えられません」

 それからいきなり体が浮き上がったと思ったら、池に投げ込まれた。悲鳴を上げる間もなかった。すぐにボートを探して乗り込みたかったが、じっと我慢する。ビニールボートがあると分かれば、何か邪魔をされてしまうと思ったのだ。斧通はじっとしている。一旦沈んだ体が浮かび上がった。仰向けだったので夜空に星が瞬いているのが見えた。風に吹かれた木々の葉音が聞こえる。静かだ。こんな平和な空の下で、女たちは人が死ぬのを待つのだ。声を上げなかった気丈な自分を褒めてやろうと思った。何の反応も見せないで、女たちをがっかりさせてやるのだ。バスのエンジン音が聞こえないので、彼女らは投げ込んだ人間が泣き叫ぶか溺れて慌てるか、池に吸い込まれていなくなるか、とにかく何かが起きるのをまだ待っているに違いない。諦めて引き揚げるまでじっとしていてやろう。うまいことに仰向けに浮かぶことが出来ている。

 と思ったが急に寒くなってきた。衣類に水が染み込んできたのだ。悔しいが音を立てるかも知れない。空には満天の星が輝いている。美しいと思った。幾つか覚えた星座を探すが、ところどころ木々の枝に隠されて分からない。今は何時だろう。ここを脱出したら、どこでどんな仕事をして食べていけばいいのだろう。色々なことを考えて水の冷たさを意識しないようにしていたのだが、やはり冷たい。意地を張る余裕が無くなってきた。体勢を変えて立ち泳ぎしよう。格闘技を習った時、着衣のままで水泳をさせられて不思議に思った。後で、追い詰められた時に水に落ちることがあるからと言われて、そんなことがあるのかと思った。泳ぐ時もなるべく音が立たないように泳ぐ。攻撃も防御も密かにするのが極意というのだった。それが今、役に立っている。

 斧通が悶えるのを待ちきれなくなったのだろう、バスの動き出す音がする。遠ざかる。女たちは去った。しかし、斧通はまだじっとしている。まだ誰か残って見張っているかも知れない。この辺りの手順を、上司の女性室長か誰かにもっと詳しく聞いておけばよかった。なるべく音が立たないように、そっと両手足を動かして立ち泳ぎに変えた。動くと水の匂いがした。ひどく臭い。一瞬吐き気を催したが、ぐっと我慢する。まだ見ている者があるかも知れない。ただ、数は少ないはずだ。池の端がどんな様子か知りたい。すると、足が下に着いた! 女たちのことよりも立てたことに安心した。浅いところがあるのか? 知らなかったなぁ。足裏の感触でどんなものを踏んでいるのかを探った。丸いものがある。ボールか。棒きれの束もある。誰かがいたずらしようとして投げ込んだのか? ボートを投げ込んだのは罰当たりだったかと斧通は反省したのだが、悪いことをする奴がいるものだ。いや待て、丸いボールなら浮かび上がってしまう。

 またバスの音が聞こえてきた。しつこい奴らだ。戻って来やがった。降りてきた連中が上の方で話している。やがて誰かが投げ込まれた。大きな波に危うく声を上げそうになった。落ちてくる前に「スズキさん」という名前が聞こえた。まさか須築ではないよな。投げ込まれた人はひどくもがいていた。泳ぎが苦手なのだろう。水を飲んだのか急に静かになった。それを見極めたのか、投げ込んだ連中が引き揚げるようだ。バスの音が遠ざかった。

 さて、池の中央部では何かの堆積のお陰で足が立つが、縁に近いところはどうなのだろう。少し移動してみる。いや、だめだ、急に深くなる。当然だなと苦笑いした。縁まで足が立てば、みんな逃げることが出来て死んでいないだろう。いきなり深くなってとても足が立たないけれど、あのボートがまだあれば岸に上がれるか。音を立てないように、そっと泳ぐ。やはり岸辺に誰かのいる気配はない。振り分け池が何でもしてくれるというつもりで、本当に全員引き揚げたらしい。ボートを探り当てた。しぼんでないか心配だったが、大丈夫のようだ。水の中から乗り込むのは難しい。何度もボートに逃げられる。何度も試みて何とかボートに乗り込んだ。物音が聞こえたはずだが、人間の動きはやはり無いようだ。誰も残っていない。ホッとした。風があるわけではないが、どんどん寒くなってくる。早く上に上がって、衣類を絞らないと。何とも異様な匂いがするし。海辺の宿に泊まった時、魚を干す匂いに困ったことがあった。それ以上に厭な匂いだ。水が腐っているのだろう。投げ込まれてきた誰かに近付いた。月と星の微かな灯りで、男だということが分かる。さっき「スズキさん」という声がした。斧通たち役場の関係者でないということは、あの須築ではなかろうか。そっと後ろから近付いた。

 「私は斧通です」

と自己紹介した。すっかり溺れただろうと思った男は、

 「あっ、先輩」

と言った。意識を失っていたら救い上げるのが大変なので、ホッとした。

 「そう。祭のことを教えて詳しく教えてもらった」

 須築たちをこの池に投げ込んだ連中は行ってしまったから、早く池から上がろう。彼も早く上がりたいと言う。

 「足元に丸い石があるんですが、すぐに崩れるんです」

 斧通はようやく気付いた。

 「あぁ、そうか、あぁ、こいつら、逃げられなかったんだ。その骸骨の山のお陰で、深呼吸する余裕が出来たよ」

 骸骨が積み重なっているのだと説明すると、須築がハッとした。しかし異常事態に遭遇しているせいか、骸骨を踏みつけたことが分かっても怯えなかった。手を貸して、ボートに引き上げた。もんどりうってボートの底に倒れた二人の背中を、ボートの底を隔てて誰かが触るのを感じた。くそっ、骸骨だ。……、須築が何か叫んだ。何か動いているという。骸骨なら動かないはずだ。誰か生きているのか? 俺たちより先に、誰か投げ込まれていたのだろうか。それとも何か生き物がいて、探っているのか? 逃れたくて、両手で必死に漕いで岸に寄せた。方角が全く分からない。こっちで良いよな? 突然、須築が話したことを思い出した。祭に現れた赤い大きな生き物。それか? そう言えばそんなものを自分も見たな。幻覚ではなかったはずだ。どうしよう。あれが今現れたら、助からない。丸いものが何度もボートの底に当たる。ゆっくりとぶつかってくる。何度も二人を呼び止めるようだ。そのうち、赤い大きな生き物なら一息に攻撃してくるのではないかと思った。何度もしつこく触りに来るのは、俺も連れてゆけ、ということのようだ。いや、そんなものはいるはずない。でも、こいつら、一体何なんだろう。先に須築と二人だけで行くぞ。俺たちが無事に上にあがったら、このボートを譲ってやる。

