第5話

 ***


 懐かしそうに、愛おしそうに、何より大切そうに語る沙耶さんの唇がきゅっと結ばれた時、僕の呼吸する音が相談室に響いた。……気がした。今まで呼吸することを忘れていたかのように、その分大きく息を吸っては吐いていく。新鮮な空気が、僕の体を廻った。やけに心臓が速く鳴っている。


 沙耶さんがこの教会の跡地にいる理由を知って、どうやら僕は衝撃を受けてしまったようだ。


 人のために尽くすことが出来るテルミさんと、友達との約束を守り続ける沙耶さん。


 僕には到底真似できない。


「それで、そのテルミさんは……」

「あぁ、死んだわけじゃないから安心していいよ。そういう連絡は、ここに届いてないからねぇ。今も、私なんかじゃ想像も出来ないような場所で、誰かを元気づけているんじゃないかい」


 沙耶さんは、あっけらかんと笑った。


「でもね、最後に輝海に会ったのは、あの時が最後なんだ。私が思うにね、輝海はあの時帰って来たのは、拠り所を作りたかったからじゃないか」

「拠り所?」

「言葉も通じない場所に行くって、不安なことばかりだと思うんだ。しかも、自分が受け入れられるかも分からない。そんな場所で自分がやりたいことを続けるというのは、周りが思うよりも困難ことだ。だから、自分を支えられる場所を残したいと考えて、私に託してくれたんだと思う」


 沙耶さんの言うことは、納得出来た。けれど、少しだけ疑問に思うこともある。


「でも、テルミさんがこの町でやって来たことは意味がなかったんじゃ……」


 自分の頭に浮かんだことを、つい僕は言葉に出していた。


「どうしてそう思うんだい?」

「えと、だって、テルミさんが町を離れた途端、昔のように戻ったんでしょ。ずっと頑張って来たテルミさんの努力は無駄に……」


 言葉を言い切る前に、沙耶さんは「あはは」と声を上げて笑った。面白いことなんて言っていないはずなのに、何でだろう。


 沙耶さんは目じりに浮かぶ涙を指で擦ると、


「確かに輝海がいた時のようには、目に見えて分からなくはなったねぇ。でも、輝海が残したものは、確実にこの町に染み付いているんだよ。輝海がいなくなってから、この町は少しだけ周りに優しくなったんだ」


 僕は思い返す。確かに道を思い返しても、ゴミは落ちていない。人と話すことが苦手だから意識していなかったけど、道行く人同士で挨拶を交わすところも目にしたこともある。


 そして、何より。


 ――父ちゃんも母ちゃんも、なんなら祖父ちゃんも祖母ちゃんも、周りには優しくしろって言ってたからなぁ。


 何気なく言っていた累の言葉が、答えだった。


 テルミさんのしてきたことが、確かに人の心に届き、受け継がれて来た証拠だ。


「私は輝海のようには出来ない。でもね、輝海が残してくれたものは大事にしていきたいって、心の底から思っているんだよ。もしいつか、輝海が苦しみに耐えられなくなった時、この場所に安心して帰って来れるようにね。そして、私は何も言わずに抱きしめてやるのさ」


 想像を語る沙耶さんの眼差しは、優しい色をしていた。それだけで、遠く離れていても、お互いに信頼しあっていることが言葉にせずとも分かる。


 幼馴染という関係だけで、ここまでの関係性を作り上げることが出来るのだろうか。

 少なくとも、僕には無理だ。


 だって、僕と累には、沙耶さんとテルミさんのような劇的な物語はない。僕は累に依存していただけで、何もしてあげることが出来なかったからだ。


「沙耶さんは凄いや」


 口から出たのは、ただの賛辞だ。そして、「僕には、出来ない」、ひねくれた自分自身への批判。


「信頼して任されたって、僕にはそんなこと出来ないよ。累には全部任せっきりにしてしまったんだ。なのに、累がいなくなって、もう今更……」

「人から人にしたものは、廻り廻るものなんだよ」


 僕の言葉を遮るように、沙耶さんはきっぱりと言い切った。そして、そっと僕の手を握ってくれる。まるで僕自身を受け入れてくれるように。


「だから、誰にだっていい。ルイくんからしてもらったことを、和斗くんは誰かにしてあげるんだ。そうすれば、ルイくんがしてくれたことは和斗くんを通して伝わり続けるし、いつかルイくんのため、何より和斗くん自身のためにもなる。いいかい。ルイくんから受けた優しさを忘れてはいけないよ」


 沙耶さんの手からは、温もりが感じられた。その温もりは、何故か僕を強くさせてくれるような気がした。


 累がいなければ何も出来ないと思っていたし、このまま変われずに生きていくのだろうと思っていた、これまでの思考が嘘のように僕の頭の中から外へ外へと追いやられていく。


 僕がゆっくりと首を縦に頷くと、沙耶さんは口角を上げた。「さて」と言い、僕の手から温かな温度が離れていくと、


「つい長く話してしまったかねぇ。そろそろ遅くなりそうだから、外まで見送るよ」


 沙耶さんが立ち上がったと同時、今まで微動だにしなかった黒猫も大きく伸びをして、器用に机から降り立った。僕も腰を上げ、沙耶さんと黒猫と一緒に相談室を出る。


 そのまま来た道を辿って行き、


「じゃあ、またいつでも遊びに来ていいからね」 


 沙耶さんが扉を開けると、眩い光が差し込んで、そして――。


 ――これは、いつかの未来。

 今よりも大人になった僕は、何故かこの場所にいて。だけど、今みたいな古びた教会ではなく、少しだけ整備されていて。活気づくようになった教会でも、やっぱ滝のような夕立が降り注げば、人も少なくなって。

 そんな中、扉の外に誰かが訪れた気配を感じた僕は、外にまで出迎えては中へと受け入れる。沙耶さんがそうしてくれたように、累がこれまで僕のことを守ってくれたように。そして、名前しか知らない輝海さんが誰に対しても手を差し伸べていたように。


「ボーっとしてどうしたんだい?」

「え、あれ?」


 沙耶さんの声でハッと我に還る。僕の体は、十四歳の時の細いままだった。


 今見たものは何だったんだろう。何だか分からないけど、未来の自分がやけにハッキリと脳裏に浮かんだ。


 現実になる保証なんて、どこにもない。だって、今の僕とは全くかけ離れている。


 でも、その景色をいいなと思えた自分もいる。


 誰かが苦しくなった時、傘のように受け入れられる人間になれるように――。僕は成長しようと心に決めて、扉の外に出た。


 まるで僕の門出を祝福せんばかりに、空は黄金色の眩い夕焼けに染まっていた。


<――終わり>

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夕立の合間に、僕と淑女と黒猫 岩村亮 @ryoiwmr

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