[8]

 目が覚めるとドラマは終わり、バラエティ番組が流れていた。やっ、この番組が流れているということは、もう夜か。休憩室は相変わらず薄暗い。四顧しこするとがらん、誰もいねえ。受付にブルドッグ・ババアの姿はなく、代わって骸骨みてえに痩せた金髪若造が「ご利用ありがとうございました」

 外に出る。すっかり暗い。通りを往く人群を見る。仕事終わり帰途か、背広姿多し。已往、ついぞ背広に縁が無かった。てめえにも別の生き方があったか。つくづく人生を棒に振ったものだ。能がねえから往く道も狭く、昏い。現況は、バッドエンドの後日談で。よせ、嘆じても詮がねえ。併し、だんだんと、てめえの愚劣なザマが厭になってきている。

 腹が鳴る。何か食おう。咫尺しせきのファミレスに入った。殷賑いんしんとしている。九分混みといったところか。高い声で笑う制服姿の女学生、だっちもねえ話題をおらびあげる大学生らしき若ガキ、空いた器を前に悄然としたスーツ男。店員に案内されて座る。隣席は子連れの若夫婦。子のバースデーらしい。を前に微笑む女児。この笑みも須臾で消える。命は親の快楽のハテ。ヒトは生まれ、濁世の纏縛てんばくを受けては互いに悲しませ、悲しませられ、苦しめ、苦しめられながら蠢めく。而して黄粱一炊こうりょういっすいの夢、後悔と痛恨を遺して乱離骨灰らりこっぱい、塵に返る。生まれる。生む。憎む。悲しむ。殺す。殺される。死ぬ。忘れ去られる。斯く営為が永劫続くのだな。太陽が地球を飲み込むまで。

 言いようの無い悲しみが背中に被さった。溜息とともに双眸そうぼうを閉じる。曩時のうじの陰惨な記憶が想起せられ、急湍きゅうたんの如く身の裡を巡った。狭陋きょうろうたる虫籠の裡でカマキリに喰い殺されるバッタ。その脇で呑気に草を齧り、まぐわいをするバッタ。産み落とされる卵。籠の外では火を孕んだ焼却炉が待ち受けている。

 火宅、もとい虫籠の裡で乱暴な先考せんこうと陰険な先妣せんぴがまぐわい、ひり出されたてめえは見事、乱暴かつ陰険な人間と相成った。ハタ迷惑な血筋。断絶すべきだ。実際、途絶えつつある。縁者は死に絶えた。あとはてめえだけだ。血よ、おわれ。否、己が血に限らずだ。すべて、ロクでもねえ。絶滅してしまえ。

 不図、店内の喧騒が途絶えているのに気付いた。森閑しんかん。店内の全員の注目がてめえに集まっている気配。緊張が全身を走る。疑懼ぎくとともに目を開いた。誰も居ない。店内は寥寥りょうりょうとしている。皆、消えたのか。倉皇そうこうと立ち上がる。違った。客全員が床に伏し、昇の方を拝んでいた。魂飛魄散こんひはくさんで声も出ない。隣を見る。若夫婦も這いつくばって拝んでいる。そして女児は……。「いつ死ぬの」先だって女児が居たところに水死体ガキが座っていた。「いつ死ぬの」ガキが再言する。するとそれに呼応する如く、店内の全員が衆口一致「お願いです!死んでください!」とごうした。昇は叫喚して店を飛び出た。


[9]

 外では大雨が降っていた。雨勢瀑布ばくふの如し。傘は無い。金切声を上げながら雨中を駛走しそうする。えらい雨量が直瀉する喧囂けんごうに娑婆のさざめきは掻き消され、爛爛らんらんたる街の明かりが目を眩ます。膝が痛む。雨音がてめえへ向けられた呪詛に思える。無我夢中で駈けた。

 いつの間にやら帰室していた。てめえの枕するところ。安普請やすぶしんのボロアパート。陰鬱たる1Kの孤室。激しく肩で息をする。一向に呼吸が整わねえ。老耄ろうもう甚だ。元ボクサーとは言い条、年古としふりて相当ウロが来ている。

 喘ぎながら風呂場に入る。3点式ユニットバス。ずぶ濡れの衣服をすべて脱ぎ、足元にビタつける。シャワーの栓を回す。ホースが震える。水がせり上がる。シャワーヘッドが揺れて、散水板から赤黒い液体が射出された。軽き悲鳴を発して飛び上がる。鉄の匂いがした。血だった。「おまえも早く死ね」風呂場に胴間声が響いた。反射的に鏡を見遣る。鏡裡には親父が居た。親父の躰は痙攣している。徐徐とふるえが激しくなる。「ぷふぁ」という音を発したかと思うと、親父の口が横に大きく裂けた。その裂け目の裡より水死体ガキの頭が飛び出し「いつ死ぬの」