 縁に着いて壁に両手を当てながら立ち上がり、壁の上端に手を掛けられたと思った瞬間、ボートごと水に引き込まれた。

 「わっ、助けて」

 崖にボートが当たる。もう少しなのに! 足を掴まれないうちに、と急いでボートを探した。そして乗り直し、再び縁の壁に手を当てて立ち上がる。辛うじて懸垂した斧通は足場の無いまま体を引き上げる。ボートが激しく跳ねて体に当たる。どうして跳ねる? 何か生き物が操っている? 気味悪さに体が硬直する。いや、そんなことをしている場合か。負けてたまるか。ようやく崖の上に上がれた。腹這いになって両脚は出っ張った石に引っ掛けた。手を伸ばしてボートの端を掴む。須築も何とかよじ登ってきた。二人とも衣服を脱いで水を絞る。寒い。冬なのだ。絞り終わったものを着直すと、少し暖かくなった。ポケットに財布とメモ用紙が入っていた。タバコもあったがライターが無い。財布とメモ用紙は、あれだけ泳いだのに意外に濡れていなかった。投げ込んで置いた懐中電灯はボートがひっくり返った時に沈んでしまったようだ。月や星の光を頼りに目を凝らしたが、水面には何も見えない。ぶつかってきた物は何だったのだろう。そう思った途端、足元の土が崩れた。斧通はまた水の中だ。こんなに崩れやすい土だったのか。大きめの丸いものがぶつかってきた。蛇か? 祭の化け物。あれか? そんな物とは戦えない。格闘技はもう長い間練習してないし、仮に練習していたところで勝てないだろう。最近の運動不足のせいでか、体が重い。動きたくない。逃げなくてはいけないのに。こんなことでどうする。

 また丸いものが近付いてきた。当たる、当たる、止めてくれ! 斧通の体に当たった瞬間、丸いものが音もなく消えた。痛くも何ともない。触った感触すらなかった。何だ? また来た。思い切って手で受け止めた。消えた。泡だ。池の底から上がってきた泡が、ボートの底にぶつかっていたのだ。たくさんの遺体が腐敗して、メタンガスか何かの泡を出していたのだろう。ボートの底に当たった時は衝突の感触があったのに、直接体に来ると何も感じられなかった。

 またボートを探して、乗り直し、今度は須築が手を伸ばして岸に上げてくれた。あまり縁に立つと体重で土が崩れると分かった。急いで縁から離れる。衣服を絞り直す。寒いが、あまり時間の余裕が無い。

 監察本部の表示板に自分たちの位置は表示されているだろうか。それが当番に伝えられていたら捕まってしまうと思う。しかし、今はとにかく駅の方と思われる方向に全力で走るしかない。


【9・須築帰任】

 「やぁ、大変でしたね」

 どちらともなく声を掛け合った。斧通さんが道案内してくれる。もちろんこの人も投げ込まれると思ってなかったので、詳しい道は調べてなかったそうだ。ただ漠然と方向だけは分かると言った。獣道か水の流れ下った跡か、山道のようなものがあるのでそれをたどる。速く走ったり、階段をかけ下りたりして体が弾むと、体の袋から蛇が飛び出してしまってバラバラになってしまいそうな気がした。人間の形で帰りつきたい。

 「今の内に言っておくよ。お疲れ」

と斧通さんが言った。この時ようやく須築は本当に疲れたと思った。

 「もう帰ってこられないのではないかと思っていました」

 思わず呟いていた。

 「祭を見に行って、かな」

 斧通さんが尋ねた。

 「えぇ。……みんな真面目に男子禁制を守っているんですね」

 「まぁな。途中の道も全部塞がれているしね。だから見に行くと言って出掛けた連中が、本当に祭を見に行ったのかどうかもはっきりしなかったんで。体がおかしくなってるとかいなくなったとかいう事実があるだけで。それで自分でも見に行ったら、ひどいことになった。ただ血が流れなかったから他の人は俺がこうなってるのは知らない。足の方をやられてたら歩き方で気付かれてしまうけどな」

 祭で体の一部を奪われたのか。

 「そうなんですか。で、いつどこで筋肉を奪われたんですか」

 「祭主を乗せたバスが出るだろ」

 「はい」

 「それを見た覚えがあるから、その頃に俺たちの体も女と同じくバラバラになってたはずだけど組み上がってたんだな」

 女たちと同じようにバラバラになって地面に散らばっていたのが女の体になってきたが、その後男も人間の形になったということらしい。プラスチックに見えるが、自然の物かも知れない。宿で一緒になった人たちも、目や耳や腕や指などを失いながらも自宅に帰ることは何とか出来るのだろう。大脳を失った男だけは死んでしまって、あの臭い池に投げ込まれて始末されるということか。男の前頭葉を補充されたりしたら女は自分自身をどのように認識するのだろうか。

 「あれは結局、何の祭なんですか」

 「どうもね、宇宙線を浴びて醜悪な肉体を改善するということだ」

 「醜悪だったんですか」

 「そう。俺はたまたま見かけた女性がもの凄い美人だったから来たんだけど、男の老人がひどくてね。女も昔は同じようにひどかったらしい。それが宇宙線のお陰で急激に美しくなったようだ」

 「男は?」

 「まだどうにもならないらしい。でも、何とかならないか研究はしている」

 「若い人は?」

 「宇宙線を浴びて順調に美しくなっているよ」

 「老人はダメなんですか」

 「女性なら何とかなるみたい。しかし男性には効かないね。女性の欠けた肉体を補充する材料でしかない。女性たちにしても肝心の時に男性がすぐ近くにいると効果が落ちるとか聞いてるしなぁ」

 宿で一緒になった人たちの推測は当たっていたようだ。

 「その後が長かった。……疲れました」

 祭自体は珍しい見ものだったが、その後の相手の顔が見えない性交はやはり物足らなかった。袋を被せられた時は、殺されると思って震えたし。

 「吉多さんが捕まっていたので救いに行こうとしたんですが、ダメでした」

 「ヨシダさんって?」

 「あぁ、宿で知り合った人ですよ。何人も祭の真相を探りに来ていました」

 「何人も? で、一人捕まったの?」

 「えぇ、捕まってました。全部で十人少々。宿で知り合った人は、宿の主人の忠告に従って帰った人がいればいいですが、そうでなかったら全滅のようです」

 「ありゃあ。宇宙線の効果を邪魔しないように袋に入れておくという噂は聞いてるけど」

 その袋だったのか。祭主に選ばれかけていても透明なものを被らされた。

 綿鍋君だけは捕まらないうちに帰ってしまうかと思ったが捕まっていた。あの後、無事に帰れたかどうか。他の人たちともども皆、おそらく変な体になっているのだろう。祭に行かなくても誘った女たちに見つかると、火灯が、招かれて行かなかったら暴行されると言っていたのだからただで済むとは思えない。無事だといいのだが。

