いつだって終わりはそこにあった。

文月 帆布

第1話

 その時、教室の扉は開かれた。

 授業を受ける生徒たちはもちろん、教壇の上でチョークを握る先生まで一斉にそちらを注視する。


 前方の扉から入ってきたのは見知らぬ一人の男。

 しかし黒い上下のジャージという、教員にしてはあまりにも不相応すぎる服装の男。


 クラス内が唖然とする間に男は先生に迫る。


 そして直後、先生は包丁で刺されていた。

 

 時が、止まった。


 事態の理解が追いつかない生徒たちに許されたのは、先生が膝から崩れる瞬間を見届けることのみだった。


 何秒か経って硬直から解放された生徒たちは自分を含め、次々と椅子から立ち上がった。

 それと同時に教室内では悲鳴、悲鳴、悲鳴。


 男はこちらに歩みを進める。


 どんな表情で何を叫んでいるのか自分でも分からない。ただ、前を逃げる生徒を必死に押していた。


 速く、速く。もっと速く行け。死にたくない。


 男と目が合った。

 男は、笑っていた。

 男は、自分の醜さを笑った。

 男は──手が届く距離にいた。

 男には自分しか見えていないようだった。


 もはや男の狙いはわかる。

 机を使って逃げようとするがもう遅いだろうか。


 笑う男が迫って来る。

 俊敏に、緩慢に。且つ、冷淡に。


 男の伸ばした腕の先を見ると、包丁はもうすでに自分の腹部に


 死ぬんだ。


 自分には見えてしまった。

 教卓の後ろで横たわる先生と、辺りを染め上げる自分の血が。

 

 速まる鼓動の音も、悲鳴の音も、もう何もかも聞こえなくて。


 自分の醜さを、自覚した。

 直後、終わりに迎えられた。


 △▼


 うっすらと視界が開いて壁が見えた。横向きに寝ている状態のようだ。

 目覚まし時計がデジタル表記で【2:43】と暗い部屋を無機質に照らしていた。


 ──やっとこの時、夢を見ていたと気づいた。


 無意識に大きく息を吐いた。そうでないと身体の中の苦くて重苦しい空気に耐えられなかった。

 そうすると心臓のバクバクが収まった気がしないでもない。


 過去最悪な夢、まさしく悪夢と呼ぶにふさわしい。

 今日の殺人ドラマに影響されたに違いない。

 思い直してみれば夢の中の教室は現実と違った点がいくつかあったのだ。

 机だったり教卓だったり。なぜ夢だと気付かなかったのか不思議なぐらいである。

 周りの人間はみんな同じだったけれども、あのような恐ろしい状況ではクラスの協調性とかいう互譲ごじょうの精神が発揮されるはずも無く。

 というか、いとも容易く刺されたことが悔しい。夢の中でくらい、ぱぱっと包丁を蹴っ飛ばして男を取り押さえていてもいいではないか。


 こんな思考も今の自分を慰めるための防衛機制であって、本能によって誘発された思考ということを薄々理解してしまっている。それでもあの凄惨で冷え切った光景を直視するぐらいなら、自身の心を騙してでも癒やされたいと思った。


 あのときに周りの友達が殺されていないことを小さく祈りながら、再度枕に頭を置いた。

 横になった瞬間全身から心音が速い周期で聞こえてきた。


 そしてこの夢を見た瞬間からおそらく私の生き方は変わってしまった。


 それは今までの自分自身への疑問であり、ただ一つの発見だった。


 ──どうして周囲の人間に自分への殺意が存在しないなどという過信に疑念を持たずに生きてきたのだろう、と。


 