 昇は金切声を上げて鏡を殴りつけた。鏡が割れる。破片が床に散乱した。風呂場を飛び出す。素足が鋭利な何かを踏みつけた。悲鳴とともに転倒する。見ると床に銀鼠ぎんねずの光があった。それは有刺鉄線で。たった今製造されたかの如く、錆ひとつ無い。有刺鉄線に手を伸ばす。鏡を殴った手は割れていた。出血が止まらぬ。荒れた息で有刺鉄線を躰に巻く。棘が皮膚を突き破る。血が噴き出る。呻きながら巻き終えた。何かが足りない気がした。何かが。探るようにてめえの躰を見遣る。

 魔羅まらが目についた。股座に突起するそれを凝と見つめていると、不意に黙示的な直感を得た。豺狼さいろうは羊をうばひかつちらす。ヨハネ伝の一節が想起せられる。豺狼が跋扈するこの澆世ぎょうせいに於き、ジェームズとあのガキは無垢過ぎた。二人とも堕落前のアダムに等しかった。故に殺された。して、今てめえの目路に入った腐れ魔羅は豺狼の射出器で。こいつが苦しみの大元に相違ねえ。こんなもんがあるから、豺狼は世に顕れ続ける。てめえは豺狼の末孫。ジェームズとガキを殺めた豺狼の宗族やからだ。ジェームズもガキも、てめえが殺した。豺狼は、世の続く限り無垢なる羊を虐遇する。

 部屋は黒暗暗。双肩に圧し掛かる闇は、けだし豺狼に喰い殺された羊たちの怨嗟が集塊したもので、それが鬼哭啾啾きこくしゅうしゅうと室に響いては……。あっ、これはてめえの泣き声だ。いつの間にやら、せぐり上げていた。

 確信に近いヴィジョンが頭裡に出来しゅったいした。フェイタルな破滅がてめえを訪う。豺狼たるてめえのすべての過ちを責罪する一撃が、波濤はとうの如く及ぶ。キリストとジェームズとガキと、かつて豺狼に殺された羊たちが、無限の闇を落下し続ける昇を見つめている。する裡、闇は閉ざされる。羊たちは天国で和らぎ、昇は永沈ようちん奈落の底、再び光差さぬ黒暗淵やみわだで久遠の苦しみを味わう。

 ふるえが止まらなくなった。前後を無限の沈黙に囲まれた宇宙で、最期の審判をただ独り待ち受ける恐ろしさ。赦されたい。しからば豺狼の血を峻拒しゅんきょせねばならぬ。無垢なる姿へと遡源そげんしなければ、てめえは罰せられ、未来永劫、赦しを得られぬのだ。

 キッチンへ移動する。キャビネットから出刃を取り出す。ワークトップに己が魔羅を乗せ、右手で亀頭を掴んでは引き延ばすようにして固定する。出刃を握る左手が震えた。動悸が激しい。頭蓋まで心音が響く。目を瞑る。魔羅の根元へ思い切り出刃を振り下ろした。電流が走ったように躰は跳ね上がり、遅れて激しい痛みが下腹部に生じた。屠殺される動物の如き絶叫をし、床をまろぶ。その振動でキャビネットに残された魔羅が床に落ちた。股間の傷口からは血とともに尿と精液が溢れ出る。

 叫びながらミミズのように床をのたうち回る昇の目が、何かを捉えた。

 天井を突き破るほどに亭亭ていていそびえ立つ十字架。

十字架。

十字架。

十字架!

 十字架にジェームズが見えた。脇腹の刺創から血を流し、悶え苦しむジェームズが。

""

Son, peace be unto you.

""

 呻きとともにジェームズが言った。風呂場からヒタヒタ、水気を帯びた足音が聞こえる。音の方を見遣る。ガキが居た。水死体の風態ではない。生きていた時分の姿で、ゆっくりと近づいて来た。ガキは昇の頭を撫ぜ、躰に巻き付いた有刺鉄線を解いた。

「赦してくれ。赦してくれ。赦してくれ」

 昇が射祷しゃとうの如く繰り返すと、ガキは昇の額に接吻し、優しく抱き締めた。

 薔薇の香りがした。

""

I am with you always, even unto the end of the world.

""

 十字架につけられたままのジェームズが、やはり呻くような声を出す。それを聞くと、頓に意識が遠退いた。

 究竟くっきょうの地点へと向かう昇の耳朶じだに、たえなる楽音がくおんの如く朗らかに歌い上げるガキのソプラノが響いた。


ハレルヤ


聖所にて 神を讃頌さんしょうせよ

御力の蒼穹にて 神を讃頌せよ

大能の故に 神を讃頌せよ

素晴らしき偉大さの故に 神を讃頌せよ

角笛の音を以て 神を讃頌せよ

そうと琴を以て 神を讃頌せよ

小鼓こつづみ踏舞とうぶを以て 神を讃頌せよ

弦のふえを以て 神を讃頌せよ

天が下に響く鐃鉢にょうはちを以て 神を讃頌せよ

音の高き鐃鉢を以て 神を讃頌せよ


息あるものはこぞって 主を讃頌せよ


ハレルヤ。


<了>

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豺狼は奪いかつ散らす ぶざますぎる @buzamasugiru

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