 「前に同僚だった奴が、この村ではうかつなことは口に出来ないと言ってました」

 「あぁ、そうだな。監視カメラや隠しマイクがある」

 「ここもですか」

 「人の通らないところには仕掛けてないと思う」

 「気付きませんでした」

 「どっちも巧妙に隠してあるから」

 「そうなんですか」

 「木の幹や枝に埋め込んであるんだ」

 「そんな所に?」

 「カメラは駅から村の中心部にかけて。マイクはもう少し広範囲」

 「全然気付きませんでした」

 「そうなの? 俺は何か仕掛けてあるとはすぐに気付いたよ。どこにあるかは分からなかったけど」

 途中の川で斧通さんはうまく渡ったが、須築は飛び石を踏み損ねて転落し、溺れそうになった。折角服が乾いてきていたのに、また全身ずぶ濡れになった。凍りそうな冷たさの水だった。

 「臭い匂いが少しましになったみたいですよ」

 心配そうな斧通さんに、強がって見せた。

 「祭りの後は、辺りが良い香りに満たされるんだよなぁ。いつもは何かが腐ったような匂いがしているんだけど。そういうものも清められるのかも知れない。祭の後、女たちは美しくなるし、優しくなるんだよね。道や野原で蛇やムカデに出くわさなくなるし、祭自体は良いことずくめなんだけど。その事情は男たちには公的には明かしてもらえてないんだ。祟りというのは、やっぱり気味悪いしね」

 山道が続く。

 「あと、どのぐらいですか」

 「あと一時間ほどだね。大丈夫、列車には間に合うよ。問題は、監察当番という奴だね。村への出入りを監視しててね、捕まると、恐らくまたあの池だ」

 臭くて、手触りの気持ち悪い水を思い出した。それに斧通さんがいなければ上手く上がれたかどうか分からない縁の壁。二度と投げ込まれたくない。

 「鉄道の駅に出る道は大体は見当がつくよ」

 まだ闇の中だが村内を縦横無尽に歩き回って知らない道は無いんだと言った。監察当番の気まぐれでチェック場所が固定されてないのが、ちょっと困るのだとか。見つからないうちに列車に乗り込みたい。道らしくなってないところも歩くよと言われた。草が薄くなって少し土が露出しているところを選んで歩くようだが、ほとんどが生い茂った草むらに踏み込んで歩く。中に蛇が潜んでいないか気が気でないのだが、

 「今の時期はね、変なものは出ないよ。それは大丈夫」

と言って、小走りでどんどん進んでいく。

 「今の時期だけですか」

 「そうだね。だいたい、いつもは蛇もムカデも這ってるし、枝からはヒルがぼとぼと落ちてくる。大きなヤツが」

 そう言えば、今歩いているこの道でもヒルが落ちてきたりしないようだ。見えてないだけかも知れないが、少なくとも体には触れて来ていない。思わず見上げて、また転んだ。

 「デコボコなので気を付けて」

 下草が邪魔だ。低く垂れ下がった樹木の枝、不規則に転がる岩石、蜘蛛の巣、いきなり現れる地面の段差。蜘蛛は変なものの中に入らないんだなと思った。大体において益虫なのだと教えられたのを思い出した。本当の幹線道路には無い障害が続く。だが、これさえ抜ければ自由だそうだ。この坂を下ればいい。大きな音がした。見つかった? いや、飛び立った鳥だ。まだ薄暗い。鹿や猪と遭遇したらどうしよう。鉄道の架線がキラッと光って見えた。あと少しだ。

 大きな地響きがした。斧通さんが、アッと小さく叫んだ。

 「何の音ですか」

 「聞かれてしまった」

 「何をですか」

 「逃げてるのを。駅への道を塞がれた」

 「あの山道?」

 「そう。開閉するんだ。君を帰らせなかったように」

 帰らせなかった? あの転げ落ちてきた岩は勝手に落ちたものではなかったらしい。

たくさんの木が邪魔で行き止まりになっていた。

 「ここを通過出来れば駅に向かえると思うんだけどな」

 道を探すが見つからないようだ。木の枝を五、六本折れば通過できそうなのだが。

 須築は大学時代に習った技を使おうと思い付いたが、筋力が足らないせいでだろう折れなかった。

 「どうやるの?」

 隣で斧通さんが尋ねたので、こうやれば折れるはずなんですがと説明した。斧通さんはあの異様な腕で折ろうとした。もちろんあんな腕で太い枝が折れるはずがない。

 「あれ、ダメだな。衰えてしまった」

 利き腕が力強くなっていると思っていたのだ。その錯覚になぜ気付かなかったのかは分からない。弱いと思っていた方の腕を使うと、折れた。

 「不思議だな」

 須築には不思議でも何でもない。おそらく女の失った筋肉を埋め合わせるために奪われてしまっているのだ。

 斧通さんの無事な方の腕の筋力でも太い枝は折れない。須築の腕と斧通さんのまともな方の腕とで力を合わせると何とか折ることが出来た。

 「やりましたね」

 「良かった。この頃何もやってないから衰えてると思ってたけど。こっちの腕は絶対役に立つと思ってたのに、どうしてかな」

 まだ自分の腕の異常さに気付いてないらしいのが痛々しい。真実を告げた方が良いのだろうか。先輩だと思うのでどうしても遠慮してしまう。

 斧通は高校だけで格闘技を止めていた。須築は体格がやや貧弱なので大学でも引き続いてやっていたが、監督からは、教えても実際には使えず害が無いと思われたのか一人だけかなり高度な技も教えてもらえていたのだ。それを筋力のある斧通さんに教えると、敵の腕をへし折る技になって木の枝が折れたわけだ。

 あっ、誰かが何か叫んでいる。走ってくるのが分かる。見つかってしまった。監察当番は枝が張っていてもすり抜けられるようだ。必死に走る。薄暗いし、下草で走れるところかどうか分からないが、踏む場所を選んでいる余裕が無い。女たちはなぜかほとんど足音を立てないようだ。

