第6話
そのあとは陽太にとって、ぐったりと疲れるようなことの連続だった。
首の刺傷の出血と、侑真の状態から事件性を疑われて警察がやってきた。
病院から連絡、この場合は通報になるのか。
カンファレンスルームで細かく聞かれて何度も同じことを答えた。
自分も家族も侑真に対して危害を加えていない。
侑真の首の傷は、飛んできたセミに刺されたと言っても信じてもらえなかった。
容疑者に事情聴取しているようなものだった。
うんざりしたがしばらくして処置の済んだ侑真本人の意識が戻り、セミの話と自損の話が一致したことと、自宅のほうでも家族と犬の散歩をしていた人の証言から話が一致したため陽太は自宅へ戻ることを許された。
犬の散歩をしていた人は少し離れていて現場を見ていなかったが、侑真が叫んでいた言葉が聞こえてきたので覚えていたそうだ。
正直、警察のこの対応には腹が立ったが、セミが刺したと言っても確かに誰にも信じてもらえないだろう。
警察へなのか侑真に対してなのかセミに対してなのか、もしかしたら全部に対してかもしれないぶつけどころのない怒りが陽太に込み上げていた。
陽太はスタッフステーションに立ち寄り、侑真の状態と病室を聞いた。
本当なら行きたくはなかったが、病室の侑真のところへ顔を出す。
侑真が痛々しい包帯姿でベッドに横たわっている。
レントゲンでは異常はなかったが、MRIの検査ができるようになるまでしばらく待機だった。
侑真の荷物は病院に着いたときに看護師さんに本人の荷物と伝えて渡してあった。
陽太が部屋に来たことに気づいた侑真はそのことを含め、
「陽太さん、すみません。ありがとうございました…」
と起き上がろうとしながら力なく言った。
陽太は手を前に出し、ジェスチャーで起き上がらなくていいと伝えた。
「美咲は…?」
と聞かれて、陽太は侑真に対して怒りがこみ上げたあの瞬間が脳裏をよぎった。
全身の血が逆流したようになり頭にカッと血が上るのが分かったが、ぐっとこらえた。
ここは病院で、相手はケガ人だ。
目を閉じ、一旦大きく息を吸って吐いて、乾いた喉につばを飲み込んだ。
「侑真くん」
陽太は声を絞り出し、言葉を選びながら話を続けた。
「まず、突然のこととはいえケガをしてしまって災難だったと思う。うちに立ち寄ってもらったばっかりに」
「いえ…」
「うちに停めてもらっている侑真くんの車だけど、今の侑真くんの感じだと運転できそうにないから代行を頼もうと思うんだ。手続きはこちらでしておくから代行の人が来たら車のキーを預けてもらえるかな、アパートの駐車場へ乗って行ってもらうよ。駐車場の説明は頼むね」
「はい…そうですね…お願いします」
「それと倒れた後、美咲は侑真くんの姿を見ていないから…」
安心して、という意味で侑真が失禁したことを濁しながら伝えた。
「はい…」
侑真はバツが悪そうに返事をしながら少しほっとした様子だった。
侑真は陽太に頼んで枕元のカバンを渡してもらい、キーホルダーから車のキーだけを外して手の届くところに置いてもらった。
「最後に」
陽太が深く息をついた。
言いにくそうに言葉を絞り出しながら
「もうこれから美咲と会わないでほしい」
と頭を下げた。
「え…?え、何言ってるんですか?」
侑真は冗談を聞いたようにひきつった顔で笑った。
驚いて体を起こそうとしたが起き上がることができなかった。
陽太が病院にいる間、家にいる母から美咲の様子がLIMEで伝えられてきていた。
美咲が正気じゃなくなっていることは玄関で見た時から陽太には想像がついていた。
「美咲から言われているんだ、もう侑真くんには会いたくないって…」
これは事実だった。
突然のことで混乱している侑真に、陽太が声を震わせながら伝えた。
