第2話 二人の終わり
「よ、千乃。奇遇だな」
学校の最寄り駅。前を歩いている同じ学校の生徒に声をかけた。怪訝そうな表情でこちらを振り返ったその女子高生は肩をビクッと震わせて、
「──宮前 朝陽……! なんでこんな時間にいるのよ」
閑散とした駅に高い声を響かせた。
「それはこっちのセリフだな」
現在の時刻は午後十一時を回ったところ。
学生が出歩くには遅すぎる時間だろう。
「で? 私の質問に答えてよ」
いつもと変わらない、上から目線の千乃。
「バイトだよ。労働者の俺を労え」
何故か千乃に対抗しなければいけないと思った朝陽。対抗すればするほど相手がうるさくなりそうだと気づいたのは口から発してしまった後だった。が、そうでもなかった。
「バイト……!?アルバイトって禁止じゃなかった?」
千乃が関心を寄せたのは朝陽の偉そうなウザい態度などではなく、バイトというカタカナ三文字だったらしい。
朝陽が千乃の言葉を肯定してやると、
「バレたら結構やばいんじゃ……」
「まぁ、そうだな」
意外だ、と朝陽は思った。ここまで気にされるとは微塵も想定していなかった。
仕方ない、とも思う。おそらく何もかも全ての生活が一定の水準以上である彼女には、バイトという言葉に聞き馴染みはあっても身近ではなかったのだ。
何故、と千乃は聞いてきたが、そんなの一つに決まっている。
「俺、貧乏なんだよ」
自分で言ってて嫌になる。
自分の言葉が鬱陶しいくらい頭に響いてしょうがなかったのだ。
将来いくらでも労働しなければならないというのに、高校生の時期から誰が働きたいと言うのだ。
△▼
『ごめんなさい』
母の口癖はこれだった。
離婚した直後の母は心配をかけまいと無理にでも明るい母を努めていた。たった二人だけの、狭くて決してきれいではない家でもなんとかやっていける。──そう思って疑わなかった。
つい最近になってこの幻想を打ち崩したのは一着の母の電話。それは仕事を失ったことを伝える電話だった。
それからの母は部屋にこもり始めた。
失職により今までやってこれたはずの母の心の糸はプツンと簡単に切れてしまったのだ。
──お腹いっぱいにさせられなくて『ごめんなさい』。
──アルバイトをさせてしまって『ごめんなさい』。
──狭い家で『ごめんなさい』。
──厳しい生活をさせてしまって『ごめんなさい』。
──お金が足りなくて『ごめんなさい』。
──何もできない母で『ごめんなさい』。
意味が理解できなくなるほど耳に植え付けられた『ごめんなさい』の言葉。
口にするだけでいい簡単で無責任なこの言葉。
宮前 朝陽はこの言葉が大嫌いだった。
親への愛情は終わっていたのかもしれない。
△▼
「もう二週間前かー」
そう言って伸びをするのは自分の前の座席に座る千乃だった。
何が二週間前かというと期末テストである。
バイト三昧の自分にとってはかなり関心の薄れたものだが、千乃にとってはそれはもう大事なのだろう。
「まぁ、頑張れよ」
そう言って席を立って素早く帰ろうすると、
「何言ってんのよ! 一緒に頑張るわよ!!」
檄を入れてきた千乃。その握りしめられた手はテストへのやる気が感じられる。
「俺はバイトなんだよ」
苦笑しながらそう言うと、千乃は不貞腐れながら小さく呟いた。
「最近までずっと一位だったくせに」
朝陽がこちら振り向くことはなく、何も答えなかった。
△▼
夜に駅で出会うことが習慣化し始めた頃。
「よっ、おつかれー」
「宮前 朝陽……今日もバイトなのね」
少し疲れ気味の様子の千乃は、気が遠くなるといったように朝陽を見つめた。
期末テストも一週間前を切っており、必死さの度合いがかなり倍増する時期だ。
朝陽にとってはもう興味のない話だったが。
「ところでなんだが、あのおっさんってお前の知り合い?」
そう言って朝陽は二人の少し離れたところにいる男を小さく指さした。痩せ型でメガネをかけた社会人という感じの男だ。
「あんなの知らない。どうして?」
首をかしげる千乃。
「お前のことをずっと見てたぞ」
「キモッ! ただの変態じゃない!?」
あからさまに引いた様子の千乃は顔を引きつらせて両腕を抱えた。
「気をつけろよ」
「もちろん。刃物なら鞄で受け止められたらいいわね」
鞄なら教材やノートなどやたらと分厚いものが入っているので安心できる。が、千乃の顔を見ていると正直不安を拭えない。
しかしどうすることもできないままその日は別れた。