 タッ、タッ、タッ、タッ、タッ

 そんな音がかすかにするので、女たちだと思う。

 須築と斧通は枝を折っては通行不能だった場所二十か所ぐらいを通過した。駅のホームの明かりが木々の間に透けて見えるようになった。あと一か所だ。

 「くそ、無理だ。力が入らない」

 触ってみると斧通さんの腕の太さは監督の腕ぐらいあった。それでも片腕では思ったようにはいかないらしい。それでも折れない枝のようだ。どうしたものか。あと僅かなのに。

 「一緒にやりましょう」

 須築も腕を添えて、二人で力を合わせると何とか折れた。しかしまだ枝が伸びて塞いでいる。そんな所が五、六箇所あった。普通なら勝手に村から出ていけないようになっていたのだ。互いに今相手がいることに感謝した。

 あっ、ヒルか、ナメクジか。滑った。転んでしまった。足音が迫る。

 いきなり、炎が上がった。須築の服だ。

 転んだ衝撃でポケットのライターが発火して、何かに火がついたのだ。女たちが走って来る。

 ポケットが燃えている。引っ張るとティッシュだった。少し離れたところに投げる。女たちの動きが止まる。燃える物を遠ざけただけだったが、大きな明るい物が突然現れたために、驚いたようだ。

 足元が堅くなった。やっと普通の地面に来たようだ。駅前の広場らしい。女たちの足音が早くなった。急ぐ。急ぐ。急ぐ。

 一瞬の隙をついて、駅への僅かな坂道を駆け上がる。一瞬動きを止めた女たちが、目的地は駅と分かっているので、また走り出す。列車よ、早く来い。

 「一番列車は一両だけのが来るはずなんだ」

と斧通さんが言っていた。早く早く。ポケットの火をはたいて消す。ティッシュを今度は意識して燃やし、また投げた。女たちの足がまた止まる。列車の来る音が聞こえてきた。投げたティッシュが燃え尽きて、女たちがホームに上がって来る。列車の先頭が見えてきた。

 列車が止まり客車の扉が開くのと、須築たちがホームに駆け上がったのとが同時だった。やった、乗れる。女性が一人降りてきた。

 「泥棒よ、つかまえて」

 追ってきた女が叫んだ。何ということを言うのだろう。自分たちはそんなことしていない。急いで乗り込もうとする。降りてきた若い女性が立ち塞がる。

 「誤解だ。どいて」

 しかし、女性は斧通さんの体をつかまえる。後ろから追いついた女性たちと一緒に斧通さんの体を締め付けて来るようだ。須築は乗り込んだが、斧通さんに手を伸ばす。うっかりティッシュを握ったままだったから手が掴みにくい。

 車掌は斧通さんが乗ることはないと見て取ったのか扉を閉じた。その直前、彼女らの手が滑ったらしく彼は列車に飛び込むことが出来た。発車の笛が鋭く鳴った。

 須築たちは客室に入り、空いていた席にへたり込んだ。

 助かった。

 体中を触って、何かが飛び出しかけたりしてないか確かめた。

 他の客は少なかったのだが、間もなく皆が二人を見ていやそうな顔をした。変な形になっているのかと自分の体を見回す。特に異常がるとは見えなかった。窓が開けられて、冷たい風が吹き込んだ。池の水は何とか乾いてきていたが、それでも寒さに震えた。須築たちは慌てて上に着るものを探したが、必死に逃げてきたばかりでそんな物はない。両手で肩を抱える。二人の匂いが嫌われて窓を開けられたのだ。

 皆は二人をにらんでいる。立ち上がり、荷物を提げて遠ざかる人もいる。まだ臭いのだ。当て付けるつもりのようだ。

 寒さに震えていたのに、須築は意識がしばらく無くなってきた。

 しばらくして気が付いた須築を見て、斧通さんがホッとしたような顔をした。

 「緋杜の女とセックスすると相手の体が透けて見えてくるんだよ」

 落ち着いてくると、話し始めた。

 「あぁ、そのようですね」

 「祭の頃には特にはっきり透けて来てね」

 「そうなんですか」

 「最初はうっすらと理科教室の人体模型みたいなのが見えていたんだけど、それが蛇に見えるようになるんだ」

 「あれが尊きものというんですか」

 「そう。我々の体を作っている訳だから」

 「それが祭で抜けていく?」

 「そのようだね。汚い蛇が抜けて、望ましいものだけが残る」

 「そうか。それで美しさが一層冴え渡るんですね」

 「そうだね。祭の後の満月過ぎから、見慣れた僕らでもうっとりした」

 「祭主の宿で若い女たち多数と性交しました」

 「そうだね。それが狙いのスカウト隊を全国に派遣し始めているから」

 「何のスカウトですか」

 「強い男の血を入れるための。おびき寄せる餌なので、村の中でもとびきりの子を選んでいる」

 うまい酒、うまい食事にとびきりの美女との淫楽。一体何を狙っての好待遇なのだろうと思ったのだったが、袋を被せられての性交では心地よく過ごすことは出来なかった。昔のアラビアで男たちにこれに似たことをして戦士として死地に送り込んだ話を思い出した。それと同じなら後から過酷な経験が待っているということだと思った。こんな良い目だけして無事に帰れるはずが無いとも思った。顔を見られない性交というのは中途半端で、何をやっているのだろうとも思ったが、接触の快感は強いのだった。

 「私は大して強くありません」

 「そうかな。でも報告書には大変な災難を潜り抜けた人だと」

 「あぁ、そうか。確かに辛うじて生き延びました」

 それで指名されたのだ。逞しいと見做された須築は種馬にされたのだった。閉じ込められての御馳走ぜめということの意味がよく納得出来た。

 閉鎖的なあの地域の人間の能力を高めるためには、どうしても地域外の男と交わる必要があるということなのだろう。なぜその相手に自分ごときがと思ったのだが、あの事故に遭いながら死ななかったことが非凡なこととして評価されたということだったのだ。肉体も、窮地を切り抜けるだけの力があったことを表していることになるわけだろうし。思えば、その時まで他の連中とはデートする機会を作ったりしていたのに、彼女らはほとんど須築には見向きもしなかったのだ。それがあの事故の後、美女グループの接し方ががらっと変わったのだった。祭の場で一旦捕まったのに、自分だけ扱いが一転して上々になったのも、そう考えれば納得がいく。

