[4]「あなたへ」

 『あなたがこの手紙を読んでいるということは、やっと洗濯をする気になったのね。私が出ていってから、いったい何日が経っているかしら。早ければ一週間か、たぶん十日くらいと予想します。もしも一ヶ月近くも経っているのなら、きっと家の中は酷いことになっているでしょうね。家政婦さんなり便利屋さんなりに頼ったほうがいいと思います。

 まあ、そこまで酷くならないうちにこの手紙をみつけたのなら褒めてあげます。お布団も干すかあげるかしましたか。着替えはいつみつけましたか? すぐにはみつけられなくて、お店で買ってきたのでしょう、きっとあのお店で。ほら、いつだったか用事があって、ふたりで出かけた帰りに私が付き合ってもらった、あの角の大きなお店。あそこは若いお客さんが多いけれど、服はとてもシンプルでなにを選んでも無難ですから。


 ご飯はちゃんと食べていますか? お茶っ葉は、ちょうど無くなったばかりでわざと買ってなかったんですけど、どうしましたか。コンビニででも買ってきましたか? その辺で買えるお茶っ葉で満足できていればいいのですが……あなたはお茶にはうるさいですからね。うちはかなりいいお煎茶を使っていましたから……あ、でもお煎茶が残っていたとしても、あなたは美味しく淹れられなかったと思います。ご存知でした? 日本茶には沸かしたばかりの熱湯で淹れるものと、一度お湯呑みに移して少し冷ましたお湯がいいものがあるんですよ。

 洗い物はしましたか? お湯呑みやコーヒーカップやら、無駄に食器がたくさんありますから、それがなくなるまでは洗い桶にどんどん溜めているかもしれませんね。ご飯は、外食を好まないあなたのことですから、きっとコンビニで買ってきて食べているのでしょう。朝くらいは、あの牛丼屋さんで食べたりしたかもしれませんが。


 パンにお弁当、お惣菜のパックと美味しいものがなんでも揃うコンビニが近くにありますし、とりあえず食べるには事欠かないと思います。でも、毎日それだと飽きるでしょう。あなたは何日で耐えられなくなるかしら? そして、耐えられなくなったらどうするかしら。

 一日にお弁当が二つと缶コーヒー、缶ビールとおつまみのお惣菜が要るとして、ゴミもかなり溜まっているのではないですか? 一度くらい棄てに行ったかもしれませんが、誰かに見咎められたら棄てられなかったはず。だってあなたは、ゴミの分別なんて意識したこともないですもんね。私が何度云っても、あなたは煙草の外側のフィルムを空いたほうの箱に入れたり、栄養ドリンクの蓋を灰皿に入れたりしていましたし。


 ゴミだらけの家で、美味しいお茶も飲めずまともな一汁三菜のご飯も食べられず。食後のコーヒーもあまり美味しくないでしょうし、灰皿はきっと凄いことになっているでしょう。そんな家で、ぺたんとへたった湿気たお布団で寝るあなた。想像すると愉快です。

 困っているでしょう、ちょっと私がいないだけでこんなに不便なのかと途惑っているでしょう。私がどうしてこんなことをするのか、どうして家を出たのかあなたはさっぱりわからないでいるのでしょうね。ああ楽しい。


 これは、私からあなたへの、ささやかな復讐です。


 あなたはとても真面目な人で、私はいい人と一緒になれて本当によかったと思っていました。あなたは私と真知子に何不自由のない生活をさせてくれました。この家に嫁いでから私は、お金で苦労をしたことはただの一度もありません。そこは、本当にあなたに感謝しています。

 それは、あなたがひたすら仕事人間だったからでした。仕事仕事で毎日疲れて帰ってきて、ろくに口も利かずに寝てしまうあなた。私はそんなあなたのために、家のことはとにかくきちんとしなければと、それだけを考えてやってきました。疲れて帰ってきたあなたがリラックスして過ごせるように、美味しいものを食べてぐっすりと気持ちよく眠れるように。

 ただいま、いただきます、ごちそうさま、おやすみの言葉をいっさい聞くことがなくたって、口を開くのも億劫なほどお疲れなのだと割り切っていました。


 そして、あなたは定年を迎えました。

 私はずっと楽しみにしていたんです。やっとあなたとふたり、のんびりと過ごせると。かたちばかりの新婚旅行をしたきりどこにも出かけていない私たち夫婦が、ようやく遠出したり美味しいものを食べに行ったりできるのだと。

