第5話
「どう?少し落ち着いた?」
美咲の前に温かいカフェオレの入ったマグカップをコトンと置きながら、母が尋ねた。
「うん…」
美咲の視線はテーブルを見つめたままだった。
「もうヤダ…外に行きたくない、会社にも行きたくない…」
母はこんな時、自分の無力さを痛感するしかなかった。
何を言っても、どんな言葉をかけたとしても正解はないし解決にはならないし、反対に美咲を傷付けてしまうかもしれない。
向かい側に座った母は、ただ黙ってそばにいることしかできない。
LIMEの電話の着信音が鳴る。
侑真からだ。
〔セミが怖い〕という美咲からの短いメッセージを受け、仕事が終わってすぐに電話をかけてくれたのだろう。
「もしもし…侑くん?」
と言ったとたん、体が震えて涙が止まらなくなり話が出来なくなる。
母は椅子から立ち、その場を離れた。
その場にいたら美咲が落ち着いて話せなくなると思ったからだった。
「美咲?今からそっちに向かってもいい?」
美咲は涙と鼻水で声を詰まらせながら
「うん、うん…」
と答えた。
20分くらいして侑真が到着した。
母がリビングに侑真を通し、少しの間美咲と二人にしてくれた。
そして何があったか尋ねる侑真に美咲は、以前ストーカー被害を受けていたこと、その人が死んでしまったこと、自分が病んでいたこと、今までの出来事を涙でところどころ詰まりながら話した。
侑真は
「よく話してくれたね」
と言い、
「美咲から話してくれるまで、僕からは前にあったことを聞かないって決めていたんだ」
と続けた。
驚いた表情の美咲に、侑真が
「黙っていてゴメン。僕がその話題を噂で聞いていることを言い出せなかったのもあるけど、美咲に嫌な思いをさせたくなかったんだ。でもこれでお互い隠し事はナシだ。それとセミのことも会社の人に言われたことも、もっとちゃんと気にして聞いてあげられてたら良かったのに…怖かったね、ごめんね」
と言った。
そして、「あっ」と小さく思い出した声をあげた。
「付き合ってすぐくらいに、僕も虫が苦手なのは話したことあったと思うんだけどさ。だから自分が陽太さんみたいに虫退治ができるか、本当のところちょっと自信はないんだ…」
これも話しておくね、と正直な侑真らしく自分の弱い部分も美咲に話してくれた。
「でも、いざとなったら美咲を守れるように頑張るよ!」
と力こぶを見せるポーズをして美咲を笑わせようとした。
侑真の、そんな気遣いが美咲は嬉しくて少し笑ってまた泣いた。
玄関先で美咲の母が
「晩ごはん、食べて行ってもらおうと思っていたのに」
と残念そうに侑真に声をかけていた。
「ありがとうございます。また今度、ゆっくりお邪魔します」
「侑真くん、ありがとうね。すぐに来てやってくれて」
陽太も侑真の見送りのために玄関に降りてきていた。
美咲は外が怖いので、侑真が見える家の中の廊下で少し微笑んで手を振っていた。
「それでは、お父さんにもよろしくお伝えください」
侑真がペコッと会釈して、美咲の家に背を向けた時だった。
「ジジジッ…!」
1匹のアブラゼミが、侑真の左側から飛んできた。
「うわっ!」
侑真が手でセミを追い払ったが、セミはその手をかわし侑真の肩にとまった。
そして首に飛び移り、明らかに狙ったとしか思えない動きをした。
口吻(こうふん)と呼ばれるとがった口を、侑真の頸動脈にぷすりと刺したのだ。
「痛っ!」
思わずセミを掴み、玄関のポーチに叩きつけた。
が、セミは「ジジッ!」と鳴いてギリギリぶつからずに羽ばたき、少し離れて態勢を整えるともう一度侑真に飛びかかってきた。
セミが人の血を吸うことはないらしい。
時に木と間違えて人を刺すことはあるそうだが、今見ている限りではセミが意志を持って侑真を攻撃しているようにしか見えなかった。
侑真の白いカッターシャツの首筋に血が細く噴き出し、どんどん染みていく。
刺された傷は小さくても、刺された場所が悪かった。
数秒間の出来事に、陽太も母も何が起こったのか分からずにいた。
セミを追い払おうとする侑真を目の前にして身動きすることが出来ず、ただ呆然と侑真の動きを目で追っていた。