 「振興室という役所組織があって」

 「……」

 「商事会社を擬装しているけど、……最近十年ほどになって村の娘さんたちが各地に出て生活するようになったんだ」

 あの美女グループを思い浮かべた。さぞ、もてることだろう。

 「でもね、『お前、気味悪い』と言われて」

 肝心の性交をした時にそう言われて、婚約寸前になっていたのに交際が打ち切られた。号泣して母親に電話を掛けてきた後、自殺してしまった。その話が村長まで上がってきたのだという。どんなレベルの容貌だったか分からないけれど、おそらくかなりの美貌だったはずなのに相手されなくなった。それも極端な罵倒の言葉をもって。顔の中に蛇がいっぱい詰まっているのが見え、さらに体中蛇がうごめいているのを見られたりしたら、破談になっても仕方ない。相手していた男にも同情するが、女性自身に罪は無い。あまりにも可哀想だと思った。自覚して無かったのだろうか。あの時斧通にはどんな風に気味が悪かったのかは説明されなかったし当時は想像もつかない話だったが、村おこしの課題には違いないと思って聞いた。

 「斧通さん」

 室長が改まった声で言ったのだ。

 「皮膚の中が見えないようにする方法ってあるかしら」

 「そりゃあ、何か塗ればいいでしょう」

 「すぐに剥がれると困るのよ」

 「剥がれなくて、中が見えないように、ということですか」

 「そぅ。年に一回、三日ほどだけでいいのよ」

 皮膚が透けて、筋肉や血管が見えてしまうということなのだろうかと想像していた。確かにそれなら気味が悪いだろう。振興室の業務はそれの解決が第一目的になった。隠す。一方で、実態を知らない強い男の血を獲得する。

「そうか。よく分かりました」

 もう一つ尋ねた。

 「あの部屋で私の体がバラバラにされました。いくつかはどこかに運ばれたようでした」

 「あの宿舎の下に研究所があるんです」

 それは知っている。

 「そこで、祭で一番になった男の体を研究するつもりでした」

 「男の?」

 「ここの男は本来とても見苦しいし、弱い。だから勝ち抜けた男の中の男の体を真似ようというわけです」

 「真似る?」

 「そう。なぜ強いのか。そしてそういう人たちの体を真似て作ったものを男たちに植え込んでいけば男たちも改良できる」

 須築は何という地域だろうと思った。

 突然、近くの席から女性の叫びがした。周囲の人の目がこちらに集まっていた。目が大きく見開かれている。斧通さんもハッとしたようだ。

 須築は斧通さんの全身を上から下へ見下ろした。

 膝から下のズボンが無くなり、足先が靴や靴下と共に溶けていた。すねからは泡が吹いて白い煙か湯気が上がっている。

 「しまった。振り分け池の水は蛇の消化液から出来てたんだ」

と言った。長く触れていると皮膚や肉はもちろん、骨も溶かすのだろう。須築は転んで川にはまったのが幸いしたようだ。斧通さんは意外なことに足が溶けているのに全く平気なようだった。不思議なことに痛みを覚えないと言う。蛇の毒には神経をマヒさせるものがある。じりじりと脚が溶けていく。強力な消化液だ。すねの毛が溶けずに床に散った。他の乗客たちが騒ぎ出した。次の駅のホームに救急隊員が立っていた。

 この路線の運転手兼車掌が、蛇の毒や消化液を中和する薬剤を持って乗務するようになったことを、かなり後になってから聞いた。

 親戚が間もなく来てくれるという斧通さんを病院に残して、須築は幾つも鉄道を乗り換えた。鄙びた駅で列車に乗せられて、ボンヤリと車窓の景色を眺めていた。あれは本当に経験したことだったのだろうか、と思った。そもそも帰宅途中の事故で入院した時に取締役営業部長が病院まで来たのが信じられなかった。あの人は須築が就職したばかりの頃は営業次長で、フロアーで怒鳴りまくっていた。社屋が引っ越してからは、営業部長に昇格していたこともあって個室に籠もっていた。時々、営業次長や課長たちが顔面蒼白で出てくるのを見ていたのだ。取締役が直接、プロジェクトの主任ごときに親しく口を利き、仕事の話をするものだろうか。あの辺りから自分の運命はおかしくなっていたのだ。あそこから幻覚に取り憑かれていたのではないだろうか。

 須築はこれほど自分の経験を疑ったことはなかった。疑い出すと、家の近所でひどい目にあって入院したことまで現実でなかったような気もするのだった。しかし火傷の後遺症で異様にテカテカと光る脚を見れば、あれは間違いなく事実だったと思う。すると、奇妙な祭で見た大きな物体も、小綺麗な宿舎で若い女たちと性交したことも事実だったのだろう。

 最後の路線で列車が動き出した時、須築は経験したことのない解放感を覚えた。もう二度と来ないだろうと思った。出荷する機材は運送業者に任せる。

 列車内からようやく会社に電話が出来た。

 「山崩れだったんだってな」

 「そうです。集落ごと孤立していました」

 須築が子種を提供するようになった祭の翌日に、あの会社からも営業部に宛てて電報が届いたそうだ。「須築さんは帰れません。かなり長くかかると思いますが、天災ですから御了解下さい」との挨拶だ。電話は掛からなくても電報は打てるらしい。不思議なことだ。須築と営業部長が揃って不便な場所らしいとさんざん吹聴して回っていたので、みんなその挨拶を信じきっていたようだ。それにしては復旧に時間が掛かりすぎだと疑わなかったのかと思う。グーグルアースで映しても周囲から入っていく道が満足に見えないという場所だったから仕方ないかも知れないが。説明が面倒なので、真相は語らないことにした。あの地震は自分を取り込めておくために村が仕掛けた細工だったらしい。蛇は、……蛇がどうして自分をあの広場に行かせたのかは分からない。蛇を操る手立ても発明したのかも知れない。

 課長の前に立つと、須築の顔を見上げて、

 「おう。……えらく男前になったな」

と言った。冗談だと思ったのだが、どうも本気で言ったようだ。鏡を覗きに行ったが自分では分からない。自分では引きつっているのではないかと思っていたのだ。祭の場で自分の邪悪さ、醜悪さも女たちと一緒に引っこ抜かれたのだろうか。総務部の女性たちにも、

 「何だか爽やかさが際立ちますね」

 「須築さんの顎のカーブが一層冴えてますね」

などと言われた。過去に彼女たちとそういう外見についての話をした記憶が全く無いので驚いた。一体何を言っているのだろう。留守にしている間に、会社でお互いの挨拶の仕方を変えようというルールでも出来たのだろうか。薄気味の悪い話だ。


