這い寄る悪夢

薬瓶の蓋

悪夢

 メリーランド州B市は地方都市である。地方都市とはいえ、首都への通勤の便が良く、多数の日本人が住み、日本人コミュニティも形成されている。美しい自然の広がる中には日本の住宅に比べて古いが大きな家が立ち並んでいる。高級住宅地でもある。

 時は10月、家々の庭先には模造の墓石やカボチャが並び、家自体にもKEEP OUTと印刷された黄色いテープや大量の蜘蛛の巣がかけられていた。


「みんな気合が入ってるねぇ」


 住宅街の中を通る道を自家用車で走りながら小林こばやし 康太こうたが言った。助手席にいる妻の結衣ゆいは楽しそうに窓の外を眺めている。


「うちも同じくらい頑張らなくっちゃね」


「初めての本場のハロウィン参加だから、あまり加減がわからないよ」


 康太の海外赴任に伴って昨年10月に夫婦でアメリカへ引っ越してきた。結衣はこれまで勤めていた会社を辞めていたが、2月には妊娠が判明したので専業主婦になるタイミングだったのかもしれない、と思っている。


「去年は荷物がまだ届いて無かったものね」


「今年は妊娠中だし、あまり遅くまでは参加できないね。来年からはうちの子もトリックオアトリートって言ってまわるのかな」


「康太くん、生まれてすぐだもの、きっとまだ歩けないよ?」


「そっか。じゃあ僕が連れてく」


「気が早いなぁ」


 自宅へ向かう曲がり角に教会がある。レンガ造りの美しい教会の前ではテーブルを置いて何組かの家族がカボチャを相手に何かしている。その前に停車した。


「こんにちは!」


「あら、康太。元気? カボチャの彫り物会は来年からかしら?」


「ええ、うちの子が参加できるのが楽しみですよ」


 康太と近隣の若い母親が軽くお喋りをしていると、この教会に住む長身のナイ神父が丁度外へ出てきた。両手でクッキーの載ったトレーを持っている。


「こんにちは、ナイ神父」


「こんにちは、康太。結衣さんも。クッキーはいかがですか?」


 結衣は礼を言って、ニッコリ笑ったナイ神父の差し出すトレーからクッキーを受け取った。自然体で受け取れただろうか? 少し心配になったがクッキーを康太に渡しながら横目で見た様子では康太は何も疑っている様子もない。教会の庭にいる何人かの母親たちもナイ神父を見ていて、結衣の様子には関心は無いようだった。


「お子さんはもういつ生まれてもおかしくありませんね。私にできることがあれば、何でも言ってください。ベビーシッターでも結構ですよ」


「そんな! 神父様にそんなことはお願いできませんよ」


 笑いながら康太が言うが、結衣はそっと自分の頬に触れて自分の笑顔が引きつっていないことを確認していた。


 

 自宅に戻り、近くのホームセンターから買ってきた発泡スチロール製の墓石を庭に結衣が並べる。その間に康太は樹脂製の骨格標本をポーチの椅子に座らせていた。


「ちょっと寂しいかなぁ」


「一遍に全部揃えるんじゃなくて、毎年増やして行くんじゃないかな」


 康太が満足そうに言うと、椅子に座った結衣のおなかに頬摺りするほど近づいて話しかける。


康平こうへいもトリックオアトリートしたいよね?」


 エコー診断で男の子、と判明してから康太は由依のお腹に「康平」と呼びかけている。楽しみで待ち切れない様子の夫に結衣は罪悪感を感じていた。

 夫がいない平日の昼間、教会で開かれる無料の英会話教室に通ううちに由依はナイ神父に惹かれていった。

 結衣の妊娠が判明するまでは教会内で何度か肌を重ねた。今でも時折、教会に出かけているがいつも別の家族も教会内にいるのでナイ神父と二人きりになることはできないでいる。


「そんな、何年駐在するつもり?」


 笑いながら結衣も応えたが、同時に少し寂しくもあった。そう、由依はこれから数年で康太とこれから生まれてくる我が子と共に日本へ帰国するのだ。自分より少し年上でレディファーストでハンサムなとはそれできっぱりお別れなのだ。


「どうかしたの?」


「ううん、何でもない。お腹、蹴ってるなぁって」



 ある程度飾りつけをしたところで、他の家の飾りつけを見に行こう、と二人で散歩に出かける。映画やドラマでよく見かけるような住宅が多くの木立とともに広がっている。


「あらー、小林さーん、こんにちはー」


 ヒトの頭サイズのタランチュラが芝生の上にばら撒かれたように配置されている奥のポーチから二人の女性が片手を上げて呼びかけている。


吉沢よしざわさん、こんにちは!」


「いらっしゃいよ、お茶でもいかが?」


 結衣には吉沢さんの隣に座った女性に見覚えは無かった。まるで一昔前のヒッピーのように両腕に紐や細かいアクセサリーを大量に巻き付けている。この辺りの住人ではないようだった。


「こちら、長谷川はせがわ 加奈かなさん。霊能力者なのよ、ハロウィンにピッタリなお客様でしょう?」


「初めまして」


――見つけた。


 にこやかに挨拶をする康太と結衣から一拍遅れて長谷川が笑顔で挨拶した。


「あら、妊婦さんなんですね。じゃあ、お守りにこちらをどうぞ。これがご主人の分、これが奥様の分。健康で元気な赤ちゃんが生まれるお守りですよ」


 康太は喜んで長谷川からミサンガのようなお守りを受け取った。結衣も受け取ったが、その瞬間、背筋にぞわりと寒気が走った。



 その夜、結衣はふと目を覚ました。ベッドでは康太が軽く鼾をかいて眠っている。

 結衣は水を飲もう、と邪魔をしないようにそっとベッドを出て階下のキッチンへ向かう。階段のうち1段は踏むと必ずのでそこだけ避けて階段を降りる。キッチンの隣にある食品収納庫パントリーへ入ると階段がきしむ音がした。


 康太が降りてきたのかと思い、パントリーから出ようとしたところで「うわっ」という康太の叫び声が2階から聞こえた。悲鳴と硬い物が壊れるような音がした。

 廊下を走り、階段を駆け下りてくる音がして、リビングの照明が点けられた。

 結衣は素足のままパントリーを出て階段まで向かった。


 ――康太になにかあったのだろうか?