 △▼


 例の夢を見て何ヶ月か経った初夏──


千乃ちの。お前、今日寝すぎじゃね?」


 そう言って千乃に話しかけたのは、授業中に意識があればライトセーバーが降るとも言われる、クラス公認の問題児。宮前みやまえ朝陽あさひだった。


「ライトセーバー降るじゃん……」


 千乃が机に伏せて半分寝ながらそう小さく呟くと、朝陽は耳聡く聞き取ったようで、


「残念ながら降ってねぇよ。というか今は授業中じゃない」


 そう軽口を叩いて近くの机に座る気配を感じて──


「──ってそうじゃない!!」


 千乃は叫んでいた。


「うわっ! いきなりなんだよ……」


 驚いた様子の朝陽は危うく机から転げ落ちそうになったが、千乃にとってそんなことはどうでもよかった。それより──、


「私、寝てた!?」


「あ、ああ。授業の終わりの号令を無視するぐらいには」


 朝陽は千乃の勢いにかなり押し流されながらもあっけらかんとそう答えた。


 どこの学校も同様だろうが当然ながらこの高校にも授業の挨拶はある。寝たままパスしてしまう生徒も少なからずで、スルーした者の人間性が垣間見えてしまうことも多々だ。


 その返答を受けた千乃というと頭を抱えてと左右にブンブン振っていた。


「ああああ……なんという不覚」


 ──確かに千乃は真面目なタイプだからこの反応に無理もない、と一瞬納得しかけた朝陽だったが次の言葉でその認識を完全に撤回することとなった。


「十回は殺されてた……」


「なんで寝てる話から死ぬ話になってんだよ」


 先程からツッコミを入れるだけの朝陽は、度を超えて大それた千乃に話しかけたことを後悔し始めていた。

 朝陽からの視点で千乃は紛れもない優等生で真面目なタイプ。しかも大体何でも上手くこなす器用な人間であった。周囲への気配りもできて何処に欠点があるのか──とかなりの最高評価を下していた。

 だが、直接会話して一つの事実に気付いた。


 彼女はどこかズレていた。

 