 「ゼンシインサッキが出来上がったぞ」

 席のすぐ後ろからいきなり社長が大声で叫んだので、須築は飛び上がった。

 「何ですか、それ」

 「須築、やってくれてただろ。インクで印刷するための寝台よ」

 自分で企画しておきながら意識から消えてしまっていた。研究の方向性を見通した上で、素材の特質を究明する部門、それに適合するインクを開発する部門、そのインクで全身に印刷する専用寝台を開発する部門といった組織を立ち上げるところまで行ったのだ。そして算出した価格を携えて緋杜村に出向いたのだった。須築が向こうで抑留されている間に完成したのだ。緋杜から戻ってからは他の仕事に取り組んでいた。

 「あぁ、どんな具合ですか」

 「まだ試してない。昼過ぎには性能確認ができるから工場に行ってくれ」

 開始時刻の二十分前には、関係のメンバーが全員集まっていた。予定よりこんなに早く集まったというのは初めてだ。みんなの期待の大きさを表していると思う。

 「もう揃ったのか」

 「来ましたよ。大きな売上額になりそうだから、取締役も一人来るそうですよ。須築さん、大ヒットですね」

 作業服の技術メンバーの間に並んでいた背広姿の者から口々に言われた。営業部の連中だ。

 「らしいな。寝台で稼ぐとは思わなかった」

 工場のメンバーもさらに増えてきたが、そちらのリーダーに、

 「誰が試し印刷されるか決めてますか」

と尋ねられた。そう言えば、それは決めていなかった。緋杜村に行く前に体の一部への印刷と清拭を試してあったので、もう済んだような気分だった。

 「あぁ、僕がやります」

 「須築さん、大丈夫ですか」

 営業部のメンバーが心配してくれる。

 「除去する薬剤は持ってきてるから」

 印刷すると一ヶ月そのままで過ごすことになっていたので、いま除去剤を持っていても仕方がないのだが。全身印刷機を囲んだ三十人ほどの全員が男性だったので、須築は思い切って裸になって横たわった。本当に印刷する時にも、裸でやってもらわないといけないので、ちょうど良かったと思う。

 「チーフのオールヌードを拝むとは思わなかった」

 この仕事の直前までチームを組んでいた連中だ。次の仕事は彼らと一緒にやれることになっている。

 「拝みたくなかったけどな」

 「やかましい。さっさとやれ」

 本来の皮膚の色をスキャンして記憶させた。それから墨汁のようなもので真っ黒の体になった。少しばかりくすぐったいだけで何の問題もなさそうだった。また自分の体がバラバラに分解しないか気になった。不安感が去らなくなっている。ジョリジョリジョリとかすかな音を立てて印刷が終わった。うまく出来ているかのチェックに検査機器の部屋であちこちから光を当てられ、色々な液体を塗りつけられた。

 「耳無し芳一は勘弁してくれよ」

 小泉八雲の小説を思い浮かべた。祟りを避けようと全身に仏教の経文を書いてもらったのに、書き漏らされた体の部分を化け物がちぎっていったという話だ。ごく一部でも塗り残しがあったら大変なことになる。

 「絶対大丈夫です」

 皆がのぞきに来たが印刷してあるのは全く分からないと言った。これから一ヶ月の間に床屋に行ったり、毎日風呂屋に行ってごしごし体をこすったりして、周囲の人にばれなかったら良いわけだ。

 皮膚呼吸を妨げる物になっても困るし、印刷が原因で皮膚が爛れたりしてもいけない。印刷が皮膚から浮き上がって泡などが出来ても困る。もちろん本来の位置から印刷がずれていては意味がない。それらがクリアー出来ているかの実証実験だ。これらが確認出来れば、インクと除去剤と全身印刷機を揃えて出荷できる。

 前にプロジェクトを組んでいたメンバーが打ち上げの宴会を企画してくれた。

 宴会の余興というわけでもないのだが、須築は緋杜村での経験を問われて全て語った。八人の美女と性交したということについては全員言葉が出ないようだった。

 「とても信じられないだろ」

 プロジェクトのメンバーたちはどう答えてよいか考えるようで黙り込んだ。その時、

 「いや、信じられますよ。そうだ。あり得る話だったんだ」

と声がした。矢未だった。「霊能相談所 感霊舎」を開設する前は一緒に働いていた仲間だ。珍しい話をすることが多いので同僚たちは今も宴会になれば彼を呼び出す。矢未も喜んでやってくる。今日もそうだった。

 何のことかと思ったら、保留中の占い案件のことだと言った。こんな問題を占ったのだという。


 愛海という娘さんの婿である佐樹雄さんが非常に変わっているので、この先娘が不幸にならないかという両親からの相談でした。陣痛も感じない内に出産してしまったということもあった娘さんが真夜中に夫のしていることを見て驚いたのでした。

 ――しっかり明かりを灯したら良いのに薄暗い部屋でした。何をしているのかと思って見ていて、気付いたら佐樹雄さんの胴体が椅子に座っているのに首が無かったからです。それでもしっかり見ないといけないと気合いを入れ直して目を見張った愛海は、佐樹雄さんの席の脇にあるものに気が付きました。眼科医の愛海には見慣れたものです。目玉でした。テーブルの佐樹雄さんの席の脇に、学生時代に解剖実習で見た視覚系の神経束がつながって転がっていました。間違いない。よく見ると、その横に目玉のない首や、大脳が置いてありました。動けずに立っていた愛海に気が付いたのでしょう、目玉の脇にくっついて転がっていた唇が動いて、

 「見たかい?」

と佐樹雄さんの落ち着いた穏やかな声がしました。それから置いてあった大脳を首無しの胴体から両腕が伸びて持ち上げた後、バラバラだった体がどんどん組み立て直されてきました。

 近くで物音がして、そして人の座り込む音が聞こえました。遊びに来ていた友達の正美さんでした。彼女は整形外科医です。ぶるぶる震えています。異様な情景を見てしまったらしい。

 いつもの佐樹雄さんの形になった生命体が、

 「驚いたかい?」

と改めて言い、そして愛海と正美さんに向かっていつもの顔で笑いかけました。二人の顔は強張ったままです。すると佐樹雄さんは手を伸ばして、

 「悪いところを全部取るのに時間がかかったよ」

と傍らにあった洗面器を持ち上げました。中には黒っぽい豆のような物が幾つも転がっています。膵臓と周辺に拡がっていた癌細胞だと言います。彼女たちには大学で見た標本とは違って見えました。メスで切り出した物とは形態が違ってくるのでしょうか。