 でも、あなたは会社に行かない以外は、なにも変わりませんでした。


 憶えていますか? 退職したばかりの頃、私が温泉にでも行きましょうよと云ったのを。あなたはそのとき、こう答えました……移動すると疲れる。家の風呂がいちばんだ、と。

 お刺身とかカニとか牡蠣とか、なにか美味しいものを食べに海辺の民宿とかどうです? と云ったときも同じでした。知らん土地でそんなものを食って当たったらどうする。刺身ならスーパーに売ってるだろう。メシは家で落ち着いて食べたい。

 私はがっかりしました。年寄りふたり、のんびり旅行する夢が消え去ったのです。

 あなたはいつだってそんな調子で、偶にはラーメンでも食べに行きませんかと云っても同じでしたね。ラーメンはさすがに家では生麺のものを使って野菜を入れてもお店並みとはいかないし、私はメンマや味玉の乗ったチャーシュー麺を餃子といっしょに食べたかったんですけどね。

 ほんのときどき、年に一度か二度あるかないかくらいでしたね、店屋物を食べたのは。ああでも、年末のお休みにお寿司の出前を頼んで食べたことがありましたね。あのときはとても嬉しかった。でも、もっとああいう機会があるとよかったのにと思います。

 あなたにはわからないかもしれませんが、私は月に一度くらいは自分で作ったのではないものを食べたかったし、洗い物からだけでも解放される日が欲しかったんです。


 あなたは考えたことがなかったようですが、あなたが定年を迎える歳になったということは、私も同じだけ歳をとってるんですよ。

 お布団を干すのはなかなか重労働ですし、カバーもひとりで掛けるのは大変な作業なんです。ゴミ出しも、お料理していると生ゴミがでるのでけっこう重いです。あなたがひとりでだしたゴミは軽いものばかりでしょうけれど。

 重いといえば、お買い物も……先々月くらいでしたか。買い物から帰ってきて、私はあなたにちょっとお台所まで運んでくださいなとお手伝いをおねがいしました。でもあなたは返事もせず、玄関まで出てきてもくれませんでした。

 うたた寝でもしているのかしらと居間を覗くと、あなたはふつうに起きて煙草を吸ってらっしゃった。聞こえませんでした? と尋ねたら、あなたはうるさそうに聞こえとる、と。足が痛くて、ちょっと運んでほしかったの私が云うと、あなたは玄関から台所なんぞすぐだろうと云って、結局立ってはくれませんでしたね。

 本当はスーパーや商店街にも付き合ってほしかった。荷物持ちはもちろんしてもらえればありがたいですけど、それ以上に一緒に美味しそうなお惣菜を選んだりしてお買い物を楽しみたかった。まあ、あなたにはきっと無理だとわかってはいましたが。

 それと、私がお米を研いでいるときに雨が降ってきたことがありましたね。私は居間でテレビを視ていたあなたに、ちょっと洗濯物を取りこんでくださいなと云いました。でもあなたはちらりと私のほうを見ただけで、やはり動いてはくださらなかった。

 そしてそのあと、畳んだ洗濯物を持って私が立ちあがったとき。あなたも立ったからどこへ? と私は尋ねました。するとあなたは返事もせず、黙って風呂場へ向かいました。ええ、私もそのとき畳んだタオルを片付けに洗面所へ行ったんです。あなたは私のことを見向きもせず、邪魔そうに服を脱ぎはじめましたよね。邪魔ならちょっとついでに持っていって、仕舞ってくださればよかったのに。

 あと、かなり前のことではありますけど、私が風邪をひいて寝こんだときも。あなたは私にお水の一杯もくれなかった。ただ寝ていろとだけ云って、ご自分だけ外でなにか食べてらっしゃった。あのとき、私は自分がなんて憐れなんだろうと、とても惨めに感じました。脱水症状だったのか、このままじゃいけないと私はしんどい身体を引きずってお台所に行きました。お塩をちょっと舐めて、冷蔵庫に冷やしてあった麦茶を飲んで、黒ずみかけていたバナナをみつけて食べました。バナナがあってよかった。でもあなたはきっと、一日で治るならたいしたことなかったんだろうと思っていたのでしょうね。


 あのときからでした。私はこんなにあなたに尽くしているのに、あなたは私が病に倒れても、食事の世話さえしてくれないのかと。毎日家にいてすることもなく、暇を持て余していてさえ、私とたわいも無いお喋りをすることはないのだと。私はいったいあなたのなんなのかと、疑問に思い始めたんです。