千乃もテストの方が大事であまり他のことに構っていられない様子だった。いざとなれば警察を呼べばいい話だ。
そして期末テストが始まる──。
△▼
五日間の期末テストも始まって見れば時の流れは早く、長いようでかなり短い期間だった。
千乃は成績表を見て複雑な気持ちを覚えた。
「一位……」
本来なら朝陽がとっていたはずの順位だ。
これはもはや一位とは呼べない。
朝陽はそんなことないと言うだろうが千乃の矜持がそれを許さない。
そんな朝陽というと成績表をちらっと見てすぐに仕舞った。結果がどうだったかなんて聞けるはずがないのだから──。
朝陽は順位の数字を見てため息を吐かざるをえなかった。テストへの執着なんてものはバイトを始めた時点で捨てていたと思っていたのだが、と苦笑した。
落ちぶれていく子どもを見て母はもっと自分を責めるようになるだろうか。
そう思うと帰りたくないし、誰の顔も見たくなかった。
──今日のバイトは休みをもらった。
家に帰ると母はいつも通り部屋にこもっていた。ただいま、と言うと母は、
「ごめんなさい。夕飯の用意はできてないの」
また、『ごめんなさい』。
朝陽は強い口調にならないよう気を付けて言葉を選びながら
「なぁ、母さん。いつも俺にごめんって言うけどそんなに迷惑かかってないから、さ」
途中で言葉は止まった。自分が何を言いたかったのかわからなくなってしまった。
「朝陽……」
「母さん、学校おもしろいよ」
そう言って笑ってみせる朝陽。
「ごめんね……ごめんね……」
母は目元に涙を溜めて言った。
また、『ごめん』の言葉。
母の『ごめん』を聞くと何故か思考が止まる。
「ごめんね……」
『ごめん』の数だけ心におもりがのしかかる。
今、この部屋にいてはいけない、と思った。
このままでは母の『ごめん』という言葉に呑み込まれる。
朝陽は母に何の言葉も返せないまま家を出た。
小腹がすき始めた朝陽は街をフラフラしてから食料を買いに行くことにした。
赴くままに学校への道のりの通り沿いにあるスーパーを何軒か回っていく。
こんなときに千乃の声を求めてしまう自分に苦笑した。かなり毒されている。
当然ながら千乃には会えなかったが。
このスーパーで最後にしようと思って商品を手に取ってレジへ向かった。レジは大行列で見るのも億劫なほどだった。そして疲労が全身にのしかかって身体が重くなった。
ついに朝陽は列に並ぶのが嫌になった。
気づくとかごに入れた商品を自身の鞄に詰めていた。
自分は何をしているのかと鞄からその商品を取り出そうとするが、それに触れる直前で手が止まってしまった。
もう、このままで──。
そう思った直後のことだった。
「ねぇ、今、何をしたの……?」
聞き慣れた高い声が朝陽の耳に届いた。
今、この瞬間だけは、会いたくなかった。
△▼
その女子高生は朝陽の方へ歩き出した。
こっちに近寄るな、と思った。
しかし彼女の歩みが止まるはずが無かった。
「今すぐそれを鞄から出しなさい!」
凛とした声が朝陽の耳で鳴り響いた。その高い声は朝陽を無性に苛立たせた。
頭の中が黒い何かに取り憑かれたように。
──気が付けば自然と口が開いていた。
「いいよな、お前って」
自分で何を言おうとしているのかわからない。
「裕福だから気持ちに余裕があるんだろうな」
今、そんなことを言わなくていいのはわかっているのに──。
「お前が想定してる死因の中に餓死なんて入ってないよな」
醜い言葉が、止まらない。
「俺たちは常に飢え死にを想像しながら生きてんだよ」
「お前には俺の状況がまったくわかってない」
「その時点で、お前はもう俺に説教する権利は無いんだよ!!」
全部、吐き出してしまった。
自分がどんな顔で何を叫んでいるのかわからなかった。ただ、醜いすべてを吐き出したかった。
千乃を見ると──、頬に涙が伝っていた。
その瞬間に頭が真っ白になった。
「──千乃?」
彼女の名前を呼ぶとその小さい口が小さく動いた。
「──呼ばないで」
「──千乃?」
もう一度その名を呼んだ。
すると彼女は潤ませた目で。
「私の名前を、あんたの、その声で、二度と、」
聞きたくもない声で。
「──二度と呼ばないで!!」
最後にそう、叫んだ。
二人は同時に悟った。
二人の関係は終わったのだ、と。
いつだって終わりはそこにあった。 文月 帆布 @id-user
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