 「こうして取ってしまえたから、だから僕はもう癌で死ぬことはないよ」

 声の出ないままの二人に向かって、いつものような笑顔を見せました。右耳の下の黒いホクロも、正美さんが「切り取って上げようか」と言ったことがあって、無い方がいいかと話していたからか、随分小さくなっています。全く無くなると、何だか元の自分でないみたいだと言っていましたから少しだけ残したのでしょう。

 「新月の晩には、体を分解出来るようになるんだ」

 意味がよく分からないので説明してもらおうと思いましたが、その前に正美さんが、

 「そんなことをして死なないんですか」

と尋ねました。

 「御覧の通りですよ」

と言って、両手をぽんと打ち合わせました。元気一杯のようです。――


今、須築の話を聞いて、矢未はそれまで愛海さんが不思議に思っていた謎が全て解けたと言ったわけだ。佐樹雄さんは彼女が眠っている間に、彼女の体を分解してもうすぐ生まれる赤ん坊を取り出したことがあった。佐樹雄さんは商社の営業マンとして破格の成績を上げて来たのだが、強盗や殺人事件が毎日のように起こっている治安の悪いところに出向いた時でも体を分解して見せると皆が驚き、不思議さに打たれておとなしくなる、それで普通に物を売って、集めた金を持って帰ることが出来るからということだった。愛海さんの眠っている間に自分の体の不具合の場所を手入れしていたのだそうだ。

 その説明を愛海さんも正美さんも声も出せずに聞いたというのだが、親としては虚言癖の人間ではないかと心配になって 感霊舎に来たのだ。矢未の方も霊視出来たこの情景が信じられなくて返事を保留していたという。

 「これでお客さんにきちんと話が出来ますよ。本当のことを言ってるから信用して大丈夫ですってね」

と喜んだ。

 「この場面はすぐに霊視出来てたんだけど、自分でも信じられませんでしてね。見間違いではないかと思ったんです。でも須築さんに同じことが起きた訳ですから、ようやくそれも事実だと信じられるようになりましたよ」

 プロジェクトのメンバーは須築の話一つに呆然としていたのに、こんな話も聞かされてどう反応して良いか戸惑っているようだった。いつも明るい棚賀でさえ物が言えなかったのだ。


 会社では一つ問題が片づくと当然また新しい注文を処理する。ようやく元通りの生活になった。あの美女グループも問題を一つ片付けたということか全然会うことがない。同僚たちは時々、

 「どうしてるのかな」

と言っている。須築は、同じ女性たちにはおそらく二度と会うことはないと思っているが、彼らには黙っている。

 あの田舎から戻ってくると、梅田の猥雑さが気に障った。あそこには何もなかった。賭博場はもちろん、高利貸しも性欲を満たす施設も、眩しいばかりの照明も。婦人科と性病科に偏った医療機関も。あそこも現実の世界と思えなかったけれど、梅田ほど現実離れしてなかったような気がする。

 数日後、須築は絵画教室に出向いた。自分の見てきた不思議な情景を絵画として残しておきたいという気持ちもあったのだが、仕事の上でも大切な日になった。全く事情を知らない人たちが須築の顔を見て、違和感を覚えないかどうかを試す良い機会なのだ。人間の顔は絵画の対象としては一番難しいので、習っている人たちは互いの顔をじろじろと見詰めることが多いのだ。そしてどう描けばうまく仕上がるかを考える。だから一般の人が気付かない異状でも、見付けられてしまう可能性が高いのだ。そんな期待を持って出向いた。さらに講習を終えた後、バス停前の喫茶店でおしゃべりする。そこまで皆に付き合って何も言われなければインクも全身印刷機も本当に合格なのだと思う。

 絵の具を溶くテレピン油が揮発して充満しているからか疲れがほぐれてくるからか、須築はここでの二時間ほど半ばぼんやりしていた。

 須築が、やっぱり人間が蛇を嫌う本当の理由を教えて上げようかと思ったその時、すぐ隣から、

 「これ、何」

という声が聞こえた。見ると、須築の足元に淡いクリーム色で直径五十センチほどの輪が落ちている。須築の衣服の中から落ちたと見えなくもない場所だ。とても細いソーメンか裁縫の糸のようなものだ。ところどころ白い光を反射している。

「先生、また変なものがいますよ」

 気持ち悪い代物だが、あまり蛇のようには見えないのでみんな落ち着いている。みんなでしばらく眺めていると、ゆっくりと動いている。

 「これは細くて小さいけど、蛇だな」

 そう言った人がいる。須築も皆と一緒にこれを見ている、ということはこれは幻覚ではないということだ。やはりそれは最近見たものと同じだと気が付いた。

 須築は美女たちとの性交渉を思い出した。彼女らの体に入っていた、いや、体を作っていたものがこれによく似ている。自分は細い蛇で出来た束を抱き締め、この束の隙間に陰茎を挿入していたのだと思った。幻覚かも知れないと思っていたのだ。いや、これは間違いなく幻覚だと思って耐えてきたのだ。ふと見回すと椋さんたち女性はかたまって向こうの方にイーゼルを立てていた。女性の体から抜け落ちた物ではなさそうだ。どこから来たのだろうと思った。自分の体からかも知れない。大変な騒ぎになる前に何とかしないといけない。

 先生が箒でアトリエから掃き出した。箒で掃かれた輪は小さくくるくる丸まった。そして汁を出して干からびていくようだ。須築があの村で見たものとは違うのだろうか。先生はそれをちり取りで運び出し、外で踏みつけたのか箒を叩き付けたのかバスッと物音がした。

 その音がした瞬間、須築は顔の中程に鋭い痛みを覚えた。一瞬、やっぱりと思った。気が付いたとき、老年の人たちが介抱してくれていた。ごく短時間だが、意識を失っていたらしいのだ。どうしたのだろう。須築は教室の隅にある鏡に顔を映しに行った。別に異常は無さそうだ。そっと顔を撫でると、もの凄い痛みを覚えた。でもどの部分が傷むのかがはっきりしない。触らずにいると痛みが無くなるので、後は触らずに絵を描き続けた。終わった後のお喋り会に参加した時も、特に痛むことはなかったし、熱い飲み物を飲んだせいで何か感じが変わるということもなかった。痛みがあるというのはあの性交の時とは違う状態だ。別の原因だろうか。印刷してある顔だということがばれることはなかった。