「君は何を言ったのか、覚えていないのか?それは無意識だったのか、頭を打ったからなのか…?」
奥歯を噛み締めるというのはこういうことなのかと、頭のどこかで思っていた。
「今は安静にして。僕ができるのはここまでだ。じゃ…お大事に」
そういうと病室を出て、スタッフステーションに運転代行業者が来ることを伝え、お辞儀をして病院の夜間緊急玄関へと向かった。
陽太にとってはせっかくかわいい弟ができるかもという期待があの一瞬で全て失われた。
あの時の言葉が、本当の侑真なのだろう。
なんだろう、ただただ悔しい。
野次馬で見に来ていたひそひそ話をしている人たちが世間の姿なのだろう。
なぜ何も悪いことをしていない美咲がこんなに何度も傷ついて、何度も世間の噂話の的にされ、外に出るのが怖いと精神的に追い込まれなくてはいけないのか。
本当なら侑真を殴って暴れて何もかもぶっ壊してしまいたいくらいだった。
だが、ここで自分が感情的になってニュースにでもなってしまったら、後でもっと美咲に辛い思いをさせることになる。
今いる場所が病院で冷静になれて良かった、と思った。
車の移動だってそんなの関わりたくなかったし正直知らんことだ、放っておこうと思った。
ただ、侑真が退院するまで家の前にずっと停められていてもこちらの気分もよくないし、第一美咲のことを考えた。
自分は侑真の車を運転したくない。
だったら移動させてくれるプロに頼んだ方がいい。
何とも言えない気持ちで車に乗り込み、エンジンをかけた。
夜中の静かな道を運転しながら、陽太は自分を納得させようとした。
木曜の朝になった。
美咲はセミの鳴き声を聴くとパニックを起こしてしまうので、家で通常の生活をすることができなくなってしまった。
理由はそれだけではなかったが、この家で過ごすには辛いことが多すぎた。
精神が不安定になり何も食べられず不眠も認められたので入院することになった。
会社を辞める手続きを取り、有休を消化したのち退職することとなった。
侑真との結納の話は白紙になり、ホテルへ料理等のキャンセル料を半額払うことになった。
後の半額は侑真側の支払いだ。
母は憔悴して家族の日常生活が崩れてしまった。
父も陽太も寝不足と疲労でふらふらではあったが木・金曜は二人で有休をとり、美咲の入院の世話と母の看病をすることにした。
近所のささやく声は小さくても陽太たちに届いていた。
チクチクとした棘が刺さったが、今は美咲や母のことを思うと堪えるしかなかった。
金曜の朝、陽太は母を連れて美咲の病院に行く予定になっていた。
日差しはまた今日も強く、暑くなることを予感させるセミの大合唱が響いている。
陽太は朝、可燃ごみを指定のごみ置き場へ出しに行った。
ごみを出し終わって家に入ろうとしたとき、玄関ポーチの横に仰向けになっている1匹のセミを見つけた。
あのセミだろうか?
『忌々しい…』
陽太は憎しみが湧いてきて思い切り踏みつけてやろうかと思ったが、踏みつぶした後の不快感を想像したのと同時に別個体のセミかもしれないという考えがよぎり、蹴飛ばすことでそのイライラをセミにぶつけた。
それくらいしかできなかった。
セミは「ジジッ…!」っと鳴いて最後の力を振り絞ったのか、方向を定めずにバタバタと上下へ苦しむように飛んだ。
『セミファイナルじゃん。…寿命か?』
そう思いながら見送って玄関のドアを開け家に入ろうとしたとき、さっきのセミが飛んできて陽太の背中にとまった。
ドアが閉まるとセミたちのジャージャー鳴いている声は遮られ、陽太はクロックスを脱いで上がり框を上がった。
今日も残暑の厳しい一日が始まろうとしていた。
『残暑』 @Yu-ta_kamizono
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