第4話
翌朝、やはりあまりぐっすりとは眠れなかった美咲だったが今週は土曜日でも仕事に行かなくてはいけない。
今日も朝から暑さを予感させるセミの声が賑やかだ。
会社に行く支度をして、母の作ってくれた朝食を半分くらい食べ、歯磨きと髪をセットした。
昨日よりちょっと早く起きてきた陽太がトイレに行くとき
「おはよ、眠れたか?」
と声をかけてくれた。
「うん、まぁまぁね。昨日はありがとね」
美咲は洗面台に落ちた髪の毛をティッシュで集めて捨てながら、本当はあんまり眠れなかったけどね、と心の中で思った。
いつものように玄関でキッチンに向かって行ってきますと言うと母がお見送りにパタパタと駆け寄ってくる。
「行ってらっしゃい、気を付けてね」
「はーい」
と玄関を開けると、エントランスの柱の上のほうに止まっている1匹のセミが見えた。
「ヤダ…今日もセミがいる…」
急いで車に乗り込んでエンジンをかける。
なんとなく早く出発したくて美咲は手早くシートベルトを締めてサイドレバーをおろした。
シフトレバーをドライブに入れ、ウインカーを左に出して左右を確認して少し前進した。
その時、なんとなく気になってルームミラーもチラッと見た。
もう一度左右を確認して家から道路に出る時は慎重に、出発してからは気持ち急いでアクセルを踏んだ。
会社の昼休み、お弁当を食べながら部屋に入り込んだセミの話を同僚に聞いてもらったが、セミに好かれたの?と笑い話にされて終わってしまった。
喉にご飯がグッと詰まったような飲み込めないような感覚になったが、え~ヤダ~…と愛想笑いをして話を終わらせた。
午後の仕事に戻っても寝不足のせいか、考えがまとまらずに資料をまとめるのに時間がかかってしまった。
いけない、集中しなくちゃ…とブラックコーヒーを飲みながら自分の受け持ちの仕事は何とか終わらせることができた。
PC前のリーダーに社員証を通して、お疲れさまでしたとその場にいる事務の人に言って退勤した。
しかし、疲労感がいつもよりひどい。
すぐ近くの公園ではセミの鳴き声が日暮れを知らせていた。
その後数日、美咲が朝玄関を出るとセミがいることが続いた。
薄気味悪いことに、美咲のいるところに現れる。
土曜の朝も、日・月・火曜日も気づくと視界の端にいる。
昨日は部屋の網戸にくっついていた。
会社の同僚にも信じてはもらえないし変な人だと思われるのが嫌でもうセミのことを話すのはやめようと美咲は思った。
水曜日の退勤時のことだった。
会社の駐車場の、美咲が車を停める場所は午後になるとちょうど木陰になる。
他の場所に停めてある車に比べて車内の温度が高くなりにくいので、夏場は助かっている。
今日はいつもより1時間ほど帰りが遅くなった。
それでもやはり車内に熱がこもっているので車に乗り込む前にエンジンをかけ、助手席側の窓を開け、運転席のドアを数回パタパタと開け閉めする。
『もうそろそろいいかな』と車に乗り込もうとした時、木陰を作ってくれていた後方の木から
「ジ…ミジジ…」
とセミの鳴き声が聞こえた。
その鳴き声に背中がゾクッっとした。
振り向くと鳴き声の主であろうそのセミが
「ジーーーーーー!」
とひときわ大きな声で鳴いた。
かと思うと美咲めがけてバババッと羽音を立てて一直線に飛んできた。
美咲はイヤッと声にならない声を出し、咄嗟にしゃがんで頭を下げた。
セミは目標を失い、開いていた車のドアに当たるかどうかすれすれのところを通過して大きく右へカーブしながら空へ吸い込まれていった。
セミは種類によってその鳴き声が違うが、鳴く時期や時間帯もそれぞれ違っている。
アブラゼミの鳴く時期は7月中旬から9月末頃までの早朝か、午後から夕方にかけて鳴くらしい。
虫が苦手なのでそんなことはこれっぽっちも知らない美咲だったが、まるで待ち伏せをされたような気味の悪さを覚えた。
このタイミングでこの場所で鳴き始めることがあるだろうか。
美咲に向かって飛んでくることがあるのだろうか。
嫌だ…とにかくこの場から離れたい。
手早くシートベルトを締めてサイドブレーキを下ろし、シフトレバーをドライブに入れ、道の左右を確認するといつもより強めにアクセルを踏んだ。
美咲の運転する車は急いで会社の駐車場を出て行った。
運転している間、動悸が止まらなかった。
頭の中でグルグルと考えを巡らせていた。
家に到着した美咲は素早く車を駐車場に停め、慌てて車を降りた。
『何、あのセミ…同じセミ?あの朝見たのも?えっ…もしかして部屋にいたのも、同じ…?』
まさかとは思うがキョロキョロと辺りを見回して、人もセミもいないことを確認してから玄関のドアを強めに引いて、勢いよく家の中に滑り込んだ。
バタン!と強く閉められたドアの音に驚いて、母が慌てて玄関までパタパタとやってきた。
「美咲?帰ったの?どうかしたの?!」
顔色悪くただいまも言わず、玄関の上り口に倒れこむように崩れて座った美咲の姿を見て母は嫌な予感がした。
というより、前に経験していた。
『怖い…』
嫌な体験や辛い出来事についての記憶が抜け落ちる【解離性健忘】というものがあるが、美咲はその出来事を記憶の中から≪無かったもの≫として記憶に蓋をしていたのだった。
急に7年前の出来事がフラッシュバックした美咲の顔から一気に血の気が引いた。
自分の両腕で身体を抱きしめ小さくうずくまり、恐怖におびえ震える姿を見た母が、美咲の隣に膝をついて美咲をギュッと抱きしめた。
「大丈夫よ、大丈夫」
身体に力が入って固まってしまった美咲を安心させようと、母は抱きしめながら美咲の頭を優しく撫でた。
「どうした?美咲か?」
陽太が二階から顔を覗かせた。
そして玄関で美咲を抱きしめている母の姿を見てハッと、あの時と同じことが起こったのかと察した。
陽太は勢いよく階段を降りると、血相を変えてルームシューズのまま玄関の外に飛び出した。
まだ昼間の熱を抱えたままの夕暮れの風が遠くからツクツクボウシの鳴き声を乗せて、陽太にまとわりついてきた。
外はこれから濃紺の夜を迎える前の、少し明るめのピンク色と空色と薄紫が入ったグラデーションのカクテルのような色をしていた。
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