 「よく変なものが現れるようになりましたね」

 「掃除したんですけどねぇ。気が付きませんでした。見苦しいことで済みません」

 先生が謝った。そう言えば、小道の雑草が無くなって見通しが良くなっていたのだった。そういうところなら蛇もいやがって出ないだろう。

 「先生、そろそろ引っ越さないと、生徒さんが怖がって、来なくなるんじゃありませんか」

 「そうですね。もう五十年ほどになりますから、限度ですかね」

 「五十年かぁ。確かに古びてますもんね」

 「上のガラスは大丈夫ですか」

 アトリエには天窓があって、そこから鈍い光が入ってくる。

 「あぁ、天井のはね、あれはガラスではなくセルロイドですよ。荷重を軽くしようということだそうです」

 「はぁ、セルロイド。名前は聞いたことがある」

 「人形はありませなんだか」

 「知りませんね」

 「若い人とのギャップは覆い隠せませんなぁ」

 「蛇が気味悪いというのだけは、老いも若きも一致できてるなぁ」

 「細長いものは蛇でもムカデでもいやでっせ」

 「ほんま、どうして人は蛇が嫌いなんでしょうね」

またもやその話題が弾んでいるうちに、

 「おや、血が流れてますよ」

と言われて、驚いた。洗面所に行って顔を映すと、顔の右の方、こめかみより少し下の辺りから僅かな赤い筋が下がっている。触ってみると、もう血は乾いていた。どうして血が出たのか分からない。顔の印刷具合はどうなのか心配になったが、その方は自分では問題無いように見える。

 「痛みは無いんですけどね」

 席に戻って言うと、みんなが入れ替わり立ち替わり覗きに来たが、やはり出血の原因は分からなかった。須築は顔の印刷がみんなにばれるかどうかが気になっていたが、それは全く大丈夫のようだった。自分の体が蛇の集まりだということもばれなかったようだ。触ってきた人も何人かいたが、こめかみの周辺は痛まなかった。印刷されているということに気づいた人もいなかった。ホッとした。

 帰宅して、インクを取り除いてみることにした。除去液を溶かした洗面器に、タオルを浸して、それで一気に痛い部分を拭くという仕掛けだ。それで印刷を除去できるはずだ。機材を納品する時に、当然マニュアルを添付した。あの辺鄙な集落にも公立プールがあるのだが、そこのシャワーに除去液を流し込んで、それで体中の印刷を消してしまえるはずなのだ。顧客の社長も、それは簡単な仕掛けだと感心してくれた。他地域の人たちに気づかれないようにする印刷も大切だが、普通の暮らしに簡単に戻れることも大切なポイントだ。須築は白いタオルで拭き下ろして、出血した場所を確認しようと思っていた。しかし拭った後、除去液を含んで湿ったタオルを握ったまま、彼は棒立ちになった。

 片方の眉毛が無かったのだ。眉毛が生えていたという痕跡はもちろんその下の皮膚どころか僅かながら盛り上がっているはずの筋肉も無いのだ。もう一方の眉は少し盛り上がった上に雄々しく生えているのに、こちらは平たいのだ。印刷のインクの層がかろうじて支えていて絵画教室の生徒仲間には気付かれずに済んだのだが、その層を剥がしてしまうと異様さが際立った。眉のあるべきはずだったところに薄くクリーム色に濁って見えるものは脂肪層だろう。そのさらに内側に、筋肉がボンヤリと見えている。色は、先日、自分が絵画教室で描いた林檎の少し傷んだ果肉のようだ。美しく凛々しいと褒めてもらったことのある眉毛と皮膚は脱落したのだ。油絵教室で蛇のようなものが這っていた時に。

 部屋を出てあてどなく歩き回った。須築の住まいは以前と変わりないのだが、歩く道沿いに白っぽく細い毛のような雑草が茂っているのに気が付いた。その草が何だか人の体の中にいる糸のような生き物に見えた。あの落ちていたものは自分のものだったのだ。村を逃げ出す時、斧通さんが、

 「海の蛇は、陸のものよりも細いようだね」

と言っていた。あれも確かに蛇だったということだろう。そんなつまらないことを思い出していた。暗い道だと思った。真昼の日差しに照らされているのに。

 自分自身にも起こってしまっていると思った。ずっと変わらない異様な形態は、これが間違いなく事実だと告げているのだろう。須築は自分の手や顔を撫で回しながらあの仲居のように、レインシューズを履いてなかったことを後悔すべきなのかも知れないと思った。


 また仕事が遅くなり、須築たちは馴染みになった店で夕食を摂った。初めて見る凄い美女のグループがいて、他の会社の若い連中と楽しそうにしていた。須築はあの美女グループを初めて見た時の衝撃というか感激というか、そういう驚きを思い出した。考えてみるとあれからかなり時間が過ぎていた。全身印刷機が出来れば彼女たちはいつでも普通に結婚が出来るから、もうああいう美女のグループを派遣する必要もないのではないかと思ったが、産業構造のせいで若い男がまだ集まらないのかも知れない。

 解散した後、須築は駅までの道を一人で歩いていた。いきなり抱えていた鞄を後ろからもぎ取られて驚いた。梅田近辺を歩く時には用心するようにと警察が口酸っぱく注意を呼び掛けていたのだが、これまで何事も起きなかったので油断していた。財布や電車の定期券を入れているので慌てた。しかし「泥棒」と叫ぶことも出来ず、まして追いかけることも出来ずにただぼんやりと立っていた。

 そのまま鞄を盗まれたままになると思った一瞬の後、かっぱらいの男がなぜか鞄を投げ捨てるのが見えた。その近くを歩いていた人たちが落ちた鞄を慌てて避けて通った。須築は近付いて鞄を拾い上げようとして、なぜ泥棒が投げ捨てていったかを悟った。

 鞄には細く白い蛇が一匹巻き付いていたのだ。蛇の頭の脇には耳たぶが一つつながっている。

 須築は耳が抜け落ちようとしていたのだと気付いた。蛇は気持ち悪いが放置するわけにもいかない。どうして良いか分からず、しばらく鞄を拾い上げもせずに突っ立っていた。それから心を決めてそれを拾い上げた。拾い上げたところでどうやって元に戻せば良いのか分からない。それでも捨てていくわけにはいかないのははっきりしている。これからどうすれば良いのだろうか。途方に暮れた。

 自分でも気持ち悪いのを辛抱しながらぼんやりと捧げ持っていた。

 すると蛇は須築の服の袖口からゆっくり入り込んできた。間もなく突然周囲の雑踏の音が大きく聞こえてきた。零れ落ちた耳が元に戻ったらしい。鞄と一緒に持っていかれてしまわなくて良かった。

 自分が蛇で出来ているから、人間はよく似ている蛇を近親憎悪のように毛嫌いするのではなかろうか。そんなことを思った。(了)




約145,600文字




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