 私が死んだらお茶を飲むにも困るくせに、あなたは私の心配など微塵もしてくれない。私のことなど考えたこともない。私のことなんて、家の付属品かなにかのように思っているのでしょう。

 そして気づきました。私は、あなたがいなくてもなにひとつ困らない。



 仕事人間だったあなたの収入を、旅行も外食もなにもなしにやりくりしてきたおかげで、貯金はたっぷりとできました。あなたの口座ふたつと、生活費用に使っていた私の口座に、それぞれまとまった預金があります。

 そのなかから、私の口座にある分だけいただいておきますね。あなた名義の口座からお金を引き出して持っていったのでは、さすがに泥棒になってしまいますから。でも私名義の分なら問題はないでしょう。あなたは、誰の稼いだ金だと思ってる、とか怒りそうですが、それも私が家のことを一手に引き受けていたおかげで、お仕事に打ちこめた結果なのをお忘れなく。

 これでもかなり遠慮しているんですよ? 家と土地はあなたのものですし、退職金には私は手を付けていませんから。


 私は、家事やあなたのお世話から解放されて、のんびりと気ままにひとり旅でもしようと思います。あなたは私の好きなことなどご存じないでしょうが、私は知らない土地の綺麗な景色を見たり、美味しいものを食べ歩くのが大好きなんですよ。

 気の赴くままに旅をして、行く先で気に入ったところがあれば、そのままそこに住み着くかもしれません。そうなればいいなと思っています。もう残り半分もない時間、身体の自由が利くうちに、あなたの人生のパーツのひとつとしてでなく、自分の人生を生きたいの。


 それでは、長い間お世話様でございました。

 これからあなたは、朝起きたらお布団をあげて、お天気のいい日にはカバーを外して干して、お洗濯もして、ご自分でお茶もコーヒーも淹れるんですよ。

 お米は無理して炊かなくても、パックご飯のほうが無駄がないかもしれません。おかずもお惣菜でいいでしょうけど、朝ご飯くらいは用意できるようになるといいと思います。目玉焼きくらい簡単ですし、あとはベーコンかソーセージでも炒めるか、ハムなら野菜サラダに添えてそのままでも。サラダ用のカット野菜は洗わずに使えるものが売られています。レタスはすぐに赤くなってしまうので、買ったら翌日までには食べてくださいね。

 鯖缶はもともとお好きでしたが、いわしやさんまの蒲焼もなかなかですよ。ツナ缶も、大根おろしとお醤油をかけると朝にはぴったりです。

 お味噌汁も、一人分だと面倒でしょうからインスタントでいいと思います。今のインスタントは美味しいんですよ。

 佃煮や白和えなんかの副菜は商店街のものが美味しいです。商店街に行ったらついでにお豆腐も買うといいですよ。スーパーのとはぜんぜん違います。いつものお煎茶も、私は商店街のお茶屋さんで買っていました。


 ゴミの分別、溜めたぶんをあとから分けたり洗ったりするのは大変だと思います。初めは途方に暮れるでしょうけど、普段から意識してまめに分けていればすぐに慣れます。

 あとは掃除かしら。ハタキよりも、こまめに雑巾で拭くほうが意外と楽ですよ。特に、あなたが煙草を吸うお部屋はヤニで埃が貼りついてしまって、雑巾が真っ茶色になるの。あれを見たら、あなたも煙草をやめようと思うかもしれませんね。

 とにかく、家事にはいろいろ目に見えない細かいことが多いです。どうすればいいか困ったときや、お料理のかんたんなレシピなど、スマホがあればすぐに調べられて便利だそうですよ。今の携帯がだめになったら、次こそスマホに変えることをお考えになってみてはどうかしら。

 それじゃ、いろいろと大変でしょうけれど、短気を起こさないよう、がんばってくださいね。


 ああ、いちおう云っておきますけど、真知子はなにも知りません。なので、居処をつきとめて押しかけるとかしないでやってくださいね。









 ――追伸。

 もしも、ですが……あなたがひととおりの家事をこなせるようになった頃、あなたが残りの人生を共に過ごす伴侶として私を見つめなおしてくださったなら、ひょっとしたら帰ることがなくもないかもしれません。


  信乃しのぶ









𝖣𝖾𝖺𝗋 𝖬𝗒 𝖧𝗎𝗌𝖻𝖺𝗇𝖽

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