 リビングから漏れる明かりで廊下に暗紅色の滴りが続いているのが見える。

 背後にあるキッチンの明かりが付いた。


 結衣が振り返ると顔が血塗れになった長谷川がいた。


 顔の下半分が血塗れになり、右手に小斧を提げて立っていた。左手にはサバイバルナイフを持っている。ベルトには奇妙な呪文の書かれた紙束や何かの液体が入った小瓶がぶら下げられている。


「え、あなた、吉沢さんのところで会った人?」


 無言のまま長谷川が斧を振り上げる。結衣は片手に持っていた水のボトルを投げつけた。


 リビングに逃げ込む。長谷川が追ってくるので棚に飾った置物を投げつけていく。自宅の固定電話へ駆け寄り、子機を手に取ると緊急通報をダイヤルする。オペレーターが応答すると同時に結衣は自宅住所を叫んだ。

 風を切る音がして電話を当てていた耳側の肩に熱い刺激が走る。悲鳴を上げて子機を取り落とした。そのまま結衣はソファーに倒れこんだ。


 すっかり大きくなった腹部を庇いつつ大声で叫びながら、片手でそこにあったクッションを振り回した。

 長谷川の左手に当たり、クッションは切り裂かれた。


「お金なんか無いわよ!」


「悪魔崇拝をしたあなたが悪いのよ。その子はこの世界に出すわけにはいかないわ」


「そんなことしてない!」


 長谷川の斧が結衣へ向けて振り下ろされる。結衣が転がるようにして避けると斧はソファーを叩き割った。左手のナイフが突き出されてきたので結衣は咄嗟に腹部を両腕で庇った。両腕の表面を深く切り裂いたナイフは腕の骨に止められて腹の上数ミリを傷つけただけだった。


 結衣が悲鳴を上げて逃げようとする。そのふくらはぎに向けて斧が振り下ろされた。骨が砕ける音がする。


「助けてえっ!」


 悲鳴を上げる結衣の喉が背後からナイフで切り裂かれた。気道から空気が漏れる音と同時に頸動脈から血液が噴出した。

 長谷川は動かなくなった結衣の身体を仰向けにした。結衣の身体の周囲に清められた塩を撒く。ベルトに挟んだ呪符を注意深く結衣の両肩と額、両腰に配置する。ジャケットの内ポケットから白い古びた本を取り出し、栞を挟んだページの呪文を唱え始める。


 家の外に車のエンジン音が聞こえてくる。

 長谷川の呪文が早口になる。玄関ドアが乱暴に叩かれる。ドアが蹴破られ、警官たちがなだれ込んでくる。長谷川は小瓶から液体を結衣の身体にかけていた。

 

「武器を捨てろ! ゆっくり彼女から離れるんだ!」


長谷川はナイフを握りなおした。結衣の腹部を裂いた長谷川に対してテーザー銃が使用される。近づいてきた警官たちは長谷川の下になった結衣を見て眉をひそめた。


「酷い……妊婦の喉と腹を掻っ捌いたのか……」


 警官たちが長谷川を拘束すると弱々しい産声が結衣の腹部から上がった。慌てて外に待機していた救急隊が呼ばれ、結衣の切り裂かれた腹部から血塗れの嬰児が取り上げられた。


「赤ちゃんがいるぞ!」


「生きているのか、奇跡だ!」


 得体のしれない液体が混ざった血液は拭き取られ、毛布に包まれた嬰児は新生児特定集中治療室のある総合病院へ搬送されていく。



 看護師が歩いている。個室の前には制服の警察官が立っている。

 長谷川はテーザー銃の衝撃により、病院に運ばれベッドに横になっていた。浅黒い肌の看護師が採尿バッグを取り換える。不安そうに目を開いていた長谷川が半身を起こした。ベッドから出ようとしてもテーザー銃による神経麻痺で動けない。


「オマエはっ」


「ぜひ直接礼を言いたくてね。おかげで息子を無事に迎えることができそうだ」


「私は、失敗したのか……?」


「小林夫妻の忘れ形見は無事に新生児特定集中治療室へ運ばれたようだ」


「このバケモノ!」


 長谷川の怒鳴り声で、警察官がドアを開けた。別の看護師が呼ばれる。


「ここは病院だ、あまり大声は出さない方がいい」


「殺してやる」


「ほう? 第一級殺人2件と赤ん坊に対する殺人未遂で無期懲役になる人間のオマエに何ができるかな?」


 駆け付けた看護師により鎮静剤が注射されて長谷川の身体から力が抜けていく。


「そうそう、明日ナイ神父が赤ん坊を養子縁組する発表がある」


 ――オマエのおかげで手っ取り早く我が息子を手に入れることができた。


 日本語でそういうとニャルラトテップは薄く笑った。




 おわり

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