「それで私に何か用? 言っとくけど一発目さえ防いじゃえば包丁持ちの相手ぐらいなら私は逃げ切れるんだからね!」


「わかったわかった」


「何その反応!? ホントだから!」


 ──なんだコイツ。

 そう思わざるを得ない言動は朝陽をかなり疲れさせた。突然どうして包丁とかいう物騒な話になるのか意味がわからない。が、


「要するにお前は殺される想定をしてるわけか」


 朝陽の適当に話を合わせるための発言を真に受けた千乃は、少し驚いた様子でこちらの目をまじまじと見つめてきた。

 どうやら的を射ていたようだ。


「怖がりすぎだし、そんなに警戒し過ぎても疲れるだけだぞ?」


 朝陽がそう言うと千乃は分かってないなと言わんばかりに、


「じゃあなんであんたは、この瞬間に私に殺されないって確信できるのよ?」


 千乃の挑発的な眼差しが突き刺さる。


「いや、流石にそれは──」


 無い、と言い切ろうとしたところで開いた口は止まってしまった。千乃の手には工作で使ったと思われるカッターナイフが握られていたからだ。

 握りしめられたうえ、刃が出たそれは奪うのも一苦労だろう。


 そんな朝陽の反応を見た千乃は少しだけ満足気にカッターナイフを仕舞った。

 そして千乃は頭上を指さした。朝陽はそれにつられて上を見たがイマイチ要領を得なかった。


「例えば今、あんたが私の指に気を取られている間に、私にカッターで首を刺されて死ぬわ」


「さらっと怖いこと言うな」


「まだあるわ」


 ニヤリと口を歪めてもったいぶる千乃。


「なんだよ。いきなりスナイパーに撃たれるとか言い出すんじゃないだろうな」


 投げやりな態度でそう言うと、


「確かに。それは、やばい。どうしよ?」


 千乃は勝手に焦り始めた。


「んなわけないだろ! それよりさっき何て言おうとしたんだよ」


 埒が明かない千乃に続きを促す朝陽。


「あー、まあいいわ。良くないけど。私はね、上にあるエアコンが頭に落ちてきて死ぬって言おうとしたの」


「それもなかなか聞いたことないけどな」


「わからないじゃない!」


 そう言って千乃は机をバシバシと叩き始める。


「想像してよ。経年劣化で壁も天井もボロボロよ!いつ落ちてきてもおかしくないわ!」


「はいはい。わかったわかった」


 鼻を鳴らして椅子にふんぞり返った千乃にかなりいい加減に返答する朝陽だったが、彼女の話を聞いて少しだけ頭を気にしてしまったのは秘密である。


「少しは気を付けて生きることね」


「そう言うお前も無防備に外で寝るなよな」


 少しだけ言い返してやると千乃は口をへの字に曲げて、


「次は起こしてよ」


 と言った。


 ──直後、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。朝陽はそれを聞いてハッとする。


「次の授業が調理実習だから移動教室だって教えようと思って、寝てるお前に話しかけたのに完全に忘れてたわ」


 そう言ってヘラヘラと笑う朝陽。


「え?」


 朝陽と対照的に口をポカンと開けた千乃だったが即座に冷静さを取り戻して、


「はやく言え! バカ!」


 そんな悲鳴に近い声が響いた教室から飛び出た二人は、調理実習室へと全力で走るのだった。


 △▼


 調理実習室にスライディングに成功した二人がエプロンを忘れたことに気づくのにそう時間はかからなかった。


 その結果が学校のクソがつくほどダサいエプロンである。


「うっわ……ダサすぎ。しかも二人で同じやつとか……」


「心の底から同感」


 今回の授業で作るのは中華料理。

 それによりクラスのテンションは上がりまくりだ。

 ──まさか今日が調理実習だなんて、と千乃は思う。

 前の自分だったら純粋に喜んでいただろうが、今は違う。


 辺りを見回していた千乃だったが、銀色に光る金属を見て身体が強張った。──包丁である。


 誰かに切られたら、誰かに刺されたら、全員に包丁を向けられたら。そんな思考が脳をかすめるが流石に調理実習での殺人事件は聞いたことがない。明らかな悪意の念を含んだ殺人の確率はかなり低いと言えるし──、


「よっしゃ。やるぜ」


 気合を入れてシャツの袖をまくっている、ダサいエプロンの彼を見て少しだけ大丈夫だと思ってしまったのだ。

 

「おい、千乃。対策はもう練ったか?」


 何の、とは聞かない。


「勿論。包丁ならまな板を盾にするわ」


 そう言って千乃はまな板で構えの姿勢をとって見せた。

 一瞬すごく不安そうな顔見せた朝陽だったが、すぐに苦笑に変わった。


 もしかして面倒見の良いタイプなのかと朝陽について少し考えていたその時だった。


 ──鈍い音が部屋に響いた。


 その音の方向を咄嗟に振り向くと包丁が台から落ちていた。地面とのぶつかりどころが悪かった包丁は静止せずに跳ね──千乃の足首に向かって行く。


「っ……!」


 また、鈍い金属音が鳴った。

 そして脚からの血が止まらなかった。

 その金属が照らす無機質な光は徐々に千乃の思考を奪い始める。


「──!」


 誰かが駆け寄って来るが、千乃に落ち着きが戻ることはない。もはや外の声は聞こえない。


 嫌でも視界に映り込んでくる包丁。

 夢で見た、刺される瞬間が、あの悲鳴が。


 ──頭の中で黒い男が笑っていた。


 殺される前に殺さなければ。

 包丁の方へ手を伸ばそうとして──


「──おい。千乃、しっかりしろ」


「……?」


 声の方を向くと朝陽がいた。


「お前は誰にも狙われてないし、死にかけでもない。とりあえず落ち着け」


 軽口を言ってくるあたりが朝陽らしい、と思った。千乃は数回呼吸をして、


「うん、落ち着いたわ」


 傷口を見ると不幸中の幸いで足首を掠めただけだった。


「不覚だったわ」


 不機嫌にそう言うと、


「全員の不覚だ」


 と朝陽はこちらを見ずに言った。


△▼


 ──帰り間際のこと、


 「保健室のおばさんって大げさ過ぎると思わない?」


 千乃は包帯が巻かれた足を見せてそう言った。

 西陽に照らされて白い包帯がオレンジ色に染まっていた。


「お前も大概だけどな、死因を考えるあたり」


 そう言うと千乃は当然といったように腕を組んで、


「常に最悪の場合を考えてるだけだから」


 そう言いながら、教室を出て行くのだった。

 おそらく千乃はこれから塾で、自分は──、


「今日も食いつなげることを祈って。バイトへレッツゴー」

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