「やめろよ!なんだよ、このセミ!キッショ!」
セミの羽音が何度も侑真に向かっていく。
「こっち来んなよ!俺じゃねぇだろ!美咲なら家の中だよ!」
虫が苦手なのにセミを思わず掴んでしまった感触の気持ち悪さと出血のパニックで侑真は思わず口走ってしまった。
その言葉は家の中にいた美咲にまで聞こえていた。
ついさっき、守れるように頑張ると言ってくれた言葉はなんだったのだろうか。
美咲の中で何かが途切れたような、張っていた細い糸がプツンと音を立てて切れたように感じた。
母が咄嗟に振り向いて美咲の顔を見た。
美咲は母がこちらを振り向いた瞬間、母の肩越しに外の騒ぎを見た。
首から血を流し、傷口を手で押さえ大声で怒鳴りながらセミを追い払っている侑真。
その瞬間全ての音が聞こえなくなり、美咲の目には今の状況がスローモーションに見えた。
陽太は侑真の言葉を聞いて振り向いた。
と、同時に青ざめた顔をしてその場に座り込んでしまう美咲を見た。
カッとなった陽太が視線を侑真に戻したその時だった。
セミから逃げようとカバンを振り回した侑真が玄関ポーチの段差を踏み外して後ろ向きに倒れたのが見えた。
ゴンッ!と鈍い音が聞こえた。
侑真は背中と後頭部をコンクリートに激しく打ち付けたようだった。
陽太がハッと我に返り、
「侑真くん!大丈夫か!」
と飛び出して呼びかけたが、ぐったりした侑真からは返事がなかった。
母が慌てて救急車を呼び、サイレンとともに救急隊が到着する頃、意識を失った侑真は失禁していた。
救急隊員は侑真の呼吸と脈があることを確認し、陽太に侑真の本人情報とおおまかな経緯を尋ねた。
首の出血を応急処置で押さえ、腰のあたりにシートを広げ巻きつけ、救急病院へ連絡してどこの病院が
受け入れてくれるかを確認している。
救急車の赤いランプが音もなく点滅して家の壁に当たり、周囲に物々しさを広めていた。
夕飯が終わった家庭もあるのだろう。
近所の人がちらほら様子を見に来ていた。
陽太は救急隊員と少し話し、美咲の車で救急車の後をついていくことにした。
救急隊員からは後続で運転してくる際のいくつかの注意点を聞いた。
緊急車両ではないのでスピードを出してついてこないこと、交差点の信号を守ることなどだった。
さっきは殴ってやりたいと思ったが、陽太は今は意識が戻ってほしいと願っていた。
本当に身勝手なことではあるが、これで侑真の意識が戻らなかったら…と美咲の心配をした。
それは婚約者だからというよりも、美咲の周りでこれ以上不幸が起こってほしくなかったからだったかもしれない。
さっきよりも見に来ている人が増えている気がする。
そんな騒ぎの中、父が救急車の赤いランプに驚きを隠せない様子で帰ってきた。
すみません、と父は自転車を押しながら駆け寄り、
「この家の者ですが!何かありましたか?!」
と、ストレッチャーの脚を折りたたんで侑真を救急車に乗せていた後方の救急隊員に話しかけた。
更に父は玄関前の血痕に動揺していた。
陽太は一旦家に入り、車の鍵と免許証、財布、スマホを持って玄関を出たところで父と出くわした。
「父さん…みんな無事だし、俺も何もしてないよ。また後で詳しく話すけど、最後は侑真くんの自損だ。
美咲の側には母さんがいてくれるから。これからちょっとややこしいことになると思う。美咲と母さんのこと頼む」
息つく暇もなく早口で言い残した。
今、事の経緯を説明をしてる場合ではなかった。
陽太は侑真の近くに落ちていた車のキーとカバンを一旦預かりながら、美咲の車に乗り込みエンジンをかけた。
シートを少し後ろに下げ、ルームミラーを調節していると救急隊員の一人が走ってやって来て受け入れ先の病院を教えてくれた。
そして後ろをついてこないように念を押してから走って戻り、救急車の後ろに乗り込んでいった。
救急車がゆっくり出発して、しばらく走ってからサイレンを鳴らし始めた。
陽太もそのあとに続いた。
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